第25話 間違いを起こさないのは聖人だけでしょ

 もう夜も更けているというのに、どこからか物音が聞こえてくる。どうしようもなくトイレに行きたくなって目を覚ましたルーツは、階下から一筋の光がこぼれているのを見つけた。

 おそらく村長が本でも読んでいるのだろう。そんなことを思いながらも、ルーツは恐れ半分、好奇心半分で仄かな光を辿っていく。しかし、ルーツの予想とは裏腹に、その光は村長の部屋ではなく、ユリの部屋に続いていた。

「入るなら早くして」

 忍び歩きをしていたはずなのに、どういうわけか、ルーツが部屋の外にいることはバレていたらしい。聞き耳を立てようとした瞬間、中から声がかかる。

 先ほど吐き捨てるようにして部屋を出て行ってしまった負い目もあり、ルーツは声に従うしかなかった。ビクビクしながら部屋に入る。

「あっ、その紙はそっちのごみ箱の中に入れといて、もういらないから」

 扉を開けた瞬間、そんな声とともに小さく丸まった紙くずが飛んでくる。ユリは、面食らっているルーツの様子も見ないまま、他の紙に何かを書き取っていた。よく見ると、床の上には紙の束が四つに分けて置かれており、それぞれに一、二、三、四と番号が割り振られている。

「さっきは、ごめ――」

「良かったわね。あと三十秒遅かったら見限ってたわよ。アンタ、ギリギリセーフ」

 言うべき言葉が見つからず、いつもの癖で咄嗟に謝ろうとしたルーツを、ユリは被せるように言って止めた。

―――――――――156―――――――――

「まあ、間違いを起こさないのは聖人だけでしょ。子どものアンタに、そんな大層なもん求めてないから」

 そんな感じで毒を吐きながら、ユリは、何をしているかもよく分からないルーツに、半分手伝えとばかりに紙の山をどっさり渡す。その、過去のいさかいに囚われないあっけらかんとした性格に、ルーツは少し憧れたが、

「言っとくけど、次に、私より先に諦めたら、庭の木で首ブランコさせるから」

 ユリの脅しは何だか微妙に現実めいていて、少し怖くもあった。

「よくわかんないけど、恐ろしいこと、考えつくんだね」

「だったら真面目にやることね」

 そう言われ、ルーツは手渡された紙をさらっと眺める。魔法とか、呪文とか。そういう類の言葉が随所に書かれていることから想像するに、どうやらこれは、食卓の上に置かれていた、膨大な紙束の一部のようだった。

「どうやって分けてるの、これ。というか、何してるの?」

 せっせかと小忙しくしているユリを見て、ルーツは純粋に疑問に思い、尋ねるが、その言葉に、ユリは一瞬ポカンとしたかと思うと、夜だというのに抑えもせずにくすくす笑いだす。

「見たのに分かんないの? 決まってるじゃない。資料よ、資料。学院なんたらのための参考資料。村長さんに聞いて、もらってきたの。あとは不用心にも、開けっ放しになってた書斎から、ちょちょっと失敬。いくら試験に出るって意気込んだところで、知識が身についてないと、結局どうにもならないでしょ」

―――――――――157―――――――――

 ユリの言葉にルーツもポカンとした。

「えっ、もしかして、ユリは選考会に出るつもりなの? 当日抜いたらあと五日しかないって、言われたばっかりなのに?」

「はあ? 何、他人事みたいに言ってんの? アンタも一緒に出るんでしょう?」

 そう言われても、ルーツは一度たりとも、出る、と口にしたことは無かったはずなのだが――。予想外の返答に固まっていると、ユリはそのまま続けて言う。

「それに、五日しかないから、こんな夜遅くに、寝る間も惜しんでやってるんでしょ! さあ、分かったら、アンタも手伝いなさい!」

 反論することも許さぬまま、ユリは頭が付いて行かないルーツに、さらに多くの紙を押し付けていった。

「その紙は、そこの番号の所に分けておいて! ん……なるべく均等になった方がいいかな。今んとこ、二が多いから、他の所にもうちょっと入れる感じで」

「えっ、でも、どうやって選えば……」

 眺めていると頭が痛くなってくるような、文字がびっしり書かれた紙を前にして、ルーツは途方に暮れ、立ちすくむが、ユリはいい加減な口調で声を掛けてくる。

「そんなもん、テキトーよ適当。最初から難しいのに手を付けても心が折れちゃうかもしれないから、パッと見て簡単そうなのか、それか、興味を惹かれるのでも見つかったら一に入れといて。……あ、一ってのは初日のことね。余った五日目は復習」

 その言葉に、段々とルーツにも、ユリがやろうとしていることの全体像が見えてきた。記念に出てみるだけなのかと思っていたら――、ユリは本気で、たった五日足らずの間に、この膨大な量の試験範囲の全てをこなしきるつもりでいるのだ。

―――――――――158―――――――――

「ちょ、ちょっと本当にやるの? これ、全部!」

「あー、めんどくさそうなのはごみ箱行きで良いから。まあ、量も量だし、少しくらいは山張んないと終わらないでしょ」

 それなら良かった、とルーツは一瞬安心したが、近くにあったくず入れの中を覗いてみると、もう三分の一くらいは仕分け終わっているにも関わらず、その中には未だに二つ、三つほどしか紙くずがない。

 やっぱりユリは、口ではそう言いながら全範囲をきちんと終わらせるつもりなのだと、この先数日間の自分の境遇を想像してげっそりしながらも、ルーツは試しに、ユリが置いた一日目にやる予定リストの紙のうち、いくつかを手に取ってみた。


『カサハラヘビの甘美な欠伸 アンサンブ=オリンパ著』

『聖カライのうるさい遺灰と、遺骸の違い バレンジ=レックス著』

『奇術師パーシーの悲しーはなし アンサンブ=オリンパ著』


 どうやら、これはどこかの本から、重要な――もしくは、この試験に必要な範囲だけを写し取った物らしい。ルーツは、そのうち、バレンジなんちゃらさんが書いた物を手に取って読んでみようとしたのだが、三行も読まないうちに、分からない単語が十個も出てきてダウンした。

「ナニコレ。これってもしかして、暗号とかで書かれてたりするの? おかしいな。一つも意味が分からないんだけど……」

 仕方がないので、飛ばしながら読んでみたのだが、それでも大筋の意味すらつかめない。もしやこれは暗号の問題で、解読書と二枚セットでようやく意味を成すのではないかと、疑いたくなってくるくらいだった。

―――――――――159―――――――――

「何? 何が読めないの? ふざけてる暇があったらとっとと仕分けてよ。もしかしたら実技以外に、筆記もあるかもしれないんだから。書くだけなら、魔法の使える使えないに関わらず、やった分だけ誰にでもチャンスがあるでしょ? だから、少しでも時間が惜しいの」

 まるでユリは、筆記ならルーツでも太刀打ちできるとばかりに言うのだが、果たして本当にそうなのだろうか。少なくともルーツは、たとえ準備期間が年単位であったとしても、此処に書かれている内容を理解しきれるとは思えなかった。おそらく、数年前に試験の告知が為されていたとしたら、ルーツは今頃諦めムード全開で、選考会なんぞ知ったこっちゃないと、既に不参加を決め込んでいた事だろう。

 だが、ルーツが見ている物と同じくらい難しそうな題材の紙に目を通しているはずなのに、ユリはむしろ楽天的で、

「確かに、私もまだあんまり理解できてないんだけど。こんな難しいの、何年かけようが、完璧に覚えることなんてできないでしょ」

 何年もの間、必死で勉強してきた人が耳にしたら、怒りのあまり卒倒してしまいそうな文句を口に出していた。


 仕方なく、と始めた作業は、二人が同時に眠気に襲われるまで続いた。

 今から思えば、代わりばんこに睡眠をとるか、明日早起きした方が、効率が良かった気がするのだが。片方が机に頭を打ち付けたらもう片方が叩いて起こすという、原始的で相方頼りのことを続けた結果、結局最後は二人同時に意識がなくなったようで。ようやくルーツが目覚めたころには、辺りはすっかり明るくなっていた。

 まだ、どことなく頭がぼんやりしていて、思考が何だかおぼつかない。これはこのままもうひと眠りした方がいいかもなあ、とルーツがそんなことを考えながら窓際でうつらうつらしていると、その直後。机に突っ伏すようにしていたユリも眠い目をしながらむくっと起きてきて、ひとつ大きな伸びをした。

 その側には、ものの見事に綺麗に分かれた四つの紙の山があり、ユリはその山をしきりに目をパチクリさせながら眺めている。

 これはルーツの記憶違いかもしれないのだが、この部屋にあらかじめあった紙の総枚数も、心なしか減っているようだった。

―――――――――160―――――――――

「あれえ、アンタ、私が寝てる間にやってくれたの?」

 てっきり、ルーツもユリが一人でやってくれたものだとばかり思っていたのだが。一音節の間に何度も何度も欠伸をし、喋ることすらままなっていない様子のユリに、ルーツはふるふると首を振る。

「ユリがやったんじゃないの?」

 寝起きのせいか、ルーツのセリフも、どことなく間が抜けていた。ユリは、自分が選んだ難しそうな題材が書かれた用紙が、知らない間にごみ箱に入れられていたことに酷くご立腹の様子だったが、今日やる予定の紙を一枚一枚眺めた後、

「妖精さんがやってくれたのかしら?」

 何とも似合わないメルヘンチックなことを言って、それを聞いて腹を抱えて笑っているルーツの頭を数度殴ると、ぷんすかしながら部屋を出て行った。


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