第一部 現の悪魔 中
第十五章 血の洗礼
第81話 殺してやる
突然、辺りに充満した煙。ユリは、正体不明の白煙からニーナを守ろうと、じっと背中を丸めていた。息を止めて、煙を吸わないように、ただ機を待つ。すると、遠ざかっていく靴音に重なるように、兵士たちの怒号と、獣のような唸り声が聞こえてきた。そして、金属音。誰かが呻き声とともにドサリと倒れる。まさかルーツが――。
ユリは顔をあげて、状況を確認したい衝動に駆られた。しかし、この煙では動こうにも動けない。蹲ったまま、自分の心臓の音を聞いていると、腰の辺りを引っ張られた。誰かが近くにいる。見えない相手が迫ってきている。そんな恐怖に、思わず両目が強く閉じた。空気を切り裂く音がする。それから、何かの気配。
考える間もなく、ユリは強い力で背中を押され、地面を転がっていた。腕の辺りがジンジンと痛む。誰かに突き飛ばされた――。ユリが真っ先に思い浮かべたのは赤鎧の姿だった。きっと、靴音が遠ざかっていくように感じたのはユリの思い違いで、赤鎧は、ちっともニーナを渡そうとしない此方の態度に、腹を立てたのだ。
こうなると、もう目を開けざるを得ない。ユリは恐る恐るゆっくりと瞼を開く。だが、目の前に居たのは赤鎧ではなかった。見覚えのある少年の姿が見えている。
ルーツ、ルーツが居る。ユリの心は、一瞬高ぶった。だが、その思いは直後、違和感へと変わっていく。ルーツの頬には、ドロリとした液体がこびり付いていた。そして、それと全く同じものが、染み出すようにして、ルーツの身体から広がっている。
『血だまり』
ユリがその言葉を思い浮かべた瞬間、ルーツはガクリとその場に突っ伏した。
―――――――――001―――――――――
何が起こっているのか。どうしてこんなことになっているのか。ユリにはさっぱり分からなかった。
「何、これ。何なの……」
きっと、恐怖のあまり幻覚を見ているのだ。そうに違いない。だって、そうじゃないと――。だが、生々しい血の温もりと、わずかな腐臭が、目を逸らそうとするユリの意識を現実の世界へと引き戻した。ユリは震えながら、冷たくなっていくルーツの手を握り込むと必死になって呼びかける。
「どういうこと……ねえ、ルーツ。返事してよ、ねえ!」
けれども、ルーツは反応を返すどころか、身動き一つしなかった。
「……分かった。騙そうとしてるんでしょ? 私がアンタの言うこと、全然信じてあげなかったから――」
ユリは上ずった声でそう言うと、ルーツの身体を起こそうとした。だが、背中から突き出ているものに気が付き、その手は止まる。
「本当に、何なのこれ? ……ねえ。ねえってば。誰か説明してよ! どうなってるの? 何でこんなことになってるの? 何で、こんな、何で!」
蛇のような細工が施された、ユリの身長の二倍はあろうかという長い槍の先端。その切っ先が、ルーツの背中には突き刺さっていた。それに、うつ伏せにしてしまったせいだろうか。ユリには槍が、また少し、ルーツの身体に食い込んだように見えた。
傷口からは、未だに血がこぼれ続けている。だが、横を向かせたとしても――。抜くことなんて出来っこない。
見ているだけで全身の力が抜け、ペタンとその場に座り込む。
―――――――――002―――――――――
「起きてよ、起きなさいよ」
どうすれば、どこに連れて行けば、ルーツを助けることが出来るのだろうか?
……死んでしまったかもしれない。たとえ仮にでも、そんなことは考えたくなかった。考えたら、本当にそうなってしまいそうで――、
「ざまあみろ」
震えが収まらない手で両腕を擦っていると、頭上から下卑た声が降ってきた。顔を上げれば、右腕と顔中を血で染めた男が、ニヤニヤと笑っているのが見えている。不自然に抜けた歯が、不気味さに拍車をかけていた。
「そんなに金を持っているから悪いんだ。金持ちは貧乏人に分け与えるべきなんだ」
男は、ぶつぶつと自分に言い聞かせるように言っている。そして、その手に握られているのは、見覚えのある小銭入れ。明らかに自分のものである巾着が、男の手の内にあるのを見て、ユリは何が起こったかを理解し、そして絶望した。
金のために、そんな物のために、この男はルーツを殺そうとしたのだろうか。いや、殺されかけていたのは――。
ユリは、目を開ける直前、何者かに突き飛ばされたことを思い出した。ルーツはユリをかばったのだ。あんなに怖がりで、意気地なしのくせに。こんな時だけ。
―――――――――003―――――――――
「もっと。もっとだ。金目の物もすべて出せ。全部渡せば、危害は加えない」
涙をポロポロと零すユリを見て、男はユリが怖がっていると思ったのか、凄むように言った。確かに、男は怖かった。だが、この涙は恐怖とかそんなもんじゃない。あの煙の中、少しでも動こうとすればよかった。こんなことになるなら、逃げれば良かった。ユリはそんな、今さらもうどうしようもないことを永遠と後悔していた。
「こんなもんじゃないはずだ! 早く出せ! 殺すぞ!」
男が掠れた声で怒鳴る。こんな奴の言うことを聞きたくない。絶対に渡さない。そう言ってやりたかった。だが、殺すといった以上、男はルーツに突き刺さっている槍を使う気なのだろう。もし、乱暴に引っこ抜かれたら――、想像しただけで顔を覆いたくなった。悔しい。殴りつけてやりたい。殺したい。逆に殺してやりたい! そんな思いを全部押さえつけて、ユリはルーツのリュックを開けた。今日の朝、自分で詰めたのだ。どこに何があるかは、全て分かっている。俯きながら財布を差し出すと、男はユリから袋をひったくった。
「それから、ニーナも渡せ」
そう言われて、ユリは自分が、少女を抱えたままでいたことを思い出した。
そんなことはすっかり忘れていて、ルーツに駆け寄ったこともあったのに、どうしてずり落ちなかったのだろうか?
その疑問の正体が分かるや否や、また熱い物が込み上げてくる。
―――――――――004―――――――――
ニーナは両手で、しっかりとユリにしがみ付いていた。頬には、涙の痕が幾重にもこびり付いている。この子は、寝たふりをしていたのだろうか。自分の父親が、殴られ、犯罪者と罵られていたのに、感情をおくびにも出さず、ずっと声を堪えていたのだろうか。だが、ニーナはあっけなく、あまりにもあっけなくユリの胸から引っぺがされ、男の手に渡った。左腕しか使えないはずだが、男の力はユリの抵抗を振り切るくらいには残っていたらしい。ニーナは声一つ上げなかった。自分の境遇を諦めているのか、それともやっぱり父親である男の方がいいのか、ユリには分からなかった。
「在庫は全部潰されるだろう。もう商売も出来ない。ニーナを育てるには、こうするしかなかったんだ。許してくれ」
立ち去ろうとする男が振り返り、ユリに向かって悲しそうに言う。
「絶対に許さない」
対してユリは、地を這うような低い声で返した。
「自分の子どもを引き合いに出すなんて……。ただ、楽をしたいから、殺そうとしただけのくせに」
男がどう弁明しようが、許せることでは無かった。だが、ニーナのために。そう言ったことが、さらにユリの怒りを誘った。
―――――――――005―――――――――
「殺してやる」
ユリは歯をむき出しにしてそう言った。そんなことをしても、ルーツの傷が治らないことは分かっていた。だけど、それでも――。
この感情を前にも経験したことがある。ユリは不意にそう思った。
目の奥が煮えたぎっている。怒りと敵意で、思考がもつれ合い、何を考えているのか分からなくなっていく。どうなってもいい。ただ、去って行く男にも、同じような絶望を味合わせてやりたい。そんな、どす黒い感情が頭を支配していた。
しかし――、
男に背負われたまま、声もなく泣いているニーナ。その姿を見た瞬間、自分が何をしようとしていたのか。ユリは分からなくなってしまった。
今、父親が居なくなってしまったら、この子はいったい、誰を頼って生きていけばいいのだろう? そう考えると、行き場のない悲しみがあふれ出てきて、視界が何だかぼやけてくる。涙でにじんで前が見えない。男を追いかけなければならないはずなのに、立ち上がることすら出来なかった。
そして、その間に、路地の暗がりの中へと男は消えていく。
その姿が闇に溶け、見えなくなってしまうまで、ユリはずっとルーツの傍に座り込み、ただひたすらに泣きじゃくっていた。
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