十一 断頭台の天使
エイダンは四枚の白い翼を羽ばたかせ、燃え上がる炎を操った。地獄の業火でも、これほど激しく燃えはしないだろう。
ドウェインはショットガンを放り捨てると、地面に横たわっていたマルゴを抱きかかえ、カタカタ揺れながら歩いてきたロレーナを抱きとめた。
「天使様っ、どうか僕の家族をお救いください! あなたの不死の力を、妻と娘に恵んでくださいっ」
ドウェインは、今までの振る舞いを詫びるように膝をついた。エイダンは、羽を閉じてドウェインの前に降り立つと、二体の死体を見下ろして、鼻を鳴らした。
「何を馬鹿なことを」
「お願いします、わたしの家族を、どうか……!」
それでも引き下がらないドウェインに、エイダンは悪魔のような笑みを見せた。
「愚かな人間よ。貴様が抱えるその二つの死体が、本当にお前の家族だと信じているのか? ならば、お前に真実を見せてやろう」
エイダンは鷲のような手を突き出し、赤い爪をクイっと動かした。ロレーナとマルゴの死体が、ドウェインの手を離れて宙に浮き出した。ドウェインは二人を取り返そうと腕を伸ばしたが、エイダンがそれを許すはずがない。
「真実を受け入れよ!」
エイダンが声を張り上げると、ロレーナとマルゴの死体が炎に包まれた。二人が火だるまと化した瞬間、ドウェインは金切り声をあげて泣き叫んだ。
「うわああ、やめろおおっ!」
ところが、ロレーナの死体に変化が起きた。炎の中でぐるぐると回転し、頭蓋骨がガバッと口を開けたのだ。その口の奥から、白い煙がモクモクと昇り出した。白い煙は輪郭を持ちはじめ、醜い男の姿を形作った。
「よお、ドウェイン・フォルテ、よくもオレを腐った死体に入れてくれたなぁ!」
白い煙の男は、汚い声でドウェインに話しかけてきた。ドウェインは声も涙も全てが引っ込み、呆然と煙の男を見上げた。
「な、なんだお前は……、なぜロレーナの体からお前みたいなのが出てくるんだ……」
「何たわけたこと言ってやがるんだ! オレをこの死体に入れたのは、てめえじゃねえか!」
煙の男が罵声を浴びせると、ドウェインは顔を青くして首を横に振った。
「ば、バカな、そんなはずはない……。だって僕は、ロレーナとマルゴを蘇らせようと……」
ドウェインがうわごとのように囁いた直後、けたたましい犬の鳴き声が響き渡った。小さなマルゴの死体から、煙の犬が這いずり出ようともがいているではないか。犬は煙なのに唾を撒き散らしながら吠えている。ドウェインは悲鳴をあげて尻餅をつき、震えながら後ずさった。
「これは、これはどういうことだっ?」
「だから言ったでしょう、あなたに真実を見せると」
エイダンは冷ややかにドウェインに告げた。
「死体を動かすために、死体の中に霊魂を入れたんでしょうが、その霊魂があなたの家族のものではなかった、ということです。つまり、浮浪者と汚い野良犬の霊魂を、家族の体の中に閉じこめていただけなのです」
エイダンの説明が終わると、煙の男は腹を抱えて笑いだした。まだ体の一部がロレーナの死体に引っかかっているらしく、腕を使って引っ張り出した。
煙の男は風に吹かれて消えていった。煙の犬も、激しく吠え散らかしながら、炎の壁の向こう側に走って消えてしまった。後に残されたドウェインは、呆然とその場に膝をつき、静まり返った二つの死体を見つめるしかなかった。
「本には、ちゃんと書いてあったのに……」
哀れなドウェインに、エイダンが歩み寄った。
「間違っていたのは、あなただ。なぜなら、あなたの家族はちゃんとそこにいるのだから」
エイダンはドウェインの傍に寄り添い、ドウェインの家を指差した。家のテラスのブランコに、生き生きとした姿のロレーナがマルゴを抱いて座っている。二人の姿を見たドウェインは、目を見開いて声を絞り出した。
「ロレーナ、マルゴ……。おまえたち、ずっとそこにいたのか……」
ドウェインがすがるように立ち上がると、ブランコに腰掛けていたロレーナも立ち上がった。その拍子に、マルゴの柔らかなほっぺたが、ふにっと膨らんだ。それを目にした途端、ドウェインは涙を流した。
「ずっと、お前たちに会いたかった!」
ドウェインは、愛する家族の元へ駆け出した。ところが、その手をエイダンが掴んで引き止めた。ドウェインは家族に手を伸ばしたまま仰け反り、悲鳴をあげた。エイダンは、ドウェインの耳元に口を寄せた。
「まさか、あそこに行けるなんて、思っていないだろう?」
エイダンの囁き声に、ドウェインは息を飲んだ。震えながら天使の形相を伺うと、そこには笑みを浮かべたエイダンが、真っ白な翼を広げて、ドウェインを包み込もうとしていた。
「リックの命を奪ったあなたに、救いも希望も与えてやるつもりはない。これがおまえの罪の重さだ、思い知れ」
エイダンが告げた瞬間、ロレーナとマルゴが炎に包まれた。ドウェインは悲鳴をあげてエイダンにすがりつき、二人の命乞いをした。その瞬間、ドウェインの体も一瞬で炎に包まれた。
「なにもかも失う苦しみを、もう一度味わうが良い!」
エイダンはそう言い捨てると、火だるまになったドウェインを仄暗い井戸の底に放り捨てた。炎の塊は井戸の底にぶつかる前に塵となり、風に舞いあげられて消え去った。
風が吹きやむと、その場を覆っていた炎の壁も消えていた。後には、古びたブランコが、軋んだ音だけをたてていた。
分厚い暗雲がちぎれると、その下から銀色の月が顔を出した。
ボロボロに傷ついた天使が、明かりの中に沈むように座っている。彼は、膝の上に金髪の青年の頭を載せていた。切断された首を、丁寧に体に縫い付けてやっているのだ。黒い糸は禍々しく、皮膚を破るたびに赤い血の色を滲ませていた。
「さあ、もうすぐ終わりだよ、リック」
エイダンは優しく囁くと、糸を噛み切って処理をした。リックの陶器のような肌はくすみ、腐敗の進行を滲ませていた。エイダンは、労わるようにリックの髪を撫でた。
エイダンの指先に、忘れがたい思い出が蘇ってくる。
リックがまだ小さい頃、彼が眠れない夜は側に座って、魔法や精霊の話をした。リックは知らなかっただろうが、彼が寝入った後も、エイダンは離れ難くて、こうやって彼の髪を撫でていた。
リックは、エイダンの禍々しい運命と、血なまぐさいこの体に寄りかかってくれた。
あれから、どれだけの月日が経っただろう。
エイダンは、すっかりたくましくなったリックの頬を、そっと撫でた。リックのかさかさに干からびた唇は、陶器のように動かない。エイダンは、そっと語り続けた。
「はるか昔にね、わたしは神というものに仕えていたんだ。うんざりするような仕事だったよ。わたしはそこで、神の命に背いてしまった」
神は、信仰をなくした一人の人間に、罰を与えてこいと言った。しかしその人間は、戦と病で家族を全員亡くし、住む場所さえ奪われていた。いくら神に祈っても、家族の命は失われて、何もかもなくなってしまった。
「あの人間に必要だったのは、神を疑ったことへの罰ではなく、救済だと思った。だから、わたしは助けた」
その代償として、神はエイダンを追放した。人間に肩入れするなら、人間のように生きろと突き放したのだ。
エイダンは鷲のような手足を見下ろし、皮肉に笑みを浮かべた。
「地に降りたわたしを、人々が悪魔と呼ぶのも仕方がない。天使がこんな悍ましい姿だと、誰も考えないだろう」
エイダンはリックの頭をそっと膝から下ろし、ゆっくりと立ち上がった。動くたびに骨が軋み、白い羽が力なく抜け落ちていく。
リックの胸に空いた大穴は、青年の小さな心臓を一撃でもぎ取った。
「リック、お前の体に穴を開けてすまなかったね。治す手立ては一つしかない」
エイダンは両手の真っ赤な爪を、自分の胸に突き刺すと、グッと両側にえぐって広げ始めた。真っ赤な血がぼたぼたと滴り、凄まじい痛みにエイダンの顔も歪む。だが、リックの時が止まった顔を見つめた瞬間、エイダンの顔には慈愛が満ちた。
「リック。これがわたしの不老不死の源、天使の心臓だ」
そこには、どんな姿になっても鼓動を打ち続ける、真っ赤な臓器が鎮座している。
「ほんっと、いつ見ても気持ち悪い。そろそろ、こいつを手放したいと思っていてね。それも、人間の思い描く天使みたいなやつに譲ってやると決めていたんだ」
エイダンは心臓を鷲掴みにすると、無理やり引っ張り出してみせた。胸の前に取り出した心臓は、エイダンの手の中で鼓動を打っている。
禍々しいこれを、いっそ、握りつぶしてしまおうか。エイダンは心の中で揺らいだ後、リックの顔を見つめた。そして、静かに微笑んだ。
「リック、お前には不老不死になって叶えたい夢があったんだろう。一体、どんな夢なのか、聞きそびれてしまったよ。まったく、最後にこんな未練が生まれるなんて、皮肉なものだ」
エイダンはそう話しながら、鼓動を打ち続ける心臓を、リックの穴の空いた胸に、ギュッと押し込んだ。すると、心臓がリックの体の中に溶けていき、リックの胸の穴が閉じていく。肉と血管が結びつき、天使の心臓が、力強く鼓動を打ち始める。一方、エイダンの体温は急速に失われていった。
「わたしの全てをお前に託すよ」
エイダンはそう囁くと、リックの横にごろりと横たわった。重たく感じる手を持ち上げ、やっとの思いでリックの頬を撫でた。だが、もう指の先さえ動かせない。エイダンは、微笑みながら囁いた。
「あの断頭台の下で、お前に出会えてよかった。リック、お前は、わたしの……」
そこで、エイダンは目を閉じた。リックの頬に重ねた手が、ずるりと滑り落ちる。
ボロボロの天使は、長すぎた夢にようやく幕を閉じたのだ。
小さな天使を、また羽ばたかせるために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます