四章

四章 金星と闇の大祭 1—1

1



「逃げる……? わが村から、逃げる?」


魚波は、とまどう。

威が力強い語調で説得する。


「だって、雪ちゃんがいなくなれば、おまえか一男が『巫子』になるんだろう? おれは一男とは、さほど親しくない。かわいそうだとは思うが、ガマンできる。でも、おまえが巫子になって苦しむところは想像したくない。逃げだそう。おまえと雪ちゃんくらい、おれが守ってやる」


威と逃げる。村を出ていく。


この古い因習に、がんじがらめにされた村をすて、自由な世界へ、こぎだしていく……。


どこまでも広がる青空を吐きぬける風のように。


その光景は、あまりに鮮烈な光。


一瞬、魚波はその解放感に目がくらんだ。


しかし——


「……いけん。わまで逃げたら、残された家族は村八分だ。この小さな村で、のけもん(仲間外れ)にされたら、生きていけん」


「でも、それじゃ、これからずっと、おまえは耐えていかなきゃいけないんだぞ。大麻を使わないとガマンできないような痛みに」


「そうも、しかたないことだ。村を守るのは巫子の役目だけん。わのこと案じてごして、だんだん(ありがとう)ね」


「魚波……」


「わのことはいいけん。雪絵のこと、たのんます」


それでも、威は魚波を説得しようとした。


たが、魚波は、わざと、威の声を耳から、しめだした。耳をかたむければ、きっと心を動かされる。


魚波は、だまって家路をたどる。

そのあとを威がついてくる。

いつもと逆だ。

こういうのも、悪くない。

追いかけるより、追いかけられるほうが。


うちに帰ると、魚波は家族をたたきおこした。事情を説明して、雪絵と威の逃亡のしたくを、家族全員で始める。


母は米と小豆を二人に持たせる。父は家のありったけの現金をかきあつめる。菊乃は雪絵の着物をふろしきに包む手伝いをした。


「でも、逃げだすと言っても、吊り橋には見張りがついてるだろう?」と、威は気がのらないようす。


「吾郷が死んだけん、見張りは解いただないか。龍臣さんが、わざわざ、教えてごしたってことは、今夜じゅうに逃げとけってことだと思う。念のため、わが、いっしょに行く。見張りがおったら、ごまかすけん」


別れを惜しんでいる、いとまはない。


夜が明ける前に、二人はできるだけ遠くまで逃げておく必要がある。


「雪絵。達者でね」

「雪ねえちゃん……」


抱きあう母や妹たちをむりやり引き離すようにして、つれだす。


「みんなで見送りに行くと目立つけん。わだけで行くわ」


威と雪絵に、魚波が一人でついていった。


吊り橋までは明かりをつけない。


光を村の誰かに見とがめられては、こまるから。


村の西に向かっていく。


道は小高い山のなかへと続く。


半刻も歩くと、細い吊り橋があった。木立ちのあいまから、魚波が先行して見に行く。見張りはいなくなっていた。


「大丈夫。誰もおらん(いない)」


魚波は持ってきた、ちょうちんに火を入れた。威に手渡す。かえのロウソクも数本。かいちゅう電灯では、山道の途中で電池が切れてしまうかもしれない。


「気をつけて。落ちついたら、手紙ごすだよ(手紙ちょうだい)。神社の巫子が決まったあとなら、二人のことも許してもらええと思うけん。そうまでは、くれぐれも見つからんやに」


「ナミにいさん……」


雪絵は泣きじゃくって、言葉にならない。


「わのために、にいさんが……」


「気にすうだない(気にするな)。わは好いた人がおるわけだない。そのぶん、気が楽だ。おまえは、そぎゃんわけにいかんが?(おまえは、そんなわけにはいかないだろ)。雪絵。威さんは、いい男だけん。都会の女に、とられんやにすうだぞ」


泣き笑いして、雪絵は編みかけのショールを肩から外した。魚波の肩にかける。町から威が買ってきた赤い毛糸で編んだものだ。


形見わけのような気持ちなのだと、魚波は気づいた。巫子が決まれば、村へ帰ることも、ゆるされるだろう。でも、それには年月が必要だ。


あるいは、威が生きているうちは、雪絵は、この村に帰ってくる気はないのかもしれない。


芯の強い雪絵だから、きっと、うまくやっていける。


「ありがとう……ほんなら、もう行くだ。雪絵。威さん。達者で。さいなら」


威は、もう、あきらめたらしかった。


魚波の決意を変えることはできないと理解したのだ。意外に、そっけなく、雪絵の手をひいて、吊り橋を渡っていった。


ちょうちんの明かりが遠ざかっていくのを、魚波は見つめた。


別れとは、こんなに、あっけないものなのか。


ともに暮らした三年も、この一瞬で終わる。


ほんとは泣いて、すがりたい。


やっぱり行かないで。僕も、いっしょに行きたいよと。


でも、ぐっと両手をにぎりしめ、魚波は、こらえた。ためらいなく進んでいく灯が見えなくなるまで見送った。それから、泣いた。


自分は一生、この村から出られない。


いつか遠くへ行きたいと願いながら、そのくせ、逃げだすことなどできない。


そんな勇気は、どこにもない。


そうだ。自分は、けっきょく、おくびょうなのだ。


それだけのことだ。


魚波は家へ帰り、待っていた家族に、二人がちゃんと橋を渡っていったことを告げた。


母と菊乃は、まだ泣いていた。


「雪絵。大事ないだあか(大丈夫だろうか)。町の人に怪しまれたり、さんだあかねえ(しないかねえ)」


「威さんが、ついちょうけん。心配ないが」


「でも、明日になったら、すぐ村のし(村人)に、ばれえが? 追っ手がかからんだらか」


「そのことなら、わが身代わりになあけん」


魚波は、とっくに思案していたことだ。


「雪絵の御宿りの番のときは、わが雪絵の着物きて行く。こごんで(かがんで)、こまなっちょれば(小さくなってれば)、気づかれんだろう。夜のことだし。昼間は、威さんが逃げだして、気落ちしとるとでも言って、こもっちょうことにすればいいわ」


「うまくいくといいだども……」


「今御子が誰か知らんけど、わに宿ってしまえば、そうでいい話だがね」


急に、父が口をひらいた。


「そぎゃん、みやすい(かんたんな)ことだない」


真剣な顔だ。


「御子さまは移さか(移そうか)思って、移せえようなもんだない。ああは宿主のほうの気持ちでは、どげしようもないけん」


父は元御子だ。御子に関しては、魚波より、くわしい。父が言うなら、きっと、そうなのだろう。


「御子さまの意思とは聞いちょうけど……」


「発作みたいなもんだ」と言ったあと、父は手招きした。魚波を庭へ、つれだす。母や菊乃に聞かれることをさけたのだ。


「一男のことだどもな。わの前に御子だったのは、熊さんの女房の花さんだ。わは花さんから御子をまった(もらった)。一男と一子は、そのとき、できたが」


そう言われれば、一男と一子は四月生まれ。魚波は七月だ。向こうのほうが、さきだったのだ。


「……そのときに? 御子さま宿すだけで、子どもができいもんだ(できるもの)?」


魚吉は弱りきった顔をした。が、すぐに口をひきしめ、魚波を見つめる。


「おまあ(おまえ)も、もう子どもだないけん、わかあだろう(子どもじゃないから、わかるだろう)。どげしても、ガマンできんときがああわ。とくに、御子さま移すときには……そのときになれば、おまあも、わかあが」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る