第17話 目の前に死が立っていた

 足裏あしうら奇妙きみょう感触かんしょくがあった。今にもぐにゃりとつぶれてしまいそうな、少しやわらかくて不安定ふあんていな感触。今日きょう一日歩いてきたかたい地面とはまたちがう。

 けもの死骸しがいか、腐葉土ふようどか。何かをみつけてしまったようだ。

 そっと片足かたあしを持ち上げ、下を向く。

 そこにあったのは人の だった。

 『見慣みなれたハバスの顔』

 その時のルーツの感情かんじょうを、どう表現ひょうげんすればよかったかはわからない。よく恐怖きょうふで顔がゆがむと言うが、それは比喩ひゆ表現ひょうげんであり、実際じっさいは歪んでいるわけではない。だがルーツは、自分が本当に恐怖でけてなくなってしまいそうな気がしていた。ひらたい地面に立っているはずなのに、なぜか足がすべり、したたかにこしを打ちつける。

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 こしをさすったルーツが目にしたのは、ハバスと同じようにたおれている、エマ、カレン、そして双子ふたご姿すがただった。カルロスさんだけは少し、はなれたところでうつせになっている。カルロスさんの体だけが前方にあることから考えるに、ていして他の五人をまもろうとしたのだろう。

 カルロスさんは前のめりに、そして他の五人は強い風にいきおいよくばされたかのように仰向あおむけで、手足をげ出すように横たわっていた。ハバスの顔はどろだらけで、ところどころにじんでいる。

 リカルドは、足元にだれかが倒れていることに前もって気がついていたのだろうか。つぎ表情ひょうじょうを見るに、おそらく気づいていなかったのだろう。不安ふあんかなしみにちていたリカルドの顔は、みるみるうちに憤怒ふんぬ形相ぎょうそうわった。言葉にならない声をあげると、何もいない前方に向かって、闇雲やみくもに走り出す。

 その時、パンと手をたたくような音が、それでいて空気を切りくような大きな音が、 にこだました。

 体をしんからさぶられているような大きな衝撃しょうげき唐突とうとつ破裂音はれつおん鼓膜こまくふるわし、ルーツの視界しかいゆがめ、かすませた。ぼやけた世界せかいがふっと遠のいた。もうすでに地面にしりもちをついているのに、ふたたころんでしまいそうな気がする。視野しや境目さかいめでリカルドがひざからくずれ落ちていく姿すがたが目に入る。

 と同時にルーツの頭の中にかんだのは、牛のような大きな生き物が仁王立におうだちしている姿すがただった。


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 以前いぜん聞いたことがある。魔獣まじゅうけものには何のがあるのか。村長そんちょうに、『魔物図鑑まものずかん』という分厚ぶあつい本を買ってもらったときだった。そういえば、後からその本が、王都おうとのお高い料理屋で一回食事できるくらい高いと知っておどろいたっけ。

 図鑑ずかんで見ただけでは、魔獣と獣のちがいは分からなかった。獣が大きくなっただけ。図鑑で見た魔獣の姿すがたはその言葉ことばがふさわしいものだった。絵をながめたところで重圧じゅうあつ威厳いげん欠片かけらつたわってこない。そう思い、ルーツは村長に魔獣と獣の違いを聞いたの 

 村長は言った。見れば分かる。だが、見ればぬと。図鑑にっている魔獣は、あくまでもち取られてはこばれてきた死体を写生しゃせいしたもの。当然とうぜん、生きているあいだ迫力はくりょくなど伝わるはずもない。どんなに力自慢ちからじまん若者わかものだって、デスマスクは強そうに見えないだろう 

 ルーツは村長の言葉ことばを軽くながしていた。

  れば分かる。どうせ一生見ることなんてないのに、そんなことを言われても答えになっていない。もったいぶって言っているだけ。たしかに魔獣は獣よりおそろしい存在そんざいなのかもしれないが、村の人も少しおそれすぎだろう。自分より強い大人たちが、その名を聞いただけでみっともなくおびえる姿すがたを、心のどこかでわらっていたのかもしれな 

 だが、村長が言ったことに少しも間違まちがいはなかった。見れば分かる。その通りだ。

 小さい獣にさえ勝つことが出来ないことに気づき、ルーツは自分の中で何段階なんだんかいも、魔獣への警戒心けいかいしんを引き上げたはずだった。しかし、この生き物は何だ。というより、これは本当 に生き物なのだろうか?

―――――――――108 ―――――――――

 ルーツのおそれをはるかに超越ちょうえつした存在そんざい、目の前にが立っていた。そう形容けいようするほかない。他のどんな言葉ことばでもこのもののことは言いあらわせない。ルーツの全身ぜんしん感覚かんかくが感じ取っている。細胞さいぼううったえている。

 ――勝てない、げろ! いや、逃げれない。足が動かない。どうすればいい。あやまる? 何を? どうやって? 何に? 目の前の怪物かいぶつに?

 ルーツののう四方八方しほうはっぽう命令めいれいを出すが、け取るがわであるはずの体が、その命令を出来ないと拒絶きょぜつしている。つぶりたいのに目をつぶることも出来ず、じたいのに口を閉じることも出来ない。体の機能きのうはたらくことを放棄ほうきしていた。

 怪物かいぶついよせられて、顔は少しもらせず、意識いしきはとっくにんでもいいはずなのに、一向いっこうにルーツが無意識むいしき世界せかいに逃げることをゆるさない。それどころか、一度はにごり、ドロドロになっていた意識は、どんどん鮮明せんめいになっていくようだった。

 ゆっくりと怪物の手が近づいてくる。みついてしまったかのようなな色だった。その赤いひらかんだ青筋あおすじの一本一本がよく見える。ルーツの顔以上いじょうの大きさはあるが、基本的きほんてきな形はルーツの物とあまり変わらない。ごつごつとした手は、サイズはちがえど、双子ふたごの物とよくている。せいと死の境目さかいめにいるというのに、冷静れいせいさをうしなったルーツののうはそんなことを考えていた。

 本当 にゆっくりと近づいてきているのかは分からない。これはルーツの体が見せる走馬燈そうまとうなのかもしれない。もしかすると、もうとっくにぼくは死んでいるのかも。

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 怪物かいぶつの手がほおれる。瞬間しゅんかん、ルーツをしばっていた何かがかれた。主人の命令めいれいけなかったルーツの体が、ふたたかたい地面の感触かんしょくを思い出す。恐怖きょうふわすれていたいたみが、突然とつぜん帰ってくる。たったいま、こしを打ちつけたかのような衝撃しょうげきだっ 

 しくもその衝撃が、にぶっていたルーツの他の感覚器官かんかくきかんもどした。全身ぜんしん平手ひらてぱたかれたようにあつくて痛い。しかし痛みは、ルーツがまだ生きているというあかしでもあった。なぜだか分からないが、ぼくはまだ生きている。

 ……が、おそらくは、がほんの少しだけ先送さきおくりされたにぎない。この一瞬が、奇跡きせきだったにしろ、僕は何もできない。

 ルーツはすべてをあきらめ、目をつむろうとした。


 ――あなた 

 幻聴げんちょうを聞いているのだろう。そう思っていた。

 ―― の声が聞こえますか、そこのあなた。

 じゃなきゃこわれた耳が、自分の都合つごうのいい音を作り出しているだけ。そう思った。

 ――聞こえているのでしょう、こちらをいてください。

 何か強い力で引っられ、首が意思いし逆行ぎゃっこうして限界げんかいまで上をく。魔獣まじゅうの口元がかすかに動いてい 

 ――はじめまして、ルーツ。

 魔獣 がルーツを見ている。その時、少年は魔獣を知った。

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