イアンとヨウコ 1
イアンが部屋中を震わせるアラームに気付いた頃、彼の意識はまだむらさきの世界を彷徨っていた。まばたきをくり返し、イアンは意識のあるべき場所を確認する。あれはアラームだったのかと立ち上がり、立ち上がれる。なるほど、いつのまにか今日が始まっていた訳だ。壁に埋め込まれたパネルでアラームを切ると、部屋の震えがぴたりと止んだ。
キッチンに行くといつもと同じ朝食が白い食器に盛られている。合成ものの卵とハム、形もそっくりのトーストだ。もとはと言えば自分が注ぎ足した白い粉と黄色いパウダー・・・食欲を失う前にそれ以上考えるのを辞めた。コーヒーが真っ白なマグカップに入っており、イアンは意識を味だけに集中させる。
いつもと同じ充足感の裏に酸味を覚えた。ビタミンが足りて無いのかもしれない。イアンは「また補充に行かないと」とコーヒーを口に含む。その時に急な目眩に襲われる。暗闇を目の前に貼り付けたような、光がチカチカと走り、足元が危うく崩れそうになった。
マグカップをカウンターに置き直し、驚いたイアンは呼吸を整える。波のような吐き気がやって来て、すぐにおさまった。息をついて「このところきちんと寝ていないからだろうか?」とイアンは思う。そして、戸棚から睡眠のサプリメントを取り出す。週に2回までなら大丈夫だろう。「明日を休日にすればいいさ・・・」
それにしても、むらさきの世界から何も見付からないことが気にかかった。生命が生まれていてもおかしくは無い。今晩ゆっくりと時間をかけて見直せば見付かるかもしれない。イアンは残りの朝食を平らげ、食器類をカウンターの穴に落として片付けた。
部屋を出て路肩を歩いていたあたりでサプリメントの効き目が出てきた。ふわふわと身体が軽くなって妙に踊り出したくなるような、高揚した気分になっていた。その時点で「ああ、効いてきたな」と思ったものの、冷静に考えてみれば部屋を出ようとしていた時から効能は出ていたかもしれない。朝のあいさつ用にと突発的に掴んだ布の帽子は背広とあきらかにマッチしていなかった。
おかげで、イアンとあいさつを交わそうとする人は誰一人いなかった。遠くからイアンらしき人影が霧越しに目に映った瞬間、誰もが行き先を変えて背を向ける。人々はイアンが睡眠不足である事は知っていたし、だからこそ、余計な負担を掛けずに今日という一日を過ごして欲しいと思っていたのだ。
山高帽子を目深にかぶったヨウコは、イアンを背後から見つめていた。不気味なほど陽気なイアンに困惑していたものの、寝不足のせいだと解ると身内を見ているような親近感すら覚えていた。
イアンは朝霧がかった工事中の立て看板を通り過ぎ、歩道から車道に乗り換える。歩道に比べて平たくのっぺりとした車道に降り立つと、車のフロントライトが霧に浮き上がり、近付いてくる音が聞こえる。イアンは足を速めると、歩道に道を戻した。
ヨウコは朝霧がかった工事中の立て看板を通り過ぎ、歩道から車道に乗り換える。歩道に比べて平たくのっぺりとした車道に降り立つと、車のフロントライトが通り過ぎ、霧のなかへと消えて行く。ヨウコはこつんとかかとを鳴らすと、歩道に道を戻した。
バスの停留所はもう目の前に見えていた。
山高帽子に手をやって、ヨウコは気付かれないようにイアンの隣を通り過ぎる。イアンは何も気付いていない。朝方のぼんやりとした頭のまま、自分の吐く息を見つめている。
「今日さえ行けば明日は休みだ」とイアンは考えていた。客が数人しか乗っていないバスが来て、イアンを一瞥して霧のなかに消えて行った。多分彼は客を乗せるのが嫌いな運転手なのだろう・・・イアンは気にも止めなかった。
バスは、少し待てばやってくる。次から次へと公団が運転好きな人を雇うから、車両を工面する費用がかさんでいるという話を聞いた事がある。それでも街にバスがあふれて道路をいっぱいにするから、赤字にはならないそうだ。
初めてその話を聞いた時はおかしなものだと思った、だけどよく考えてみれば「なるほどな」と思わざるを得なかった。専門家たちが寄って集ってそういう仕組みを考えているのだから、イアンがおかしいと思った所でどうとなるわけではなかった。
「仕方ねえよ」
そうナバコフは言っていた。その頃は、立派なあご鬚をつけた顔をしていたから右手で何度も鬚に触りながら「くやしかったら自分もそうやって仕組みを考え出せばいい」と言っていた。
「うまくいったら何もしてなくても銀行にクレジットが貯まっていくし、クレジットが貯まれば球団だって買えるさ」
「クレジットで球団が買えるのかい?」
「無理かもしれないな・・・」
カランと、グラスの氷が音を立てて光の粒を浮き上がらせていた。
ヨウコは停留所をほんの少し離れた霧のなかから、
イアンの考えごとをじっと見つめていた。
「純粋すぎるのね」とヨウコはつぶやく、
「無理があるわ」「悪いひとではなさそうだけど」
と、独りごとを口ずさんでいる。
でもヨウコが見つめていた景色は決して色褪せたものでは無かった。
それはとても素敵な色彩で、
鮮やかに
過ぎ去ったはずの時を
唄っていた。
そしてバスが
凄まじいブレーキ音をあげながらイアンの鼻先で、ぴたりと止まった。
イアンたちが乗りこむと、バスの運転手が高らかに笑いながら
「悪かったねえ!ずいぶん待ったんじゃないかい?」
と聞いてきた。イアンが「そうでもないですよ」とにこやかに答えると
「おお?あんたも寝不足かい、つらいねえ・・・お互い。こう毎日だと身体がもたないよ」と運転手が応えた。
「寝不足だと、どうしてわかるんですか?」
そう聞いたイアンに「そりゃわかるよ」と運転手は自分の帽子に手をやって
「変な帽子を被って目玉くるくるやってりゃ、誰だってわかる」
とバスの扉を閉じて車を発進させる。
「何をやって毎日寝不足なのかはわからんが、サプリを飲まなきゃやってられないって顔してるよ。ちゃんと喰ってるかい?顔色だって悪いよ、あんた」
そこまで言われてイアンはすっかりしょげこんでしまった。恥ずかしげに帽子を脱いで「あいさつ用にと、思ったんですよ」と消えるような声でつぶやいた。
バスの運転手は何も言わずに肩を軽くすくめただけで運転に意識を集中させた。イアンも視線を車内にもどして自分の座るべき席を探した。
窓の外は霧で何も見えなかった。それでも、朝の光がその奥から街を染めているのがわかった。濃霧の壁を通り抜けた一陣の光が、ビル街のガラスに反射され朝もやを切り裂いて行く。その光が交差して熱を持つと、周りの霧が蒸気に変わって・・・朝の景色が、瞬時に拡がるのだ。
歩道にあふれている人々の姿、道を埋め尽くした大小の車がクラクションやパッシングをくり返している。背広の人たちは手にしたプラスチック・カップのコーヒーをいそいで喉の奥に流し込み、舌を出して火傷をしないように気を付けている。そしてすれ違いざまに「おはよう!」と勢いよく空になったカップをお互いに投げ付ける。「おはよう!」「おはよう!!」とドーナツやべーグルサンドを包んでいた紙屑すらまるめて投げてしまうと、後はシニカルな笑いを浮かべて手をあげるしかない。すぐそばを無関心に通り過ぎる学生たちの姿があり、道にころがったカップや紙屑なんかを一心に片付ける人の姿もある。誰もが「今日一日を過ごしてやる」という闘志をむき出しにそれぞれの場所へ向かっている。
イアンは明るくなった窓の外から視線を移し、隣の席に座っていた男に「おはよう!」と勢いよく布の帽子を投げ付けた。その男は、ゆっくりと自分の膝の上に落ちた帽子を手に取り、ほこりを払ってからイアンの膝に置いた。そして中性的な笑みを浮かべて「おはよう」と良く通る声で言ったのだった。
ヨウコは、イアンの隣で震え出しそうになるのを必死で抑えていた。イアンがヨウコのことを男だと信じているのは知っていたから「私はうまくやっている」と何度も自分に言い聞かせるしかなかった。
そして、
イアンが席から立ち上がった。
イアンは運転主にバスを止めるように耳打ちをした。
運転手は何度もわかったと言うようにうなずいた。
ヨウコは、ほっとした様子で座席にもたれていた。
運転手が態とらしい咳払いを2回くり返した。
バスは急に息切れをしたように走る気力を失って、止まり、
動かなくなってしまった。
乗客はぞろぞろと悪態をつきながらバスを降りていき、ヨウコはそれにまぎれてイアンの後を追いかけた。イアンはまっすぐ道路を横切って、一つのビルへと歩みを進めていた。そのビルは他の敷地の何倍も広く、どっしりとした土台が先細りするように上へと伸びている。
イアンは土台の中庭部分、その吹きだまりになっている箇所を突っ切ってビルへと向かう。この部分はいつも強い風が吹いているから、ちょうど真ん中の所を歩かないと入り口にはたどり着けない。(時々隅の方に生きる気力を失って乾涸びた人が迷い込み、動けなくなっていることがあるけど二、三日もすれば何処かにいなくなってしまう。清掃員が知らない内に片付けているだけなのかも知れない。)
力と力が打ち消し合っている真ん中を抜けてイアンは入り口に辿り着く。回転ドアにタイミング良く巻かれ、リノリウムの床を歩いて受付けへと向かった。受付けではいつもの警備員が、ファイルに載っている名前とイアンを照合する。IDカードをシステムに通し、「あー、本日も晴天なり。おほようございます。今日も一日がんばって、しっかりお仕事をなさってください。微力ながら私も応援させていただきます。」と言葉をかける。
イアンはこの言葉を聞き、いつもながら「大したものだ」と思う。嫌みも無く、感情も込めず、音だけをすばやくいつ言われたのかも解らない内に警備員は言葉を終える。イアンは受け取ったカードを財布にしまうとエレベータの方に向かった。
ヨウコは、受付けのカウンターに片肘をつくと「おはよう」と警備員に声をかけた。警備員は表情を崩さずにじっとヨウコの顔を見つめる。ヨウコは無意識にポケットから黒縁の眼鏡を取り出すと、不安とあせりを覆い隠すようにその眼鏡を掛けた。「おはよう」と、ヨウコはとびきり低い声で言い直した。
「IDカードはお持ちですか?」
そう警備員がヨウコに尋ねている。
「それなんだけどね、」ヨウコは財布をコートのポケットから出して「いくら探しても見付からないんだ。」と説明をする。とびきりの演技をしながら「さっきも探してみたんだが・・・」最後に「みつからない」と眼鏡の奥から目を合わせる。
警備員は落ち着いていた。
「失礼しますね」とヨウコの財布を調べ始めた。
「無いだろうね、きっと。」ヨウコは不安と恐怖で声が震えていた。
バスの定期、
美容院のメンバーズカード、
レシート、
食料品のメモ書き、
アパートのスペア・キー、
携帯電話、
ピンクのウサギのぬいぐるみ、
お気に入りのドレス、
小銭、
食べ残しのにんじんグラッセ、
幾らも無いクレジット札、
「あるじゃないですか!」そう警備員は声をあげた。
「これでいいんです」そう警備員はクレジット札をひらひらとさせた。
「あー、そうだね」ヨウコが「それで良かったんだね。」多少ほっとして言うと、警備員が厳しい顔をして「仕事ですから」とヨウコを睨み付けた。
「あー、本日も晴天なり。おはようございます。今日も一日がんばって、しっかりお仕事をなさってください。微力ながら私も応援させていただきます。」
ヨウコは財布をコートにしまうとエレベータを探してホールを歩く、それから振り向いて「私のオフィスは・・」と警備員に聞いた。
その声は天井の高いホールに大きくこだまし
「私のオフィスは・・!」「私のオフィスは・・!!」と、
驚いた人たちがヨウコに目を向ける。警備員は気まずそうに咳払いをして、
「36階の207という部屋がそうです」と答えた。ヨウコがうなずき、それを見ていた人たちもうなずいて、にっこりと笑った。
そして彼らは歩き始めた。
「あー、本日も晴天なり。おはようございます。今日も一日がんばって、しっかりお仕事をなさってください。微力ながら私も応援させていただきます。」
ヨウコは、すっかりイアンの姿を見失っていた。自分が近くまで来ているのがわかってはいたがこの場所が何処なのかわからず、警備員の言っていた「36階の207」という番号だけを頭の中でくり返していた。
36階の廊下はヨウコにまるで宇宙船の内部にでもいるような印象を与えた。窓がまるで無く、人がすれ違えるほどの幅の廊下で、硬質プラスチックでできた壁が吸い込まれるように上まで伸びていた。フットライトで足元は明るく、その反射で視界も悪く無いのだが、壁が高くて上の方が薄暗く、どこが天井なのかわからなかった。
人気の無い廊下をしばらく歩くと、自分が暗闇に光る一本の廊下を歩いているような気がしてきた。柔らかい光が眠気を誘うように頭をぼんやりとさせ、ヨウコはいつのまにか考え事を始めていた。
そういえば、いつの事だったかしら・・・
誰かに連れられてこうして歩いていたことがあったの。
五月の風が吹いていて、陽射しが気持ち良くて、目を開けてられなかった。
もちろんあぶないってわかっていたけれど、手を繋いでいたから
だいじょうぶだろうって・・・。
何処に向かっていたんだろう?思いだせる?
駄目、目がもう重たいの。
眠いんじゃないのよ、
陽の光が、気持ちいいの。重くて甘い風が吹いていて、
このまま何処かに飛ばされるって思ってた・・・。
チカチカと点滅している青い光に意識を取り戻し、ヨウコは辺りを見渡した。光を放っていたのは「36‐207」と壁に書かれたプレートだった。目の高さに取り付けられたそのまわりを発光ダイオードの光が、チカチカと、点滅していた。
プレートの付いていたあたりの壁をよく見ると、うすくドアの形に切れ込みが入っていた。どこにノブがあるのだろうと手探りでヨウコは調べたが、それらしいものは見付からなかった。そのかわりに、どこかに触れたのか音も無くドアが横にスライドして開いた。
誰もいなかったその部屋に、大した光はなかった。それでも、ヨウコが部屋のなかに入って、ドアが閉じてしまうと、ゆっくりと空間の光量が増した。絨毯の敷かれた部屋には大きな木製の机が一つだけ、こまごまとしたものがその上に詰み重ねられ、壁に何かのシステムがパネル式に組まれていた。
ヨウコはコートと帽子を脱ぐと、息をついた。まるで薄皮のようなものを剥ぎ取ったような、皮膚で呼吸していたのを確認するような気持ちだった。ヨウコは机のものを動かさないように気をつけながらコートと帽子を置いた。
机には何かのカートリッジが無造作に積まれていた。それは神経質な麻薬常用者がブロックに見立てて積み上げたひとつの街のようにも見えた。あれが市の建物で、これが新聞社の建物、そっちが建設会社でこっちがコミュニケーション会社、この屋上にはヘリポートだってあるんだ。
ヨウコはそんな配置を崩さないように気をつけながらカートリッジを一つ手に取って眺めてみた。なんの変哲もないプラスチックの箱、その直方体の一面から基盤の金属部分がのぞいている。他と区別するラベルなどは何も付けられていなかった。
ジジジ・・ぽんっ!と壁のシステムが別のカートリッジを床に吐き出した。
これで床に無造作に散らばったカートリッジの数は36になる。
一時的に電源の入ったシステムはスクリーンに羅列された数字と名前を映し出していた。様々な色に振り分けられたコンピューター文字にはそれぞれパーセンテージと時間が示されており、その数は不規則に2秒、4秒と進んだかと思うと、またしばらく動かなくなった。
ヨウコがカーソルを下に、下に、と移動させてもファイル名と数字の羅列は永久に続いていた。黄色や、赤や緑や、紫や、6色ほどに振り分けられた文字列は無規則に並び、下へ、下へ、と続いていた。しばらくそうしていると、ヨウコはファイル名のなかに幾つも同じ名前が含まれていることに気がついた。(ANDYWやらREEDL、BOBDやらJACKK、TOMH、ANDYH、ALLENG、PETERF、VIANB・・・。)
ヨウコはカートリッジの一つを手に取ってシステムに差し込んだ。
しばらくして、光と音が漏れ出した机の上の「スコープ」をヨウコは装着した。
C:\DOCUMENTSANDSETTING\DESKTOP\CARTRIDGE/COMMAND:CONFIG/MEMORY:TUNNELADAPTER6TO4TUNNELINGPSEUDO-INTERFACE:CONNECTION-SPECIFICDNSSUFFIX:OK/COMMAND:ENCODE/fe20DD2jHQfBKl11H6ai6uUQmbhTO29/HKMZ9faqrswFj/6llzvJfYfIU51HqlRpZQmFyUTdnTA7w//xfUP72USqVjKO2VF+B5uIYDB6mFuoQlY7kJRtJUbSS0BZg3GQ+TjealECZjhbqUcgLi3PnSsRsXgmtSOgheKZIULu6L7YkFvndBXzbCL1CnYAnPsCWEtJaaKNfCZnjLjEfw2rk+6xBY1MKhCsVrUnOVuV9Ue/HkJEynpiTVJNIwkTDZXpp・・・・・・・・・・・・・・・OK
ep@%J;2678gToop`yYud18P:`g.yuE・・・・・・・・・・・・・・OK
Yjgi)yu@197p.Pgsu+Unl3hh・・・・・・・・・・OK
DEVICE
ENTER:
音というものが物質と融合した世界、つまりは無音。空気を伝って振動を伝えるはずのものが、薄くなり、真空になったようにさえ感じられる。隣にいるドレッドの男が、しきりに笑いながら何かを私に伝えようとするのだが、私には男が何を意味しているのか声さえうまく聞き取れなかった。私の呼吸する音が伝うはずの空気に伝達できず、ひどく耳障りに響いていた。音は存在するのである。存在するはずなのだが・・・。私には、まるで全身の神経が鼓膜のそれになったように振動を感じていた。そのために身体に触れている赤く深い絨毯の感触までが音と混同されて伝わってしまう。振動というものがいつもより複雑な羅列となって繰り返され、そのなかで私は「大丈夫?」「寒くない?私、凍えそうなのよ」などといった女の声を聞いていた。それらの言葉に無関心を装おうとするエゴを振り払い「大丈夫よ」「聞こえてるわ」などと習慣の記憶をたどりながらまともな言葉を並べる。その自分の声がまったく聞こえていないのだ。その部屋にはいくつも光源があったように思う。布地やガラスのシェードの付いたランプや蝋燭の光、紙タバコやパイプの火、インセンスの蛍火がゆらゆらと煙のように揺らいでいる。各自がキルトやブランケットを身に纏い、暖かみにあふれたその部屋でお互いの温もりを求めていた。私は記号化された音の羅列に意識を奪われており、その抽象化されたパターンを、異世界のモールス信号でも拾うかのように辿っていた。そうしていると、寒さや不安が私のすぐ側を通り過ぎながらも触れることができない。それらがイライラと徘徊する姿が、私にはたまらなく魅力的に映っていた。そのなかで彼は、一際違った光を放っていた。彼は・・・空間を歩む速度が違ったというのだろうか。まるでその抽象化された存在が歩むごとく、空間を切り裂いて歩むような力がみなぎっていた。白金のごとき頭髪は、温度というものが存在しない印象を私に与えた。彼は、初めから私という存在しか見ていなかった。私の動作、思考の細かな動きというものさえ見ていたように思う。だから彼が音楽の話題に触れ、私が感覚で音を捉えていることに気付いて「聞こえていないだろうけど、」と私の耳に唇をあててつぶやいた時、私は初めて自分の抱いていた寒さというものを感じたのだった。
DEVICE
ENTER:
開けた窓から入り込む空気には森から溢れた生命ともいうべきものが含まれていた。平地を走っていた時のあまりの暑さにすべての窓を開放し、風という轟音により掻き消された私たちの会話とステレオから流れる音楽、誰もがふいに見つけたその轟音のなかの静けさが気に入っていた。だから景色が森に変わっても音楽をかけようと提案する者も無く、沈黙を破ろうとする者もいなかった。私たちはそれぞれに自分の時間を持ち、一つの空間を共有していた。隣の男は片肘を窓枠にのせてハンドルを握ったまま単調な動作に思いを馳せていた。私は煙草をふかして外の流れる景色を目で追ったり、路面の先を見つめたり、外からの風に煙草の灰をとばされないよう気をつけていた。後部座席の連中は静かにビールを飲んだり、寝袋を枕に寝そべったりと楽しんでおり、私たちはお互いが何を感じているのかという事に対して言葉を用いる必要は無かった。言葉の音律で思想の扉を開くにはまだ辺りが明るすぎるうえに、それにはもっと大きな火を囲むことが必要とされていたのだ。私は、強い光との融合感を反芻していた。意識の鼓動と共に私へと近付いてきたそれは私を取り込んで、幸福感と一瞬のうちに訪れた永遠という時間の連なりを眺めた納得感でいっぱいにした。今、それらを思い出そうとしても肝心のところで抜け落ちており、何に納得をしたのか思い出せない。でも、不思議とその幸福感だけは鮮明に記憶している。この、森から溢れている生命に似ている。すずしく、ひんやりと暖かい。苦悩を苦悩と捕らえないそれは、許諾し、受け入れて自らのものとする。全にして個、個にして全の存在。その一部に自分も含まれており、大きく押し寄せる波の頂上部が崩れるように、私は波ではなく水として波に飲まれる。今日のキャンプ地では、暗闇のなかから現れる現実から剥離されて白く漂白された自分と出会うことが可能であろうか・・・。それにしても風がすずしく暖かい。
DEVICE
ENTER:
私は、何を求めているんだろう。周りのありとあらゆるものを巻き込んで、憎しみの螺旋の渦の頂点に立ち竦んでいる。怖い?怖かったと思うよ、痛みだってあった。寒い?凍えていたのよ、寂しさと哀しみに震えていた。でも、居心地がいいの。安心してる。渦のなかに居ると、色んな景色が拡がって見えるの。奇妙な景色だけど、色んな人や物が落ちてくるのが見える。ぐるぐると、回りながら落ちてくる。みんな不安で、落ち着きたくて、私の所まで落ちてこようとしている。私はそんな誰も彼もの足にしがみつきたくて、手を精一杯に伸ばしている。抱きしめたくて、抱きしめたくて。寒いから、誰かの肌に触れていたくて、触れるたびにその人も、物も冷たく硬くなっていく。だから怖いから、寒いから、寂しいから憎しみが強くなる。自分でも止められないぐらいに怒りが、何処から来たのかさえ分からない怒りが唯一の感情になって、誰か知らないやつが叫ぶの!おまえのせいじゃない、あいつらのせいだって。あいつら?あいつら。私より明るい場所に居る、暖かい思いをしている・・・あいつら。こっちにおいでよ。見たかったんじゃないの?聞きたかったんじゃないの?ほら、もっとこっちにおいでよ。寒いから、暗いから、暖めてよ・・・ねえ。もっとおおきくなりたかったんじゃないの?もっと、気持ち良くなりたかったんじゃないの?もっと、もっと・・・もっともっと・・・わたしは、私は・・・何を求めているんだろう。私は・・・もっと、もっと・・・もっともっと・・・私は安心。
ヨウコはスコープを剥ぎ取って、机の上に叩きつけた。クレジットのビルが幾つも、派手な音を立てて崩れ落ちた。ヨウコは涙をこらえようとしゃくりあげながら、彼らの心の平穏を祈った。それでも涙は止まらなかった。
彼らは、ため息にも似た声を吐きながらヨウコの脳裏をかすめ、すかすかの空虚な感情だけをヨウコに投げ込んで消えていった。ヨウコには彼らの残していくものが何なのか全くわからなかった。でも、それは冷たく、焼けるような痛みを伴い、底の見え無い落下感と共にヨウコからほろほろと涙を溢れさせた。
息も出来ずに泣いていたヨウコは、唐突に身体を硬直させて立ち上がった。そして部屋の中央までふらふら歩むと、過呼吸になるほどの空気を吸い込み、それから大声を上げて泣き始めたのだった。子供のように髪をくしゃくしゃにして、崩れるように座り込み、顔を覆った手が涙で滑って、また髪をくしゃくしゃにして嗚咽をくりかえした。
ヨウコは何故自分がこんなに激しく泣いているのかが理解できなかった。完全防音の施された部屋はヨウコを無関心に放置し、ヨウコの流す涙は絨毯のうえに弾かれた水玉のように溜まっていた。そんなちいさな水溜りがすっかり空気中に気化されてしまった頃、ヨウコはその部屋を出て、また例の薄暗い廊下を歩く事を心に決めた。
廊下はまるで何もなかったかのように続いていた。つるりとした壁が足元を照らし、暗い闇の先にまで道は続いている。ヨウコはふらついた足取りで壁を伝いながら歩いていく。まるで今までが何もなかったかのように、身体だけが内側の芯を抜かれたみたいに疲れていた。
いつまでこの闇をさまよえばいいのだろう・・・。
足を進めるたびに、闇はヨウコから目で見えるほどに力を奪っていった。すべての努力が闇にあざ笑われているかのように、ヨウコには思われていた。
辿り着く場所など初めからあったのだろうか・・・。
ヨウコには自分が今どこで何をしているのかがよく解らなかった。生まれた頃から、そうやって薄暗い闇の中を歩いていたような気がした。
そして光が現れた。ちいさな光が漆黒のなかにぽつりと灯り、錯覚かと思われたそれは確実に大きくなって近づいてきた。それは、ドアに付けられた丸い窓からもれる光だった。ヨウコが吸い寄せられるように近づくと、ドアが開き・・・ヨウコを迎え入れたそこは社員用の休憩所、兼食堂だった。
その場所では、トレイやカップを持った人たちがまちまちに行き交ってテーブルへと食事を運んでいた。カフェにでも置いてあるような丸卓のテーブルが幾つも配置されており、人々は充分な空間をお互いに取りながらテーブルを囲った椅子に腰を下ろしていた。ヨウコはそんな彼らの様子を不思議な気持ちで見つめていた。ほんのさっきまで暗闇を歩いていたのに・・・とヨウコは思う。
あの世界はどこにいったのだろう?
カフェテリアの人々が軽くざわついた空気を醸し出していた。
ヨウコは彼らが食事を受け取っている様子を眺めていた。人々はまちまちの服装でいくつかの窓口に並び、寡黙に食事や飲み物を受け取っている。食券も無く、会話も無く、彼らは望んでいたものをトレイに乗せるとテーブルへと向かっていた。
ヨウコはあまり意味も考えず、列に並ぶことにした。それほど長い列ではなかった。ヨウコは、自分がいざ列の先頭に立った時に割烹着のおばさんの前でどうしていいかも判らず、彼女の目をじっと見つめていた。
「どうしたんだい?何が欲しいんだろうね・・・。」
しばらくの沈黙の後に頭巾を付けたおばさんが言った。
「口で言ってくれてもいいんだよ。」
ヨウコはとまどって、何と答えていいのか分からなかった。
おばさんは腰に手をやると、息をついてからヨウコに笑いかけた。
「ほんとに何も知らないんだね。あんたスケジュールは持ってないのかい?」
「今日は急いで来たもので・・・」
「まあいいよ」と彼女はポケットから煙草を取り出すと火をつけた。
「ここにいるとね、」と彼女は煙を吹き上げる。
「会話が無くって嫌になるよ・・・。」
ヨウコはふと自分の後ろにいる人たちのことを思った。
「あの・・・、コーヒーでいいです」
「え?何か言った?」
「コーヒーでいいです。ホットコーヒーいただけますか?」
「ああ、そう?コーヒーでいいの?」
おばさんはつまらなそうに煙草を消すと奥へと消えた。
ヨウコはもういちど周りを見渡すと自分のいる場所をあらためて見つめ直した。その空間は多くの人がいるにも関わらず、ある種の静けさを含んでいた。人々は小声でぼそぼそと、最低限の言葉しか交わしていない。それでも人が集まると起こる、必然的なざわめきが漂っていた。
ヨウコはマグカップに入ったコーヒーをトレイに乗せて、空いているテーブルを探した。偶然空いている席があったので、ヨウコはトレイをテーブルに置くとゆっくりと椅子に腰をおろした。椅子は思っていたよりも座り心地のいいものだった。硬めに作られた生地にもたれると身体の形に沿って椅子がゆっくりとたわんだ。そのまま目を閉じると思っていなかったほどの疲れが襲ってくる。「いま何時なのかしら?」とヨウコは考えをめぐらせる。
ふと園児たちがお腹をすかせている様子が浮かんできた。「あの子たち、泣いているかもしれない」他に食事の面倒を見る人が思いつかない。「きっと泣いてるわ」とヨウコは今になって自分の身勝手さを噛みしめていた。
「お疲れ様」
ヨウコに声をかけたのはイアンだった。
ヨウコはしばらく彼が誰だったのか、自分がこんな場所で何をしていたかを忘れて、ぼんやりとイアンのことを見つめていた。イアンはすらっとした顔立ちの、線の細い印象を与える青年だった。自分よりは2歳ほど上かもしれないとヨウコは冷静にイアンを観察し、それから自分がコートも帽子もあの部屋に忘れてきたことに気が付いた。
「僕は疲れが目にくるんだ。」
イアンはヨウコを見つめて「君も、そうなのかもしれないけど」と言った。
「目が真っ赤だよ、すごく充血してる。」
イアンの目はとても透き通っていた。
「えっ?」
ヨウコは自分がイアンの目に見とれていたことに気づくと、恥ずかしくなって思わず目を背けてしまった。どきどきと、ヨウコの胸は不思議と高鳴っていた。
息苦しく、突然に、理解できない気持ち。
「僕もコーヒーにすればよかったかな・・・」
彼は、全く分かっていない・・・。
何をこんなに緊張しているのだろう?
「何故だろう?冷たいものが飲みたいと思ったんだ」
どきどきと、どきどきと・・・。
何故だろう?解ってほしい。
「作業が終わった時に、冷たいものだって」
でも、思ったの。
「思ったんだよな・・・」
「そうなんじゃないかって」
ヨウコは、驚いたようにイアンと目をあわせた。
そして二人は、お互いににっこりと微笑んだ。
「何故だろう?君とは何処かで会ったような気がする」
「でも初対面よ」
「そうだよね、初対面だ。」
空白、
「あの」
「それで」
「どうぞ、」
「あなたから、どうぞ。」
空白、
「いやね・・・食事でもどうかなって」
「いいわね」
「疲れてるなら、いいけど」
「いいわよ」
「えっ?」
「行きましょう」
「店は?」
「あなたが誘ったのよ?」
空白、時白。
ヨウコたちは、イアンが以前ナバコフに会ったバーに寄ることにした。イアンはもしかしたらナバコフに出合うかもと思ったが・・・それならそれでいいやと考えていた。イアンには、他の店など思いも付けなかった。
バーは相変わらずの煙に包まれていた。すれ違う人影に会釈を交わし、イアンとヨウコは店の奥のテーブルに辿り着いた。バーの壁に掛けられた赤いネオンが煙を染めており、ヨウコは興味に満ちた顔つきで周囲を見渡す。イアンがテーブルをコンコンと二度鳴らすと、ウエイターが音も無く煙のなかから現れてメニューを二人に手渡した。
「飲み物は?」
「赤いやつがいいわ」
「軽くオレンジを混ぜて?」
「そう」
「情熱的に?」
「砂漠をいっぱいにイメージしながら・・・あなたは?」
「僕はクラッシクでいいよ。」
「むらさき色?」
「そう」
「ちいさな光が幾つも渦巻いているやつ」
「そう・・・。」
「グラスを掲げると、氷がカランと鳴るやつ」
「よくわかるね」
「見たことあるもの」
「どこで?」
「どこかで・・・」
ウエイターは、いつの間にか姿を消していた。
そのうちに、僕らが話していたカクテルと共に戻ってくるのだろう。
「誰もいないみたい」
「煙で、そう見えるだけだよ。」
「でも煙たくないわよ」
「これは『もや』であって煙りじゃないもの、」
「水蒸気みたいな」
「雲みたいな」
「煙」
「けむ」
「けむけむ、」
彼女はクスクスと可笑しそうに笑った。
「でも、人は居るのよね?」
声を押し殺して、ヨウコはそう囁く。
「すぐそこに居るよ。」
「私、こわいわ」
ヨウコは灰色の瞳を輝かせて、そう言う。
「僕もこわいよ」
イアンは思わず、ヨウコの頭をそっと撫でた。
ウエイターがヨウコたちの飲み物を運んできた頃、彼らはまだメニューにも目を通していない状態で、また時間をもらってから食事を注文することにした。
「あなたってどんな人なの?」
ようやくメニューの注文が済むと、ヨウコが唐突にそう聞いた。
「どんな人なんだろう?」
「わからないの?」
「そう突然に聞かれても、どう答えていいかはわからないよ。」
「いいの。続けて、あなたはどんな人なの?」
ヨウコはまるで子守唄でも聞いているかのように、軽く目を閉じて言った。
「僕は・・・どちらかと言えば、不器用な人間だと思う。肉料理より魚が好き。魚の骨を取るのが下手で時間はかかるけど、作業自体は嫌いじゃない。おもしろくない?」
「いいの」
ヨウコはゆっくり目を開けてイアンを見つめる。
イアンには、ヨウコの目がさっきまでとは違う色に輝いているように思えた。まるで別人のように、どこかで見かけた魅力的な人・・・どこで見たんだろう?イアンはいつの間にか頭の中で繰り返していた女性の姿を、目の前のヨウコと重ねてみる。それは、奇妙な感覚と共に一つになり、しばらくの間イアンは言葉を失っていた。
バーでの食事は思っていたよりもずっと手の込んだものだった。ほんの軽くしか食べるつもりも無く、頼みすぎたかと思っていた料理もいつの間にか片付いていた。ヨウコとイアンは同じものを二杯ずつ飲み、最後はヨウコもイアンと同じむらさき色のカクテルを飲んでいた。
「小さい頃のことって憶えてる?」
ヨウコは少し酔っ払った様子でグラスのむらさきを見つめていた。
「私・・・これを見ていると思い出すのよ、小さい時に持ってた世界儀のこと」
イアンは少なからずドキリとした。
「むらさき色だったわ、確か。人気があったのはマーマレード色のやつ」
「覚えてるよ、もちろん。みんな持ってたからね、僕も持っていた。」
「むらさきのやつ?」
「そう、むらさきのやつ・・・」
イアンはそこまで言うと、急に周囲の視線を感じて言葉を止めた。
「もう出よう。こんな所で、過去の話をしない方がいい。」
「どうして?」
「人の目に触れないと言っても、公共の場所だからね。」
イアンはウエイターを呼ぶと、クレジットの払いを手早く済ませた。ヨウコはぼんやりとした目でそんなイアンの様子を見つめていた。「ねえ・・・どうして?」
イアンはヨウコの腕を優しく取って席を立たせると、店内の煙をするりと抜けて外へ出た。
店の外は落ち着いた夜だった。イアンとヨウコは寄り添いながら、それでもお互いにどうやって口を開いていいのかがわからなかった。イアンは不安になり、いっそのことヨウコと手をつないでしまえばいいのだろうかと考えていた。道は繁華街を抜けて暗く、寂しくなっており、石畳の下に根を張った街路樹が何本もじっと黙ったままイアンとヨウコを見下ろしていた。空気は重苦しく、ひんやりと冷たかった。
「どうして?」とヨウコは言う。「どうして過去の話をしちゃいけないの?」
イアンはいきなりのヨウコの問いかけに多少驚いたものの、ヨウコの声のトーンに安心して言った。
「うちの会社はね、ある意味で徹底した会社なんだ。僕も詳しくは知らない。うちの会社がどうやって儲けているかなんて、わかりっこない。僕は、僕に与えられた仕事をきちんとこなすだけだ」
そっと、イアンはヨウコの手を握った。
ヨウコの胸はどきりと、高鳴る。
「だけどね、僕らは仕事を受ける時に細かい誓約書にサインするんだ。会社が企業として成り立つ上で効率性を落とさないように、約束事を決めている」
ヨウコは、話しているイアンをじっと見つめていた。
「その一つに『過去について、話してはいけない』という項目があるんだ。それがどういう理由で決められているのかは、知らない。だけど・・・過去に関して、何かがあいまいなんだよ。」
イアンはそこまでしっかり語ると、急に口ごもってしまった。
「どうしたの?」とヨウコは声をかける。
「うまく・・・思い出せないんだよ。」
イアンは搾り出すように、そう言った。
「思い出せないって・・・何が?」
「何なんだろう?」
「過去のことが?」
「覚えてないわけじゃない。ただ・・・何かがあいまいで・・・いろんな所が抜けている気がする。」
「それは仕事のせいなの?」
「わからないよ。」
「想像力を奪われ続けると、どうなってしまうの?」
イアンは、ヨウコの顔を見てにっこりと笑った。
「大丈夫だよ・・・死ぬことはない。それに、僕は別に想像力を奪われている訳じゃない。うまく利用して生計を立てているだけだよ」
イアンは、つないでいたヨウコの手にそっと唇を押し当てた。
「ずいぶん寒くなってきたね。見せたいものがあるんだ。迷惑じゃなければ、寄ってほしいいところがあるんだけど・・・。」
「いいわよ。」とヨウコは言うと、イアンの腕に態と重くもたれかかった。
笑いながら体勢を整えたイアンが「酔ってるの?」と聞いて、
「酔ってるの」とヨウコが上機嫌でそれに答えた。
イアンは、いつも暗く落としているリビングの光を上げた。壁が思っていた以上に白く浮き上がり、無機質な様子を映し出す。イアンはその様子にほっとして
「何も無いけれど」と言葉を付け加えた。
ヨウコは部屋を見渡して「本当に何も無い」と思う。生活に必要なものは揃っている。だけど、それからは生活のかけらも浮かんでこなかった。
「コーヒーしかないけど、いいかな?」
イアンの声がキッチンの方から聞こえてくる。
「いいわよ」と、ヨウコは反射的に声を上げた。
かちかちと、マグカップの触れ合う音が聞こえる。ヨウコは目を閉じて、空間に思いを馳せてみる。この部屋はどんな時間を過ごしたのかしら?
それでも、何も浮かんでこなかった。
「おまたせ」
背後から声をかけられ、ヨウコはどきりとした。
「早かったわね」
「別に豆から入れてるわけじゃないからね、」
「それで?見せたいものって何?」
イアンはカップをヨウコに差し出し、
「そうだね、そうだったね。」とヨウコを寝室に案内した。
「気をつけてね、」
そうイアンはヨウコに囁く。
「光や刺激に敏感なんだ。」
イアンはそっと開けたドアの隙間からヨウコを滑り込ませ、自分も後を追うとドアを閉じた。
照明のまったく無い部屋で、世界儀は光を放っていた。むらさきの雲が小さな渦を巻き、ぼんやりと青い光が幾つも水晶の表面を通して、まるで渦そのものが浮かんでいるかのように見えた。
ヨウコの心は瞬時にして奪われる。その渦の中・・・淡い光の粒子が、引き合い、ぶつかり合ってバランスを保とうと輝いている。イアンが部屋の照明を暗く点すと水晶容器の輪郭が浮き上がり、それに同調するようにヨウコは意識を取り戻した。
「きれいね」とヨウコは口にした。
「どこかに生命が生まれているかもしれないんだ・・・」
イアンはヨウコの肩越しに世界儀の光を覗き込む。
「そう思うと、とても特別な光に見えてくる。」
「でも、見つからないのね?」
イアンはヨウコの顔を見る。
「よくわかるね」
「だって、今まで見つけた人なんていないもの。『見たかもしれない』とか言うだけで、見つけた人なんていないのよ。」
「でも理論的には、存在する。」
「理論的にはね、出会う確率はすごく低いのよ」
「確率・・・」
「そう、確率。」
イアンは自分のマグカップを両手に持つと世界儀の前に座り込んだ。
「座らない?ゆっくり見ようよ」
ヨウコは言われた通りカーペットの床に腰を下ろし、マグカップからコーヒーを一口飲んだ。世界儀の雲は、ゆっくりと渦を巻いている。
「それにしても・・・」とヨウコは何かを言おうとして、言葉を失った。世界は音も無く、ただただと光を放っていた。その光の中で顔も姿さえ知りえない人と人、それぞれの命と生活が何処かで尽き、生まれ・・・輝いている。それを改めて感じた時、ヨウコは自分の身体から言葉も心も抜け落ちたような感覚を覚えた。
「一緒に探さないか?」
つぶやくように、イアンは言った。
「確率では、そうかもしれない。でも・・・」
イアンはじっと自分の手の平を見つめていた。
「確率では無い、何かがあるかもしれない。」
「可能性」
「不確定要素」
「奇跡?」
イアンはため息をつく。
「そうかもしれない」
「起こるべくして起きる・・・」
「偶然」
「あるいは・・・」
「もしかしたら・・・。」
「そんなことってあるの?」
「結果論さ」
「すべてが、結果論」
「そう考えるとつまらないわ」
「そうだろ?」
「そうよ」
「だから・・・」
「探すの」
「二人で・・・」
「そうね」
イアンとヨウコは世界儀に手をかざし、意識をゆっくりと解き放った。
むらさきの、世界儀の雲は音も無く渦巻き光っていた。
イアンとヨーコ @tsuboy
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