第26話 とうとうツキが回ってきたようね

「湿り気の多い場所を好み、日中は泥の中に隠れ住む。泥の中では両目の代わりに、自慢のヒゲで周囲を探る。そして、獲物が頭上を通ると……」

 ダラダラとしたやる気のない声が、自分の口から漏れている。

「その二つの鋭い前脚で沼地に引きずり込まれ、死亡する事件はオールトだけでも年間数百件を数え……」

 言葉が頭に入ってこない。そして身体も何だか重い。

「現地の人々には別名……なんて呼ばれてるんだっけ?」

 熱気のこもった部屋の中、ルーツは小声で呟くと、ひとつ大きなため息をついた。そして、両手を前に投げ出すと、そのまま机にくたんと倒れ込む。

「なんでだろ。昨日やったとこなのに、全然分かんない……」

 口に出すと、現状がよりはっきり見えてくる。勢いよく線を引くと、紙が破れて、ルーツはさらに落ち込んだ。

「ねえ、ユリ。もう無理だよ。疲れたよ。休憩しようよ」

 昨日までなら、そんな泣き言を言おうものならすぐにユリの御怒りの言葉が飛んできていたはずだった。が、四日目ともなると、ユリもルーツを無視する術を身につけてしまったのか、何の返事も返ってこない。

 もしくは、下手に反応しない方が、ルーツは大人しく勉強を続けるとバレてしまったのかもしれないが、ともかく。

―――――――――161―――――――――

 重い雰囲気に耐えられなくなってきたルーツは、反対向きに座り直した。椅子の背もたれに両肘を預けるようにすると、部屋の反対側の床に座り込んでいるユリの方を、助けを求めるようにじっと見る。

「ねえ、さっきから何してるの?」

 なんでもいいから、自分以外の話す声が聞きたいと、そう思い、尋ねると、

「今、集中してるんだから、声かけないでよ。もう少しで出来そうなんだから!」

 ユリはイライラしたように、それでもようやく一言話してくれる。

 そういえば、半時間前に同じことを聞いたときも、『もう少しで出来る』という答えが返って来たなあ、と疲れた頭でそんな事を考えていると、ルーツは自分の集中力がそれだけしか続かなかったことに気がついて、なんだか少し情けなくなった。

 だが、勉強している最中にも、夜食のことや、遊ぶこと。それから睡眠のことばかりが頭に浮かぶ怠け者がいる一方で、世の中には一つのことにいつまでも集中していられる超人もいるらしく、ユリは少なくとも小一時間ほどは、自分の指先を同じ姿勢で睨みつけるように見たまま固まっている。

 孤独に机と向かい合っている時間を一秒でも減らしたい。そう思ったことも、紛れもない事実なのだが、単純にユリが何をやっているのか気になったこともあり、ルーツは欠伸をしながら立ち上がると、ユリの側に置いてある紙を拾って見た。

―――――――――162―――――――――

『1、両目を右の人差し指に向けて意識を集中しましょう。

(この際、周りの声が気にならなくなるまで続けるのがコツ。※右の人差し指が欠けている場合は、他の指でも可)


 2、鼓動が落ち着き、呼吸が深くゆっくりになってきたことを感じたら、次はあなた自身が、一番温かいと感じるものについてよく考えてみましょう。

(食べ物でもお風呂でも、人のぬくもりでも。思い浮かべる対象は何でも構わない。触り心地や細かな形など、正確に思い出すことが何より大事。身近にあり、すぐに手に取って確かめられるものを選ぶべし)


 3、考え始めてすぐは、何も感じられないかもしれませんが、根気よく続けていると、体の奥がじんわりと熱くなってくる。そんな瞬間がいずれ訪れます。来た、と感じたら、その気を逃さずに、一度生まれた熱を絶やさないようにしながら、温かいという感覚を、からだ全体に少しずつ押し広げていきましょう。

(魔法を使うにはイメージすることが最も大切。想像することが難しい場合は、血液や空気のように、熱も全身を循環していると考えてみると、成功率はぐんと上がる)


 4、熱が体の中にまんべんなく行き渡ったと思ったら、最後にもう一度人差し指に意識を向けましょう。一連の流れが上手くいってさえいれば、あなたの指に全身の熱は集中します。紙に指を押しあてて、少しでも変色していれば――、おめでとうございます。これであなたは、魔法の道の第一歩を踏み出しました』


 どうやらこれは魔法の手引書であるらしい。ルーツは適当に斜め読みをしたので、もしかしたら間違っているかもしれないが、多分、上手く行けばユリの指が熱を帯び始めるのだろう。だが、残念ながら未だに成功してはいないようで、全く変色しない紙の代わりに、ユリの白目が尋常ではないほど充血していた。

「おっかしいなあ。手順は間違ってないはずなんだけど」

 何やらぶつぶつ呟いているユリを横目に、再度、紙を見直すと、どうして先ほど見た時は気がつかなかったのか。但し書きのように書かれたカッコ内の文章は、全てユリの手書きである。どうりで、やけに説明が多いなあとは思っていたのだが。本来の説明は至極あっさりしている物で、その項目と項目との合間に、ユリの言葉がびっしりと書き込まれているのだった。

―――――――――163―――――――――

 しかし、こうまでしてもユリはまだ魔法の道の第一歩を踏み出せていないらしい。

「出来たかもしれない。ねえ、ちょっと、この指、触ってみて?」

 その言葉に、ルーツは恐る恐るユリの人差し指を触ってみたのだが、指の温かみは人肌の温度とそう変わりなかった。

「はあ、やっぱり出来てないよね……何でなんだろう?」

 ルーツの返事を聞くまでもなく、ユリは自分でも失敗している事が分かっていたようで、天井を見上げると、ため息をつく。

 甘く見ていた。そう言ってしまえばそれまでだし、実際、魔素が体内に流れていないと公言されているルーツ以外なら、基礎をある程度身に付けさえすれば、簡単な魔法ならすぐに使えるようになるのではないか。二人がそう思っていたのは事実なのだが。

「少しくらいは予想してたけど、まさかここまで難しいなんて……これからどうしよう」

 ユリのその嘆きの通り、現実は二人の予想なんかくらべものにならないほど、厳しく険しいもので。

 何だかんだ言っても、何とかなるのでは。そんな二人の甘い見通しは、早くも今から三日前。初日の昼に、既に打ち砕かれていたのだった。

 ルーツは結局、今現在。四日目の夜になっても未だに、初日の昼には終わらせているはずだった『魔獣の特性とその被害』という科目から抜け出せず、ユリも魔法の初歩の初歩すら身に付けられる気配がない。

 本来のスケジュール通りなら今頃二人は、封印術――食べ物の周囲に外気を遮断する結界を張ることで、普通なら日持ちの利かない食材を、何年も新鮮な状態のまま腐らせることなく貯蔵しておく――などという、日々の暮らしの便利さを解明するような魔法を学んでいるはずだったのだが、この分だとそれは夢のまた夢。

 本日の目標なんて、今では考えただけで嫌になるし、学んでいけばいずれそんな魔法が使えるようになるのだと、ワクワクしていた当初の気持ちも、とっくにどこかに失せてしまっている。

 それに、魔法と言えば、ルーツはてっきり何か特別な言葉を唱える物だとばかり思っていたのに、今回の試験範囲には口に出して唱えないと使えないような難しい魔法は出てこないと書いてあるし――いろいろルーツは面白くなかった。


―――――――――164―――――――――

 そんなこんなで時間だけが前へと進み、二人が漏らした溜息で、部屋の空気が淀み始めてきたころ。ここ四日間、食事の時以外はほとんど聞かなかった声が扉の外から聞こえてきた。

「ルーツ。忙しいところ悪いんじゃが。急ぎの要件じゃ。少しここを開けてもらってもいいかのう」

 口調といい、声のトーンといい。そもそもこの家にはルーツとユリとそれから村長しか住んでいないので、誰が扉の前に立っているかは丸わかりだったのだが。

 毎日夜遅くまで部屋の中であれこれやっているにもかかわらず。どんなことをしているのか、と今まで村長が一度も詮索してこなかったこともあり、二人は予想外の来訪者に少し戸惑った。

 だが、特段、何か人には言えないことをやっているわけではなかったので、床に散らばった紙きれたちを拾い集めると、二人はずっと部屋を綺麗に使っていたように装ってから扉を開ける。

 夕食は先ほど、ユリに急かされて、味も分からぬまま詰め込むように食べたばかりだし、一体なんの用だろう? そう思ってルーツが尋ねると、

「遅くなって本当に申し訳ないと思っているのじゃが、もう一通」

 村長は、そう言いながら一枚の文書を差し出してきた。

「まさか、今さら増えるって言うの――」

 これまでの後出しのパターンから考えるに、もしや、伝え忘れていた試験範囲でもあったのではないか。どうやら二人は全く同じことを思っていたらしく、ユリはルーツの絶望を代弁するように絶句するが、

「いいや、これは試験の詳細な選考方法や、実施場所。つまりは、以前の文書に比べ、より正確な文言が書かれた選考会の正式な通達文書じゃ」

 村長はそれはそれで、出来ればもっと早くに伝えて欲しかった情報が、此処には書かれていると言ってくる。だが、どうやらこの文書は本当に、今さっき村長の元に届いた物らしく、しかも試験日の一昨日の晩に通達することが正式なルールになっているらしいので、ルーツは誰にも文句を言えなかったし、そもそも疲労のせいで、文句を言う力も残っていなかった。

―――――――――165―――――――――

 しかしユリは、やっぱりルーツよりも色んな事に気が付くようで。

「じゃあどうして、『遅くなった』なんて言ったの?」

 その言葉に、村長は一瞬押し黙ったが、困った様子で額をさすると、やがて決意を固めたように口を開く。

「実は、他の子どもらは、この文書が送られるよりずっと前から、今回の試験の詳細な内容を全て知っておるんじゃ。……というのも、どこにも明文化はされておらんのじゃが、毎回、試験内容は全く同じ。十数年前に試験を受けた自分の親や、自分より上の兄弟たち。もしくは、村の誰かの口から内容をあらかじめ聞いておく……というのが暗黙の了解になっておる。役人たちもそれを知っているからこそ、通達文書をこんな間際にならねば送ってこないのじゃ。本来なら、ルーツ。お前にも、わしの口から直接言っておくべきだったのじゃが――」

「なるほど。じゃあやっぱり、試験は実技だけだったのね」

 村長の言葉はまだまだ途中だったはずなのだが、文書の中身を一度も見ていないにもかかわらず、ユリはまるで断言するように口を挟んだ。

 どうしてそんな事が分かるのだ。と、ルーツがそう尋ねると、ユリはこの四日間で初めて得意気な顔になって、それから自分の推理を披露する。

「だって、こう言っちゃ悪いけど、実技ならまるっきり、アンタには望みがないわけじゃない? 誰だって頑張っている人の前では、その努力をふいにするような事実なんて打ち明けづらいもの。それに、親が子どもに伝えることが出来る内容ってことは、お題は漠然としているってこと。考えても見て? もし選考会で筆記試験が課せられるなら、仮に同じ問題が出たところで、その詳細を五年も十年も覚えていられるわけないでしょう?」

 確かに言われて見ればその通りだ、とルーツはいたく納得し、感心する。これでもし、この推理が的外れだったとしたら、ユリは恥ずかしい人達の仲間入りをすることになるのだが、村長が頷いているところを見ると、どうやら残念ながら推理はあっているらしく、ユリはさらに得意気な顔になった。

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 まあ、それなら。村長が何も言ってくれなかったことも責められないし、そもそも試験がどんな内容にしろ、二人はまだ何一つ身に付けることが出来ていないのだから、そこまで損はしていない。むしろ、失敗続きでギスギスしていた場の空気が良くなった分、今言ってくれて結果的に良かったのではないか。そう思い、

「僕らに試験内容を教えなかったことを後悔してるなら、気にしなくていいよ。どうせ何もできてないんだから」

 と、ルーツは村長にこれ以上、余計な気を遣わせないように、精一杯のフォローをしたのだが、その諦めムードが漂う言葉は、ユリの不興を買ってしまったようで、ルーツの頭は威勢のいい音とともに叩かれる。

「そんなこと、呑気に言っていられる暇があるなら、魔法の特徴の一つでも覚えたらどうなの? 筆記は無くても、相手が使ってくる魔法の種類ぐらいは分かっていないと、今から困るでしょ?」

 そうは言っても、この四日間の頑張りのおかげで、僕は何かを覚えることが苦手だ、という事実が分かってしまったばっかりなので、ルーツとしては、あまりやる気が湧いてこない。

 ユリの言葉を適当に頷いて聞いていると、気が付けば、ユリはとっくにルーツの方を向いておらず、試験の要綱を食い入るような目で見つめていた。

「これって、本当なのよね?」

 なぜだか、期待が混じっているような、そんな明るい口調で言うユリに、村長はコクリと小さくうなずいている。

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 さては何か意外な事実でも書いてあるのかと考えて、僕にも要綱を見せて欲しい、とルーツはそう頼んだのだが、ユリはちょうどその時、何かいい案をひらめきでもしたのか、もうルーツに返事をするどころではない高ぶりようで、二人分の用紙を勢いよく裏返すと、そこに何かを書き込み始めていた。

 忘れないうちに、と焦っているせいか、机の上のインク壺が揺れて倒れ、中身のインクが四方八方の紙に飛び散っているのだが、ユリはまったく気にしていない。

 いつもは何を考えているのか分かりにくい村長が、呆気に取られているというお宝映像をルーツが十分堪能している間に、ユリは重要文書に走り書きをしおえたようで。どこかで見覚えのある満面の笑みを浮かべていた。

「ねえ、これ見て」

 それだけ言うと、ずいっと文書を手渡してくる。その笑顔の裏に、本心が潜んでいそうな、そんな気がして、ルーツは無性に不安になった。

 とりあえず、走り書きのことは一旦置いておくとして、ところどころにインクの染みが出来ている文書をざっと眺めると、そこには本当に試験要綱が書かれている。


 場所:エルト村南東の丘


 方法:ペアを組んでの決闘方式。


 なお、決闘は一度切りで、勝者の中から、委員が候補者を選定する。候補者は通例、一組のみ選出される。(人選方法に関し、疑問点がある場合は、レクラッドの事務所まで、選考会実施前に個別に相談するように。選考会実施後の提議及び再試験の要望は、理由の如何を問わず一切受け付けない)


 安全性を考慮し、殺傷能力があるとされる魔法の使用は認めない。(対象となる魔法は別紙、王国三種認可魔法要綱24―27ページを参照のこと)武器の携帯は、自衛目的に限り許可するが、殺傷能力が無い、先の尖っていない物に限定し、自発的に攻撃することは、これを禁ずる。素手による過度な攻撃行動及び防具を使った攻撃も上記の規定に準ずる。通例、規定への重大な違反が決着前に露見した場合、該当者の候補者資格は剥奪される。以上 


―――――――――168―――――――――

 場所と方法は本当に簡潔なもので、その下に、いかにもお堅い役人が好みそうな注意事項が小難しい言葉で延々と書かれている。紙の下部には、末端からその上司らしき人達の認可の署名がずらずらと並び、およそ三分の一のスペースを占有していた。

 村長の説明と、ユリの補足をいろいろ聞いてルーツはようやく理解したのだが、どうやらこの試験のねらいは、不意に魔獣などの敵対者に遭遇した際、備え付けのチームでどう戦うか、というところにあるらしい。

 本来ならばうってつけ、と言えなくも無いのだが、そもそも今回戦う相手は村の知り合いだし、ルーツやユリ以外のほとんどの子どもたちは、備え付けどころか、数年来一緒に練習してきたパートナーと組む気でいるのだろう。

 見れば見るほど、ねらいと実態がかけ離れていることがよく分かり、ルーツは文書を眺めながら、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。

 だが、ユリはこの文書のどこかを見て、何かしらの策を思いついたらしい。そして、先ほどまで疲労で虚ろだった目に力が戻っているところを見るに、その策にそこそこの自信を持っているのだろう。

 期待半分、そして不安半分で。ユリの様子をうかがいながらルーツが走り書きを確認すると、

「どうやら、不幸自慢が大好きなアンタにも、とうとうツキが回ってきたようね」

 意気揚々とユリはそんな事をつぶやいた。だが、そこに書かれていた策は最善とは言い難く、そしてお世辞にも良いとも言い難い、百回試して一度くらい上手く行けばそれでも運がいい方なんじゃないか、と思いたくなるほど突拍子もないことで、ルーツの顔は自然と険しいものになる。

―――――――――169―――――――――

 そもそも身体を動かすことがあまり得意ではないルーツにしてみれば、決闘なんて死刑宣告と同じようなもので、どの角度から見たら運が降って来ているのか分からないのだが、ユリの策の良さはそれよりさらに分からない。

 まるで自滅ともとれる策に、ルーツは思わず批判しようとしたのだが、気が付けばその体は、あっという間にユリによって羽交い絞めにされていた。

「あの、ユリさん。いったい僕はどこに連れていかれるんでしょう」

 あまりの怒涛の展開に、思わず敬語になってしまったルーツを、ユリはその小さな体のどこに隠れているのか全く分からない強い力で、部屋の外へと引きずっていく。

 最後まで冗談の類だと思っていたルーツは玄関の扉が迫ってくるとともに、ユリが大真面目だとようやく気づいたが、その時にはもう遅かった。

「すいません。いま、夜です。明日やろう。いや、朝早くでも良いから。今からは無理。寝たい。疲れた。せめて外じゃなくて家の中にして!」

「だから、一秒でも惜しいって言ったでしょ!」

 扉が勢いよく閉まるとともに、家の中は静まりかえる。夜遅くまで何かを掴みとろうと訓練に励む二人を見守っているかのように、家の明かりは一晩中、煌々と灯り続けたまま、ついに朝まで消えることは無かった。

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