第57話 衝動

 この世界から自分と言う存在が、薄れてなくなってしまう気がする。不意にユリは、そんなわけの分からない不安感に襲われた。役人が不思議そうな顔で此方を見ている。アンリが、少し怯えた顔で此方を見ていた。

 ルーツを連れ戻すだなんて、そんなこと。どうしてあれほど自信満々に言えたのだろう。そう考え、ユリはうろたえ、口をつぐんだ。

 思えば、私はこの部屋に来たことも無い。それに、見るのも初めてであったはずなのに――。しかし、その感情は明確な形を持つ前に消えていった。

―――――――――387―――――――――

「気持ちはわかる。君の必死な気持ちは私にも分かる。……だが、君。入ると言っても、さっき言った通り、部屋には強力な魔法が掛けられているから――」

「じゃあ、その魔法を解除してしまえば良いんですよね」

 また、ユリの意思とは関係なく、口が物を言った。出来るわけがない。そう分かっているはずなのに、心にも無い言葉が勝手に口から流れ出る。

 そして思考も、まるで、誰かに操られているようにバラバラで――いや、違う。これは紛れも無く私自身の意思なのだ。操られているなんてことはありっこない。


 ……どうしてだろう? 

 ユリには何故だかだんだんと、あの部屋の中からルーツを連れ戻すことが、とても簡単なことのように思えてきていた。

 だけど、本当にどうしてなのだろう? ただ手を伸ばすだけで、全てが解決するような気がする。役人たちは、もう無理だと言っているのに。これは難しい魔法であるはずなのに。まるで子どものままごとを見ているような、そんな気が――。

 頭がガンガンと鳴っていた。何か重要な事を思い出せそうな、そんな気がする。形容しがたい未知の感覚が、ユリの身体を包んでいる。

「おい、君! 君!」

 役人が何か言っていた。

「そんなところで座り込んで、もしかして調子でも――」

 役人は、殊更に心配そうな口ぶりで、ユリに話しかけてきていた。

「気分が悪いなら、肩でも貸そうか?」

 うるさい。放っておいて欲しい。

「本当に大丈――」

 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。

 もう少し、静かにしてくれれば思い出せたのに。あと少しで、思い出す事が出来そうだったのに。こいつのせいで。こいつらのせいで。こいつらが邪魔したせいで!


 ……どうして私は、役人たちに対して敵意を抱いているのだろう。


 気づけばユリは、何時の間にか、役人たちを睨みつけていた。どういうわけだか、役人に対する敵対心で目の奥を燃やしていた。

 思考がぐちゃぐちゃで、自分が今、何を考えているのか分からない。そして自分が、何をしようとしているのかさえ分からない。

 おまけに、身体の奥では、不思議な感覚が。まるで誰かに意識を乗っ取られていっているような、何とも不思議な感覚が流れていて――。

 この衝動に支配されてはいけない。無意識に、そう警告されている気がした。しかし、ルーツを助けたいのなら、この感覚に身を委ねてしまった方がいいような気もしていた。だいたい、此処でこうしていたところで、事態は何も好転しないのだ。だったら、今だけ。今この時だけなら、少しの間、私の身体を貸してやっても――。

「……なあ、君。さっきの言葉は一体どういう意味なんだ?」

―――――――――388―――――――――

 ふと気づくと、みすぼらしい小男が、ユリの前に立っていた。

 どうして、こいつは私に話しかけてくるのだろう。どうして、私を見ても平然としていられるのだろう。

 目をパチクリさせると、ユリの前には、閉ざされた大部屋があった。錠は下りていないものの、引っ張っただけでは開かない、魔法が掛かった白い部屋。魔法を掛けられている物を見ると何故だか本能をくすぐられる。用も無いのに意地でも開けてやりたくなる。だが、この部屋の扉は、ユリが少し手を伸ばしただけで、脇にのいた。役人たちが、呆気にとられた顔で此方を見ているのが伝わってくる。気分がいい。やはり、人には喋っているより、ポカンとした表情の方がよく似合う。

 白い部屋の中では、脆弱な人間の目では捉えきれぬほど小さな塵芥が、無数に舞っていた。ユリが両手を御椀に見立て、差し出すように部屋の中に向かって突き出すと、その塵は手の中に集まってくる。集まった塵を何回か捏ね、部屋全体に行き渡るように強く吹き飛ばすと、思った通り、部屋は色を白から灰へと変貌させた。

 すると、部屋の中に、一人の少年が立っているのが見えてくる。だが、この少年は、どうして口を目一杯広げているのだろう。そう思い、ユリは首を傾げた。目は天井付近を見つめたまま、瞬き一つしない。ということは、部屋を飾るオブジェか何かなのだろうか。であれば、少々趣向が悪いと言わざるを得ないのだが。

 そんなことを考えながら少し近寄ると、ユリは、少年の両手に何かが抱えられているのに気が付いた。それは、二つに破れた小さな紙だった。

 ユリは少年から、破れた紙きれを取り上げた。その瞬間、灰色の部屋は姿を消し、白い部屋が戻ってくる。紙には何も書かれていなかった。代わりに、少年の体の隅々には、びっしりと文字が浮かび上がっている。

 いや、ただ浮かんでいるのではない。この文字はもぞもぞと。脈を打っているように少しずつ、線の太さを変えながら、少年の皮膚の上を動き回っているのだ。目を細めると、まるでそれは小さな虫が蠢いているようにも見えた。

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 しかし、この少年、どこかで見たことがあるような――。

 ユリが紙を投げ捨てるとともに、先ほどまで身動き一つしなかった少年が、大きくうめいた。……何だろう。何か言っていた。誰かの名前のようだった。何度も、何度も、まるで祈るように唱えている。謝っている。その姿にわずかながらも、苛立ちを感じるのは何故だろうか。何故、情けない。そう感じるのだろうか。まるで、ずっと前からこの少年を知っているような、そんな気が――。

「ユリ」

 ユリは、目の前の少年が、自分の名前を呼んでいることに気が付いた。その瞬間、ユリは目の前の少年の――ルーツの名前を思い出した。


 ルーツが目の前にいる。ユリは、目を真ん丸にして驚いた。何故、ルーツが自分の前で突っ立っているのか、思い返しても全く分からなかった。確か、先ほど役人たちは、ユリの眼の前で扉を閉めたはずだった。それはユリ自身も、しっかりと覚えている。その後は、役人たちと話していて――気を逸らしたのは、ほんの少しだけだったはずなのだが。ユリはいつの間にか、四方を白で囲まれた部屋の中に立っていた。

 役人たちの主張と、今の状況は、大きく食い違っている。見上げても部屋は白いままで、灰色の要素はどこにも無い。しかし、灰色の部屋に閉じ込められてしまったと言われていたルーツは、確かにユリの眼の前に姿を見せていた。

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 いずれにしてもルーツが、この部屋の中で恐ろしい物を見たのは確かなようだった。ルーツはユリを見たまま、身体を強張らせ、小刻みに痙攣している。唇は紫色を通り越し、黒色に染まり、息を吐く事すらままなっていない。そうかと思うと、口を大きく開き、ユリが聞いたことも無いほどの甲高いキンキン声で叫び始めた。

「何してんの、早く目を覚ましなさい!」

 ユリは怒鳴った。

 が、手を引っ張っても、身体を揺さぶっても、ルーツの返事は無い。ルーツは狂気に呑まれてしまったように、相変わらず意味不明な言葉を叫び続けている。それが無性に恐ろしかった。と言っても、ユリは、ルーツの様子に恐れを抱いているのではない。ルーツが狂ったまま、戻って来ないかもしれないことを懼れているのだ。

「目を開けなさいってば!」

 ガクガクと揺さぶりながら、ユリは言った。次の瞬間、ルーツの黒目がグルンと回転した。白目を剥き出しにしたルーツを見て、ユリは、ルーツの声に負けないような大声で叫び、呼び掛ける。

「しっかりしなさい!」

 平手打ち一回。すると、ルーツの黒目が戻ってきた。唇にも血の気が戻り、ユリを見る目が段々と、正常な物へと代わっていく。

「……私が分かる?」

「うん」

 ユリは胸をなでおろした。

 言いたいことはたくさんあったが、今は、そんなことはどうでも良かった。ルーツが帰って来た。そう思うだけで、ユリの心は浮き立った。だけど、ちょっと心配だったので、試しに頬をぎゅーっとつねってみる。

 ……痛がっている。

 間違いない。この反応はルーツのものだった。

―――――――――391―――――――――

 ルーツの無事を確認すると、役人達に感謝するべく、ユリは後ろを振り向いた。

 嬉々とした表情で、出来るだけ愛想のいい態度を心掛けて。ルーツ探しに協力してくれた役人に、ユリは心から、感謝の言葉を述べるつもりでいた。だが――、

 振り返れば、役人たちは柱の陰で、こっそりと二人を観察している。まるで異形な物に相対したような目つきで此方を見ている。

「ありがとうございます! 見つかりました!」

 ぺこりと頭を下げただけなのに、怯え切った顔で見つめられ、ユリは言葉を失い、困惑した。

「……あの、何か?」

「ひっ⁉」

 それは予想外の反応だった。

 ユリが踏み込むと役人たちは、まるで腰が抜けたように尻もちをついた。そして、ユリがもう一歩近づくと、両手で床を掻くようにして此処から離れていく。

 さらに、いったい何が起こったのかと、ユリがほんの一瞬、視線を外した隙に、役人たちは転がるようにして螺旋階段を駆け下りていってしまった。

 だが、ユリの側にしてみれば、そんな対応をされるような覚えがない。

「もしかして、アンタまた何か――」

 私でないとすると、ひょっとして、ルーツがまた何かやらかしてしまったのだろうか。そう思い、咎めるように後ろを振り返ったユリは、ルーツが未だに怯えた顔をしているのに気が付いた。けれど、ルーツの怯え方は、役人の態度とはまた違う。

 言うならば、心をどこかに置き忘れてきてしまった。

 そうユリに思わせるほど、ルーツの眼は虚ろで、そして一体、何をそんなに許して欲しいのか、泣きそうな声で、許して許してと、同じ言葉をつぶやき続けていた。

 頬を引っ張ればユリを見る。話しかければ反応する。こうして向かい合ってさえいれば、ルーツは何時ものルーツだった。しかし、ルーツが未だ異常な状態にあることは、否定のしようが無いことだった。

―――――――――392―――――――――


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