第54話 お客様

 そこは眩しい場所だった。希望の光の欠片さえ差し込んでこない、あの陰鬱な部屋とは打って変わった眩しい場所。呆けたまま天井を見つめていると、男は、ルーツの顎をくいっとひねった。無理やり下を向かされ、ルーツは初めて部屋全体を目にすることになる。すると、間近なところから、遠くから。そして正面から。大勢の顔が薄闇から浮かび上がってきた。

 どこをみても、顔、顔、顔。

 怯え切ったルーツとリリスを、数えきれないほどの好奇の目線が貫いている。古い劇場のような閉鎖された空間に、二百、いや三百名は超えるだろうか。年齢層も性別も全く異なる人々が押し込められていた。彼らに共通して言えるのは、両手に白い手袋をはめているということだけ。そのほとんどが、周囲と会話することも無く、ただじっと、ゆとりのある幅広い座席に腰かけて、何かを待っていた。選考会で見た闘技場より遥かに広い空間。だのに、ルーツは酷く圧迫感を覚える。

「右から、赤髪の少女! ……と黒髪の少女!」

 ルーツは、無数の人の顔がよく見える壇上にいた。目線の先に、二つの椅子が置かれている。大きな舞台にそぐわない、背もたれ付きのちっぽけな椅子。それでいて、この椅子が、ルーツに身の毛もよだつような悪寒を覚えさせたのは、そのおぞましい色彩のせいだろうか。暗い、とても暗い朱色。上から何度も重ねて塗られたように、椅子は背もたれを中心として、所々にむらがあった。

―――――――――362―――――――――

「実はこの二人。オールト王国の南西の村に住む、心優しいクレール夫妻と、フィリップ夫妻の持ち物だったのですが、諸事情あって我々がもらい受けることになりました。今は、少し痩せてはおりますが、丸々とした可愛い子に育て上げることも出来る。ということをここに確約致します」

 どこからともなく四、五人の黒服の男たちが現れた。嫌がる二人を、男たちは慣れた手つきで椅子に縛り付けていく。一人が体を椅子に押し付け、一人が両足をがっちりと固定し……そして一人が両手を無理やり引っ張り――。

 胸の辺りをギュッと締め付けられるような感覚が走った。首と胸に縄のようなものが何回か通される。両手は椅子を介して後ろ手に縛られ、あっという間に、リリスとルーツは身動き一つ出来なくなっていた。

 身体を左右に傾けて椅子を倒そうとしても、肌に食い込んでくるようなその縄は、わずかな動きすら許してはくれない。首の辺りが非常に苦しい。胸のあたりに圧迫感がある。少し暴れたせいか、縄はさらに肉を噛み、伏し目がちだったルーツは、痛みから逃れるために首を上にもたげざるを得なくなった。

 先ほどより、多くの瞳がルーツを見つめる。目も眩むほど明るい場所にいるはずなのに、こちらを見る男たちの眼の奥には、底知れない深い闇が広がっていた。彼らの目を見続けていると、闇の中に引きずり込まれてしまうような気がする。そんな、得も言われぬ不安に襲われて、ルーツは震える。

 眩しくなんかない。この場所は暗い。あの場所より、鉄格子の中よりさらに暗い。ここには悪意が渦巻いている。

―――――――――363―――――――――

「では、時間も押していますので、さっそく始めさせていただきます。まずは、右側の赤髪の少女から。お約束通り豆赤貨一枚からになります! 参加したい方は各自金額を提示してください」

 会場中にその声が響き渡るとともに、鼓膜を揺るがすような大声が、ルーツとリリスを包みこんだ。

「豆赤貨二枚!」「豆三枚!」「赤貨一枚!」「二枚!」「五枚!」

 見る見るうちに値段が吊り上がっていく。

 元の価格の十倍、二十倍、五十倍……。好奇の眼差しはいつの間にか、欲望丸出しのギラギラした目つきに変わっていた。

「十枚!」「二十枚!」

 金額は、ルーツの想像できる範囲を早々に超えた。

 もしかするとリリスの価値は、ルーツが一生涯、汗水垂らして働いて、やっと手に入れられるお金より、遥かに高いのかもしれない。

「三十枚!」「三十五枚!」

 舌打ちをしながら、手を下ろす人々が出始めた。だが、まだ数十人の人たちが代わる代わる値段を吊り上げていく。

 しかし、そんな会場の熱に飲み込まれてしまった他の人々の姿よりも、ルーツは、目の前に座っている一人の男性から目を逸らせなくなっていた。

―――――――――364―――――――――

 額から頭頂部にかけて見事に……と言っては変だが、禿げ上がっている老齢の男。今はリリスの買い手を決めている真っ最中だというのに、額に皺が寄り、頬がゲッソリとこけたその男は、先ほどからルーツの方ばかり、じっと見つめていた。だが、値踏みしているというわけでもないようで、足を組んだ膝の上に、プラカードのようなものを置き、随分退屈そうに構えている。

「四十枚!」

「四十五枚!」

 この騒ぎに関心が無いというよりもむしろ、何もかもを見通している。結果を知った後で、同じ光景をもう一度見ている。老齢の男は、そんな態度を取っていた。

「五十枚!」

「五十三枚!」

 明らかに、声を張る人数は少なくなっている。

 手の届かない値段になったことを悟ったのか、会場から段々と熱は引いて行き、代わりに脱力した空気が漂い始めていた。

「五十五枚!」

「五十五枚と豆青貨一枚!」

「五十五枚と豆青貨二枚!」

 既に、争っているのは二、三人だけ。おそらくは、意固地になっているのだろう。小さな単位での争いが続く。

―――――――――365―――――――――

「五十五枚と豆青貨四枚!」

「五十五枚と豆青貨四枚と、緑貨一枚!」

「五十五枚と豆青貨五枚!」

「……どうですか? 他に居ませんか? ……いいですか。これで決まりますよ? 三、二、一……」

 しかし、ようやく雌雄は決したようだった。一人分の勝ち誇った顔と、その他大勢の何だかほっとしたような顔が、会場中に溢れ返る。が、その時、ルーツは確かに目の前の男性がニヤッと笑ったのを目視した。男性の右手が、すっと上がっていく。その手の先には、高々と掲げられた板状の掲示物があった。よく見ると、そこには何か文字が書かれている。

「赤貨百枚! 百枚が出ました!」

 会場に響く声が、興奮した様子で言った。どよめく客の眼差しが、ルーツたちから一転、今度はゆっくりと立ち上がった男性に注がれる。だが、

「いや、百じゃない。千だ、よく見ろ!」

 前列に座っていた人々の、度肝を抜かれたような声。千という言葉に、ざわついていた会場は一斉に静まり返った。男性が此方に向かって歩いてくる。会場にはいつの間にか、男性が手にしている杖の音だけが、コツンコツンと響きわたっていた。

 そして男性は、二メートルほどはある段差を器用に上り、ルーツたちが居る舞台まで上がってくる。しかし、ルーツの横に立っている黒服は、客の行為を止めようともしていなかった。ただ、その場に突っ立って事の推移を静観している。

―――――――――366―――――――――

 まさか――。全ては計画のうち。ここまではシナリオ通り。黒服たちの落ち着きようは、ルーツにある考えを想起させた。

 恰幅の良い身体の上に重ねられているのは、紫色の服と、黄緑色のだぼだぼの上着。そんな、何とも奇抜な出で立ちをした男性は、ルーツとリリスに背を向ける。そして、ひとつ咳払いをし、顔ぶれを確認するように客たちを見渡すと――、男性の持っている杖が、床に向かって勢いよく突き下ろされた。

「もう千枚出す! 隣の子も一緒に頂いて行く。何か文句がある奴は居るか!」

 年を感じさせないような凛と張った声。静まり返った会場に、まばらな拍手が鳴り響いた。人々は複雑そうな顔をしながら、男を眺めている。そして男は拍手の音が鳴りやむのを待ってから、ルーツたちを振り返って見た。

「すまないねえ、こんな茶番に付き合わせてしまって。すぐに楽しくしてあげるから、そこで大人しく待ってるんだよお」

 今度は人々を怒鳴りつけた時とはガラリと変わった、甘ったるい声だった。

「おい、司会! 何をぐずぐずしてるんだ! 早く、いつもの奴を持ってこい!」

 かと思うと、またぶっきらぼうに言い放つ。その様子を見て、ルーツは気づいてしまった。

 避けなければいけない客がいる。リリスはそう言っていた。しかし蓋を開けてみれば、結果は競売形式。これでは、誰に買われるかは運次第。その時になるまで分からない。もしかすると運悪く、悪趣味な客にあたってしまうかもしれないが、優しい客の目に留まる可能性も残されているだろう。

 だから、まだ希望はある。この会場に連れ出された時、ルーツの頭の中に浮かんだのはそんな甘い考えだった。

 それだからルーツはこの競りの間中、抵抗し続けるリリスをよそに、そんなことをして客の印象を悪くするくらいなら祈ったほうがいい。そう思い、優しい人に選んでもらえるようにと、とにかく何かに願い続けていたのだ。

―――――――――367―――――――――

 だいたい、いつかは記憶の中から出られるのだから。いますぐ痛いことをされないのであれば、誰に買われることになっても一向に構わない。それこそ、パフォーマンスをさせると言っていた件の男でなければ誰でも――。

 しかし、あの提示額。舐めるような言葉遣い。そして司会への態度。ルーツは全てを悟ってしまった。目の前にいる男が、リリスが恐れていた残酷な男であり、細身の男が言っていた『お客様』なのだ。

 カーテンの奥からは台車のガラガラ音が聞こえてきていた。それからもう一人の黒服が、取っ手の付いた台車とともに現れる。

 手押し台車は壇上の客の前で止まり、客は小さく頷いた。そして、客がひとつ咳払いをすると、全ての黒服たちは舞台袖へと消えていった。


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