第41話 君は人間ですか!
「……おっ、へぇーエルト村出身なのかー」
文句を言いつつもスラスラと読み進めていた役人の動きが止まったのはそのすぐあとのことだった。
「何か関係あるんですか?」
そういえば夕食に招いてくれた男性も、エルト村という単語に引っかかっていた。不意に、その時のことを思い出してしまったせいか、一瞬この役人の顔が、先ほどの無精ひげ男性と重なって見え、ルーツは軽い眩暈を覚える。
「うん。もう君たち、帰っていいよ。ここは、君たちのようなモノが来る場所じゃない」
役人は、ルーツたちの眼の前で紙をぐしゃぐしゃと丸め、脇にあるごみ箱に放り投げた。いくら仕事に不熱心だからといっても、そこまでやるとは思っていなかったルーツは、怒りよりも先に驚きを感じる。
「もし子どもだという理由で言っているなら――」
「もちろん、そんな小さな理由で追い出したりしないさ。だが、こう臭くっちゃ周りのお客さんにも迷惑だろう?」
役人は眉を顰めると、思ってもみなかったことを口にした。
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「臭い? 確かに今日はずっと外にいたし、まだお風呂には入っていないけど……」
ユリは、自分の腕を顔に近づけ、不思議そうな顔をする。
「そこまで臭わないと思う……。昨日はちゃんと、魔脚の中で湯に使ったし。アンタはどうか知らないけど」
ルーツも同じように、自分の匂いを嗅いだ。一日中歩き続けたせいか、確かに少し汗臭くはあったが、その匂いを、周囲に不快感を及ぼすほどの酷い悪臭とみなすのは無理があるように思えた。そこまで臭いが強かったならば、ユリが事前にルーツに苦情を入れるだろう。
「汗とかじゃねえよ。獣臭えんだよ。早く出てけ!」
役人は鼻をつまむようにしながら、堪りかねたように怒鳴った。明らかにわざとらしい言い方だった。先ほどまで役人は臭いなど少しも気にしていなかったのに、それがいまになって急に態度を変化させている。単純に臭い以外の何かを役人が嫌っているとしか考えられなかった。
「ちっ、ここで人呼んでもいいんだぞ」
役人は鋭い目で睨みつけながら、ルーツの腕の辺りをギュッと掴む。
「ちょ、ちょっと」
ルーツが制止する間もなく、右袖が肩の辺りまでめくりあげられた。次に左袖。
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「あ? 無えじゃねえか」
そういうと役人はカウンターを飛び越え、ルーツの服を捲り上げ、脱がした。一枚しか着ていなかったこともあり、ルーツの筋肉一つ無い痩せっぽちの上半身は、たちまち露わになる。
「ちょ、何? 人を呼びますよ!」
「いや、そんなはずは。まさか、下か!」
「まさかじゃないでしょ、何してんの、この変態野郎!」
ユリの言葉も耳に入らないようで、男性はいまにもルーツのズボンを下ろそうとしていた。だが、ルーツが、男性の顔面にドロップキックを入れたことで、その動きはなんとか止まる。
「お前、どこに隠した?」
「隠したも何も……この人何のこと言ってんの?」
先ほど、夕食をご馳走になった男性が豹変した時よりも、涙顔になっているルーツがユリに助けを求めると、ユリは巻き込むなとでも言いたげに顔を逸らした。
「顔にも、手にも、胸にも、腹にも無い。……とすると、尻か? だが、特段、変には見えないし……」
「本当に何なんですか!」
ルーツの震えおののく姿を見て、男性は歪んでしまった三角帽子を被りなおした。
―――――――――272―――――――――
「この用紙に書いたことは本当かね」
ごみ箱の中を探り、ぐちゃぐちゃになった紙を見つけ出すと、少し優しい口調でルーツの前に広げる。ルーツは軽く頷いた。
「本当にエルト村の出身?」
「はい」
「生まれた時から?」
「はい」
「それじゃあ……」
役人の言葉が詰まった。何かを言おうか言うまいか決心がつかず躊躇っているようだった。
「とても失礼なことを聞くが……君は人間で……合っているかな?」
役人のボソボソとした小声はルーツの耳には届かなかった。
ルーツが首をかしげるのを見て、
「君は人間ですか!」
半ば自棄になったように役人は大声で言う。隣の魔導具危険管理部の役人がギョッとしたように、ルーツたちを見た。
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人間だって? 聞き違いなんじゃないか。
思ってもいなかった場所で正体を追及され、ルーツの心臓は早鐘を打った。
こんな所で逆質問されるとは思ってもみなかった。この役人にそう言われるとは思っていなかった。まさか、出身や名前を見ただけで即座に特定されるなんて。
村で半ば疎外されていた、まだ真新しい記憶が蘇る。言ってしまったら、何か悪いことが起きるのだろうか。この場で捕まるのだろうか。
認めてしまいたいという欲求とリスクがルーツの中で瞬時に天秤に掛けられた。
すぐに勘付いたということは、この役人は人間の存在を詳しく……ではないにしろ、少しは知っているのだろう。それは間違いない。本で見たか、もしくは実際に目にしたか――もしや、王都では人間が何人か暮らしているのだろうか。王都は村みたいに僕以外の全員に、尻尾や鱗が生えていたり、大きな牙が備わっている。そんな状況では無いのだろうか? しかし、先ほどの隣の役人の様子はどうだ。明らかに驚いた顔をしていたじゃないか。やはり、どこに行っても人間はタブーで、見つかれば色眼鏡で見られたり、もしかすると牢屋に入れられてしまうかも――。
いや、しかし店を営んでいた男性もどこかルーツと似ていた――人間臭かった。そうであったからこそルーツは、あの男性に話を持ち掛けたのだ。
『余計なもの、何も付いてませんよね?』いまから思い返せば、あれはかなり危険な問いだった。ルーツと同じような秘密を抱え込んでいる人以外には、何も悟られぬようにするべく、あえて抽象的な表現を使ったのだが、よく考えればあの質問は、村長や村人全員を馬鹿にしているように聞こえないことも無い。
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一瞬のうちにルーツの中で、様々な考えが交差した。しかし、嘘を言って逃れることは出来そうにも無かった。隣も、その隣のカウンターの事務員も、ルーツの方を見つめていた。彼らに共通して言えるのは、鋭い目でルーツを睨んでいること。ルーツは今一度、ユリの方を振り返る。不安げに揺れる瞳を見て、ルーツは覚悟を決めた。
「人間です」
その言葉を口にした瞬間、いままでずっとフロア全体を満たしていた、賑やかな談笑の声がピタリと止んだ。そんな気がした。静かな広間に、か細い声が響く。言うと同時に、ルーツは目を瞑り、頭を抱え込むようにしてしゃがみ込んだ。しかし、いつまで経っても、罵声の言葉や、暴力は降ってこない。そっと目を開けると、同じようにしゃがんだ役人の顔が目の前にあった。
「それは本当かい?」
役人の言葉に、ルーツは恐る恐る頷いた。
「でも、此処でこんなこと言って大丈夫なんですか?」
ルーツの弱々しい態度に役人は手を叩いて笑う。
「そりゃあそうさ、何の問題がある? 私も、あそこのすかした男も、髪を伸ばしすぎて顔が見えなくなってる奴も、この役所に居る奴はみんな人間さ」
ルーツがその言葉の意味を理解するのには、多くの時間がかかった。男が言った言葉を延々と頭の中で繰り返し、人間、人間、とそればかり、ボソボソ声で何度も口にし、しばらく経ってようやく、信じられないといった顔をする。
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「此処はどこ? 役所じゃないの? あれ、これ夢? あれ、僕寝てる?」
そういうと、ユリは面倒くさそうにルーツの顔を摘まんだ。原始的なやり取りで夢でないことを確認したルーツは、それでも信じられないようで、自分で自分の顔を涙が出るまで何度もつねった。
「役所って人間がたくさん働いてるところなの?」
男性はゆっくりと首を振る。初めて集団の一員として受け入れられている、そんな温かみをルーツは感じた。
「王都に住む奴のほとんどが、他の街に住んでいる奴らのほとんどが、そしてそこらで土いじりをする農民のほとんどが、人間だよ。この国に住む人はほとんどが人間。君が見てきた世界はほんの一部に過ぎない」
幼い時から感じていた疑問という名の隙間に、次々にピースが埋めこまれ、一つの大きなパズルが完成していく。
「君が過ごしてきたエルト村。あそこは、『半獣人』どもの根城だ。獣人にも人間にも獣にもなり切れなかった哀れな奴ら。北方の村にはそんな奴らの集まりが幾つか点在している。しかし、あの村には半獣人しかいないと聞いていたが……もしや君は半獣人どもにさらわれたのか!」
ルーツはこれまたゆっくり首を振った。
―――――――――276―――――――――
「そうか、だがそれなら半獣人の元から君のような優秀な人間が生まれたことになる。実に不思議だ。そして大いに懸念すべきことでもある。もし、これが事実なら、第二第三の悲劇が起こる……」
ルーツがエルト村で育ったことを既に悲劇と認定しているのか、目の前の役人は腕を組みながらそう言った。
「何はともあれ、すまんかった。勘違いでとても失礼なことをした。人間を恥知らずのケダモノどもと間違えるなど、いままで生きてきた中で、一二を争う大失態だ」
「いえいえ、勘違いは誰にでもあることですから」
頭を下げる男性に、ルーツは上機嫌で言った。普段なら、陰口の一つや二つでも叩いてやりたくなるところだが、今はそんな小さなことはどうでも良かった。いつもより世界が広く見える。なんて愉快なんだ。僕を馬鹿にしていたリカルドが実は少数派で、馬鹿にされる対象――。
危うくその場で即興の踊りでも披露しかけていたルーツは、ユリに足を踏みつけられたことで正気に戻った。そういえば、役人に服を脱がされてから、ずっと上半身裸のままだったことに気づき、ルーツは慌てて服を着こむ。
「で、さっきから言ってるんだけど、どういう状況なの、これ?」
仲間外れにされたことにカチンと来ていたのか、ユリの眉筋はひくついており、相当鬱憤が溜まっていたことが伺えた。
―――――――――277―――――――――
「これは私にその事実を隠していた分。これは、今日一日頼りなかった分」
ルーツが状況を説明している間、ユリは首をひねったり、頷いたりと、熱心に話を聞いていたが、それでも機嫌は直らず、ルーツは二回顔をつねられた。
「そして、これは……今のアンタ、リカルドに似てるわよ」
そう言ってユリは最後にもう一回、ルーツの頬を強くつねった。ルーツはどうしても、最後の一回だけは納得がいかなかった。
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