ヨウコ 2
ヨウコはずいぶんとコートの誘うイメージに慣れ、寒々とした空気を肺に送り込み、暖める呼吸法さえ見付けていた。すうっすっと鼻から吸い込み、ふうっと口から吐き出す。その時に肩が自然と震えるのだ。
イメージを追いかけることでヨウコは不思議な感覚を覚える。まるで本当の自分が被われたように感じられる。「帽子があればよかったのに」とヨウコは思う。そうすればもっと上手く身を隠すことができるのに。
コツコツと、石畳を踏みしめる足が向かっているのは西側のアパート地区に間違いない。他に歩いて行ける居住区は思い当たらなかったし、バスに乗るには停留所をやり過ごしている。それならば、とヨウコは寄り道をしてからそちらに向かう事にした。
公園には街灯がひとつも無い。植樹林に面した舗道は影に埋もれ、ひっそりとしている。生命の気配さえ無いようにヨウコは感じる。冷たく、息を潜めて・・・眠る『何か』。
ヨウコは小さな積み石で組まれたゲートをくぐって夜の公園へと歩みを進める。普段ならこんな時間に立ち寄ることは無い。だけど不安や恐怖は不思議と無かった。心はどきどきと高ぶりもせず落ち着いていた。
手入れの行き届いた芝生と舐めるように伸びる石敷きの小道。ヨウコは歩道を避け、芝を踏みしめて枝のすき間から空を覗く。上方から満月の光が色を落とし、芝生を青白く浮き上がらせている。
ヨウコは顔を覗かせて、息を吐く。月の光が、ほんの一瞬だけ小さな雲を浮き上がらせ・・・ヨウコはぼんやりと眺めていた。「空が明るすぎるのね」とヨウコは思う。それから木に寄り掛かり、髪ごしに耳をゆっくりと木の幹に押しあてた。
木はしんと静まりかえっている。ヨウコは急にわくわくと、こみ上げてくる気持ちの高ぶりにクスリと笑う。何がこんなに楽しいのだろう?普段居るはずも無い場所に隠れている自分が可笑しく思えてきた。目の前には青白い芝生、それが陰影に歪んで目に映るのだ。「わたしって、意外と悪い子なのかも」ヨウコは幹にしなだれかかり、勢いをつけてそれを突き放す。
月の光に姿をさらし、ヨウコはコートの下の髪をゆっくりとかきあげる。灰色の瞳が透くようにきらりと月光を受け、前髪がふわりとアクセントを添える。前をはだけたコートからスカートが覗き、すらりとした足がそのコートを切るようにかき分ける。解放された女性像を弄ぶかのように、ヨウコは自らを楽しみ微笑んでいる。
「いつもはこうじゃないのよ」とはにかみながらわざと立ち上がって歩く姿を強調させる。特別に難しいことでは無く、ただ動作をゆっくりと「誰かに見られている」と意識するだけでよかった。ヨウコは光の届かない木の間から覗いている幾つかの眼を想像した。
誰も居る気配は無く、それでも「何かがそこに居る」とヨウコは想像する。それはヨウコを見つめることは出来ても、ふれる事は出来ない。ヨウコは目を閉じる。ルージュを引いた唇を軽く突き出すように、顎をあげて息をつく。
「あなたにはわたしが感じるのよね・・・」とヨウコは影の奥に視線を投げる。
「いつもわたしを見つめていたのね、」とヨウコは歩みをすすめる。
「あなたが欲しているのはわたしの何?」
「純粋な所かしら?」
青い光はヨウコを照らしている。
「いつも我慢してたの」
さらさらと、極めの粗い光の粒子が降り注ぎ
ヨウコのコートで弾け
「意味無く泣いたりもするの」
「別にどう思ってくれなくても、いいの」
「意味なんて・・・」
細かい粒になって地に舞い降りる。
「本当に無いんだから。」
「でも、さびしいんだよね。」
声は木々の奥、闇のなかよりずっと奥の所から聞こえてくる。
それはいつも心を撫で解かす落ち着いた声。
「ほんとうは、わたし怖いの」
ヨウコはそぶりも見せずに、さっそうと振る舞う。
「いつも不安なのよ。心の痛みすら感じなくなるんじゃないかって」
「痛みが消えるなら、それでいいじゃないか」
髪を風に解かし、薄く目を閉じてみる。
「あなた、何も解ってないのね。わたしはただ、不安なのよ・・・」
ヨウコはふと唇に手をやり、自分でも思いも寄らなかった仕草にどきりとする。「わたし、何をやっているのかしら?」
もし本当に誰かが見ているとしたら、そう考えると急にヨウコは怖くなった。コートの前を合わせ、気も付かずに失われていた熱にぶるりと身体を震わせた。
ヨウコは、しばらく歩いた所に月明かりに照らされたベンチと、それに横たわって眠っている一人の男を見付けた。男は顔の上に山高帽子を乗せ、両手を胸の上で組んだままぴくりとも動かなかった。
遠くからその様子を見つめていたヨウコは男が微動すらしないことを確認すると安心し、その男に近付いていった。
きちんと揃えた両足を伸ばし、ベンチにかろうじて納まっている男の年齢は中年を過ぎたぐらいではないかと思った。がっちりとした肩幅と軽く膨らんだ腹、その胸も腹も呼吸に上下はしていなかった。「生きているのかしら?」とヨウコは思う。
ベンチの前で膝を折り、コートの前を揃える。それからゆっくりと顔に被せられた帽子を取る。きれいな口ひげを生やした男の顔は考えていたよりずっと若かった。その男は、安らかに目を閉じている。「死んでいるの?」とヨウコは思う。
ヨウコは自分の動悸が高ぶるのを感じながら男の手にそっとふれた。それは冷たかった。手の平を男の口元にかざしてみた。暖かみも、息吹も感じられなかった。何故か男が死んでいることを理解するにつれて、ヨウコはとても落ち着いた気持ちになっていた。それは男の顔があまりにも安らかに、微笑みを浮かべて目に見えたからかもしれない。ヨウコは、男が過ごしたかもしれない時間を思ってみた。
何故、こんなに安らかな顔をしているのだろう?
ヨウコは手の帽子を撫で、その手触りを記憶する。
それからゆっくりと男に顔を近付けて、唇を重ねる。
さらりと、ヨウコの髪がこぼれて男の頬に触れた。
鉄に似た、冷たい味が口に拡がった。
ヨウコは、帽子を手にして立ち上がった。そして、その場を去ろうとした時に「ちょっと待ってくれないか」という男の声が聞こえた。ヨウコは振り向いて、首だけをこちらに向けている男を見つめた。
「思い残している事は大いにあるんだ。だけど悪い気はしない。あなたが思うように、私は安らかだよ」
ヨウコは男の側にゆっくりと向かう。
「私の胸のポケットに入っているものも持って行くといい」
男は優しく微笑んだ。
「自分で渡したいのだが、そういう訳にもいかない。探してくれないか?」
ヨウコはコートの下の胸ポケットを探り、黒縁の眼鏡を取り出した。
「安心したまえ、度は入ってないよ。くれぐれも気を付けて行きなさい」
ヨウコが「ありがとう」と声をかけると男は声を失い、元の姿勢と表情に戻っていた。その表情にはもう安らぎも微笑みも浮かんではいなかった。目を閉じたまま硬くこわばって冷たい、怯えにも似たものが覗いていた。
ヨウコは立ち上がると、公園を後にして西の居住区に向かう事にした。
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