第29話 もったいないとは思わない?


「一時間後に、第二試合を開始します!」

 今度は双眼鏡からではなく、会場全体にエマエルの声が響いた。すやすやと深い寝息を立てていたユリが、うっすらと目を開け、こちらを見る。

「ねえ、お腹減ったから、なんかそこらで買ってきて」

 黙っていれば、結構な人が振り返ってしまいそうなほど綺麗な顔をしているのに、起きた早々これだからいけない。

 確かに、この次の試合に出場しなければならないことを考えれば、昼食は今取っておくしかないのだが――。

「僕一人に行かせる気なの?」

 行きの道中、ずっとユリを背負って歩いてきていたことも相まって、まるで使いっ走りのような扱いに、ルーツは少しムッとして言った。

 するとユリは、急に気の抜けた表情になって、何言ってんの? と口を開く。

「二人で買いに行っちゃったら、ここの席、取られちゃうでしょう? アンタの分は、ほら、こうやって。私が、自分の荷物を置いて確保しといてあげるから、その間に、買って来てって言ってるの!」

 それもそうだ、とルーツは素直に考えを改めて、荷物を持って立とうとした。だが、後ろで見ていた立ち見客の鋭い視線に射すくめられて、断念した。

―――――――――182―――――――――

「でも、一緒に来てくれないと……食べたいものが、あるかどうかも分かんないし」

 一人でこの客の中をうろつくと迷ってしまいそうだと思っていたこともあり、そう呟くと、ルーツは動くのを渋るユリの右手を掴んで、そのまま外へと連れていく。

 二人が退くと、その席は、たちまち誰かに座られてしまったようで、人波をかき分け、外に出ると、ユリはやっぱり不機嫌な顔になっていた。

「そう言えば、あの作戦、上手く行きそう?」

「……知らない」

 席を取られたことがそこまでショックだったのか。ルーツが言っても、ユリはまったくまともに取り合ってくれる様子がない。

「今からしっかり試合見て、どんなものか確かめようと思っていたのに、アンタが無理やり引っ張ってくるからそういうことになるんでしょう!」

 それは確かにごもっとも、とルーツは平謝りに頭を下げて、結局、ユリの怒りは、朝、家を出てから丘に着くまでずっと、ルーツがユリを背負っていたという理由で手打ちになった。何とも割に合わない気がするが、こればかりは仕方がない。

「で、アンタは一つ目の試合は、その目でちゃんと見てたんでしょう? そっちはどんな感じだったの?」

 会場の熱気が少し離れてくると、ユリはずっと握られっぱなしだった、右手を振り払いながら言った。問いかけられたルーツは、顎に左の人差し指を当て、一つ一つ思い出すように言葉を紡ぐ。

「えーと、最初にエマが突進して、次に魔法がすごい速さで飛んできて、蔦に絡まって……エマとカレンが勝った」

「それじゃあ全く分かんないわよ! もう少しくらい、まじめに説明出来ないの?」

 確かに、自分でもあまりにもおざなりな説明だったとは思う。だが、世の中、言葉で説明できないものはごまんとあるのだ。少なくともルーツは、あの目まぐるしい戦いの全貌が、自分のつたない語彙力で表現しきれるとは思っていなかった。

―――――――――183―――――――――

「うーん、つまり……付け込める隙はありそうだった?」

「全然、でも楽しそうだった」

「楽しい? 私たち、今から魔法がビュンビュン飛び交う中で、試合しなくちゃいけないのよ?」

 困惑した面持ちになるユリに、ルーツは続ける。

「確かに、自分たちがやるとなるとちょっと怖いけど……試合自体はすごくワクワクしたし、見ていて面白かったよ。迫力があるっていうか……自分と同じ年なのにあんなに出来るんだって、とにかくハラハラしっぱなしだった」

「で、アンタは、その面白い出来事を私に見せないために、わざわざ会場の外まで引っ張って来たってわけなのね」

 怒りは引くどころかますます増しているらしい。ルーツは話せば話すほど逆効果だと気づき、口をつぐんだ。しばらくそのまま、いたたまれない気分になっていると、ポケットの中で、不意に右手がごろりと大きな物に触れる。

「あっ、そうだ。ユリもこれ、着けてみなよ!」

「何、これ?」

「いいから、いいから」

 急にニコニコし始めたルーツの姿を、ユリは束の間、怪訝そうな顔つきで見つめていた。が、意外と素直に、手渡された双眼鏡を頭にはめる。その瞬間、辺りに素っ頓狂な声が響き渡った。

 思わずそんな声を出してしまうほど喜んでくれているなら良かったと、ルーツはどうやら機嫌を直してくれたらしいユリを見て、ニコリと笑う。

 遠くの方を見るのに夢中になって、近くの様子が全く見えていないのか。手探りで周囲を確認しだしたユリの手を、ルーツはまたしっかりと掴み、今度こそ元気よく二人で昼食を買いに行った。

―――――――――184―――――――――

 結果として、昼食にありつけたのは一時間ほど後になった。お腹の虫を鳴らしながら、村まで戻ったはいいものの、当然村はもぬけの空で、雑貨屋は閉まっている。トボトボと疲れた足で会場近くまで引き返してくると、丘の周りに役人による出店が立ち並んでいて、先ほどの脂ギトギト小魚フライも売られていた。

 豆緑貨を数枚支払い、薄茶色の焼き目がついた、鳥を串焼きにしたものを二つ買う。ルーツは少し迷ったあと、大きめに見える方をユリに手渡そうとしたのだが、ユリは首を振り、突き返してきた。

 少し前までは、お腹が減ったと言っていたはずなのに、一体どういう気変わりなのかとルーツが不審に思っていると、ユリはもう一方の手で、自分の頭にはまっている双眼鏡を指差して、何やら口をパクパクさせている。口は塞がれていないにもかかわらず、ユリは何だか苦しそうだった。

 異変に気付いて近寄ると、どういうわけか、双眼鏡がユリの頭を締め上げるようにぴっちりとはまっている。するとますます、ユリは苦し気な表情を見せるので、ルーツは慌てて力任せに引っこ抜こうとしたのだが、つける時に、サイズ調整でも間違えてしまったのか、なかなかどうしてこれがちっとも外れてくれない。しばらく悪戦苦闘したのちに、スポンと景気のいい音がして、ようやくユリの頭は解放された。

 が、途端にユリはその場にしゃがみ込み、とても年頃の女の子が出してはいけないようなひどいうめき声をあげ始める。

「ちょ、今気持ち悪いから、それどっかやって……」

 口を抑えて、懸命に串焼きを遠ざけようとしているその仕草から、もうおおよその察しはついていたのだが、双眼鏡を確認すると案の定、自動追跡モードのランプがテカテカと赤く光っていた。

 それにしても、真っ昼間から道端でうずくまり、飲み過ぎた酔っ払いのような仕草を繰り返す少女の姿は、通行人の目を引いたようで……何があったのかと、心配そうに尋ねてくる周りの人々に、ルーツがあたふたと釈明していると、会場の方から誰かが勢いよく走ってくる。

―――――――――185―――――――――

「ルーツさんに、ユリさんで間違いないでしょうか」

 二人のことを知らないその態度といい、かしこまったその服装といい、どうやらこの人も役人のようだった。

 しかし、ルーツはコクリとうなずいただけなのに、役人はみるみる顔を曇らせると、強い口調でガミガミ言ってくる。その要旨をまとめるに、なんでも役人は、自分の前の試合がとっくに終わっているにも関わらず、二人が既定の場所までやって来ていなかったことを怒っているらしかった。

 そう言えば、やけに会場から出てくる見物客が多いなあ、とは思っていたのだが。まさか、もう既に休憩時間に入っているとは思っていなかった、とルーツが呑気に納得していると、役人は、ちょうど二人に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、受験者としての自覚が足りないだの、落選確実だの、と何やら不穏な言葉をぶつぶつつぶやいてくる。まあ、この役人は、ルーツたちを探すために、会場のあちこちを駆けずり回っていたせいで、まだ昼食も食べられていないそうなので、嫌味を言いたくなるのも無理はないのだろう。

 役人は、その真っ赤な怒り顔のままルーツたちを連れて行きたがったのが、ユリがいまにも煌めく何かを吐いてしまいそうだったということもあり、協議の結果、落ち着き次第、出店を担当していた役人が二人を連れていくことになった。

―――――――――186―――――――――

 ユリはそれからしばらくの間、胸を抑えてゲエゲエやっていたが、今朝から何も食べていなかったことが逆に幸いしたのか、幸運にも中身をぶちまけることはなく、ルーツは数回顔をつねられるだけで済んだ。

 客引きのためなのか、やけに鮮やかな色のシャツを着たままの役人のあとを歩いていくと、どうやら試合はものの何分もしないうちに始まるようで、ルーツたちは今一度、禁止事項の説明をされたのちに、すぐさま試合会場に向かわされる。

 息を切らして走っていくと、聞こえてきたのは大歓声。ルーツたちが丘につくと、人っ子ひとり通れなさそうだった観客の群れが左右に分かれ、二人が通る道を作り出す。先導してきた役人に促され、二人は階段を下り出した。

「東方向! ルーツ、ユリ、どちらも十一歳!」

 おそらく、ルーツたちを応援しているわけではないのだろうが、観衆たちの数多の声援が、ぐわんぐわんと耳の奥まで響いてくる。中でも、とりわけ目立っている男の声は、司会に加えて実況まで務めているエマエルのものだろう。

 実のところを言えば、ルーツは、心を落ち着かせるためにも今一度、作戦の内容をユリと共有し、確かめたかったのだが、ユリはまだ少し気持ちが悪そうで、それどころではなさそうだった。

 しかし、幾らこの会場に大勢の人たちが集まっているとは言っても、普通は開始前からこれほどまでに盛り上がるものなのだろうか。エマたちの試合を観客席から眺めていた時とは、くらべものにならないほどの大歓声に、いったい相手はどこの人気者なのだろうと、ルーツは顔を上げ、反対側を見る。すると、

―――――――――187―――――――――

「西方向! リカルド」

 実況席から聞こえてきた言葉に、ルーツは一瞬、耳を疑い、そして絶句した。

 選考会の参加者は全部合わせて十六人。二人一組だから八チーム。それならあいつと当たる確率はそう多くはなかったはずなのに……、どうしてこうなってしまうのだろうか。もちろん同名の別人であるはずもなく、聞き違いを起こしてしまったわけでもなく、村人たちの声援に軽く会釈を返しながら、正面の階段を悠々とした足取りでゆっくり降りてきているのは、あの高慢ちきなリカルドだった。

 それにしても、元より相手に抱いている負の感情がそう思わせてくるだけなのかもしれないが、二人の存在に気付くなり、口元をほころばせてくるリカルドを見ていると、どうにも馬鹿にされているようにしか考えられず、ルーツはなんだかカッとなる。だが、エマエルの次の言葉を耳にして、せっかく燃え始めたルーツの闘争心は、まるで空気の抜けた風船のように、すっかりへなへなと萎んでしまった。

「そして、ハバス! こちらもまだ十一歳のペア。同年同士の対決だあ!」

 ついさっきまで、あんなに大きく響いてきていた会場の騒めきが、どこか遠くへ消えていく。聞き慣れたその名前を前にして、それ以外の全ての音は意識の外へと追いやられ、ルーツはいまや、自分だけが、いきなり別世界に放り出されてしまったかのような、ひどい孤独感を感じていた。

 身体の熱も急速に冷めていき、頭のどこかが痺れているのか、とにかく思考が働かない。しかし、リカルドに続くようにして現れた、犬歯が目立つ、少し緊張した様子の男の子は、ルーツの一番の友だちであるハバス以外の何者でもなく。ルーツはその受け入れがたい現実を、黙って受け入れるよりほかになかったのだった。

 だけどまさか、よりにもよって、ハバスがあいつとペアを組んでいるなんて……。

 もちろんルーツに、ハバスの行動を制限する権利なんてどこにもないし、後ろ暗いような秘密の一つや二つくらい、誰でも心の奥に隠し持っているものだろうと、ルーツはちゃんと分かってもいた。しかし、頭では理解したつもりになってはいても、そう簡単には割り切ることが出来ないのが、感情というやつなのである。

 ルーツの心証はともかくとして、村の大人たちに好かれているリカルドと、子どもの間でも人気が高いハバス。そんな二人が余り物同士で仕方なくくっついたとは考えにくい。となると、信じたくはないのだが、ハバスは自ら進むようにしてリカルドとペアを組んだのだろう。それに、百歩譲ってもし仮に、二人が互いの親の都合で、無理やりペアを組まされていたのだと考えても、何年もの間、ともに一つの目標に向かって魔法の練習を重ねてきた両者の仲が深まっていないわけがない。

 それなのに、一緒に遊ぶようになってからまだ一年と経たない友だちの一人から、事あるごとに、旧知の仲であるリカルドへの不満や愚痴を聞かされて、いったいハバスはどう思っていたのだろう。もしかすると、ルーツの嫌味は、全てリカルドに筒抜けだったのではあるまいか。

―――――――――188―――――――――

 そんな事を考えていると、すべてが信用できなくなってきて――。こんなところで泣きたくないのに、なぜだかどんどん目頭が熱くなってきてしまうので、ルーツは顔を見られまいと下を向いた。しかし、

「……何、始まる前から弱気になってるのよ。たとえ相手が誰だろうと、することには変わりないでしょう? アンタは決して、みじめに負けるためではなく、この試合で勝つために、今までいっぱい練習を積んできたんだから」

 その言葉にハッとして、泣きそうな顔でユリを見ると、ユリはまっすぐ前だけを、物怖じもせずに見つめていた。

「この五日間、わずかな暇も惜しむようにして、必死の思いで頑張って来たっていうのに、その成果を披露しないまま、今ここでやめてしまうなんて、もったいないとは思わない?」

 心に直接訴えかけてくるようなユリの言葉に、ルーツが大きく頷くと、ユリは一瞬振り返って、無言で右手を差し伸べてくる。その手をギュッと握るようにすると、なんだか勇気が湧いてきて、ルーツの心のざわめきは、いつの間にか収まっていた。

 そうだ。全てはユリの言う通り。ここで弱気になっても仕方がない。どれだけ泣こうが喚こうが、定まってしまった事実はもう、覆すことは出来ないのだから。それならせめて、後に悔いを残さぬよう、今を全力で生きた方がずっといいというものだ。

 たとえリカルドたちの練習期間がルーツたちの何百倍もあったとして、強さもルーツたちの何千倍で、信頼関係も、ルーツたちよりずっと厚くて素晴らしいものを築いていたとしても、常に未来は可能性を秘めているのだから。わざわざ勝てる確率を相手にくれてやることもないだろう。そう思い、ルーツは階段を下り終わると、リカルドの方を、血気溢れる眼差しで、じっと見つめた。

 すると、予てからの予想通り、リカルドはやっぱりルーツを挑発するような、ねちっこい言い方で話しかけてくる。

「よう、ルーツ。まさか魔法もろくに使えないお前が、この大会に出場してくるとは思わなかったよ。おかげで賭けに負けちまったじゃないか。てっきり俺は、お前が今日一日中、部屋にこもって、不貞寝しているものだとばかり思っていたんだがなあ。……それにしても、村長は止めてくれなかったのかい? 可哀そうに。……まあでも、参加すると決めた以上、少しは楽しませてくれよ? ただでさえ、こっちはお前らが相手だと聞かされて、張り合いが無くて困ってるんだからさ」

 しかし、ユリの言葉に励まされ、いろいろ吹っ切れていたおかげなのかもしれないが、喧嘩腰に詰め寄られても、ちゃんとルーツの頭は冷静さを保てていた。

―――――――――189―――――――――

 軽く笑ってやり過ごすと、リカルドは大袈裟に肩をすくめ、自分の持ち場に戻っていく。そんな様子を見ていると、なんだか自信がついてきて、少女の方をチラッと見ると、ユリはこっそり、ひとりでくすくす笑っていたのだった。だがすぐに、ルーツに見られていることに気が付くと、ユリはひとつ咳払いをして、試合の最中でも互いの意図が伝えられるように、前もって二人で決めておいた合図の一つを送ってくる。

 しかしあれは……確か、『慢心するな』という意味だったろうか。

 不敵なまなざしを見せたまま、自分の胸を左の手で叩くような仕草を繰り返しているユリを見ていると、思えば不必要な合図ばかり、幾つも決めてしまったものだなあとルーツはなんだか奇妙な気分になってくる。

 確かに二人はこの数日間、勝つことだけを目標に掲げて、一緒に頑張って来たのだが……。とは言っても、対するはこの数年間、今日の一戦のためだけに来る日も頑張ってきた強敵である。だから、そう易々と勝利を献上してくれるくらい甘い相手だとは思えないし、勝てる見込みは毛ほども無かった。

 よって――、心してかかる。そんなことは百も承知。にもかかわらず、まるでこちらが有利だとでも言いたげに、厳しい顔で慢心を咎めてくるユリの仕草に、ルーツは思わず笑いそうになってしまう。

 しん、と会場が静まり返った。自分の唾を呑み込む音が、やけに辺りに大きく響いた。オーバットさんが手を挙げる。そして、その手が勢いよく振り下ろされて――、

「始め!」

 ルーツの試合が始まった。


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