四章 金星と闇の大祭 2—3
「雪ちゃん。やっぱり、ほんのことは、おぞかった(怖かった)だね。わといっしょに逃げえか。あとのことは、龍臣さんやつが、なんとでもしてごさいわね(なんとかしてくれるよ)。巫子はほかにも、おうだもん(いるんだから)」
雪絵を案じて来たのか。
でも、それならば、なぜ、猟銃など持っているのだろう?
(銀次は自分が雪絵といっしょになれんのは、巫子だないけんだと思って……)
銀次にも、御子をほしがる理由がある。
もしや、雪絵(ほんとは魚波)のところへ向かう途中の今御子を、ここで待ちぶせていたのだろうか。
そこへ通りかかった竹子を今御子と思い、撃った。だが、それは御子であるはずのない竹子だった……。
そんな考えが脳裏に浮かぶ。
「銀さん……なんで、銃なんか持っちょうか?」
あからさまに銀次は、うろたえた。
「これは……その……というか、その声。あんた、ナミさんか?」
「雪絵は、もう村には、おらん」
ははは……と、銀次は、かわいた声で笑う。
「なんだ。そげか。やっぱり、威さんが、つれていったかね」
そして、嘆息した。
「まあ、そげだわね。威さんの性格なら、『あんた、ジャマだけん。巫子が決まあまで、よそ行っちょってごせ』言われて、おとなしく『はいはい』言う人だないわ。そうで、ナミさんが代わりに……」
ふいに、銀次は魚波の腕をつかんできた。
「そうとも、おぞなって逃げてきたかね?」
これまで見たこともないほど、銀次の表情は、けわしい。
「……なんで、そぎゃんこと聞くかね? 雪絵だないなら、関係ないだろう。銀さんは、もう帰ればいい」
「そういうわけにはいかん。ナミさん。もう、もらったかね? そうで逃げだそうとしちょうか?」
魚波の腕をつかむ力が、しだいに強くなってくる。
魚波は銀次の手をふりきった。
「さっき、竹ちゃんの死体を見た。竹ちゃんは、ひたいを銃で撃たれちょった。おまえの仕業だないか?」
銀次の顔が、こわばる。
「竹ちゃんが? ほんとかね?」
「ほんとも何も、おまあだないか? その銃」
「ちがう。わだない(私じゃない)!」
銀次でなければ、誰だというのだ。
こんな夜中に銃を手に出歩く人なんて、犯人以外いるわけない。
もはや銀次の言葉も聞かず、魚波は走りだす。
(犯人は銀次だったか? 威さんだなかったか?)
わけが、わからない。
もう誰も信用できない。
しばらく走ると、川沿いの道に出た。
おろおろしながら、男が、あたりを見まわしている。威か? いや、ちがう。もっと、ずっと年寄りだ。
男は銀次の祖父、八十助だった。
「ああ……雪ちゃんかね? うちの銀次を見んだったかいね?」
魚波を見つけて、あわてふためいて、かけよってくる。
「あきれたことだわ。わが孫ながら、銀次は、おかしいだないか。銃持って、とびだしていったが……」
そう言って、うなだれる。
「おトラさんやつが殺さいた晩も、そげだった。夜中に、こっそり一人で出ていったが。朝方になって帰ってきて、井戸水をかぶっちょった。血を洗いながしただないか」
そうか。やはり、銀次だったのか。
銀次が雪絵といっしょになりたいあまりに、早乙女や、みんなを……。
魚波は銀次のいた林のなかをふりかえった。
でも、なんだろうか。
何かが、ひっかかる。
つい最近、八十助と話したときのこと……そうだ。
あれは魚波が竹子と、二十年前の件で言いあらそっていたとき。
もしや、八十助は聞いていたのでは?
二十年前、魚波が吾郷にされたこと……。
(だけんて、それが人殺しには、なんの関係もないが。わにとっては誰にも知られたくないことだども……)
約束——
砂雁とかわしたのは、なんの約束だった?
とても大切な約束。
もう少しで、何かが思いだせそう……。
そのときだ。
魚波は、とつぜん、後頭部に強い衝撃を受けた。
意識が急速に遠のく。
次いで、自分の体が、あおむけにされるのを感じた。そして、腹部に、するどい痛み——
「ない……ない……御子は、どこだ。御子は。ナミさん。おまあが持っちょうはずだ。竹子は、そげ言った。二十年前、おまあが吾郷から受けとったが?」
二十年前……わが、吾郷に……。
ちがう。魚波が吾郷から受けたのは、ただの屈辱だ。御子ではない。
それにしても、なぜ?
犯人は八十助だったのか。
こんな隠居同然の老人が、なんのために御子をほしがるというのか。
(威さん……)
やっぱり、威ではなかったのだ。そりゃそうだ。
威は自分の欲で誰かを殺すような人ではない。なぜ、信じなかったのか。
(威さんは、わを案じて帰ってきてごしただけだった……)
だから、死ぬのだ。
この世で一番、大切な友人のことを信じなかった。
これが、その罰。
引き裂かれる激痛が遠くなる。
自分の体から熱いものが、とめどなく、だらだらと流れていく。
これが死か。
無力で、みじめな、この感覚が。
あふれる血の上に、すっと、ひとすじ、涙がかさなるのを見た。
魚波の意識は、そこで、とだえた。
次に意識がもどったとき、誰かと誰かが、近くで争っていた。銃声も聞こえたように思う。
「やめろッ! じいちゃん。もう、やめてごしなはい」
銀次か? 別の声もする。魚波の耳元で。
「しっかりしろ! 魚波。死なないでくれッ」
熱いーー熱いしずくが、魚波の顔にしたたる。
涙……威が泣いている。
「もうダメだ。この傷じゃ、いくら巫子でもーー」
という声は、誰のものだろうか。
まあいい。
威の泣き顔が、ぼんやり見える。
もう目も、かすんでいるが。
「威さん……よかっ……た。威さんは、友だち……裏切るような人だ……なかった……」
威が、魚波のために泣いている。
それだけでいい。
思い残すことはない。
「ラクにして……わは、助からん。自分でも、わかる。苦しむだけなら……」
「だめだッ。あきらめるな。助かるよ。魚波、がんばってくれよ」
威の声に、かぶさるように、
「むりだ。この傷じゃ。ラクにしてやろう」
そういう声のぬしは……見まちがいだろうか?
吾郷のように見えるのだが。
威の顔。吾郷の顔。
わあわあと、さわぐ声。
音と光が、ぐるぐるまわって、やがて、すべてが一つに溶ける。
闇と無音。
静寂の世界。
死とは静かなものだと、魚波は思った。
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