影のない世界で

いつだったかねぇ……あれはまだ、あたしの髪が美しい漆黒と褒めたたえられていた頃。


好奇心で覗いて見たことがあるんだよ。

そう、あの夜の深淵を、ね。


そこは、ただ静かで怖いものなど何も無いように見えた。

少なくとも淵から覗く限りには。


時々、墜ちた人だろうか、あぶくがいくつか。

それから弾けたあぶくから声が聴こえた。


あの日に見ちまったんだよ。

墜ちる瞬間をね。

髪の長い華奢な女……だったよ。

フラリフラリと歩いてきて、振り向いて、

それから、ゆっくりと後ろに墜ちていった。


あたしは思わず急いで覗き込んで、手を伸ばしていた。


女はあたしの手をすり抜けて墜ちていったよ。

その時ね、笑ったんだよ。

子供みたいに嬉しそうにね。

溶けてしまいそうに儚くて、なのに満たされたような笑顔だった。


あんたも気をつけな。

あんなに安らいだ顔を見たのは初めてだったよ。

でも、だからこそ、怖かった。

魅せられてしまえば、ずっと囚われてしまう。

優しい影のない世界。


一面の 包んでくれる闇。



夜ヲ想ウ、ウタ



あれは聴いちゃいけない。

聴けば離れられなくなる

この夜の深淵から。


あたしのようにね。


漆黒の髪が夜目にも白くパサパサに艶を失ってしまうほどになっても……。

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