佐々木勉

朝、不躾に鳴り響く目覚まし時計にゲンコツを食らわす。瞼が重い。まだまどろんでいたい。そんな風なことをいつものように思っているとふと、腹部に何かが触れていると感じた。いや、触れているというよりかは乗っているか?

少々の気味の悪さを覚えた私は試しに仰向けのまま左肘を支えにして、のそりと体を三十度ほど起こしてみた。そこにあったのはひらがなの「あ」だった。

「は?」

素っ頓狂な響きでもってこの状況に放たれたひらがなは一文字であるが、非常に雄弁だったはずだ。それだけ目の前の存在はわけが分からない。白ブチが施され内部を黒く塗られた大きさ五cm四方の「あ」。厚紙のようなものに書かれているはずのそれは何故か私の腹の上で起立していた。

「いや、「あ」だよな。どう見ても。」

なぜ平面でしかないこのひらがなが直立しているのかという物理的なことは一旦置いておこう。今大事なのは、

「見ているのか?」

そう、この「あ」はさっきから不動を貫き一切ブレることがなかった。コピーインクにより無機質に色塗られたひらがなはじっと私の顔を捉えているように思えた。まさか、と思い顔を左右にゆっくりと振った。「あ」が連動して動くことはなかった。ただやはりおかしい。顔が動けば私の腹部に掛けられているタオルケットも多少は動く。にもかかわらずこの不気味な板は一切動いていない。自らの座標をそこに頑として固定する何かが存在しているのだろうか。考えていてもしょうがない。私はこの厄介者を排除することにした。

方法はいたって簡単だ。つい数十秒前、目覚まし時計に振りかざした拳を今度は水平方向に振るえばそれで済む。左肘に全体重をのせたまま、右手で拳をつくり、一振り。腹部より邪魔者は消えた。感触は強いて言うならプラスチックのような軽さと、それでいてベニヤ板のようなザラつきが同居していた。深夜に蚊を倒した時と同じような達成感を感じた。なぜだか「あ」に感謝したい気持ちになった。

しかし、今度は右の拳に違和感を覚えた。本来ならとっとと元通りにして、少々痺れてきた左肘を解放しこの達成感の中、二度寝を敢行していてもおかしくはない。いや、そうしたい。それなのに何故私の右拳は開かないのだろうか。薄い墨汁のような不安感が心の片隅で噴出し、肩甲骨の下あたりをヒヤリと伝っていった。私は自らの右の拳を目視した。

いた。「あ」だ。人差し指から薬指までにかけて第二関節の中程辺りに指と垂直になるようにして付着していた。エンパイアステートビルディングにつかまるキングコングのような出で立ちでこちらを凝視し返している。

ひっ、と少女のような声がでた。しかし不思議と恥ずかしいと思う気持ちは出なかった。それはこの寝室である四畳半に私しか人間がいないからでは無い。私の心を不気味さが侵略しつつあったからだ。じわりと触手のように忍び込んでくる感情は抑えようとすればするほどより勢いを増してくる。それに比例して背中を伝う冷や汗の量が増していく。

「なんなんだよ。お前は」

目の前にいる存在が何かしらのコミュニケーションをとれるとは微塵も思わない。しかし口に出さなかったら参ってしまう。依然としてこのゴシック体で書かれた「あ」はこちらを見るようにして揺るがない。先程私により殴られたであろう箇所も歪んだりすることは無い。一貫して変わらない。不変にして不動である。喉から掠れた音がする。コヒューコヒューとなんとも情けない。しかし今においてはこの滑稽さに救われる。全身の毛穴が蠢き、焦りが身体中を駆け巡る。消えてくれ。そう願った私は閉じたままの右拳に思いっきり左手で平手打ちをした。傍から見れば喧嘩前の男が布団だけの部屋で孤独に気合いを入れた図である。私は肩で息をし、いつの間にか寝ていた上体を起こしていたのだなと冷静ぶってみた。

この夢のような瞬間もまた連綿とした人生の中の記録として流れていくのだとすると何だか寂しいような気がする。さっきはうまく倒せてなかったとはいえ、今度は潰したのだ大丈夫だ。安心したら腹が空いてきた。

今日もあと1時間したら本屋に出勤になる。仕事柄体力を使うので朝食はちゃんと摂らねばならない。トースト2枚とマーガリン、それに昨日の残りであるカレーでいいだろう。こうして俺の1週間は始まっていくのだり。奇妙なひらがなに占領されていい時間などないのだ。だからだろうか、焦りと苛立ちと気味悪さ、それらが混ざった感情で持って叫んだ。

「なんでまだいるんだよ! なんなんだよテメーら!」

そう、まだ私の右拳からは「あ」は消えていなかった。それどころか左手の手のひら中程にも新たな「あ」がまるで分裂でもしたかのようにくっ付いていた。

「ふざけんなよ! こっちは忙しいんだよ!なに増えてんだよ!」

連続で叫んでも目の前にいる分裂体は何も言わない。ただただそこにいるのが当然だと主張するかのようにくっ付いている。いや、これはもはや結合と言ってもいいだろう。左手の人差し指と親指で右手の「あ」を剥がそうとするも皮膚が山脈を築くだけでなんの効果も得られない。試しに噛んでみたが噛み砕けない。思えばこの「あ」は不思議な素材である。厚紙、ベニヤ板、ウエハース、プラスチック、そのどれとも言えない物質で出来ているとしか思えない。その上、潰すと分裂する。幸いにして、噛んだくらいではなんとも無かった。知れば知るほど気味が悪い。水でふやかしてもだめ、火で炙ってもだめ、包丁できってもだめ、 プラナリアや仮死状態のクマムシよりもよほど不死だ。どうしようもない。助けを呼ぼうか。警察? 消防? それとも未知の生命体に襲われてるからって理由で自衛隊? だめだそれでは仕事に間に合わない。うちの店はただでさえ売上が落ちているのだ。明らかな面倒事になって遅れましたすみませんは通じない。

「どうすりゃいいんだよ。」

そもそも仕事がおかしいのだ。本屋にも関わらずコンビニみたいな365日営業をやりやがって。そんなことしても近くの大型店舗や百貨店には敵わない。にも関わらずサービス業とはなばかりの肉体労働だ。返しても返しても減らない返品の山を見ては死にたくなるというものだ。消えて欲しいのに無くならない、むしろ増える。この点では仕事と「あ」は同じだ。死んでしまえ。

出勤にかかる時間を考慮してもあと15分以内にはこの目の前の存在をどうにかしなければならない。日光にかざす、だめ。沸騰したお湯につける、だめ。きりで穴を開ける、だめ。神に祈る、無駄。 半ば諦めた私は枕元にあるスマホを手に取り、電話帳の中にある「店長」横の受話器マークを震える左人差し指でタップした。耳元でコールが3回。プツッと余白が空いて微かなブレスが聞こえる。

「もしもしおはよう、西村くん、早いね。どうかした?」

責任感のある声だ。声だけで緊張する。

「店長おはようございます。すみません。今日出勤出来そうにありません。」

「なぜ?」

ドスが効いた声が帰ってくる。

「すみません。無理なんです。」

強制的に電話を切る。心臓から暖かな血液がドクンドクン流れていくのを感じる。勝ったような気さえする。しかし、「あ」は消えていない。このゴキブリのような存在を消さなくてはならない。私は寝室を出て、洗面台に向かった。そしてそこにあるバルサンを使った。

「俺諸共死んでくれ。」

バルサンを炊いた。白い霧は穏やかにそして苛烈に意識を奪った。

狭いアパートの一室、残ったたのは「あ」だけであった。


 



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