四章 金星と闇の大祭 3—1

3



無音の世界に誰かが近づいてくる。


そこは白一色の世界。

ほかには何もない。

死に落ちる瞬間の虚無。


近づいてきたのは、砂雁だ。

白無垢の着物姿の砂雁が、すべるようにやってくる。魚波のかたわらに立った。


「約束したろう。大人になったら、もどってくると。それまで、わが預かっちょうと」



——ナミちゃん。わは死んだ人間だ。御子さまの力で、今まで生かされちょった。こうでもう、しまいだ。最期にナミちゃんに会えて、うれしかったよ。



砂雁の腕が、魚波を抱きしめる。

くちづけられると、説明のつかない圧倒的な力が魚波の内に流れこんできた。たえがたい快楽とともに。


砂雁の全身が金色にかがやく。


その光は魚波の体をも包みこむ。


砂雁から、口移しで何かが渡されるのを、魚波は感じた。しびれるような甘い感覚に酔いながら、魚波は、それを受けた。蜜のように濃密な何かが、トロトロと下腹に凝っていく。


(御子……)


そうだ。おぼえてる。この感覚。

自分は初めてではない。以前にも体験した。少なくとも二回は。

吾郷に草むらに押したおされたとき。

そのあと、泣いている魚波のもとへ、砂雁がやってきたとき。


「ナミちゃんは、まだ子どもだけん。つらいかいね。わが預かっちょうけん。大人になったら、とりに来うだよ。約束だ。そうまで、御子さまは、わが守っちょう」


思いだした。あれが二十年前。

砂雁は魚波との約束を守って、待っていたのだ。

死と生の、はざまの深い眠りのなかで。



——ナミちゃん。つらいことがあっても、くじけるだないよ。ナミちゃんは一人だないけんね。



魚波が目をあけると、傷はもう治っていた。


まわりに、威や吾郷がいる。銀次と、銀次に押さえられた八十助も。


魚波のとなりには、砂雁がよこたわっていた。

もう、息はない。

満足げに笑っている。


「砂雁……」


そっと手をにぎる。まだ、あたたかい。


なんで忘れてしまったんだろう?

あんな大切なことを。


「あのとき……二十年前。わは吾郷さんから、御子を渡された」


かえって、吾郷はビックリしてる。


「えッ? ナミちゃん。わかってなかったんか?」


魚波は恥ずかしさで、吾郷と目をあわせられない。たもとで顔をかくす。


「わは、てっきり……吾郷さんに、イタズラさいたと……」


ぽかんと、吾郷は口をあけた。


「なんで——いや、まあ、わかるけど。あれは、そんな気になるけどな。君のときはガマンしたよ。サトのときはガマンできひんかった」


そう。発作みたいなものだ。父の言っていたとおり。

御子を受け渡しするときの特別な一体感。

男女のあいだなら、そのまま肉体の交歓に流れてしまうことは、じゅうぶん、ありうる。


「そげか。つまり、吾郷さんは元御子だった。サトさんから、もらって」


それなら、説明がつく。


吾郷は元御子だったから、銃で撃たれても生き返った。死体が消えたのは、蘇生(そせい)して、自分の足で逃げだしたから。道夫の見た幽霊は、もちろん本人だ。


「そうや。サトは魚吉さんから、もらったんやと」


父が言っていた。魚波が子どものころ、御子は魚波に宿りたがっていたと。


だが、魚波が子どもだから、御子を宿すのは負担になると、父は考えた。道徳的な、ためらいもあったのかもしれない。


父は一度、失敗している。熊谷花から御子をもらうとき。御子の渡しの陶酔にくらんで、つながれてはいけない人と通じてしまった。同じことが自分の息子のときに起こることを恐れた。


それで、村じゅうをかけまわって、探したに違いない。御子を宿してくれる人を。


御子が、この人ならいいと思ってくれる相手。


それが、サトだった。


「……太郎は、サトさんの生んだ子どもだったか」


父は二度めも失敗したのか。その結果が太郎だったのか。


そう思い、魚波は落胆した。ますます父をけいべつした。しかし、


「太郎は、おれとサトの子や」


吾郷が言ってくれたので、ほっとする。


ならば、父も二度めは耐えたのだ。


これ以上、父をけいべつせずにすんだ。


吾郷は続ける。


「せやし、おれはサトと太郎をつれて、かけおちするつもりやった。親子三人で暮らせるように。キヌちゃんが……早乙女が協力してくれてな。ところが、あの夜、行ってみると……」


吾郷が、くちごもる。


かわりに、威が口をひらいた。


「行ってみると、全員、死んでいた。いや、死にきれずに、もがき苦しんでる最中だった。あの家のなかの惨状は、殺害時に逃げまどったせいもあるだろう。が、それにくわえて、苦しんだ一家が、ころげまわったせいなんだ」


吾郷は目をふせる。


「たのむから殺してくれと、泣きつかれた。ふつうの人間なら、とっくに死んどるような大ケガやった。全身、血まみれで。はみだした、はらわた、かきむしって苦しむさまを、見てられへんかった。天井裏に親父さんが日本刀かくしとるんは知っとったさかい。それで、首を——」


魚波は問いただした。


「じゃあ、なんで、自分が、みんなを殺したなんて言ったかね」


今度も、また、答えたのは威だ。


威はふところから、見おぼえのある帳面をとりだした。


「ここに吾郷さんの覚書がある。吾郷さんは一家を殺したのは、キヌさんじゃないかと考えたんだ。姉のサトと、その息子の太郎を殺し、とがめた両親も——そんなふうに。なあ? 吾郷さん」


吾郷は、ため息をつく。


「キヌちゃんが、おれに好意を持ってくれとるんは知っとった。

せやし、サトの身代わりになって神社の巫子になってくれると言うたとき、申しわけない気がした。この子は、おれのために、自分をぎせいにしてくれたんやなと。

それが、サトを迎えに行ってみれば、あんなんなっとるやないか。本心は、こうやったんか。おれとサトに復讐したんやな——と。

それでも、おれが、そこまでキヌちゃん、追いつめたと思うて、全部の罪、引き受けるつもりやった。

ただ、時間が経つほど、疑がわしくなって。

ほんまに、あの優しかったキヌちゃんが、家族全員、殺すやろかと。

もしかして、思いちがいかもしれへんと、帰ってきたんや。本人から、あのときの話、聞いてみとうなって」


それで、魚波に手紙をとどけさせたのか。


「キヌさんとは会ったかね?」


吾郷は首をふった。


「呼びだした場所に来てくれへんから、八頭さんちへ行きかけたんや。そしたら、もう、あの調子や。苦しんどったから、また首、はねた。最期に、おれとわかったんやろな。はねるとき、笑うたよ。それ見て、かわいそうんなってな。二十年前の復讐に、誰かが殺したんやと思うた。せやから、かたき、とってやりとうて。犯人、探しとった」


そうだったのか。

一家惨殺の殺人鬼どころか、人一倍、義理がたい男だったのだ。

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