第80話 安堵感

 ユリは近づく赤鎧に怯え、後ろに置いてあった壺につまずき、転がり込んだ。少女を抱えているため受け身も取れず、背中から地面にぶち当たる。その衝撃で、ニーナは少し呻いたが、こんなに大声が飛び交っているというのに、未だに起きるには至らなかった。横倒しになった壺は、カラカラという音を立てて転がり、壁に当たり、止まる。その音に、被さるようにして鳴っているのは、シューシューという小さな音。玩具なのか、本物なのかは分からないが、先ほどルーツが暇そうに眺めていた一匹の鼠が、自分の尻尾を追いかけるように、くるくると壺の近くを走り回っていた。そしてその背中からは、細い煙が立ち上っている。

「さあ、早く」

 鼠の進路を、赤鎧の焦げ茶色の靴が妨害した。その場で円を描いていた鼠が、ルーツの足元、まさに足を地面に下ろせば踏みつけられる位置で回りだす。

 ユリが壁際まで追い詰められた。赤鎧の瞳が燃えるように光っているのが見える。頭の中で大きな音が鳴り響き始めた。

―――――――――536―――――――――

 どうすればいいんだろう? 自分の尻尾を目掛けて走り回る鼠のように、ルーツの頭の中では、戸惑いの言葉ばかりが飛び交って、堂々巡りを繰り返していた。

 今、暴れて、ユリを助けに行けば何とかなるのだろうか? そんなことを考えては、すぐに自分自身で否定する。今になって、捕まえられた今になって、赤鎧の脅しの言葉が効いてきていた。これ以上何かしたら、あの男みたいに殴られるのだろうか。恐怖が、ルーツの思考を諦めへと誘導していく。やれることはやったんだ。今さら足掻いたって、何かが変わるわけでもない。きっと、これは仕方がないこと――運命って奴なんだ。

 一番、顔を見られたくない時に、ユリと目が合った。不安そうな表情。助けを求めるような、その目。だが、気弱な表情を見せたのは一瞬だけで、ユリはルーツに向かってニコリと笑った。

 こんな時に何を――。怒りさえ覚えかけたルーツは、その後にまた表情を崩したユリを見て、自分の無力さを思い知る。ルーツがユリより、不安で怯えた表情をしていたから、ユリはまた気が強い、頼りがいのある女の子に戻らざるを得なくなったのだ。あれほど、二人で考えていく、一人で背負わせないって誓ったはずなのに。その日のうちに、ルーツはユリにあんな顔をさせてしまっている。お前は所詮、口だけの男だ。何も出来やしない。心の声が嘲った。口だけなら何とでも言える。

―――――――――537―――――――――

 ルーツは足元に目を落とした。観念したと思ったのか、それとも痛みで弱ってしまったと思ったのか、拘束が少し緩くなる。相変わらず鼠は、グルグルとその場で回り続けていた。ようやく壺から脱出できたというのに、一向に逃げようとしない鼠を見ていると、少し不憫に思えてくる。――鼠が壺から逃げたのに、気付いているのは僕だけだ。僕なら、機会があれば一目散に逃げるのに。

 だが、この状況下で、ルーツにその機会が来るとは到底思えない。この場面を例え、何度やり直すことが出来たとしても結果は同じだろう。偶然を待っていてもどうにもならない。腕の拘束が緩んだせいだろうか。足の裏が鼠に触れた。ルーツの踵に押さえつけられた鼠はもがこうともしなかった。逃げ出す機会をじっとうかがっているのだろうか? それとも、諦めてしまったのだろうか? 

 自分が鼠になってしまったようだった。足の間から、先ほどより太い煙が漏れてくる。このまま一気に踏みつければ、煙で視界を妨害出来るかもしれない。ルーツは不意にそう思ったが、すぐに恐怖がその想像を打ち消した。もし、ほんの少ししか煙が出なかったら? 仮に拘束から脱出出来たとしても、逃げきれる保証はどこにもない。今度反抗すれば、赤鎧はもう許してはくれないだろう。殴られるだけならまだいい。もしかすると本当に捕まってしまうかも――。

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 お前だって赤鎧と何も変わらないじゃないか。心の声がまた言った。もしも。だろう。あくまでも、それはお前の想像だ。根拠もない馬鹿げた空想なんかのために、お前は諦めるのか? 孤児院がどんな場所か知っていながら、みすみす見逃すというのか? あの子の人生が暗く悲しいものになるとしたら、それはルーツ。動けなかったお前のせいだ。


 違う。僕はあいつとは違う。ルーツは心の声に歯向かった。この状況を変えるなら、変えたいと思っているなら行動するしかない。ごくりと一つ、唾を呑んだ。例え、煙が少ししか出ず、目くらましにもならなかったとしても、腕の拘束は少し緩んでいる。この兵士から逃れることが出来たら――、自由になった後のことはその時考えればいい。今、心配することじゃない。

 足の裏から小さな鼓動が伝わってきた。ルーツは最早、それが玩具だとは思えなくなっていた。鼠も、そしてルーツも懸命に生きようとしている。ルーツは全体重を右足に掛けた。明らかに、生物のそれと分かる嫌な感触。キーという、か細いが甲高い悲鳴。と同時に、ルーツが動いたことに勘づいたのか、兵士はルーツをますます強く締め付けた。

―――――――――539―――――――――

 このぐらいでは悟られないだろうと甘く見ていたルーツは、逃げる手段を失ったことに気付き、絶望する。だが、再び宙に浮いた足の下から、今や形を無くしてしまった鼠から、ルーツの想像を遥かに超える量のモクモクとした煙が吐き出されつつあった。煙はたちまち、ルーツと兵士を包み、それから路地全体も包んでいく。

 視界を失った兵士から動揺が伝わってきた。完全に、意識がルーツではない方に向いているのが分かる。腕の締め付けが緩んだところで、ルーツは渾身の力で足を後ろに振りぬいた。膝に当たったような固い感触が伝わってきたが、反動をつけ、続けざまにもう一度蹴りつける。押さえつけられる直前に、ムニュッとした嫌な感触が足の裏に走り、呻き声と同時にルーツは男の手から抜け出した。一歩先も見えないような深い煙の中。正体も分からぬものに包まれた兵士たちの騒めきが聞こえてくる。と、その瞬間。黄色の光線がルーツの髪を掠めるように通りを貫いた。

「やめろ、同士討ちになる!」

 それから、怒ったような声。その声にルーツは救われた。この煙のおかげで、今は誰もがどこにいるのか分かっていない。

『光よ』

 再び、低い声が重なって聞こえたが、路地に光が走ったのは一瞬だけのことで、宙を漂う煙がかき消されることは無かった。

―――――――――540―――――――――

「いったん、引け。裏から回って、封鎖しろ」

 この冷淡な声は誰のものかすぐにわかる。赤鎧だ。その言葉が、ルーツたちを油断させるものなのかどうかは分からなかったが、いずれにせよ今のルーツには、ユリの手を取って逃げることしか頭に無かった。煙をかき分けるようにして、ユリを探す。煙もいつまでもあるわけではない。一刻も早く見つけなくては、この奇跡が無駄になる。声をあげてユリを呼ぼうか、とも思った。だが、そんなことをすれば赤鎧に自分の居場所を伝えているようなものだ。

 すると煙の中で、また何かが光った。煙が目に染み込み、涙が止まらなくなっていたルーツは必死で目を見開く。どこかに空気の通り道でもあるのか、煙は少しずつ薄くなってきていた。誰かが立っているのが見える。そのシルエットは明らかにユリより大きかった。

「もう、行きましょう、逃げられてしまいます!」

「待て。深追いせずとも安全に捕らえられる」

 遠くの方から兵士と赤鎧の声が聞こえていた。兵士は赤鎧の命に従い、一旦退却したのだろう。では、眼の前にいる人は誰――? 急速に煙が消えていく。血走った目、ブラリと垂れさがった右腕。先ほどまで指を折られ、泣きわめいていた男が、赤鎧が持っていたはずの槍を左手で構え、何かに狙いをつけていた。そのすぐ近くに、ニーナを守ろうとしているのだろうか。ユリが丸まって、座り込んでいる。

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 ルーツは一瞬戸惑い、目を疑い、それから男がユリに向かって槍を向けていることを確信した。ユリのことが見えていないはずはなかった。少し離れた所にいるルーツからでも見えるのだ。では、男は、ユリがニーナを攫うつもりだと勘違いしているのだろうか。

 その直後、もう見つかることも気にせず、大声で警告を発しかけたルーツの背筋を冷たいものが伝った。男の口には見覚えのある皮の袋が咥えられている。あれは、ユリが財布代わりにしていた袋だ。子どもが攫われたと思っている状態で、財布を先に取るなんてあり得ない。それなら、いったい男は何をしようとしているのか? 

 ルーツの思考がまとまる前に、男が槍を振りかぶった。口元がニヤリと歪んでいる。ルーツは声にならない叫びをあげながら男に突っ込んだ。嘘だろ? ルーツたちは少女を助けようとしていたのに。その結果がこれなのか? 槍の切っ先がユリに迫っていた。 

 どう考えても間に合わない。ユリを退かすにしても、危険を伝えるにしても、時間がかかりすぎる。ルーツは男の槍が脅しであることを願った。だが、ユリは縮こまり、周りが見えていない。自分のことを見ていない人に対して、脅しをかけることの意味のなさを、ルーツは知っていた。

 僕のせいで、ユリが刺される――。

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 ルーツは必死で走った。そしてユリに覆いかぶさるように飛びついた。しかし、突き出された槍は待ってはくれなかった。ネットリした赤い血が、ルーツの手と、ユリの透き通った白い肌を赤く染めていく。ユリはピクリとも動かない。ルーツの手に血はどんどん溜まっていった。大事な何かが抜け出ていくような、酷い喪失感が体全体を襲う。誰かが笑っている。とても長く、長く、いつまでもいつまでも笑っている。ルーツはユリの頬に手を置こうとした。だが、手が思うように動かない。ズルッと滑り、横倒しになる。その拍子に、ユリより血だらけになっている自分の体が見てとれた。

 視界の端でユリの瞼が薄っすらと開く。どこにも傷を負っていない。元気そうだ。それが何よりも嬉しかった。こんな時に寝てはいけない。そう思っているのに、瞼がどんどん重くなる。景色が急速に遠ざかっていく。暗闇が迫り、視界が覆い尽くされる最中、ルーツは誰かに手を握られた。温かく、柔らかな手だ。

 ――ユリだったらいいなあ。

 今や意識は遠く彼方にあった。ルーツの眼は奇妙な安堵感とともに、ゆっくりと閉じていった。


―――――――――543―――――――――


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