第十一章 ユリの憂鬱
第56話 冗談にしても酷すぎる
目が覚めると一人だった。敷布団はぐしゃぐしゃになり、部屋の中には物が散乱していた。物取り――? そんな考えが浮かんだのは、一瞬だけのことだった。ところどころ、小さなおうとつと引っかき傷が出来ている大きな丸テーブル。その上には、水滴で濡れ、にじんだ手紙が置かれたままになっている。ユリは手紙を食い入るように見て、何度も読み直し、ルーツの身に何が起こったのかを悟った。そして、ルーツが何故この部屋にいないのかも何となく理解した。
あまり村の人と付き合いが長くないユリですら、嫌悪感を覚え、現実を受け入れるのに時間がかかったのだ。傷つきやすいルーツなら、パニックになってもおかしくはないだろう。自分でも何をしているのか分からぬまま、当ても無く外に飛び出して、いまも夜の街を彷徨っている。そんなルーツの姿が目に浮かんだ。
朝まで待っていれば、案外ひょっこりと帰ってくるかもしれない。
そう本気で信じ切れるほど楽観的な性格の持ち主なら、人生楽しくやっていけるのだろう。が、残念ながらユリの神経は、ここでもう一眠りできるほど図太く出来てはいなかった。どうやら、呑気に寝ている場合ではなくなってしまったらしい。
ユリは波のように襲ってくる眠気を振り切ると、深いため息をつきながら立ち上がった。ミシミシと音を立てる階段を慎重に下り、玄関までたどり着く。意外なことに老婆はまだ起きていて、煤で汚れて真っ黒になった年季が入った服を、念入りに擦り洗いしているところだった。
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「坊やなら、役所の方に向かってふらふらと歩いて行ったよ」
ユリが何も言わないうちに、老婆はそう言った。ユリは深々と頭を下げる。
「ちゃんと手綱は握っとくんだよ」
背後からしゃがれた声を聞きながら、ユリは夜の街に駆けだしていった。
役所の機械音声は相変わらず辛らつだった。黒いローブを着た集団の横を通り抜けた時、誰かに声をかけられたような気がしたが、それを除けば何も無く、ユリは特に迷うことも無いまま、数時間前に立っていた場所まで戻って来た。
しかし、その場所にルーツはいない。そして盗品管理を担当していたはずの男性も、勤務時間が終わったのか姿が見えなかった。
「すいません、ここに男の子が来ませんでしたか? ……泣きそうな顔で」
男の子、だけでは分からないような気がしたので、最後に特徴を付け加える。
ユリに話しかけられた盗品管理担当の隣に座っている男性は、しばらく頭を悩ませていた。が、やがて何かに気がついたようにポンと一つ手を叩く。
「……ああー、さっきの子ね。なんか色々知りたいって言うんで、ちょっと前にアンリさんが、二階の部屋まで連れて行ったよ」
アンリ、というのが役人の名前なのだろう。
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「えーと、念のため確認するけど。その子の名前、分かるかい?」
本人確認の一種なのだろうか。ユリは素直に質問に答えた。
「ルーツです」
言ってから、ユリは、ルーツを名前で呼んだのはこれが初めてなのではないかと考えた。……どうにも慣れなかった。ルーツ。そう口に出すと、見知らぬ誰かの名前を呼んでいるような気がする。
「よし、それじゃあ大丈夫だ。案内するから付いてきてくれ。……にしてもアンリさん、ちっとも帰ってこないなあ。まあ、あの人のことだから、付き添いを口実にして、またどこかでサボってるんだろうけど」
役人は少し呆れたような様子で席を立つと、ユリを先導した。
案内されたのは役所の中心にある、螺旋階段だった。あまりにも利用客が少ないため、半ばオブジェと化している階段を、二人は早足で上っていく。
階段の途中で一瞬ちらりと階下を見下ろすと、もう夜も更けているというのに、まだ多くの人々が忙しなく動き回っていた。
しかし、夕方近くに訪れた時も、同じ顔触れを見た気がするのだが……。いったい、此処に居る人たちは何時休んでいるのだろう。
睡眠も食事もろくに取らずに、何かに憑りつかれたかのように一心不乱に働き続ける人々の姿を思い浮かべ、ユリは思わずゾクリとする。
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色を塗り忘れてしまったような殺風景な部屋。置いてあるものと言えば棚ばかりの真っ白な部屋が、ユリの視界に飛び込んできたのは、そのすぐ後のことだった。
どうやら奇妙な空想をしている間に、二階についてしまっていたらしい。
ルーツを探して辺りを見渡すと、開きっぱなしになった扉のすぐそば。入り口のところに、見覚えのある男性が力なく立っているのが見えた。だが、一緒に居ると聞かされていた、ルーツの姿はどこにもない。
「どうした、アンリ!」
ルーツの姿を探していると、驚いたような声が聞こえてきた。前を歩いていた役人は、よろめいた男性に駆け寄って、既に両肩を支えていた。
「……ルイス、子どもが部屋に取り込まれた」
青ざめた顔をしていたアンリの口からは、そんな言葉が聞こえてきている。
だが、それは、普通に考えた分には、理解し難い言葉だった。まるで部屋が生きているかのような口ぶりに、ユリは驚き、当惑する。
「ほんの少し、目を離しただけだったんだ。けれど、数秒も経たないうちに――」
「いや、まさか。そんなことはないだろう。もう何年も、この部屋の色は変わらないままだったんだ。なのにいまさら、こんな平和な時代に何で――」
「信じてくれ。気が付いた時には、もう手遅れだったんだ。すぐ後ろを歩いていたはずなのに……消えてしまった。何の前兆も無かったんだ。本当だ」
役人たちは、顔を突き合わせるようにして話していた。だが、急にはっとした様子になると、ユリの方を振り返ってくる。
―――――――――381―――――――――
「もしかして――、最近、彼の様子に変化はなかったかい。ほら、悩みを抱えているように見えたとか、隠し事が増えたとか、精神的に不安定だったとか……」
「不安定と言えば――」
一瞬ユリは考えて、それから答えた。
「いつもちょっと抜けてますけど、確かに今日はおかしかった気がします。なんせ、私達の他にも、世の中には人間が沢山いるって知ったばかりですから。仲間が出来たのが相当嬉しかったみたいで、突然にやけたりしてましたし」
ユリの率直な返答を聞いて、アンリは頭を掻きむしった。
「違う、そんな明るい悩みじゃないんだ。もっと底の深い……周りに不幸をまき散らすような……身の毛もよだつ、恐ろしい悩みだ」
「わかんないです」
ユリは冷たく答えた。
役人に、あの手紙に隠されていた本来の意図を打ち明けることは出来なかった。
役人は孤児を見つけた場合、引っ捕らえる側なのだ。素直に教えたところで、ユリには何のメリットも無いだろう。
そう考え黙っていると、役人はぶつぶつ言ってくる。
「……親しさの度合いと、悩みの相談し易さはまた別ということか。まあ、心の底に根付く悩みともなれば、軽々しく人に話したりはしないだろうし仕方あるまい」
役人のその言葉に、ユリはルーツに対して腹立ちを覚えた。
どうしてアイツは、私に一言も告げずに部屋を出て行ったのだろう。どうして一人で抱え込むような真似をするのだろうか。一人じゃ何にも出来ないくせに。机の上に大事なものを出しっぱなしにするくらい、鈍くさくて詰めも甘いのに。パニックに陥っていたからだと想像はつくが、それでも不快だった。
―――――――――382―――――――――
「君は、この部屋がどんなところか、知っているかね」
すると、イライラしているユリをよそに、此処まで連れてきてくれた役人は、この部屋――記憶の部屋の説明を始めた。
概要を話し終わるまでには、二、三分もかからなかった。
だが、その間アンリは、何度もそわそわと部屋の中を見返していた。それはまるで、この場所から早く離れたいと言わんばかりの挙動だった。
「ここまでは、来館者に館内案内をする時の説明そのものなのだが――」
そして、そこで一旦、言いよどむと、役人はアンリに目配せをする。アンリも、仕方が無いといった様子で首を縦に振った。
「一度、部屋の中を覗いてみて欲しい。私には白一色にしか見えないのだが、君にも真っ白に見えるかい?」
その言葉に、ユリは頷いて、もう一度部屋を見た。
だが、此処から見ている限り、部屋の中には一つのシミも、そして汚れも見当たらなかった。むしろ、記憶の部屋は、純白という言葉がよく似合っている。
「よく見てくれ。少しでもいいんだ。どこかに薄暗い場所があったりしないか?」
そうはいっても、白は白なのだ。これが黒に見える時は、この世の終わりか、目に異常を来した時だろう。そう考え、ユリは否定した。
「やはり駄目か……」
すると、役人は落胆した仕草を見せたあとで、ユリに言う。
―――――――――383―――――――――
「この部屋に、人々の忘れたい記憶が集まっている事はさっき説明しただろう? 大小さまざま、不幸の度合いに関係なく、忘れたい。もしくは、忘れさせてほしい。心の底から、そう強く願った瞬間に、この部屋は人の記憶を取り込んでいく。つまり、奇特な趣味を持った誰かに記憶を見てもらい、自分の頭の中から忌まわしい思い出が消え失せる日を待ち望んで、人々は此処に記憶を預けていくんだ。
だが、無作為に集められた記憶の中には、他の記憶と一緒にしておくには、あまりに恐ろしい物も存在していた。それを、遊び半分で見た役人……いや、あれは無関係な青年だったか……。とにかくその男が精神をやられてから、この部屋の中にはもう一つ、見聞きするだけでもおぞましい記憶を封じ込めておくための部屋が作られたというわけなのだ。もっとも、部屋と言っても、どこかに壁があるわけではない。入ることはおろか、常人では存在を確認することすら出来やしない。
……灰色の部屋。その部屋は、役人の間でも、そう呼ばれて、恐れられている。誰も見ないように、誰も近づけないように、魔法で封印してある部屋のことだ」
「つまり、どういうことですか?」
ユリは困惑した。それでは、ルーツはその魔法を解いたのだろうか? 一切魔法を使えないはずのルーツが、誰も解くことが出来ないような難解な魔法を?
「しかし、ル……彼は魔法を苦手としていました。そんな魔法が使えるとは――」
「そんなことは分かっている。魔法を破る方法が、魔法によるものだとは限らない。灰色の部屋の封印を破る方法はただ一つ。封じ込められている記憶と同じくらいの闇を、心の中に抱えることなのだ。これは本人が気づいていようが、いまいが関係ない。だが、一緒に居る君でも、彼が抱えている闇に思い当たる節がないのだとしたら、その闇は、これから起きる不幸を暗示しているのかもしれない」
―――――――――384―――――――――
二人の事情を知らない役人はそう言った。だがもはや、あの手紙が、ルーツの心に影を落としていることは確定的だった。
けれども、今大事なことは、ルーツの心の闇を探ることではない。
「それで、彼はどうなるんですか?」
ユリの質問に、役人は気の毒そうな顔をした。
「申し訳ないが、我々ではその魔法を破ることが出来ない。心の中に、彼と同じくらいの闇を抱えている者がいれば話は変わってくるのだが、封印は破られないから封印なのだ。そう簡単に破れるものではない」
「それじゃあ……」
「彼が今、何をしているのかは、我々の知るところではない。だが、灰色の部屋に入ったということは、彼は何らかの記憶に魅入られたのだろう。彼はこの部屋にある無数の記憶のうちでも、特に残虐なものを手に取り、破いてしまった。おそらく今は、記憶の中に居るはずだ。その記憶が終わるまでは、彼は部屋の中から出られない」
そう言い終わると、役人たちは入り口の扉を閉め始めた。中にルーツがまだ居るというのに、早くも捜索を諦め、隔離するように扉を閉めてしまった。
そんな役人たちの態度が理解できず、ユリは戸惑いながらも口を開く。
「……でも、すぐに出てくるんですよね。記憶が終われば、すぐに出てこられるんですよね! 記憶が終わるには、後どのくらいかかるんですか?」
多くても一時間程度、そんな答えが返ってくると思っていた。今晩中は無理だとしても、明日の朝には元気な顔がみられるとそう思っていた。だから、ユリが自分の耳がおかしくなったのだと錯覚したのも無理はないことだった。
「もしかすると、記憶は何十年と続くかもしれない」
そう聞いて絶句したユリを横目に、役人たちは無情にも続けた。
―――――――――385―――――――――
「出てくる時には、彼は、既に君の知っている彼ではなくなっているかもしれない。人間としての知能さえもとどめていないかもしれない。
以前誤って、灰色の部屋に取り込まれたとされる人々の記録は、一応ここに残ってはいるが――聞かない方がいいだろう」
そういった役人の手には、厚い本が抱えられている。
「平均して約十年、部屋に取り込まれていた。ここには、そう書かれている。その後の人生の詳細な記録もこの本には記されている。……なんにせよ、今回の件は、我々の不徳の致すところだ。後日、彼の親御さんとは話す機会を設けることになると思う。きちんとした形で。我々の方から出向かせてもらう。謝ったところで、どうしようもないことだと分かってはいるが――、すまない。我々には頭を下げることしか出来んのだ。……追って連絡させてもらう」
ユリは奥歯を噛みしめた。納得できなかった。ルーツが勝手に突っ走るだけなら別にどうでも良かった。その後で、一度顔をつねるなり、話し合うなりすれば済むことだ。そう思っていた。だが――、無茶をした挙句、謎の部屋に取り込まれ、十年は出てこられない? 冗談にしても酷すぎる。あんな手紙を見た後に、自分だけ記憶の中に逃げて――、ユリ一人であの村に帰るなんて、出来るはずも無かった。
「残酷な事を言うようで心苦しいが、彼の事は忘れた方がいいかもしれない。記憶の中の一秒は、現実の一秒に相当する。これは、過去と現実が同じ価値を持っている証なのだ。暗い記憶の中で数十年もの月日を過ごして、狂わずにいられるわけがない」
―――――――――386―――――――――
役人のボヤキは、ユリの耳には入らなかった。このままルーツと、十年も二十年も会えないままなのだろうか。そう考えるたびに、奇妙な震えが襲ってきていた。
別に、ルーツと一緒に居て、特段楽しかったわけではなかった。ルーツはいつだって泣き虫で、頼りなかった。居ない方がマシだと思う事も、何度かあった。だが、こんな別れ方はあまりにも不条理で……、ユリの心は無性に掻き乱されていた。
「とりあえず、一度ロビーに戻ろう。私も上に、この事を報告しなければならない」
役人は、既に見切りをつけ、ここから立ち去ろうとしていた。
一方アンリは、心配そうな顔をしていた。数時間前に会った時より随分と老けてしまった表情で、此方の方を見つめている。
「じゃあ私が――、私が今から灰色の部屋に入って、彼を連れ戻してきます」
そんな役人たちに向かって、気づけばユリはそう叫んでいた。
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