第31話 闇の影
何が起こったのかは分からない。だが、気づけばルーツは地面に突っ伏していて、そばには木剣が転がっていた。
「俺は助けが必要だとは言わなかったぞ!」
どこから聞こえてくるのかは定かではないが、リカルドがハバスに文句を言っている声が、ルーツの元まで届いてくる。
「そう? 此処から見ていた限りでは、君に分はなさそうだったけど……」
こんな時に何を言い争っているのだろう。倒れているルーツをそっちのけにして、リカルドとハバスは揉めに揉めていた。
「お前はいつもそうだ! 人の苦労も知らないで、いつもそうやって一番美味しい場面だけを持って行こうとする!」
そんな言葉を聞きながら、いったいリカルドはどこに消えてしまったのだろうと、辺りを探るようにうかがっていると、ルーツは視界の隅っこで、大の字になって倒れている少女の姿を発見する。
その様子を見るに、ユリはルーツより一瞬早く、作戦に失敗していたのだろう。
それでハバスが二人の狙いに気が付いて、ルーツが渾身の一撃を繰り出すよりも先に、リカルドを助け出したのだと考えれば、この現状にも説明がつく。
しかし、誰がどう見ても、既に大勢は決しているのに、どうして相手はとどめを刺しに来ないのだろう。そう思って、ルーツが困惑しながら待っていると、遠くの方から聞き慣れた声が近づいてきた。
―――――――――197―――――――――
「で、ルーツ? そろそろ降参する気になった?」
見ればそこには、膝を揃えて律儀にしゃがみ込んでいるハバスが居て、ルーツの右手を眺めながら、こりゃあひどいと呟いている。
何事だろうと確認すると、受け身も取らずに地面に向かって突っ込んだせいか、ルーツの手の甲はずる剥けていて、実にひどいありさまだった。
しかも傷口を見た瞬間、途端に痛みが強くなってくるので、ルーツが顔をしかめていると、ハバスはこちらを覗き込み、優しい口調でこう切り出してくる。
「本当ならこのまま攻撃して勝負を決めちゃうところなんだけど……。僕としてはもうこれ以上、ルーツを傷つけることはしたくないし、ルーツも痛いのは嫌だよね。だから出来ればルーツには、今ここで自分から負けを宣言してもらいたいんだけど……どうかな?」
そう言われ、ルーツはしばらく迷ったのだが、ここで反抗してもどうにもならないと思い直し、結局は了承した。
するとハバスは、倒れているルーツに手を差し伸べてきて――。ルーツは助け起こされたあとで、降参の仕方を教えてもらう。
――が、
どうやらそれは、あとから、言った言わないの争いが生じないようにするための定め事らしいのだが。降参を宣言する際には、観客席まで聞こえるような大声で、自分の意思を表明しなければならないと聞いて、ルーツはなんだか恥ずかしくなった。
だが、一度ハバスと約束してしまった以上、今さら撤回したいと言い出すわけにもいかないので、ルーツは不名誉に感じながらも口を開く。
しかし、大声をあげようと息をいっぱいに吸い込んだ瞬間――、
ルーツは左の脇腹に焼け付くような痛みを感じ、たったひと言すら発せられぬまま、ふたたび無様に地面を転がった。
―――――――――198―――――――――
「お前なあ……。いったいどんな了見で、俺に断りもなしに、相手に助け舟なんて出してんだ? こいつは今日、この試合だけで、もう幾つも策を巡らせてきたんだぞ。このやられっぷりだって……、これが罠じゃないと断言できる理由がどこにある?」
痛みとともに伝わってきた、冷たい言葉に振り向くと、そこには凍り付いたような目をしているリカルドが立っていて、ハバスに声を掛けながら、殺気立った様子で、こちらをじっと見下ろしていた。
「だいたい、あの女に関してもそうだ。失神したところをちゃんとその目で確認したのか? あとで後ろから襲撃されて、知りませんでしたって訳にはいかねーんだぞ」
そんな風に、理不尽に自分の不手際を指摘されて、ハバスはしきりに反論していたのだが。リカルドは全く聞く耳を持つことも無く、今度は矛先をルーツに向ける。
「なあ、ルーツ? お前もさあ、そんなところでいつまでも寝転んでないで、さっさと掛かって来いよ。……まだまだ、隠し持っている策があるんだろう?」
そんなことを言われても、先の攻撃が破られてしまった以上、もう此方に策は残されていなかったのだが。今まで再三にわたって、ルーツに小細工を仕掛けられてきたリカルドは、もう誰の言葉も信じられない精神状態になってしまっていたようで。
リカルドはハバスの制止を意に介することもなく、そのまま足を振り抜いた。
だが、それは明らかに反則すれすれの蛮行で、ルーツが痛みにあえいでいると、行いを非難するハバスの声と、リカルドの応酬がすぐ近くから聞こえてくる。
しかし、
「ああ、そうさ。こんな勝ち方をするくらいなら、ここで負けた方がずっとましだろう? ……それに、元々お前は厳しさに欠けている。いくら友だちが相手だからと言って、この大事な試合の真っ最中に、とどめを刺すのをためらっているようじゃ、選ばれない方がかえって良かったのさ」
そんな言葉が聞こえたかと思うと、突然空気に光が走って、押し問答の最中に、ハバスはばったりと倒れ込む。
場の状況からするに、魔法を撃ったのが誰であるかは明らかだった。けれども、リカルドとハバスは仲間であるはずなのに――。こんなことをして、仲間を攻撃してしまって、一体誰に何の得があると言うのだろうか。
と、そう考えているとリカルドが、ひどく冷酷な表情でこちらをじっと見返してくるので、ルーツは訳も分からぬままに、詫びを入れたい気分になってくる。
―――――――――199―――――――――
だが、許しを請うたその瞬間、固い靴の先端が、右の腹にめり込んできて――。余りの痛みに少年は、腹を抑えてひっくり返った。そしてまだ、その痛みも引かないうちに、今度は左の腹にもう一発。
敵意がこもった一撃を次から次へと浴びせかけられ、どうしてここまで憎まれなければならないのだろうと、ルーツはひどく困惑する。
すると思いがけず、リカルドの独り言が聞こえてきて――。
ルーツはその言葉の中に、目の前に居る少年の、激しい怒りの正体を垣間見たような、そんな気がした。そして、
「……なあ、ハバス。今さら勝ったところで、空しいだけだろう?」
ああ、その一言で、ルーツはようやくリカルドたちが、今までどんな目的のために努力を積み重ねてきたのかを思い出す。
「……お前がどれだけ頑張ろうが、どれだけ奇跡を願おうが、ここから判定をひっくり返すなんて、もう無理な話だったのさ」
リカルドがそう自分で嘆いているように、魔法も使えないルーツたちに多くの抵抗を許してしまっていた以上、審判団の心証が悪くなっているのはもう必至。
つまり、例えあの後、ルーツをすぐさま降参させて、この試合を勝ち切っていたとしても、村の代表にリカルドたちが選ばれる可能性は既にゼロに等しかったのだ。
それに、正面から堂々とぶつかって敗北を期したならともかくも、四、五年にもわたる汗と涙の結晶が、にわか仕込みの小細工のせいで無茶苦茶になってしまっていたことを鑑みれば、目の前に居る少年がルーツに恨みを抱いている要因も分かりそうなものである。
きっと選考会に全てを掛けてきたリカルドにとって、今日のルーツの行動は、対戦相手のみならず、試験そのものを妨害しようと企んでいる卑劣漢のようにしか映らなかったのだろう。
もちろん当のルーツには、そんなつもりはこれっぽっちも無かったのだが。果たして自分がリカルドの立場に置かれていたとしたら、ハバスのように平然と自分を保てていただろうかと、ルーツは激痛に身を焦がしながら、そんなことを自問自答した。
すると、リカルドは不意に攻撃の手を緩め、お前に良いのをやるよ、とそう言って、ルーツにはまったく理解できない不可思議な文句を唱え出す。
しかし、リカルドの口からとめどなく溢れ出てくる数多の言葉は、心地が良いようで気持ちが悪く、そして、聞き取りにくいようで明瞭としているような、何とも筆舌に尽くしがたい不自然なリズムを伴っていて――。その文言を聞いていると、なぜだか意識が遠のいていくのだが、今まで散々痛めつけられてきたルーツの身体は、ほんの少しも抵抗しようとはしてくれない。散漫になってくる意識の中で、怒号のようなものが飛び交い始めたのはその直後のことだった。
「リカルド、やめろ!」
「あいつが死ぬぞ!」
「誰か……、早く止めに行けよ!」
「こんな非常時に……、いったい見張りの役人は、どこで何をしているんだ!」
おそらくこれは、観客席で試合を観戦していた村人たちの叫び声なのだろう。
しかし、悲痛に満ちたその声をこうして聞いている限りでは、この場に居る誰しもが、事の重大さを分かっているはずなのに。試合を止めに来る人物や、ルーツを助けようと駆け寄ってくる人物は、誰のひとりも見当たらない。
それどころか、巻き込まれることを懸念して、我先にと避難でも始めているのか、客席からは次々に人が居なくなっていってしまうので――。ルーツはそんな光景を、あまり働かない頭で、ただぼんやりと眺めていた。
この重苦しいような感情が、絶望から来ているのか、諦めから来ているのか、それとも見捨てられた悲しみから来ているのかは分からない。でも、きっとその感情の正体は探らない方がいいのだろう。
そう思って、思考を明後日の方向に投げ出して、全てを忘れてしまおうと考えていると、リカルドが唱えているあの特殊な文言が、何かの記憶を想起させたのだろうか。不意に頭の片隅に、ユリと選考会の勉強に励んでいた頃の思い出が、なんだか曖昧に思い出されてくる。
―――――――――200―――――――――
そういえば、今まですっかり忘れてしまっていたのだが、昨日までの五日間、試験の足しになるかと思って読んでいた書物の中に、『有言呪文と無言呪文』と章立てされていた記述があった。
その書物が教えてくれたところによると、無言呪文は実に簡単。もっとも、ユリは何度も挑戦して失敗していたようなのだが、普通は身にならない方が珍しく、少し意識を集中するだけで出来てしまう。ただ反面、威力が弱い。そのため、生活を補助する魔法として大衆に認知されている。
対して、有言呪文は難しい。呪文を成功させるためには、定められている文言を何一つ間違えることなく唱えなければならないし、わざわざ声を出すことによって、集中も削がれやすくなる。しかもこれは、どういうわけか、放ったあとは、疲れまでどっと溜まってしまう代物なのだ。
だが、どれだけ労力を掛けたとしても十分お釣りがきてしまうほど、その威力には凄まじい物があり、大規模な戦いや、魔獣と出くわした際などには全てこの種の呪文が用いられている――。
だけど、この五日間の間で、ルーツが習得できた知識は皆無に等しかったというのに、どうしてこんな時に限って、全てを正確に思い出せているのだろう?
そう不思議に思っていると、リカルドが高らかに呪文を暗唱し終わって目を開く。
「我、神と契約せしめん!」
どうしてなのかは知らないが、重々しく厳めしいような響きを持った、最後の言葉だけ聞き取れた。だけども、リカルドの姿は見当たらない。
呪文を唱え終わったリカルドは、もう既に輝かしいような光に包まれていて、そのあまりの明るさに、ルーツの目には、リカルド以外の世界のすべてが、闇に覆われてしまったように見えていた。
何も見ることが出来ない闇の中。ハバスが、ユリが、そして他の観客がどこにいるのかさえ、ルーツには分からない。
そうしていると、ルーツは不意に、まるで、この広い世界でたったひとりぼっちになってしまったような酷い孤独感に襲われて――。
『怖い。苦しい。助けて欲しい。誰でもいいから会いに来てほしい……』
少年は、気が遠くなってしまいそうな寂しさに耐えながら、目の前の闇に向かってそう願う。
すると、その願いに応えるように、闇の中で何かがゆらりとうごめいて――。ルーツは薄れゆく意識の中で、闇よりも更に暗い色を放つ、闇の影を見た気がした。
その影は、魔法を放つリカルドの背後から、すべての光を掻き消すようにしてルーツの方に近づいてきて。
時を同じくするようにして、リカルドの周りを取り囲んでいた光は、次から次へと闇に移り変わっていく。
だが、しかし。もしかするとその光景は、ルーツのおぼろげな意識が見せた、ただの幻影だったのかもしれない。
意識が混濁している時や、精神のバランスが大きく歪んでしまった時などは、概して、実際にはそこにないものをあるように感じたりするものだ。
それでも……。誰が何と言おうとも、ルーツは意識が落ちる直前に、リカルドの背後で高らかに笑う、もう一人の顔を見た。
―――――――――201―――――――――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます