第39話 恨む、恨んでやるぞ!
ユリは、自分が村で差別されていた理由を知らない。きっと、森で拾われたから。もしくは、自分がよそ者だから。そう思っているはずだ。
だから、ユリがこの質問の意図を知ることは決してない。そして、男がルーツの求める人々で無かった場合、男が気がつくことも多分無い。
「それはどういう意味だ」
「そのままの意味です」
ルーツの返しに、男は意図を図りかねるとばかりに、首を傾げた。一秒、二秒。誰も何もしゃべらないまま時が進む。ユリが不安を携えた目でこちらを見ていた。
―――――――――255―――――――――
「聞かなかったことにして下さい」
沈黙の時間に耐えかね、ルーツはたまらずお茶を濁そうとする。が、すぐに男が石のような固い表情をしていることに気がついて、道化を演じるのをやめた。
「お前、どこから来た」
男は兄ちゃん呼びを止める。温厚で人当たりのよかった商人の目つきは、追い詰められた手負いの獣が見せる、鋭く睨みつけるようなものに変わっていた。
「これが、三つ目の質問でいい。早く答えろ」
男が何に対して語気を荒げているのかは分からなかった。しかし、この返答次第では大事なことが知れるかもしれない。ルーツは慎重に言葉を返した。
「エルト村です」
「エルト村? 知らん……いや、まさか……そんな、貴様北方出身か!」
そういった男の眼は、どこか狂気を孕んでいた。いま初めてルーツがここにいることに気がついたように急に立ち上がると、血走った目でぶつぶつと何かを唱え始める。その言葉は、最初は支離滅裂な物だった。だが、段々と人の話す言葉に近づいて行き、最終的にはこんなふうになった。
「出てけ! 出てけ、出てけ! お前らが、ケイラを、ソフィーを!」
罵声の中に明らかに名前と思しき言葉が交差する。ルーツ本人ではなく、ルーツの身体の中にいる何かを見ているような男の態度に、ルーツは心から怯え切っていた。
―――――――――256―――――――――
「この高利貸しの畜生。屑、返せ! 返せ! 出てけ!」
男は傍にあった箒を掴み、ぶんぶんと振り回した。だが、その狙いは無茶苦茶で、箒を一回叩きつける度に、棚のコップが大きな音を立てて割れていく。
「お願いだから落ち着いてください」
半泣きになったルーツの声にも、男性は耳を貸そうとしなかった。ユリは戸口の所まで後ずさりし、いまにも家の中から逃げようとしている。
「何なのよ、これ。ちゃんと説明して!」
戸口から涙交じりの声が飛んでくる。だが、ルーツにも男がここまで発狂した原因は少しも分からない。
「言う、言います。言うから返してくれ。学院はここから真っすぐ行って五本目の曲がり角にある。役所は大通りを挟んだ反対側にある。宿屋は役所から三番目の曲がり角を右に回って――、言ったじゃないか。助けてくれ。何でもする。何でもあげる。だから妻と娘を持っていくのだけは止めてくれ」
男性は幻影を見ているようだった。しかし、完全に違う世界に行ってしまっているわけでもない。時折、ルーツたちと話していた時の記憶が言葉の中に混じっているのがその証拠だ。
幻影の中で相当ショックなことが起こっているのか、充血した目は虚ろになり、グルグルと回っていた黒目の動きは弱まっていった。
―――――――――257―――――――――
「この獣野郎。追い出してやる。絶対に捕まえてやる。恨む、恨んでやるぞ!」
白目になりつつも、男性はずっと叫んでいた。気持ち悪い、気持ち悪い、とそればかり、ぶつぶつ繰り返しながら、髪の毛を、腕の毛を、足の毛を、体中の毛を、皮膚ごと引き千切るように毟り取っている。
ルーツはしばらく、恐怖でその場を動くことすら出来なかった。だが、背後から、ユリに服を物凄い勢いで引っ張られ、ようやく自分を取り戻すと、震える手で室内に置いてあった明かりを手に取った。そして、代わりとして、緑貨を数枚置いて、部屋を出る。勝手に持っていくのが悪いことだとはわかっていた。が、こんな意味も分からぬ喚き声を聞かされた後に、暗い夜の街を二人きりでうろつくのは耐えられなかった。
息も出来ぬまま後ろ手に扉を閉め、そのまま大通りまで走ったところでルーツとユリは立ち止まる。
「アンタ何したの!」
ユリの言葉は震えていた。
「分かんない」
「でも、アンタが言ったから――」
ユリは、ルーツが過呼吸のように苦し気に息をしていることに気づき、追及を止めた。
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「とにかく、今日は早いうちに宿に泊まりましょう。もう遅いし」
辺りはすっかり闇に染まっていた。最悪の気分だった。
用意してもらった食事はまだほとんど手を付けていなかったし、先ほどの出来事が何度も頭の中を駆け巡る。それに、
「ユリ、ごめん。僕、手紙の入った封筒、無くしちゃったみたい」
ルーツは大事な物をどこかに置き忘れてきてしまっていた。
「えっ、手紙って役人さんからもらった奴?」
「うん、村長の手紙……」
ルーツの涙腺はいまにも決壊しかかっていた。
「泣いてたって分からないでしょ!」
「まだ、泣いてない!」
すっかり怯え切ってしまっている。
ルーツは男に何を尋ねたかったのだろうか? ユリは絶望した顔をしているルーツに色々聞いてみたかったが、この状況で無理やり聞き出すことはあまりにも酷なように思えた。
―――――――――259―――――――――
「取り合えず、移動しましょう」
そう言って歩きだすと、ルーツは半歩後ろをトボトボとついてくる。極稀に頼れそうだと思うと次の瞬間にはこうだからいけない。今の一件で落ち込むのは分かるが、一番衝撃を受けたのは、何が起こっているのかも分からなかったユリなのだ。目の前で知らない男性が突然発狂して、もう十分怖い思いをしたのに、なぜそのうえにルーツに泣きつかれなければいけないのか。
頼りがいのある人に傍にいて欲しい。ユリはそう思った。
「どこで落としたのか、なんとなくでいいから分かんないの?」
「最初に商店街に入った時はあった……」
答えにならない答えが返ってきた。そんなことは分かり切っている。これから数時間かけてもう一度通りを歩いたとして、手紙が見つかる可能性は無に等しいだろう。加えて、あの男性の家の傍をもう一度通ることになる。そんな真似をするのはごめんだった。
「ほら、さっきの家の中で確認してないの?」
「してない……」
これでは手紙を見つけることは無理そうだ。何が書かれているかは知らないが、今頃は風に飛ばされて遠く彼方に行ってしまっているか、大勢に踏みつけられ、散り散りになっているに違いない。仮に心優しい人が拾ってくれていたとしてもどうやって見つければ――。
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そこまで考えたところで或る事に気がついて、ユリは勢いよく振り返ると、しょんぼりしているルーツの顔を、少し背伸びをしながら両手で挟んだ。雨に濡れた子猫のような、脆くて弱い怯えた目がユリを見返していた。
「さっき、あの人なんて言ってた? 宿屋の位置とか、役所の位置とか、喋ってたでしょ?」
ユリは言うが、ルーツはまごまごしたままで、中々口を開かない。
「でも、あれはあの人が見てた幻みたいなものだから……」
「いまは信じなさい! 他にどうすることも出来ないんだから。アンタ、落とした手紙を見つけたいんでしょ。だったら、親切な人がどこかに届けてくれている可能性を信じて、とりあえず行ってみるのが大事なんじゃないの?」
そう続けると、ルーツは何となくしか覚えていないと前置きした。それから、男が言っていたことをそっくりそのまま再現した。
「なんだ、覚えてるじゃない」
「だって、目に焼き付いちゃったから」
ルーツはへなへなと笑った。本当に世話がかかる、とユリは思った。まったく、ルーツときたら、へこたれるのは早いのに、立ち直るのは極端に遅い。
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「でも、もし見つからなかったら……」
「逆よ、逆。見つかったらラッキーだ。そんな気持ちでいかないと、アンタ、いつか精神やられちゃうわよ。それこそ、さっきの男みたいにね」
心配そうに言うルーツに、ユリは釘をさした。ルーツはそれでもビクついていたが、一応自分の気持ちには整理がついたようだった。そして、ユリがくるりと身をひるがえすと、慌てて追いついてきて、少し気まずそうな顔で隣に並んだ。
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