精神障害と偏見と差別
2016年7月26日、相模原障害者施設殺傷事件が発生しました。犯人であるAは後に『障害者なんていなくなってしまえ』と証言しており、インターネット上ではそれを賛同するかのような言葉を投げかけている人も少しだけみられ、私は悲しくなりました。
さて、ここからが本題です。ネットスラングなどでは知的障害児からもじって『ガイジ』や『池沼』といった偏見や差別的要素の混じった言葉が投げかけられることも多くあります。その他にも、どこかおかしい、こんな犯罪を犯すなんて精神障害者だからだ! なんて言葉を見かけたりすることも少なくありません。どうしてもこの世の中、こういった偏見や差別がつきものなのかもしれません。しかしながら、こういった流れを変えていきたいと私は思います。
なぜ、かすかながらマジョリティーと異なるだけで異質な目で見られなければならないのかと疑問に思います。ほんの少し違うだけ、マイノリティーであるだけ、そんなことを理由に、そんな些細なことを理由に差別を続ければどうなるでしょうか。その答えは非常に簡単なことだと思います。
恐らく全員が何かしらのマイノリティーに所属していることでしょう。今は障害者などをマイノリティーとし、見つけ出し差別をしている状態の方がいます。仮に上記した事件のように差別し、マイノリティーを全員を殺害(法の下処刑)したとしましょう。すると、恐らく次はまた別のマイノリティーを探すことになると思います。そうして全員を殺害して次のマイノリティーを探して……極論ではありますが、差別をしていくと最終的に1人になるのではないのかと私は考えます。その辺りは、時雨沢 恵一氏著作の『キノの旅』第一巻『多数決の国』を見ていただければその様子を見れるかもしれませんね。もちろん、このお話がそういうことを表しているというわけではなく、あくまで私はそういう風に感じたというものです。
繰り返しますが、これは極論のお話です。ですが、マイノリティーを差別し続けたところで得をするのは一時的な物。長期的に見ればきっとマイナスに動くことでしょう。
また、オハイオ州のスコーロンスキー氏の心理学の実験において、Xという人物がYという人物の悪口を言っている映像を被験者に見せました。その時被験者はYのことを本当に、そうなのか(Xの言った悪口どおりなのか)など疑問に思い、印象はほぼ下がりませんでした。しかし、悪口を言っていたXの印象はかなり下がっていました。誰かの評判を落とそうとX、とことん差別し、評判を悪くさせようとすると必ずそれ以上に自分に返ってくるということがこの実験で証明されたと言っていいと思います。
ハッキリ言います。差別なんてして得をする人はおらず、損をするのは自分だけ。仮に得をするとしてもそれは一時的な相手より上にたったという、幸福感でしかないでしょう。
私自身、全く差別がないとは言いません。心理学の実験で有名なスタンフォード監獄実験というものがあります。詳細は省きますが、この実験においては強い権力を持つ者と持たない者が同時にいると歯止めが利かなくなり暴走していく、元々の性格、個性が無くなってしまう(つまり障害者という一つの役割に囚われてしまう)ことを如実に表しています(現在はこの実験を批判する意見があることも記述しておきます)。つまり、差別を作らないというのは難しいことだと思います。
ですが、その差別を心の中にそっと置いて、外に出さないようにするだけできっといい社会が広がることだろうとおもいます。差別を全くするなとまではいいません。ですが、悪意を振りまくこと、それはやめてほしいということを伝えて、今回は終わりたいと思います。
次回は障害とはなんなのだろうか、ということについて言及していきたいと思います。
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