小蝿の一生
@miyoshia
小蝿の一生
俺の脳には小蝿が湧いている。
幼い頃にはもう卵が産み付けられていた。気がついた時には卵は孵っていた。
無数の小蝿が脳の中を行き来し、交尾し、卵を産み付け、増殖していった。
どこへ行っても何をしていても小蝿は付きまとう。
俺はいつしか小蝿を大事に大事に守り育て、卵を孵すことに夢中になった。
小蝿は偉大だ。美しくて、働き者で、生きることに貪欲で、逞しい。俺にはないものを全て持っている。
小蝿を守り育むことは俺に与えられた大事な役目だ。
役目を立派に果たすことを俺は望まれている。
誰に?
たぶん、俺を産んだ人に。
七月二日。
放課後の掃除の時間、箒を動かしながら友達と喋っているとクラスの女子が俺に言う。
「ねえ×××くん、宿題のノート出した? 先生に聞いてきてって言われたんだけど」
「あ、ごめん忘れてた」
「持ってるなら出して」
鞄から宿題のノートを取り出して女子に渡す。
女子は大げさにため息を吐く。
「なんでうちが持ってくの? 自分で持ってくとか考えないわけ?」
——小蝿が卵を産み付ける。
「ああ…ごめん」
差し出したノートを引っ込めて、それからこう考える。俺はなんて馬鹿だろう。女子はノートを先生に届けてくれるなんて、一言も言ってない。
——すると卵はふるふる蠢いて大きくなる。
「もういいよ、持ってくから」
女子は俺からノートをひったくって教室を出て行く。
一緒に掃除していた友達は女子を見てクスクス笑いながら、意味ありげな視線を俺にむける。
〝馬鹿にしたようなクスクス笑いをお前もしろ〟の意味だ。
——卵を破って幼虫が這い出てくる。
友達に向かって演技じみた大げさなため息を真似て見せると、周囲のクラスメイトも一緒になって笑った。
——幼虫は蛹になる。
もうすぐ、生まれる。
小蝿が生まれるところを想像して、俺は顔が綻ぶのを隠せない。
今日も無事に役目を果たせている安堵感が俺を包む。
八月九日。
プール開放の日。
数人の友達と約束をして校門で待ち合わせる。
一人が俺を小突いて耳打ちした。
「佐々木さん、さっき来てたぜ」
佐々木さん。
その音声に俺の心臓が大きく脈打つのがわかった。
更衣室で水着に着替えてプールサイドに出ると、さりげなく姿を探す。
……いた。
友達はニヤニヤ笑いながら俺を見る。
「うっせ」
「なんも言ってねーし」
「顔がうるせぇ」
佐々木さんは何人かの女子と集まって輪くぐりをして遊んでいる。
俺たちはその近くでボールを投げて遊んだ。
友達の投げたボールが逸れて女子の方に飛ぶ。佐々木さんが拾う。
「わり、こっち」
手を上げると、佐々木さんは投げ返してくれた。
「サンキュ」
佐々木さんは頷いただけで、何も言わなかった。
茶化す友達めがけて力一杯ボールを投げつける。
なんて思われただろう、好きだってばれただろうか。きもいって思われただろうか。あとで女子と集まって笑うのかな。
それとも、もしかしたら佐々木さんも俺のこと……。
——無数の卵が孵化する。白く蠢く幼虫が炎のように揺れていた。
九月一日。
新学期。
学級会で後期の新しい委員会を決める。俺は図書委員になった。
クラスもクラブも違う佐々木さんと接点を持つには、同じ委員会に入るしか方法がなかった。
図書室に集まって担当の先生から図書委員の説明を聞く。
佐々木さんもいるのを確認して、内心ホッとする。佐々木さんがまた図書委員をやるかは分からなかったから。
「よろしくね、佐々木さん」
声をかけると、佐々木さんは笑顔で「うん、よろしくね」と答えた。
小蝿は幸福感を食いつぶして一気に増殖する。
そうして、さらに俺に餌をねだる。
——佐々木さんとふたりきりの図書委員の仕事。
——楽しそうに笑って話す佐々木さんの表情。
——下駄箱で俺を待っている佐々木さんの姿。
——二人きりの帰り道。
——佐々木さんは、俺と手を繋ぎたがっている。
餌はいくらでもあった。
小蝿は妄想を食いつぶしてさらに膨れ上がった。
十月二日。
佐々木さんとの図書当番の日。
貸出カウンターには佐々木さんの友達が数人集まって、佐々木さんは小声でクスクス笑いながらずっとおしゃべりをしている。
俺は佐々木さんの気を引きたくて、声をかけた。
「佐々木さん、こっちの本って棚に戻していいんだっけ?」
佐々木さんは振り返って笑う。
「あー、うん」
「……ありがと」
佐々木さんはすぐに友達との会話に戻った。
夕方、一人で家に帰る。
古びたマンションのノロいエレベーターで十階に上がって、一〇〇八号室のインターホンを押す。
ガチャ、と鍵の開く音がしたきり静かな廊下に立って、ああ、と思う。
「ただいま」
返事はないと分かっていても、そう声をかけて帰宅する。
俺の方を見向きもせず缶ビールを呷る父は、巨大な蝿の姿をしていた。
昔はちゃんと人間だった、と思う。
いつから父が蝿になったのかよく覚えていない。
そもそもあまり家にいないし、いてもほとんど顔を見たことがなかった気がする。
とにかく気がついたら父は蝿だった。
そのことを特に疑問にも思わなかった。父は蝿なんだ、と思った。
しばらく経つと父は人間に戻って、そしてまたしばらく経つと蝿になった。
人間の時の父は優しくて、俺の気持ちを分かってくれて、いろんな遊びを知っていて、俺を笑わせてくれる自慢の父だったけれど、蝿になった父は俺を認識できなくなるようだった。
夜ご飯は、と聞いても、今日学校でさー、と話しかけてもまるで聞こえていないみたいにテレビに見入って動かなかった。
しつこく声をかけると暗くて薄気味悪いマンションの廊下に締め出されるので、俺もただぼうっとテレビを眺めて食事が出てくるのを待った。
出てこないときはそのまま寝た。特に食べたいとも思わなかったから、食事が出ない方がホッとした。
母は俺が小学校に上がった頃にいなくなった。どこへ行ったか聞くと父が激昂したので、それ以来母の話題を口にしたことはない。
翌日、学校へ行くと佐々木さんが蝿になっていた。
「あ、佐々木さん、おはよ」
朝、廊下ですれ違ってそう声をかけたけど、佐々木さんは友達とのおしゃべりに夢中で俺には気づかずに通り過ぎた。そのときは、間違いなく人間だった。
放課後、ハロウィンの飾り付けをするために図書委員が集まったとき、佐々木さんは蝿だった。
俺は嬉しくなった。
佐々木さんも蝿なんだ。父と同じ蝿なんだ。
共通点を見つけて、舞い上がった。
佐々木さんに俺は特別だって気づいてもらいたくて、図書室の飾り付けを頑張った。今まで本なんてろくに読んだことなかったけど、佐々木さんのおすすめの本を教えてもらって、そこからいろんな本を読むようになった。
本の話をすれば、佐々木さんは笑って聞いてくれた。
佐々木さんに好かれる自信があった。
だって佐々木さんは蝿だから。
俺はいままでずっとずっと、たくさんの小蝿を大事に守って育ててきた。
父だって蝿だ。
俺はきっと佐々木さんと結ばれるために蝿を育ててきたのに違いない。俺の役目はこのためにあったんだ。
母が残してくれた小蝿の卵は今や所狭しと頭蓋骨の裏にひしめき、あふれんばかりに増殖している。
母の望みを達成することができて俺は誇らしかった。
人生ってなんていいものなんだろう、と思った。
四月。
俺は中学に上がった。
小学校最後の委員会の日、佐々木さんにどこの中学へ行くのか聞いたら、俺と同じ市立中学だと言っていた。俺は掲示板に張り出されたクラス分けの紙の中に佐々木さんの名前を探したけれど、見つけられなかった。
佐々木さんは私立の女子中に入学したのだと、後から知った。
小蝿だけが変わらず俺のそばにいてくれた。
短い寿命を終えて次々と死んで行く小蝿を、おれは一層大事に育てた。
大事にするのが足りなかったんだ、もっともっと大切にしなければならなかったんだと、何度も自分を責めて至らないところを反省した。
俺が小蝿を大切にしなかったから、佐々木さんは俺を好きにならなかったのだと思った。
自分を責めるほど、小蝿は俺を慰めるように増えていった。
俺は夢中で自分を責めた。
小蝿が喜ぶように、小蝿の望むように生きることに全力を注いだ。
卵を託してくれた母の望みを叶えたかった。
蝿になってしまった父に優しくしたかった。
小蝿だけが唯一つ残された繋がりだった。失うわけにはいかなかった。
高校に入る頃には、小蝿はすっかり俺の脳に馴染んでいつでも頭の中を飛び回っていた。
好きなバンドの歌を口ずさむと卵が孵った。友達のバカ話を聞いて笑うと蛹は成虫になった。バイト先の先輩への淡い恋情は小蝿たちのご馳走だった。
不思議と、俺が好きになる人はみんな蝿になった。先輩も、もちろん蝿だった。
人間の中から蝿を見つけて好きになるたび、繋がりが途絶えていないことを確かめて俺は安堵した。
ご馳走のお礼に小蝿たちはいつも俺に夢を見せてくれた。
幸せで満ち足りた世界の景色を見せてくれた。
それが現実になることはなかったけれど、俺は小蝿たちの見せてくれる世界に救われていた。
父は滅多に人間に戻ることがなくなり、ほとんど会話をすることもなくなっていた。
何かから逃げたいような気持ちに追い立てられて、俺は実家を出て遠く離れた大学に進学した。
何から逃げたかったのかはよく分からなかった。
一人暮らしを始めて一年ほど過ぎたころ、夏、部屋に小蝿が湧いた。
俺の脳からついに小蝿たちが飛び立ったのかと思ったけれど、台所に放置していた牛乳パックが原因だった。
小蝿の卵がびっしりと産み付けられたそれは気持ちが悪かったので、ゴミ袋に入れてしっかりと口を閉じて捨てた。
次の日、今度は残した弁当の隅に幼虫がひしめいていた。ゴミ袋に入れて口を閉じて捨てた。
次の日、部屋の壁に蛹がたくさん張り付いていた。壁紙を張り替えた。
次の日、布団の裏に小蝿が群がって卵を産み付けていた。
次の日、どこかわからない暗い場所に小蝿たちが隙間なくひしめきあって、俺の一挙手一投足をじっと監視していた。
その暗い場所は俺の脳のあったはずの場所ではないか、と気づいたところでハッと目が覚めた。
汗をかいて、服はじっとり湿っていた。
俺は起き上がって洗面台に立った。鏡に映った男の顔は日に焼け、疲労の色が濃く、皺の寄った頰は垂れ、ほとんど白髪に侵食された白黒の髪は汗を吸って額に張り付いていた。
見たことのないその老人の相貌が自分のものだと気づいたのは、乱れた髪の間から一匹の小蝿の死骸が落ちたからだった。
小蝿の一生 @miyoshia
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