第44話 出でよ、謎の暗号!
ようやく開いていた宿屋は、お世辞にも綺麗とは呼べないあばら家だった。外見がお化け屋敷なら、営業している人もお化けの一味だ。カンテラを灯した老婆が出迎えた時は、ルーツもユリもギョッとした。なにせ、揺れる光に照らされた頬骨と、落ちくぼんだ目が、暗闇の中にぼんやりと浮かんでいたのだから。
「お客様、申し訳ございませんが、今日はもう、一人部屋二つしか空いておりません。なにぶん、夜も遅いもんで」
生きながら骸骨化しているように見える老婆は、開口一番そう言った。そして、幾つもの部屋の前を通り過ぎ、二人を当然のように二階へと案内した。
しかし明らかに、ルーツたち以外に客の気配は無かった。階段の途中には見事な蜘蛛の巣が張り、人の訪れが途絶えて久しいことを教えてくれる。
肝心の部屋はというと、これまた、薄埃と湿気臭さが長年の月日を掛けて熟成され、充満していた。おまけに、むわっとした空気も相まって、ひどく低い天井を眺めていると、息が詰まりそうになってくる。
戸口の所は更に低くなっていて、大人なら少し身を曲げないと、頭をぶつけてしまうほどだった。加えて、碌な設備が無いばかりか、大きな丸テーブルが不必要に部屋を占領しており、ごろんと寝転がるスペースも無いときた。
臭い、汚い、おまけに狭い。人を不快にさせる要素が、三拍子そろったこの部屋を見て、是非とも泊まりたいと志願する物好きは居るのだろうか。少なくとも、二人はいますぐ引き返したかった。夜の寒さを防げる場所が、他にあればの話だけれど。
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「……ちょっと。本当に此処にするつもり?」
「そんなこと言っても、他の宿は全部閉まってたんだから仕方ないだろ?」
役所の役人に、お値打ち価格で泊まれる宿の位置を、教えてもらったところまではよかった。だが、王都の宿はものの見事に、編入試験の受験者で埋まっていた。明らかに空き部屋がありそうなのに断られるのは、予約が入っているからだという。
結局、役人御用達の宿はどれも満室状態で、キャンセル待ちを申し出ることすらままならない。というわけでルーツたちは、王都全土を放浪した挙句、倒れ込むようにして、役所の正面に帰ってきた。そして、通りを挟んで向かい側にあった、おんぼろ宿屋の門口を叩くことになっていたのだった。
ちなみに、二人は一つ前の宿で、お金は払うからロビーで寝させてくれと、受付のお姉さんに直訴している。だが、返ってきた答えは、「評判が下がるから」というものだった。ユリはそれでも食い下がっていた。けれど、目の前で戸を閉められて、閂まで降ろされては、どうすることも出来やしない。
また、貧相な身なりが良くなかったのか、他所でも二人はさんざんで、荒々しく首根っこを掴まれた挙句、外へと追い出されたこともあった。
そんななかで――此処は、仕方なくきびすを返し、トボトボと歩いていたところで、ようやく見つけた、明かりがついている建物だった。だから多少――いや、たとえ、王都で一番サービスの悪い宿泊施設であったとしても、出て行くわけにはいかない。それに、二人の足も、もう歩きたくないと悲鳴を上げていた。
―――――――――293―――――――――
「でも、あの老婆。私たちから金を巻き上げる気まんまんだったじゃない」
だが、ユリが文句を言うのもその通りだった。事実、一人部屋に二人で泊まるから、食事代は別で払うといったルーツに対し、
「お布団も、お食事も、一人部屋なら一人分しかつけられません!」
と、老婆は、売り上げが減ることを悟るや否や、無理やり、一人部屋二つ分の部屋代を要求してきたのだ。その形相に気圧されたルーツが、言われた通りに部屋を二つ借りてしまったのが運の尽きで、結局、ついてきたお布団は穴あきで、お食事も空腹を満たすには程遠い。今更ながらルーツは、明るいうちに軽食を取って、市場で毛布を買っておけば良かったと思い始めていた。毛布にくるまって、外で一夜を過ごした方が、この部屋よりも快適だったかもしれない。
それに、部屋代はまったくの無駄になった。結局、ルーツとユリは片方の部屋を捨て、一緒の部屋で寝ることになったのだ。
「……あのー、ユリ。そっちの部屋に行きたいんだけど……ダメ、かな」
言い出しっぺはルーツだったが、多分ユリも、同じことを思っていたと思う。それほど、この建物のきしむ音は、なんだか不気味だったのだ。ちなみにベッドは一人分の大きさしかなかったが、子ども二人なので問題はなかった。唯一の心配だった耐久性に関しても、ちょっとミシミシいうだけで、さほど問題はないようだった。
「……で、アンタ。まだそんなの見てるの?」
手紙を、丸テーブルに腰かけて見ていたルーツに、ユリが眠そうな目で言った。
「もう遅いんだから、明日にしたら?」
ユリは、枕を抱えたまま、ベッドに横になっている。
「なんか、もう少しで分かる気がするんだ」
「気がするだけでしょ」
ルーツは渋ったが、ユリは本当に、手紙には何の興味も湧かないようだった。しばらくすると本当に深い寝息を立て始めている。
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「合言葉みたいなものでもあるのかなあ?」
仕方がないので、ルーツは一人でつぶやき、一人で考えた。そして、一人で思いつく限りの言葉を唱えてみた。だが、さしたる変化は見られない。
「出でよ、隠されたる文字!」
「出でよ、村長が隠した文字!」
「出でよ、レンバル殿に向けた手紙!」
「明日も早いんだから、静かにしてよ……」
そうこうしているうちに、ユリの口から不満が漏れた。
しかし、目は開いていない。目の前で手を振っても反応しない。ほっぺをつついても反応しない。馬鹿と言っても反応しない――。これは、間違いなく寝ているようだ。思わず謝る素振りを見せていたルーツは、その器用さに感心した。
「出でよ、謎の暗号!」
「出てこい、透明文字!」
「文字を見せてくれ!」
結局、ルーツはその後、一時間ほど、丸テーブルの上で喚き続けていた。だが、案の定、手紙に変化は見られなかった。
変化と言えば、叫び過ぎて、疲れてしまったことくらいだった。なんだか喉が痛くなってきたので、ルーツは叫ぶのも大概にして、穴あきベッドに倒れ込む。
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「親愛なるレンバル殿へ……」
けれど、それでも諦めきれないルーツは、指で文字を何の気なしになぞった。
何か見落としていないか。何か隠されているんじゃないだろうか。そう考えながら、手紙に書かれた言葉を目で追っていく。そして――、
「手を差し伸べる必要はありません……」
終わりまでなぞったところで、ルーツは首を傾げ、動きを止めた。
何故だか、目の前の手紙に違和感がある気がする。どこか、しっくりこない感じがした。この手紙はもう少しだけ、長かったような気がしたのだ。
そして、この下に書かれてあったはずの、警告文が消えている事に気が付いた時、ルーツの違和感は確信へと変わっていく。紙には、不自然な空白が生まれていた。もともとそこには、何も書かれていなかったかのように、村長の文は短くなっていた。
ルーツは、ユリを揺り起こそうとした。だがすぐに、そんなことはしていられなくなった。ルーツがユリを揺さぶるより早く、声を出すより尚早く、その空白には、新たな文字が浮かび上がってきていたのだ。
といっても――、
「なにこれ。汚すぎて全然読めない……」
その文字は、まるでミミズが這った痕のようだった。もしくは、いまの時代の言語では無いのだろうか。であれば、ルーツにはどうすることも出来やしない。
けれど、これがもし、特定の誰かに向けたサインか暗号だったとしたら――?
そんな期待のもとに、ルーツはふたたびやる気を取り戻した。そして試しにもう一度、ミミズ文字を一文字ずつ、丁寧に指で追っていく。
……が、何も起こらない。
奇跡が続けて起きるはずもなく、手紙に変化は見当たらなかった。
けれども、それは一瞬だけのことだった。一呼吸遅れて文字は消え、代わりに薄仄かな紫の光が、紙からぼんやりと立ち上り始める――。
「レンバル、読んだら燃やすのじゃ」
唐突に、深い憂いを持った男の声が、部屋全体に響いた。
いつもの温和な口調とは異なるが、それは、紛れもなく村長の声だった。
手紙を覗き込むようにして見ていたルーツは、驚き、慌て、手紙を取り落とす。すると、手紙は折り畳まれるようにして床に落ち、同時に声も聞こえなくなった。
―――――――――296―――――――――
「今のは……何?」
ルーツは恐る恐る手紙を拾った。しかし、再び広げても、ユリの寝息が、建物のきしむ音に交じって聞こえてくるだけで、村長の声が流れてくることは無い。
代わりに手紙には、先ほどまでとは打って変わった文章が記載されていた。
『レンバルへ』
必ず誰もいない場所で見ると約束してくれ。これは至極大事なことなのじゃ。こんなことを頼めるのは、旧知の仲であるお主しかいない。ちなみに、分かってはおるじゃろうが、税のことは気にせずもよい。心苦しいが、あれは農民たちが自ら招いたことにすぎん。税を下げろという言い分も分からなくはないが、それではお主が飢えてしまう。此処で情けを掛ければ、更に状況は悪化の一途を辿るじゃろう。……まさかとは思うが、既に食糧庫を開放したのではあるまいな?
丁寧な言葉遣いが姿を消した代わりに、感情が高ぶったのだろうか、手紙には、いつもの村長の話し口調が、諸所に現れている。
その文字を目で追っていくと、また、次の言葉が現れた。
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