一章 因習と過去の惨劇 3—2
「村のこと、誰にも言わんでごしなはあか?(言わないでくれますか)」
「まあ、君の態度しだいやな。早乙女に会いたいねん。どないかならんかな?」
「わに、どげしようがありますか? わは、ただの村人ですけん」
「せやな。なら、手紙を書く。ナミちゃん。早乙女に渡してくれへんか」
「わが渡さんだったら……?」
「新聞社にでも行こかな。村のことも、君のこともバラす」
ひどい脅しだ。
魚波にはことわれない。
では、魚波が手紙を渡せば、どうなるだろうか?
早乙女だって、昔の恋人とはいえ、家族を殺されている。きっと吾郷を恨んでいるはず。
吾郷から手紙を受けとれば、茜か誰かに相談するだろう。
そして、吾郷は捕まり、村のなかで内密に隠される。なにしろ、村の秘密を知っている。警察にも渡すわけにはいかない。
もしかしたら、それが吾郷の目的かもしれない。
吾郷にしてみれば、殺人の罪におびえて逃げ続けるより、ここで生活の面倒を見てもらえるほうがいい。
そういうことなら、橋渡しになってもよい。
このまま、ずっと、魚波が自分の食事をガマンして、世話してやるわけにもいかない。
「わかあました。渡してきます」
「おおきに。ナミちゃんは聞きわけがようて、可愛いなあ。あいかわらず、女の子みたいやし」
頭をなでられて、ゾッとした。気分が悪い。
同じことを威にされると、ほわっと心があったまるのに。
「や……やめて」
「そない怖がらんでも、ええやないか。とって食うたりせえへんよ」
吾郷はふくみ笑って、家屋のなかへ入っていった。
庭から、のぞいただけでも、家のなかは荒廃している。薄暗くて、よくは見えない。そのほうが幸いなのだろうと思う。
やがて、吾郷は屋内からエンピツと帳面を持ってきた。サトの弟が学校で使っていた勉強道具のようだ。帳面の紙を一枚やぶり、吾郷は、なにやら記した。
「ほな、これ、かならず早乙女に渡してや」
結び文にして、手渡してきた。
ようやく解放された。
魚波は急いで、その場を逃げだした。
そのまま、滝つぼのある裏山のほうへ走った。
そっちに八頭家の裏口につながる、わき道がある。
子どものころ、魚波はよく、この道を通って、滝つぼに遊びに行った。
立入禁止の神域だということは知っていた。が、そこへ行けば、茜や砂雁に会えた。
茜たちは、八頭家の裏口から、こっそり、ぬけだして、滝へ沐浴(もくよく)に来ていた。または、目的もなく、そぞろ歩きに。
彼らを見つけてはいろいろなことを話した。
茜は姉のように優しかった。
砂雁は茜の前の男の巫子だ。
神社の巫子をやめた二十年前でさえ、二百さいをとっくに越えていた。
今でも生きていれば、三百さいの寛永生まれ。徳川三代将軍の時代に生まれている。
享保、天明、天保という江戸の三大飢饉をすべて経験した人物だ。
砂雁から聞く飢饉の話は、おさない魚波をふるえあがらせた。それでも、砂雁のことは好きだった。
砂雁は長いあいだ、一人で神社の巫子をつとめた偉大な人だ。
自分と同じ労苦をほかの巫子にさせたくないと、新たな『巫子』を迎えようとしなかった。
大祭のたびに、みずから御子を引きうけて。
でも、そういう『巫子』は、寿命のつきるのが早い。
砂雁は巫子で元御子だから、本来、寿命は四百年ある。
なのに、二十年前、まだ三百さいにも満たないのに、砂雁の髪は白変した。巫子の髪が急速に白くなるのは、寿命の尽きる前ぶれだ。
巫子は老いない。
けれど、いつかは死ぬ。命の糧が失われ始めると、急激に体に変化が起こる。
「ナミちゃんや。君が大人になるまで、わは持たん。すまんだったねえ」
守ってやれなくてーーという意味であることは、わかっていた。
砂雁が死ねば、誰かが代わりに『巫子』にならなければならない。若い巫子の魚波が『巫子』に選ばれる可能性は高い。
結果的に、えらばれたのはサトだったが。
昔のことを思いだしながら、滝つぼへの道を歩いていった。
その滝つぼのどこか近くに、御宿り場がある。そのことは、村人なら誰でも知っている。
しかし、じっさいに、それがどこなのか、くわしく知っている者は少ない。
魚波も知らない。茜や砂雁なら知ってるのだろう。
魚波は滝つぼのよこをすぎ、裏山に入る手前で、わき道に入った。
八頭家の裏口に行く。
運よく、かんぬきが外れていた。
人目を気にしながら、侵入する。
玉砂利のしかれた広い庭。裏庭に蔵が三つ。
表門側の母屋から、ろうかでつながった別棟。ここが、茜たち『巫子』の住処だ。
別棟は古い平屋建てだが、内部は二十室以上ありそうだ。なみの家なら、そこだけで豪邸だ。
ただし、どのマドも、はめ殺しの太い格子で、ふさがれている。戸口は、母屋とつながる一ヶ所だけ。
その戸口も、中から、かんぬきで閉ざされている。
神社のように、戸口に、しめなわがされ、鈴のついたヒモがさがっている。
魚波は周囲に人のいないのを確認した。戸口のヒモをひく。鈴の音が聞こえた。
しばらくして、戸口がひらいた。
茜なら一番、よかったのだが。出てきたのは、早乙女だ。今風のモダンガールみたいな顔立ち。
早乙女は魚波を見て、おどろいた。
それは、そうだ。ここは俗人禁制の巫子御殿なのだから。
「あんたは、たしか、水田さんとこの……」
「魚波ですが。これ、ことずかって(預かって)」
魚波は結び文を手渡すと、そそくさと逃げ帰った。
だから、そのあと、早乙女がどうしたのか、知らない。
魚波は、そのあと、一目散に神社へ走っていった。
茜は、すでに来ていた。一日中、茜についてまわって、祭のしたくをした。幸せな一日だった。
夕方になると、山から男たちが帰ってきた。キジを奉納しに、神社へやってくる。しとめたばかりのキジが、白木の台にのせられて奉納される。
「威さん。どげだった?」
魚波がとびつくと、威は白い歯を見せた。指を二本、立てるのは、二羽しとめたよ、という意味だろう。
「わあっ、がいな(たいした)もんだねえ。わも前に一回、オヤジについていったけど、ぜんぜん坊主だったに」
「こいつは、いい腕してるよ」と、龍臣が会話に割りこむ。
なんだか肩なんか組んで、すっかり仲よくなってる。
「いやあ、今日は、たまたまだよ。運がよかっただけさ」
「運も実力のうちだからな」
かたわらで銀次が、ふてくされてる。
どうやら、うまくいかなかったらしい。
魚波は親切心で、ふれないでおいた。
が、その気配を銀次が察した。
「わは今日は調子が出らんだっただけだ」
「いやいや。銀次だって、一羽しとめたんた。いい勝負だったよ」と、ライバルの威になぐさめられている。ますます、銀次は、ふくれた。
「とにかくさ。これで、あのキジ鍋が、また食えるんだろ? 楽しみだなあ」
嬉しそうに、威が言う。
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