叶わない恋の忘れ方

るた

叶わない恋の忘れ方

崇高な音色が、広々とした会場を駆け巡る。観客席には沢山の人でひと席も空いておらず、二階席は家族連れでいっぱいになっている。音色の語り部は大勢の視線をものともせず、ただ音色を奏で続けているのは美しい少女。赤のカクテルドレスを纏い、大人びた雰囲気を醸し出す。大勢の観客が少女に視線を送り、音色に身を委ねる中、少女の瞳には楽譜ではない、とある「想い」が映っていた。


―――――


「ショパン、恋の二重唱。どうだった!?」


コンサートが終わり、自身の屋敷に戻った少女と、少女の幼なじみである青年。少女はピアノの丸椅子から降り、白衣の青年に感想を求めた。白衣の青年はかけていた眼鏡を弄りながら、「そうだなぁ…」と言いにくそうに口を開いた。


「どうして唐突にショパンを練習しだしたんだい?憧れのベートーベンの曲しか弾かないんじゃなかったのかい」


「いいじゃない。私が何を練習しようと」


少女は頬を膨らまし、続けて少女は青年に相談を持ち掛ける。


「ねえ、あのさ」


「どうした」


「記憶をなくす薬、ってある?」


「…急にどうしたんだい」


 脈拍もない相談に青年はきょとんとする。しかし、少女の顔はやけに真剣であった。


「それがね、どうしても忘れたい記憶(こと)があるの。それを忘れたくてね…できれば、この嫌なこと一つだけ忘れられることができたらありがたいのだけど」


「…そんな都合のいいものがあるわけないじゃないか」


「それでも本当に医者なの!?すこし記憶がぽーんって飛ぶ薬くらいあるでしょ!?」


「そんなこと言われても…ないもんはないしなぁ…ところで、嫌なことって何だい?」


 そんなに忘れたい記憶とは、いったいどんなものなのだろう。しかし、少女は青年の質問を無視し、こう言った。


「さっき弾いた曲はねぇ、ある人のために練習してるのよ」


少女の顔は今までの真剣な表情から一転し、明るく年相応の乙女の表情になった。その変わりようを見た青年はここで少女の『忘れたい記憶』がどういったものなのか察しがついた。この少女は、誰かに恋をしている。その誰かを忘れたいと思っているのだろう。そう青年は解釈した。


青年が帰る時、少女は「楽しみにしておいてね」とだけ言った。青年はその時何のことなのか分からず、「ああ」という返事だけを残して少女の元を去った。


―――――


青年は夜の街を歩いていた。街の至る所からは歌が聞こえてくる。そうだ。もうそろそろフェスティバルの時期か。青年達が暮らす街では、毎年この時期にフェスティバルが開かれる。歌も、踊りも、楽器も。朝から夜まで音を鳴らし続けるのだ。そしてなんと言っても、今年の目玉は少女のピアノ。フェスティバルのフィナーレとして街の中心に真っ白なグランドピアノを置いて、少女がピアノを演奏する。その演奏に合わせて周りの観客全員で夜の街に歌声を響かせるのだ。街中の誰もが少女の演奏を楽しみにしていて、青年もまた、少女の演奏を楽しみにしているのだ。


そして青年は、演奏が終わった最後に、少女にあるプレゼントをしようと考えていた。家に辿り着き、寝室に入って即座にベッドに寝転んだ。枕元には可愛らしい袋に包まれたプレゼント。中身はルビーの指輪。赤のカクテルドレスをよく着る彼女に良く似合うと、宝石店の男に勧められたのと、何よりこの指輪を見て真っ先に少女を思い浮かんだことから、この指輪にしようと決めた。


しかし少女に好きな人が出来たらしい。そんな娘に、指輪など渡しても良いのだろうか…。青年に不安がよぎる。


少女と青年は、いくつか歳が離れているが、小さな時から仲が良く、青年としてはおかしいことなのかもしれないが、その小さい時からずっと少女のことを守りたいと考えていた…。少女から好意を寄せられていることも薄々気付いていた。それから来る慢心がいけなかったのだろう。これだけ傍に居ておきながら、どうしてその男の存在に気付けなかったのだろう。


こんこん、と音が聞こえた。こんな夜に誰なのか。扉を開くと黒いベールを纏った女が小さな実験瓶を持って立っていた。女は妖艶な声で青年に問いかけた。


「恋敵、憎いでしょう」


いきなりなんなんだ。そう言おうとした時、女は青年の目を見た。女の目は酷く透き通った赤い目をしていた。青年は、その場から動けなくなった。女はまた、問いかけた。


「恋敵、憎いでしょう」


「…ああ…」


青年は返す言葉もなかった。実際、憎くて憎くて仕方が無いのだ。あの少女を片時も離れず守っていたのは、他でもない自分自身なのに。


「これを相手に飲ませなさい」


女は青年の足元に金色の瓶を置いた。女はひとつだけ青年に忠告した。


「貴方は、この恋が叶わないと思う?」


「…ああ…叶わせてやるものか…」


「…そう」


女はくすくすと笑い出すと、くるりと後ろを向き、夜の街に消えていってしまった。その場に残るのは、青年と怪しい小瓶だった。


―――――


翌日、青年は少女に飲み物を差し出した。その飲み物の中には、昨日女が置いていった瓶の中身が混ぜてある。金色の液体は何故か跡形もなく飲み物に溶けていった。少女はそれを飲み干した。


次の日。少女が倒れたと街中で騒ぎになった。フェスティバルまであと3日。白いグランドピアノが少女を待っているのだ。人々も気が気ではなかった。


青年は少女の手当をしていた。青年は青年の父から「なにか変なものを食べてはいないか」と聞かれ、青年は飲み物の事は黙っておくことにした。「いいえ、そんなことは無いはずです」と返すと、「…魔女の呪いか?」と呟いた。街でも有名な腕っ節の父がそんな不可思議な話をするなんて。自分のやった事が、本当はばれているのではないかと不安になった。


しばらくして、少女は目が覚ました。少女は青年を見た瞬間、「はじめまして、ありがとうございます」と言った。


―――――


父の言っていた「魔女」とは、この街で有名な御伽噺のことである。幸せな人間を唆し、不幸に追いやる。そんな魔女は赤い目で人を脅す…。つまり、青年の家に来たあの女こそ、魔女なのかもしれないという事だ。


夜、青年は外へ赴き、魔女の事を見た人間が居ないか探した。しかし、『黒いベールを纏った女』など見ていない、と誰もが首を振った。青年は酷く憔悴し、自身の家へ戻った。次の日も、少女の元へは行かなかった。


―――――


少女は目を覚ましてから、ピアノを弾き続けていた。明日はフェスティバル当日。何かを忘れているような気がした。『恋の二重唱』は彼女の心の奥の「なにか」に深く入り込もうとする。そう言えばどうしてこの曲を弾いているのだろう、ベートーベンの曲しか弾かない私が…どうして…。


私は、誰かの為にこの曲を弾いている。


少女は手を止めた。あの青年の酷く青ざめた顔が思い出される。私が愛していた人の、悲しい表情(かお)が…。


少女は立ち上がり、街へ走り出した。向かうのは、愛しの幼馴染の家。


―――――


少女がノックをすると、返事は返ってこなかった。すんなりと扉は開き、少女は足を踏み入れる。少女は寝室に気配を感じ、寝室の扉を開いた。そこには、意識が朦朧としている青年と、大量の錠剤、薬品があちらこちらにばら撒かれていた。


「ちょっと…!!どうしたの!?」


少女が青年に近づこうとすると、枕元にある赤い袋に目がいった。「…あれは?」と問いかけるも、青年は項垂れたまま口を開かない。少女は枕元の袋を手に取り、開いた。中には指輪と、メッセージ。手書きで『愛しているよ』という言葉に続いて、誰かの名前が書かれていた。名前が書かれているはずの場所はぐしゃぐしゃで読めない。赤い指輪は、少女には酷く眩しく見えた。


「…ああ…貴方、好きな人がいるのね…」


少女は青年に近づいた。青年は少女を振り払わなかった。少女は青年を優しく抱きしめた。


壊れてしまった青年、大事な人を片時でも忘れてしまった少女。その二人に見つからぬよう、影で見つめる赤い目の女。


「…私、貴方の事が好きだったの。でも、貴方は私の事、幼馴染としか見てくれなくて…。今でもね、貴方の恋が叶わなくてよかったと思ってる。貴方は…変わってしまったけど…」


ふと少女が足元を見ると、赤く煌めいたナイフが落ちていた。美しいそれを、思わず少女は手に取った。


「…私も貴方のことを、少しだけとはいえ忘れてしまっていたの…。魔女の呪いみたいね…」


少女は泣きながら青年に笑いかけた。青年は少女の目も見ず、狂ったかのように笑い出した。少女もまた、それにつられて狂ったかのようにナイフを青年の『心』に突き刺した。


「これで、幸せになれるかしら」


影で見ていた女はくるりと後ろを向き、少女と青年が生きた夜の街へ消えていった。


白いグランドピアノは、赤色に染まっていたという。少女と青年は、最期まで互いの気持ちに知らぬままであった。


―――――


青年に渡したのは一時的に一部の記憶を忘れられる薬。青年は自分の事を永久に忘れられてしまったと思い込んでいたようだ。しかしそのお陰で、少女の想い人が自分であることを知ったと同時に、自身がしたことの罪の重さを知ったようだ。一方少女は、青年に醜い嫉妬心を抱き、自分のものにするためにナイフで青年を刺した。あのプレゼントが自分宛のものであるとも知らずに。あのメッセージの文字が読めなかったのは、薬の副作用か、想い人への感情だけでなく、相手からの想いを受け取れなくなっていた。


ひとつの薬は、二人に不幸をもたらした。赤い目の女はにやにやと笑い続けるばかり。悪いのは、薬でも女でもなんでもない。


「貴方達が悪いのよ」


すれ違いが解けるのは、当人同士だけなのだから。女は赤いグランドピアノの前に腰掛ける。そして、少女が弾くはずだった『恋の二重唱』を弾いた。彼女の奏でる音は街の人に届くことは無い。彼女はただ、自身の愛した人と、あの二人の『鎮魂歌』として、ピアノを鳴らし続けた…。



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