第9話 メッセージを乗せた紙飛行機よ、坊やの元に
翌朝、森一が目を覚ました時には腕に点滴がつけられていて、看護師姿の遥がいた。
「お目覚めですか。ご気分はいかがですか?」
「ああ、問題ないです。というか昨日の腹痛が嘘みたいだ。」
「急性虫垂炎ですってよ。」
「急性虫垂炎?」
「いわゆる盲腸よ。今は薬で痛みを散らしてる。初期だからこれで治る人もいるみたいだけど。」
「お前の見立ては?」
「切ったほうがいいと思う。散らしても再発する人はいるし、再発したら今度の舞台に支障が出るわ。それに今なら手術室、早めに予定がとれるし。手術自体も腹腔鏡手術でできるって、先生もおっしゃってるし。」
「そうか。遥がそう言うなら、任せる。」
森一の術後の経過は早かった。手術の翌日にはガスが出て、食事も摂れたので体力の回復も早くなった。胃炎の症状も完治し、胃がんの疑いもなくなり週末には退院できますよ、と主治医の先生から言われた。
「舞台に間に合う。」心から安心できた。それに今の森一には心強い、そして守るべきものがある。今日は非番の遥が、森一の部屋から見繕った森一の着替えを持って笑顔で病室に入ってきた。「この笑顔を守りたい」そう心から強く思った。
明日は、優哉と佳帆、それに優哉の同期で森一の後輩舞台俳優、菅優(すがまさる)も来る。優は、高校時代に体操部の主将を務めた経験を生かし、アクロバットなアクション俳優業の仕事も評価を得てきている期待の若手である。これでドラゴンマン三人がそろい踏みとなる。子どもたちがどんな風に喜んでくれるのだろう。
そして、あの坊やは…と心が踊るのが楽しい。
遥が病室のカーテンを開き、窓を開けた。
さあっと日差しと心地よい風が入ってくる。
その風にあおられて、サイドテーブルに置いていた森一の折った紙飛行機が、森一の膝の上に滑り込んできた。
「そうだよ。すっかり返事が遅くなっちゃったな。ごめんよ、坊や。」
そう言いながら森一は、ベッドから起き上がり、窓の外を眺めて立ったままの遥の隣に並んだ。
真向かいの部屋に向けて紙飛行機を飛ばそうと見たら、真向かいの部屋はもう、布団もない空のベッドしか残っていない部屋になっていた。
「どういうことだよ。」唖然とする森一が遥に尋ねるつもりで隣を見ると、真一文字に口を結んだ遥が、まっすぐな眼差しで空っぽの部屋を見つめていた。
遥が知らないはずはない。森一の胸に急に不安が押し寄せた。
それでも遥が泣いていないことに、なにかどこか森一は救われた気分になっていた。聞かないでいれば奇跡を信じていられる。そう思い込めば、一縷の希望を持っていられるかもしれない。
そう自分に言い聞かせようとして生じた油断だろうか。紙飛行機を手に持っている意識をふっと緩めてしまった。窓辺に置かれた森一の右手に握られていた紙飛行機が、森一の手を離れて滑り出したのだ。
掴み直そうと手を伸ばすも間に合わず、思わず「あっ」と森一が声を上げた時には、すでに紙飛行機は、中庭にある花壇を目指すようにまっすぐ滑り降りていっていた。
森一の声に紙飛行機を目で捉えた遥が、その先に見えた花壇を指差した。
「あ、矢車草!矢車草が咲いてる。咲いてるわ。すごい、満開。あの坊やの好きなお花が満開になってる。」と喜んだ。
まるでその声を聞いて反応したかのように、紙飛行機は瞬間的に吹いたビル風の上昇気流に乗って舞い上がり、行方を見守る森一と遥の二人の目線を、雲ひとつなく澄み渡った夏の青空に誘った。
紙飛行機のメッセージ 学縁天国得る楽縁 西原昌貝 @kishiataru
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