三日月蛍

それは三日月が夜空にある時にだけ見える蛍。

暗闇の中、まるで小さな三日月を背負って、仄かに蒼く光っている様なので名付けられたという。


夜ヲ想ウ、ウタ に耳を傾けながら、暗黒を纏う男は、思い出していた。


「蛍……か、そしてあの日もこんな三日月だった」



男がまだ、少年だった頃のこと。

祭りの帰り道、彼は蛍を追って道に迷い込んでしまった。

いつもの慣れた道だったはずが、いつの間にか辺りは見知らぬ暗い森に変わっていて、泣きべそをかきかけた時に、見失っていた蛍を見つけた。


誘うような蛍をまた追いかけて草木をかき分けた其処はぽっかりと開けていて、一本の樹が立っている。

その樹に揺らりと蛍が飛んで止まった瞬間、まるで待っていたように樹に無数の明かりが灯った。


それが無数の蛍火だということに気がついた時、その美しさに少年は時を忘れ……。


暫くして気がつくと一人の少女が樹の下にいるのが見えた。

少女は仄かに光を帯びたような薄青の服を着て黒く長い髪をしていた。


少年は言葉を失って、蛍火の樹とその下に佇む少女をただ、見つめ続ける。


空には三日月。


つと、少女が歩き出す。

「待って!」

思わず少年は後を追う。

少女の黒髪がなびく。

すぐ追いつけそうなのに、不思議に追いつけないのが、もどかしい。


気がつくと、少年は見知った道に立っていた。

少女の姿は、無い。


ただ、仄かな明かりが空へと飛んでいくのが見えた。



「あれは、何だったんだろうな」

暗黒を纏う男は思う。


何もかも上手くいかなくて、何も良いことなどなくて、そう思い続けてきたけれど、どうして、あんなに美しいものを見たことを忘れていたんだろう、と。


人は悲しみや苦しみに心の全てを囚われてしまうと、ささやかだけれど優しい想い出を持っていたことを忘れてしまう。



目の前の三日月蛍がゆっくりと瞬いて空へ昇っていく。

それを男はじっと見送っている。


男の周りの暗黒がまた少し透きとおった様だった。

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