二年ぶりの着信
賢者テラ
短編
都会の喧騒もこの時刻には少し薄れて、通りにはただ深い闇があった。
予定外の残業で帰りが遅くなった尾上洋司は、重い体を引きずってただ一人、他に誰も歩いていないビルとビルの間の寂しい通りを、フラフラ進んでいた。終電も出てしまっているような時間だったが、彼の家は会社からそう遠くない場所にあったので、帰宅には問題なかった。
もともと友人と会って遊ぶ約束をしていたのに、急な仕事の都合でキャンセルせざるを得ないハメになった洋司は、ムシャクシャした気分を持て余していた。
……ちっくしょう、何かうさ晴らしできるようなことないかなぁ。
明日は休みだから夜更かしに支障はないが、今はなにせせ午前2時。
何かするといっても、それはかなり限定されてしまう。
そんなことを考えながら歩いているうちに、電柱に張ってある張り紙が目に入った。
端が破れて、雨風にさらされたせいかしわしわで、インクがにじんで読みにくい。
それでも、何とか読み取ると——
電話一本で参上! デリバリーヘルス『夜蝶』
待ち合わせ→ホテル行きも可
チェンジOK
60分 ¥9,500より (ホテル代・交通費別途)
営業時間 : PM7:00~AM5:00
まずはお電話ください!
090-37XX-18XX
あまりうまくない、下着姿の女の子のイラストが文面の脇に添えられてある。
白黒の、何ともお粗末な広告だ。字もワープロ打ちどころか手書きだ。
この店が、いかに三流どころかが分かる。
優良店なら、インターネットか風俗誌かスポーツ新聞くらいにしか載せない。最低でも、広告くらいPCのオフィスソフトでも使って作るくらいのことはするはずだ。
電柱に紙をはる時点で、怪しい。
「でも、ちょっと面白いかも」
この時、洋司は特に女が抱きたかったわけではない。
言わば、ちょっとした出来心だ。
見たところ、広告も端が破れ雨で字が滲んでいる。電柱に貼られてからずいぶん経っているに違いない。
電話をかけたところで、こんな店もう存在していない可能性が大だ。
電話に出なくて当たり前。もし誰か出たら出たで、それはまた面白い。
果たして、電柱に広告を貼るような風俗店がどんなクオリティの営業をしているのか、一度試してみるというのも話のネタとして面白そうではないか? 昔と違い、犯罪まがいの怖いのに当たる可能性はほぼないし——。
そう考えると、不思議なことにあれだけ重かった体が軽くなり、ふさぎこんでいた気分もワクワクと高揚しだした。人間、本当に気の持ちようである。
さっそく、ポケットからスマホを取り出した洋司は、電柱の広告に書かれてある電話番号をプッシュした。相手が固定電話ではなく、090で始まるケータイ番号だということも、ちょっと胡散臭い。
「おおっ」
トゥルルル……というコール音が耳に届く。
一応は使われている番号のようだ。
呼出音が5回鳴った。
洋司は、10回鳴って誰も出なかったらあきらめようと思ったのだが——
8回目にして、電話がつながった。
回線はつながったようなのだが、向こうは無言である。
一向に、名乗ってくる気配がない。
仕方なしに、洋司のほうから声を発した。
「えっと、すいません。そちら、『夜蝶』さんですか?」
やや間があって、弱々しい声で『はい』と答える女性の声がした。
その後、不思議なやりとりが続いた。
まず分かったことは、その女性は店主ではないらしい。
よく話を聞くと、どうも店に勤めているデリヘル嬢本人だということだ。
「すいません。今電話番の店員がおりませんで」
だから直接店で待機していた女の子が見かねて電話に出た、ということか。
さっさと事務的な手続きを済ませて女の子を呼ぼうと思ったのだが、なぜか話がそれて電話口の女の子と気が合って、ついつい色んな話をしてしまった。
そしてついに、話は女性の身の上話にまで発展した。
……私ね、バカだったの。
ほんと、世間知らずだったと思う。
親にも世間にも逆らってね、お金欲しさにこの業界に飛び込んだの。
体なんて、触られようが舐められようがアレ入れられようが、避妊さえすれば別に減るもんじゃなし、利用しない手はない、くらいに軽く考えてた。
でもね、私やっと分かったの。
やっぱり、減るの。
愛してもいない男の人に体を好きにされることで、確実に私の中の何かが減っていくの。
何がどう減っているんだ、と聞かれてもうまく説明できないんだけど。
ある日、私の中でとうとう何かがはじけちゃって。
私ね、心が壊れちゃったの。
泣きながらね、初めて手首切っちゃった。
情けないんだよ。知ってます? リストカットくらいじゃ、人間はなかなか死ねないものなの。
要するに、本気で死にたいという気持ちの表れじゃなくってね、本当は生きたい・誰かに構ってほしい・誰か私のこと見てちょうだい、っていう気持ちの裏返しなわけ。
取り返しのつかないことをした、と思った。
うまくすれば一日に4・5万が稼げたけど…
それと引き換えに、お金よりもっと大事なものをどんどん悪魔に売り渡していたのね。
私、生きたい。
もっと、もっと生きたいの。
そして、体だけじゃない本当に愛し愛される関係が欲しいんです。
ねぇ、お客さん。お客さんに聞くのもおかしいいですけど——
こんな私でも、努力すれば大丈夫だと思いますか?
今からでも、やり直せると思いますか?
受話器から女の物悲しげな告白を聞いているうちに、洋司は彼女の心の痛みを親身になって感じ取り、そして深く同情した。この時の彼は、もはやからかい目的や女を抱く目的で電話したことを忘れていた。
……お客さんなのに、こんな話になっちゃってごめんなさいね。
お客さんがとっても優しそうな方だったんで、ついつい。
今まで誰にも話せなかったこと、あなたなら聞いてもらえそうな気がして。
彼女は、そう謝って苦笑した。
「今から、会おう」
洋司は、電話口の女の子に訴えた。
「もっと話を聞いてあげたいんだ。そして、君が少しでも立ち直って元気になるきっかけがつかめるように、何とか手助けしてあげたいんだ」
それは、うそではなかった。おかしな縁で結び付けられた関係ではあるが、人生に絶望した命が目の前にあって、自分の努力でそれが救えるのなら、そうしてやりたいと真剣に考えた。
電話口の向こうで、女の子が泣いている。
「ありがとう。本当にありがとう……」
彼女は、何度もありがとうを繰り返した。
そして、彼女は今いる場所の住所を、洋司に告げた。
歩いても、問題ない距離だ。
女の子の店での源氏名は、『のぞみ』というらしい。
「必ず来てね。待ってます——」
15分後。
ある雑居ビルの4階にやってきた洋司は、わが目を疑った。
誰もいない。
いや、単に誰もいないのではなく、まったく店のようなテナントが入っている気配がない。
真っ暗なビル内、むき出しのコンクリートの壁。
「こりゃ、間違えたかな?」
そう思ったが、しかし何度確認しても住所とビル名・階数に間違いがない。
静まり返った空間に、かすかに階段を駆け上がる足音が近付いてきた。
「ちょっとあんた、こんなところに何の用事で入ってきたんだい?」
懐中電灯を片手にやってきたのは、このビルの雇われ管理人だった。
事情を話すと、管理人の初老の男は驚いた表情を見せた。
「確かに、風俗店ならここにありましたが、今はもうありませんよ。二年前に潰れて、今はこの通りの空き室でさぁ。何でも、風俗嬢の自殺があったとかでさ。気味悪がってか、テナントもなかなかつかねえんで、難儀してるんですよ」
驚いた洋司は、管理人の男に聞き返した。
「自殺? あなた、当時のこと覚えてますか? 例えばその女の子の名前とか」
「う~ん」
管理人は腕組みをして、何か考えるような顔つきになった。
そして、やがて何か思い出したのか。、重々しく口を開いてくれた。
「首を吊って死んだんだっけ。本名は知らないけど、店での名前は確か 『のぞみちゃん』だったっけな」
特別の許可をもらった洋司は、4階の廃墟と化した室内を見て回った。
「あんたも奇特な方だねぇ。見るのは構わないけど、何かあっても知らねぇよ」
管理人は、それだけ言い残して階下へ消えていった。
洋司は、さびれた室内をあれこれ見回った。
彼には、ひとつの確信があった。
……これは絶対にいたずらなんかじゃない。何かがある、何かがー
部屋の隅に、何かの光が見えた。
洋司は、あわててその光に向かって駆けた。
そう広くないビルなので、すぐに光源の前まで着いた。
よく見ると、携帯電話だ。スマホどころか、随分昔に流行ったタイプ。
ボディの色やストラップ・付いているシールの類から察するに、若い女の子の持つものだということが分かった。
はやる気持ちを抑えて、洋司はその折りたたまれたピンク色のケータイを開いた。
機械が反応して、液晶画面が光る。
そこには、途中まで打たれてまだ送信されてないメールの文面が残っていた。
このケータイは、明らかにのぞみのものだ。
そしてこれはあとで分かったことだが、洋司がかけた『夜蝶』の店の電話番号はこのケータイの番号だった。そして、二年も放置されていたケータイの電源が生きていた、というのも、今となっては説明のつかない不思議な現象である。
「さっきは、お話聞いてくれてありがとう。
めっちゃうれしかったよ。
あなたのような人にもっと早くに出会えてたら、私死ななかったのにな。
でも、過ぎたことはもう仕方ないね。
あなたのお陰で、私の魂の苦しみも少し楽になりました。
ずっとここに縛り付けられてきたけれど、あなたのおかげで動けます。
私、絶対あなたのこと忘れない。
いつでも、あなたのこと見て守るね。
あなたの幸せを祈るね。
だから、あなたも時々でいいから、私のこと思い出してね。
それだけでいいから。
あなたの奥さんになる人がうらやましいな。
でも、誰かと幸せになってね。それがイチバン。
それじゃあ、私はもう行きます。
バイバイ
のぞみ」
洋司はメール画面を保存すると、ふと気になって画像フォルダを開けた。
そこには、画像データが一枚分だけ残っていた。
屈託のない笑顔で、指でVサインをするのぞみの姿があった。
かわいい子だった。生きていれば、楽しいこともあったろうに。
ケータイを大事そうにポケットにしまった洋司は、その場で手を合わせた。
神仏など信じていなかったし、ましてや霊の存在など考えたこともなかった洋司だったが、この時は粛然として心のこもった祈りを捧げた。
……のぞみちゃん。あとはゆっくりと、おやすみ。
洋司の頬を、一筋の涙が伝った。
やがて外へ出た彼は、ビルの谷間に見える月を仰いだ。
なぜか、その月とだぶってのぞみの笑顔が見えたような気がした。
フッと苦笑した洋司は、再び家に向けて歩き出した。
二年ぶりの着信 賢者テラ @eyeofgod
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