第52話 選択肢がもっとあったなら

「アンタにはまだ無いみたいだけど――」

 そう言いながら、リリスは自分の首に手をあてた。

「この首輪のこと、気づいてる?」

 リリスの首にぴったりと張り付いているのは、ロープ、ではなく鋼鉄のリング。ルーツの首が未だに自由なのは、先ほどリリスが言っていた、他の部屋から移動してきた、という言葉が説明してくれるのだろうか。

「これ、実は悪質なつくりになっててね」

 そう言うと、自分の首から天井まで続いている鎖をリリスは勢いよく引っ張った。

「あ……がぁ……」

 リリスの首付近で鎖が小さくとぐろを巻く。

 だがルーツは、目の前の光景ではなく、鎖が生み出すじゃらじゃらという金属音でもなく、それに混じって微かに聞こえてくる、奇妙な音に気を取られていた。

「もう少し、引っ張ろっか」

「かぁ……ぁ……」

 蚊の鳴くような小さな音ではあるものの、たしかに部屋のどこかから異音が発生していた。そして、音の出所が気にかかり、周囲を見渡したルーツは目を見張る。目を向けた先では、背丈の小さな一人の少女が、吊り上げられるようにして宙に浮かんでいた。両手で首の辺りを掻きむしり、足を大きくバタつかせて……。その姿は、異質な物ばかりのこの部屋においても、ひと際大きな存在感を放っている。

―――――――――349―――――――――

「リリス!」

 ルーツが声を張り上げると、リリスは鎖からすっと手を離した。その瞬間、少女は地面に墜落し、蛙が潰れたような音を立てる。全身を小刻みに震わせる少女の目はどこか一点を見つめ、口から吹き出た白い泡が地面を濡らしていった。

「一体、何を……」

「分かんなかった? だったら、もう一回やるけれど……」

 本人としては、にこやかに笑いかけているつもりなのかもしれない。が、リリスの目は据わっている。

「いや……分かった、分かってるよ。だから、その手を放して」

 リリスの首から伸びている鎖は、どうやら天井を介して、もう一人の首と繋がっているらしい。勘の鈍いルーツが、一度でそのことに気づけたのは、確かに、リリスの衝撃的な実演のおかげだった。だが――、たったそれだけのことを説明するために、リリスは一人の少女を宙に吊るして見せたのか。

 身体を張ってルーツを助けてくれた優しい少女だと思った途端、仲間にこんなことをする。リリスの気持ちを理解してはいけない、しようとしてはいけない。

 リリスはユリじゃない。似てはいるけど全然違う。ユリはこんな残酷なこと、何があっても絶対にしたりしない。

 狭い檻の中で一体どこに行こうというのか。気づけばルーツの足は、勝手にリリスから遠ざかり、逃げようとしていた。無機質な笑顔を見つめていると、リリスのことがだんだんと、薄気味悪く思えてくる。

―――――――――350―――――――――

「アンタ、この子が何をしたか分かってる?」

 怯えた表情を見られまいと、うつむきながら首を振る。すると、リリスはルーツを見て、大きな大きなため息をついた。

「それで、あんなに驚いた顔をしてたのね。まあ確かに、何も知らなかったとしたら、私もアンタと同じことを思うかも。こいつの頭、どうかしちゃったんじゃないかって。……謝らなくてもいいわよ。責めるつもりで言ったんじゃないし。でも、そっかあ。そう見えちゃったかあ。そりゃあアンタと私を比べれば、ちょっとくらい物の見方も違ってるかもしれないけど、流石の私も、無関係の子を吊り上げるほど、酷いことはしないわよ」

 そう言うと、リリスは倒れている少女の傍まで近寄って、服の中から、ちょうど手のひらに収まるくらいの小瓶を取り出した。

 そして、その中身――白い粉を少女の顔に振り掛けていく。

「目が覚めてすぐの時に聞かなかった? ほら、私のとはまた違う……ちょっと甘ったるい感じの声なんだけど」

 上手く言い表せなかったと思っているのか、リリスは言葉を探すように、考え込んでしまったが、ルーツは甘い口調と聞いてすぐに、ここに来たばかりのことを思い出していた。リリスちゃん。確かにリリスのことをそう呼んでいた子が居たような気がする。だが、その子とリリスはとても親しそうで、間違っても首を吊るしあったりする仲ではないはずだった。

―――――――――351―――――――――

「この子、仲良しごっこが上手いのよ」

 リリスは、ときおり体をピクピクと震わせる少女を憎々し気に見つめていた。

「リリスちゃんって……普段はもっとふてぶてしい態度をしてるくせに」

 見るものを凍り付かせるような冷たい眼差しのまま、吐き捨てるように言い放つそのさまは、単純な感情以上の憎悪をルーツに感じさせる。

「客に買われたくないのは私だけじゃない。他の子も必死なの。だから、出し抜かせないためには相手をずっと牽制し続けるしかない。出し抜くためには相手を騙すしかない。そしてこの子は、その両方の能力に長けている」

 喧嘩、仲たがい。そんな一時的な物では断じてない。敵視、リリスの態度はそれに近かった。

「アンタはそれどころじゃなかったでしょうけど……」

 リリスはそう前置きしてから、言った。

「アンタがあいつらに顔を滅茶苦茶にされている間、私の体は宙に浮いていたのよ。もちろん、それはこの子のせい」

 リリスは、少女の腹の辺りを少し踏みつけた。激しい咳き込みとともに、泡を吹いていた少女が息を吹き返す。

―――――――――352―――――――――

「私は駆け引きに負けた。でも、この子の詰めが少し甘かったから、私は運よく意識を失わずに済んだ。もしこの子が慎重な性格で、私の手足があと少しでも短かったら、私は今頃この子の代わりに、泡を吹いてぶっ倒れていたでしょうね」

 よく見ると、リリスの首元には爪でひっかいたような血の滲んだ跡があった。リリスはそこを指差しながらルーツに問いかける。

「やられた方が負け。実際、最初に攻撃してきたのはこの子。それでもアンタはそんな目で私を見るわけ?」

 狂っている。ルーツはそう言うつもりだった。仲間同士で騙し合い、嘘の友情ごっこをして――。とても目の前の少女が、自分と同じくらいの年齢だとは思えない。狡猾な大人が子どもの皮を被っている。そうであったらどんなにましな気分になることか。だから、リリスの話を聞いている間、ルーツはずっと少女たちの正気を疑っていた。目の前の少女の年齢を疑っていた。だが――、甘えた感情を捨て、非情に徹しなければ、この過酷な環境で生きていくことは出来ないのだ。

 狂わなければ生きていけない。その事実に気がついた瞬間、ルーツの、少女たちに対する見方は百八十度回転した。

―――――――――353―――――――――

「……ごめん。なんか、ごめん。本当に、ごめん。……まさか、そこまでだとは思ってなかったから」

 好きでこんなところにいるわけがない。他に行く場所があるのなら、選択肢がもっとあったなら、リリスたちはもっと楽しい子ども時代を送れたのだろう。

 しかし、リリスたちは自分で人生を選ぶことを許されなかったのだ。誰かが、悪意を持った大人が、こんなところに入れたから――。

 ルーツの心を虚しさが埋め尽くした。少女たちはただ生きようとしているだけなのに。懸命に生きている少女たちを見て、薄気味悪く思っていた自分への嫌悪も加わり、こらえ切れなくなった気持ちが涙となって、ルーツの頬を流れ落ちていく。

「わ、わ、どうしたの? ごめん、ちょっとキツく言い過ぎちゃったかな」

 何でもない、大丈夫。ルーツはそう言いかけたが、言葉は声にならなかった。突然、目の前で泣き出したルーツを見て、リリスは狼狽え、慌てふためく。この優し気な声も、生き残るために身につけた作り物なのだろうか? たった今、罪悪感に駆られたばかりだというのに、勝手に邪推を始めた自分の心をルーツは心底恨んだ。

「もう、折角そんな可愛い顔してるのに、泣いたら台無しじゃん」

 リリスが髪をそっと撫でてくれる。その瞬間、すべてを包み込んでくれるような温もりに触れた気がして、ルーツの表情は自然と綻んでいた。きっと、この殺伐とした世界に、嘘は必要なものなのだ。非情な現実なんかもう見たくない。ずっと頭を撫でていて欲しい。このまますべてを忘れて楽になってしまいたい。そんな思いに包まれる。此処がどんなに悲惨な場所であるかも忘れて、記憶の中だということも忘れて、嫌なことを全て忘れ去ってしまいたい。

―――――――――354―――――――――

 そんなことを考えたまま、ルーツはトロンとした目をして、リリスの言うことにただうなずいていた。だから、次の言葉を耳にした時も、リリスに何を聞かれているのか、ルーツはなかなか理解できなかった。

「そういえば、まだ私たち、自己紹介も済ませてなかったのね。私、リリス。アンタはどこから来たの?」

 それは何の変哲もない、悪意も介在しない、リリスの言う通り、自己紹介以外に何の意味も持たない一言だった。もっともそれは、リリスからしてみれば、の話なのだが。その一言で、ルーツは此処にやってきた理由をようやく思い出した。


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