第8話 30歳の男、役者としての代表作
病院に着いた遥は、トイレの鏡で何度も自分の顔を見直し、笑顔の練習までして森一の病室の扉をノックした。
「はい。」かなり機嫌のいい時の森一の声が返ってきた。3年近く全く会っていなかったのに、この2週間足らずで森一との距離が無くなっていることを遥は実感した。
「ただいま。おごちそうさまでした。」
「おかえり。あれ?二人は?」
「ごちそうさまでした、って。
こんな美味しいもの食べさせてもらったんだから劇団に帰って練習するってよ。
クオリティを上げたいんだって。で、清水くんからの伝言
『次はブルーも入れたいから役割考えといてください』ってよ。あと紙芝居も。」
「そうか。それは楽しみだな。紙芝居も…そうだな、やりたいな、うん。
でもちょっと残念だな。
せっかくみんなで共有したかったことがあったんだけど、次回にするか。」
「え?なに?何があったのよ。
すっごくご機嫌さんで、ご機嫌が目元と口元からポロポロと漏れてるわよ。」
「仕方ないなぁ。他ならぬ遥だから先に見せてやる。坊やから届いた俺の宝物だぞ。」
見せたくないと言いながら、本当は見せたくてたまらないという表情で森一が遥に差し出したのは、紙飛行機の折り目がついた手紙だった。
「おじさんへ。かみしばいたのしかった。どらごんまんありがとう。なつやすみがすんだらそとにでられます。そしたらいっしょにあそぼう。」
読みかけてすぐに口に手を当て、涙をこらえていた遥だったが、すぐに涙腺が崩壊した。森一はどうしていいかわからず、ただ手元にあった新しいタオルを遥に差し出すのが精一杯だった。
「どうした?まさか…まさかあの坊やは…」
「違う違う違う違う。
シンも聴いたでしょ、紙芝居の時のあの子の声。
清水くん言ってた。あんなに声が出るのは元気になる証拠だ、って。で、このお手紙でしょ。だからびっくりしちゃって。
あの坊やがうちの病院に入院してきた時のことを考えるとすごいことが起きてる、あの坊やが起こしてるなぁって思ったら嬉しくて…。
清水君曰くは、あの子はすごい奇跡を起こしてるって。これからだってきっと奇跡を起こし続けてくれるのよ、あの坊やは、必ず。
それにしても清水くんの見立ては…。」
最後は独り言みたいなつぶやきだったので、森一には聞こえなかった。
「そうか、あの坊やはすごいんだなぁ。」
「そうよ、すごい子よ。佳帆ちゃんにはね『早く元気になって、ドラゴンマンみたいに僕がお母さんを守るんだ。』『勇気をくれてありがとう』って言ってくれたそうよ。佳帆ちゃん感激して号泣…私もそれをこの手紙見て思い出して。」
「ああ、そうだったのか。そんなことをあの坊やが…。そうか。そうか。」
という森一の声を聞いて、遥は安心した。
お互いがそれぞれ持っていた、聞きたくない真実と隠したい真実について、とりあえずひと山を超えた気分になりつつも、お互い次にかける言葉が、どちらにも都合の悪い真実を引き出しそうに思えて、妙な沈黙の時間だけが流れた。
それでももう一つ、森一は入院以来ずっと気になっていたことなので思い切って聞いてみた。
「遥」
「ん?なに。」
「おまえ、俺に付いてて大丈夫なのか?」
「どういうこと?」
「いや、その、なんだ…。ほかにいい男がいるならこの状態はその人に申し訳ないな…と、思って…さ。」いつになくしどろもどろの森一に、遥はクスクス笑い出した。
「なんだよ、笑い事か?こっちは真剣に聞いてんだぞ。」
「それ今?ああ、でも、わかるわかる、わかってますよ、森一さん。ふふふ。あ、拗ねた。」
真剣に聞いたにもかかわらず、笑いながらはぐらかすように言う遥に、不貞腐れたようにベッドの上で背中を向けた森一を見て、遥がまたクスクス笑う。
ふと遥は、ベッドのサイドテーブルに置かれている一機の紙飛行機を見つけた。
「これってひょっとして坊やへのお返事?」という遥の声に、慌てたように向き返った森一は
「勝手に見るなよ。」と怒りながら遥を見ると、単に紙飛行機を指差していただけだったことに、森一はますますバツが悪くなった。
「見ないわよ。大丈夫。」という遥の顔を見た森一は、また遥に背中を向けた。その後ろ向きの森一の枕元に、遥は顔を寄せて耳元でささやいた。
「私がシンよりいいお相手を見つける前に、シンがすごい代表作を作っちゃったじゃない。」
「え?」驚いて振り向いた森一の目の前に遥の顔がある。
遥は身じろぎもせず、森一の目をただまっすぐ見つめながら
「あれだけの子どもたちを釘付けにしてアンコールまで受けて。それ以上の素晴らしい代表作なんてこの世にあるんでしょうか、森一さん。私はないと思うわ。」
「遥…俺…。」女の子に仕掛けたいたずらが、好意の裏返しと見抜かれてその女の子に逆に追い詰められた男の子のようなうろたえ様の森一を、遥はさらに追い込む。
「んん?なんですかぁ?」いたずらっ子の目をしながら遥が森一の目を覗き込んだ。
意を決した森一は、ベッドから跳ね起き、居ずまいを正し、服を整え深く一呼吸をすると、まっすぐ遥の顔を見ながら
「遥、俺と結婚してください。」と言った。
遥も椅子の上に正座し直し
「不束者ですが、末長くどうかよろしくお願いします。」と頭を下げた。
遥が顔を上げると、ホッとした笑顔の森一がいた。森一は頭を掻きながら笑い、遥も長く待って待ち焦がれて得た幸せをかみしめるように、上目遣いの笑顔で森一を見つめた。森一が遥の肩を掴むと、遥は両目をそっと閉じた。
これからずっとお互いを信じ合える幸せな時間になると二人とも思い合った。
が、それもつかの間、その遥を抱き寄せようと遥の背中にまわした森一の手から力が消え、目を開いた遥の前には、座った森一の姿はなく、みぞおちのあたりを両手で押さえてベッドにうつ伏せている森一がいた。森一の顔から血色がなくなり、見る間に苦痛で歪んでいく。
瞬間に遥は、看護師モードに切り替わった。
森一の背中をさすりながら、ナースコールボタンを押し、森一に横になるように促した。そして駆けつけた看護師に遥が症状を伝える。ほどなく医師の先生が来て手当を施してくれて、森一は苦痛から解放されたと同時に眠りに落ちた。
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