第53話 ただ逃げているだけでは何も変わらない

 なぜ、この世界にやってきたのか。その理由をルーツはすっかり忘れていた。いままで感じたことがないほどの直接的な痛みに、意識が持って行かれていたせいかもしれない。次から次へと訪れる衝撃的な展開に、圧倒されていたせいもあるのだろう。だが、本当のところは、ルーツはこの辛い現状を認めたくないだけだったのだ。

 可哀そう、気持ち悪い。よく少女たちに向かってそんなことを思えたものだ。

 ルーツは、孤児の境遇がどんなものなのかを自分の目で確かめるために、紙を破いたはずだったのに。

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「君は孤児なの?」

 目の前の女の子に、たった一言そう尋ねるだけで、ルーツの目的は達成される。リリスが首を縦に振れば、此処は間違いなく『孤児』の記憶世界。今現在、ルーツが入り込んでいる身体が孤児のものであり、村長がルーツを嫌っていたことが明らかになる。……だいたい、どんなに狂った価値観を持っていたとしても、掃き溜めより酷いこの場所を見て、村より住みやすいなんて思うわけがないだろう。この場所で一年、いや、ひと月でも生活したらどうなるか。それは生まれてからいままで、ルーツとずっと一緒に暮らしてきた村長が一番よく知っているはずだ。

 そして、もし、リリスが首を横に振れば――。

 いや、本当はもうとっくに分かっていた。リリスは孤児で、そこで倒れている少女も孤児。この部屋にいる少女たちはみんな――

 鎖に繋がれ、異臭を放つ部屋に囚われ、反抗すれば折檻を食らう。いままでルーツが目にしてきた光景すべてが、孤児の記憶なのだ。

 常人なら、いつ気が狂ってしまってもおかしくないような、おぞましい状況。こんな酷い状況下に置かれているというのに、此処にいる少女たちは誰一人として、泣き言ひとつ漏らしていなかった。初めからそれが普通であったかのように、すべてをあるがままに受け入れて、そのうえで生き抜こうとしている。

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 ルーツはようやく自分に足りない物に気づいた気がした。泣き言を言うことの無意味さを少女たちは知っている。現状を嘆く暇があったら、ひとつでも多く、生き残るための術を探しなさい。リリスならきっとこう言うだろう。

 この現実を、村長が自分を孤児の身分に落とそうとしていたという事実を、そろそろルーツも受け止めなくてはならない。現実と向き合わなければ。都合の悪いことに蓋をして、ただ逃げているだけでは何も変わらないのだ。

 しっかりしろ。そう言い聞かせながら、ルーツは自分の頬をピシャリと叩く。乾いて固まりかけた血液が、手に奇妙な感覚を残していった。

「リリス。君は――」

 勇気を振り絞って、言い放つ。だが、

「お客様がお呼びだ。出ろ!」

 ようやく形になりかけたルーツの決心は、再び部屋中に響き渡った巨漢の声とともに、消えた。


「やめて! 離して! 何で、どうして私なの? まだそこに、元気そうな子がたくさんいるじゃない!」

「リリス、……諦めろ。今回、お客様は傷物を。つまり、怪我をして値段が安くなった、お前みたいな子どもをお望みだ」

 細身の男の言葉を聞いて、リリスは絶望を隠しきれない顔をした。何があっても芯を保っていたリリスの表情が、瞬く間にくしゃくしゃに崩れていく。

―――――――――357―――――――――

「リリス!」

 喉元まで出かかった言葉を押し戻され、右往左往していたルーツは、リリスが片腕で軽く抱えあげられたのを見て、男に掴みかかった。だが、ルーツがあまりに軽いせいか、全体重をかけてぶら下がってみても、男の顔色はまったく変わらない。

 逆に、足首をがっちりと掴まれ、気づいた時には、ルーツは男の腕の中。リリスと同じように、足をバタバタ動かすことしか出来ない哀れな獲物に変わっていた。

「お前も来るんだ」

 そして、男からそう告げられ、ルーツは、自分がリリスと同じ境遇にいることを改めて痛感する。その途端、とある不吉な想像が頭の中で膨らみ始めた。

 これから、ルーツ、そしてこの身体の持主はどうなるのだろう。この記憶は、いったいいつまで続いているのだろうか?

 その後の人生はずっと地獄。リリスが言っていた言葉を思い返すたび、ルーツの鼓動は早くなっていった。もしかしてこの記憶は、この身体の元の持主である少女が死ぬまで終わらないのでは――。いままで心の奥に押し込めて考えないようにしてきた不安が、次々と頭をもたげてくる。もしそうなら、そんなものは記憶と呼べない。多くの痛みを伴った人生の追体験、そのものだ。

 ルーツはこの状況を他人事のように思えなくなっている自分に気がついた。今、危機に陥っているのはこの記憶の持主だけではない。ルーツ自身も同じように危機にさらされているのだ。

―――――――――358―――――――――

「嫌」

 口からそんな言葉がこぼれた。

「嫌」

 記憶というのは、安全な場所から誰かの人生の一部を見物できるものなんだと、ルーツはそう、勘違いしていた。

「嫌だ」

 だが、元の身体が記憶の外にあるからといって、痛みが和らぐわけではない。恐怖が無くなるわけでもない。

「嫌だ」

 少女が爪を剥がれれば、ルーツも同じように痛みを感じる。この少女が二十年生きるなら、ルーツは同じように二十年苦しみ続けなければならない。

 刻一刻と迫ってくる恐怖を前にしては、いつかは元の身体に戻れるという希望は何の役にも立ちはしなかった。

「嫌、こんなに頑張って来たのに、何で、どうして、嫌あああああ」

 リリスの叫び声をわずらわしく感じたのか、それともそれがマニュアル通りの行動だったのか。男は、リリスとルーツの口の中に、べっとりとした粘液で覆われた固形物を、呻き声しか出せなくなるまでいっぱいに押し込んだ。

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 男の肩越しに、先ほどまで泡を吹いて倒れていた少女が、口元を拭いながら立ち上がったのが見えた。男の腕から必死に逃れようと足掻くリリスを見て、何が可笑しいのか、余裕の表情でニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。

 ――心底憎らしい。どうして自分たちだけが、こんな目に。人の不幸を見て笑っていられるような屑にこそ、こんなクズにこそ、報いがあるべきなのに。

 ほんの少し前まで、互いを傷つけあっているリリスたちを自分とかけ離れた存在だと思っていたのに、ルーツはいつの間にか、目の前の少女を敵視していた。一度当事者になってしまえば、結局ルーツも同じ穴の狢で、可哀そうな少女たちの代わりに、自ら進んで犠牲になるといった利他的な感情は少しも湧いてこない。

 暴れても、噛みついても、男は一切歩みを緩めなかった。細身というのは、あくまでも他の成人男性に比べれば、ということである。男にしてみれば、常に栄養失調寸前であるルーツたちの抵抗など、いちいち気に留める価値も無かったのだろう。

「諦めろ」

 再度、男はそう言った。格子で囲われた部屋が少しずつ遠ざかっていく。上下に揺れる視界から、ルーツは男が階段を上がっていることを悟った。鼻の奥がジンジンと痺れていく。リリスの境遇を憐れんでいるのか、それとも単純に痛みを恐れているだけなのか。ルーツには、もう分からなかった。

―――――――――360―――――――――

 ひっきりなしに床に滴り落ちる雨粒のような涙は、すべてルーツの瞳から零れ落ちてくるものだった。こんな絶望的な状況で、どうしたら意思を強く保てるのか。リリスの目はまだ死んでいない。

 連れていかれる間中、無駄だというのに、リリスは何度も壁に爪を立て、男の歩みを止めようとしていた。そのせいで、リリスの指はずるずると剥け、壁には十本の赤い線だけが残る。だが、やはり、その抵抗が何かを生み出すことは無かった。

「着いたぞ」

 そして、男が足を止める。この世界に来てから一度も聞いたことが無かった音。喧騒の声が、ルーツの耳に届き始めていた。

「それでは、本日の目玉商品――と行きたいところですが、もうしばらくお付き合いください。最近は物価も上がる一方。皆さまの懐も、決して常に豊かなわけではありません。というわけで今回は特別に、私どもの方で、少しお手頃な、訳あり商品をご用意させていただきました。

 バルデン協会出品、人と獣の混血児、二名! 日頃の感謝の気持ちも込めまして、どちらも通常価格の五十分の一、豆赤貨一枚からお求めいただけます!」

 どよめきが、大きな波となってルーツたちに襲い掛かってくる。ルーツとリリスを小脇に抱えた男は、器用に目の前のカーテンを開けた。

 静かにうねるカーテンに、リリスはすがるように、血みどろの手を伸ばす。だが、その手はあまりにちっぽけで、最後の望みは手のひらから零れ落ちていった。

―――――――――361―――――――――


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