第85話 話と違う!

 噛みつこうとするその刹那、予想よりもずっと早く、赤鎧はユリの前に大きな影となってあらわれた。どうやら片方の兵士のことはきちんと守り切ったらしい。しかし、此方はもう間に合わない。ユリは何があっても兵士を殺す気でいた。瑞々しい肉に、勢いよくむしゃぶりつく。だが歯を立てると、返り血が目に飛び、ユリは悪態をついて吠えた。美味しくない。あと、想像よりずっと固い。加えて、歯が上下とも、人の肉にしてはやけに熱を感じない何かに刺さったまま抜くことが出来なくなり、暴れていると、赤鎧の冷たい声がする。

―――――――――024―――――――――

「美味しいか?」

 ユリは両手で自分の口をこじ開け、懸命に歯を引き抜こうとしていた。が、下顎が何かに押さえつけられているようにびくともしない。喋れるようになるより先に、血が涙で洗い流され、周りの様子が見えてきた。目の前に赤鎧が仁王立ちしている。そして、いつすり替わったのか。死にかけの兵士を捕まえていたはずのユリの片手は、今や全く異なるものを掴んでいた。握っているのは赤鎧の脇腹で、口にしているのは兵士のうなじ――ではなく赤鎧の親指以外の四指。残った親指が、決して口を開かすまいと、ユリの下顎と喉仏の間の柔らかい部分に力を入れている。口が開いたその時に、赤鎧は金属製の籠手を纏った自分の指をユリに噛ませたのだ。

 ユリは咄嗟に脇腹を握りつぶそうとしたが、赤鎧がただぼうっと見ているわけもなく、手の甲に強烈な一撃をお見舞いされる。痛みに思わず脇腹からは手を離してしまったが、指の方にはますます歯が食い込んだ。一度は、思ったより深く食い込んでしまったと焦ったが、ものは考えようだ。このままいけば骨ごと食いちぎれるかもしれない。

 兵士を殺そうと思ったら、大物が釣れた。予想外の結果に、ユリは赤鎧に向かってまたニヤリと笑ったが、赤鎧は自分の指が骨まで砕かれつつあるというのに、全く動じていなかった。それどころか、心なしか笑っているようにも見える。

―――――――――025―――――――――

「化け物め。そんなに食いたきゃ、くれてやる」

 ユリの眼前に、もう片方の手のひらが差し向けられた。思わず顔を逸らすと、銀色の閃光とともに、近くから物凄い量の血しぶきが上がる。痛みは感じない。赤鎧は呪文の方向を定めることが出来ず、暴発させ、自分に当ててしまったのだ。そう思ったユリは笑ったが、その直後、赤鎧に軽く押され、バランスを崩した。だが――、

 もしや赤鎧は余りの痛みに、指を介して繋がっていることを忘れてしまったのだろうか? 目の前の人間を少し哀れに思いつつも、ユリは倒れかかった姿勢のまま、歯だけの力で赤鎧を引きずり込もうとする。が、指は何の抵抗も無くすっぽ抜け、次の瞬間には、ユリだけが地面に倒れ込んでいた。もちろん、力を緩めてなどいない。なのに、赤鎧はユリを見下げるように立ったままである。

「最後の食事だ。とくと味わえ」

 ユリの口の中から、光が漏れだした。赤鎧の手首から噴き出る鮮血を見て、ユリは赤鎧が何をしたのか察する。それはとても――、とてもきれいな切断面だった。自分で自分の手首を切り離す。常人なら間違いなく躊躇し、実行に移せないであろうその行為を、声一つ出さずやってのけた赤鎧に、ユリはある種の畏敬の念を抱く。だが、赤鎧の方はというと、ユリに対する尊敬心は欠片も持ち合わせていないようだった。口の中で、体から分離されたはずの赤鎧の指がもにょもにょと蠢く。人差し指がピンと伸び、喉の奥に割れた金属片が当たった。

―――――――――026―――――――――

「貫かれて死ね」

 抵抗する間もなく、そして吐き出す間もなく、口の中で指が膨張し、破裂した。目も覆いたくなるような光とともに、ユリの体は、路地の奥へと高速で吹き飛ばされる。障害物をなぎ倒し、ゴミに突っ込み――。何かにぶつかる度に、体が千切れ飛んでいくような衝撃を感じる。終いには、大きな破壊音とともに突き当りの壁を突き抜け、気が付くとユリは明るい自然光の中に居た。汚い路地から、表通りに。何かが弾け飛んだような塊が近くに落ちていたが、これは人の肉片ではない。木の実か何かだ。

 通行人が、好奇に満ちた目で自分を見ているのが分かる。あまりの出来事に何が起こっているのか分かっていないのだろう。全身血まみれの少女と崩れ落ちた壁。どう見ても非日常な光景を前にしても、怯える人は誰もいない。一瞬、そんな呑気な奴らの喉笛に食らいつきたくなったが――、今は赤鎧だ。ユリは目を丸くしている人々には目もくれず、再び路地に舞い戻った。赤鎧が何かしている。少年の傍に座り込んで、槍を抜いているような……。そう思うや否や、頭がガクンと大きく揺れた。

 ――話と違う!

 自分とは別の存在を感じ、ユリは叫び声をあげる。すると、敵が近くまで来ていることにようやく注意が行ったのか。赤鎧は名残惜しそうに槍を眺めた後、身を翻し、兵士を二人両肩に担いだ状態で、暗い路地から立ち去り始めた。自らも腕に大怪我を負っているというのに、その素早さは少しも衰えていない。逆に、赤鎧目掛けて突っ込んでいくユリの方が、足元がおぼつかなかった。

―――――――――027―――――――――

 苦し紛れに、閃光を放つ。だが赤鎧はかわすどころか、後ろを向いたまま反撃をしてのけた。そしてそれは、見事、額に命中し、ユリはその場にバタリと倒れる。

 とは言っても、立ち上がるだけの気力は十分残っているはずだった。

 赤鎧を追いかけるのはそう難しいことではないはずだった。

 しかし、ユリの身体は言う事を聞いてはくれなかった。

 爪を肌に食い込ませ、正気を保とうとはしてみるものの、立ち上がることすらままならない。膝が、脚が、全身が。まるでひきつけを起こしたようにひっきりなしに痙攣し、次第に視界は霞んでいっていた。そして、身体の自由がすっかり失われてしまうと、今度は意識がドロドロと崩壊し、五感の全てが失われていく。

 戻りたくない。どこに戻るのかも分からないままユリはそう懇願した。だが、引き込まれるような感覚に、抗う術などあるはずもなかった。

 シャンシャンという甲高い音が頭の周りを回っている。全ての感情も頭の周りを回り続けている。そしてその音を最後に、ユリの意識はピタッと途絶えた。


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