障害学

 私のエッセイをここまで読まれている方なら分かると思いますが、私は一貫して『障害者』という表記を行っています。昨今では『障碍者』や『障がい者』という表記も増えていますが、私はあくまでも『障害者』という表記を貫くつもりです。

 その理由なんですが、障害の医学モデル、社会モデルというものがあります。例えば『目が見えない人が本を読むことが出来ないのはなぜでしょうか』、という問いに対して医学モデルでは『文字が読めないから』という答えになります。では社会モデルでは。『盲目の人用に本が作られていないから』と答えが変わります。確かに考えてみれば点字で本を作ることも可能ですし、誰かが朗読したものを流す音声として本を読むこともできるはずです。つまりなのですが、障害というのは個人のせいではなく社会が作り出しているというのが私の考え方です。

 なので私は『障害者』という表記を使いたいと考えております。障害を個人の問題とするのではなく社会の問題とすることにより、いずれ、全ての障害がなくなるのではないのかとすら、理想論ではあるのかもしれませんがありえると思っております。

 しかし、不可思議なことではないと思います。私は眼鏡を普段しようしています。しかし、もしもこの世に眼鏡というものが存在していなかったら。恐らくですが、私は怖くてなかなか外出できないと思います。日常生活に大きく関わるほど私は目が悪いのです。しかし、眼鏡というものが一般的に普及した今、眼鏡を使用さえすればなにも普通に暮らせます。言ってみれば私にとっての眼鏡は、盲目の方にとっての白杖や聾者ろうしゃ(耳が聞こえない方のこと)にとっての補聴器などと一緒です。ただ、違いとしてはそれらを使用したとしても、まだ社会に障害が多く存在しているため彼らは障害者と言われているわけです。

 とどのつまり、障害者を作り出しているのは社会のせいである、個人のせいではないというのが私の考え方です。今後医療や社会の発展が障害というものを無くしていき、私が普段日常的に使っている眼鏡のようにおしゃれアイテムや個性の一つになっていくのではないのではと考えております。

 今回はそんな障害学の話でしめさせていただきます。また、次回!

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