【企画】完全なる自殺スイッチ【続】

ハシバ柾

完全なる自殺スイッチ

 男は、スイッチを前に、あぐらをかいた。

 スイッチを守る厚いガラスが、天井の今にも切れそうな蛍光灯と、音量を落としたままのテレビの光を受けて、不規則にまたたく。


 目を閉じれば、テレビの雑音と、壁にかけたスーツに染み付いたタバコの臭いばかりがそこにある。会社の飲み会でついた、他人のタバコの臭いだ。


 タバコは今や高級品で、小遣いが少ないとぼやきながら愛煙家を貫く上司らを、男は冷めた気持ちで見ていた。



 男には、いつだって、何もかもが足りなかった。金がない、恋人や友達がいない、能力がない、居場所がない。それでいて、一人前に他人を冷笑せずにはいられなかった。

 真にすべてを投げ出せるほど、絶望したこともなければ、失いたくないと足掻けるほどの希望を得たこともない。


 思い返すほどに、つまらない人生だった。

 そんな人生の中、突然やってきたスイッチが、唯一、奇妙な輝きを放っている。唐突に現れた、人生最大の選択肢だ。



 〈生きるか、死ぬか〉。そんなことは、あえて考えてみたこともなかった。


 家族もなく、楽しみらしい楽しみもなく、薄給でぼんやりと暮らしているだけの人生に未練はない。

 特別死にたいというわけでもないが、死んでも誰も――男自身でさえ――困らないだろう、という思いはあった。


 政府の実験に応募したのも、ある種の運試しのようなものだった。それが、幸か不幸か、当たりくじを引いてしまったらしい。


 スイッチは、男の胸中など知らず、ちらちらと照り輝いている。どうにも、男を誘っているようだ。



 男はスイッチを押した。一瞬の迷いこそあったものの、葛藤と呼べるだけのものはなかった。

 これもまた、運試しだ。終わるなら、終わってしまえばいい。説明書の胡散臭い文言がどこまで本当なのか、知るすべがないことが、わずかに残念ではあるが……。



 ボタンを押してから一秒を数える間もなく、男は男から抜け出した。


 俗に言う『幽体離脱』というものだろうか。自らの体からはじき出された男は、自分の肉体に触れようと指を伸ばして……案外、普通に触れられてしまうことに戸惑った。


 何を触れないということもない。何なら、スマートフォンの画面だって、男の指に反応するのだ。

 会社の上司からの、うんざりするようなメッセージも、それまでと変わらず読めてしまう。



 男が戸惑っていると、ちょうど、政府からの着信があった。男は、実態のない――はず――の指で画面に触れ、着信に応じる。


「あの、ちょっとおかしいみたいなんですけど。私、本当に死んでいるんでしょうか? 生きているときと全然変わらなくて……」


 電話の相手は、何度か男の名を呼んだだけで、すぐに電話を切ってしまった。男の訴えには、全く無反応のままに。



 三十分ほどして、かっちりとしたスーツを着た男が、何かの業者らしき者たちを伴って、男の部屋に現れた。締めたままにしていた玄関の鍵も、すぐに特殊技能に暴かれる。


 スーツ姿の男は、誰かと電話で話をしてから、業者らしき者たちに指示を出した。

 支持を受けた業者らしき者たちが、数人がかりで男の肉体を部屋の外へと運んでいく。



 男は、「何かがおかしい」「自分はここにいる」と、彼らに訴えかけた。だが、男の声は、彼らには届かなかった。


 そうして男は、どうすることもできないまま、自分の肉体が黒いバンに積み込まれ、持ち去られるのを見送った。



 バンの姿が見えなくなった頃、男は部屋に戻った。


 部屋は、いつも通りの姿をしている。男自身もいつも通りのように思われるし、この部屋にいる限りは、生きている頃と何一つ変わらない。



 あのスイッチは大したものだった。

 説明書の通り、苦痛のない死であったし、死体もさっさと片付けられてしまった。あの手際なら、「記憶操作」だとか、「社会的な責任の解消」だとか、そういうことも滞りなく進められるのだろう。



 男は、床に寝転がり、あてもなくテレビのチャンネルを回した。タバコ臭いスーツを振ってみたり、小型冷蔵庫の扉を開け、中身が空っぽであることにげんなりしもした。


 そうこうしているうち、ようやく気がついた。

 男は、〈死んだだけ〉なのだ。ただ、誰もにとって、いなくなっただけ。



 男が普段から閉め切っているカーテンと窓を開けると、世界は明けかけていた。白んだ空を、鳥の影が横切る。朝の空気はまだ冷たい。

 死んだところで、男に翼は生えなかった。心が消えてなくなることもまた、なかった。


 次第に明るさを増していく日の光に照らされながら、気づけば男は泣いていた。

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