九 救いのない世界
マフィアたちが、ナイフを手にして一斉に飛びかかってきた。エイダンは像の裏から飛び出して、狭い礼拝堂を走り出した。礼拝席の背もたれに足をかけ、羽ばたくように飛び越える。マフィアたちが腕を伸ばして追ってくるが、エイダンは椅子の背もたれを器用に伝って距離を取り続けた。マフィアは椅子につんのめって、無様に倒れこんでしまった。
間抜けなマフィアだ。エイダンがほくそ笑んだその直後、上からの殺気を感じて、咄嗟に身を翻した。紙一重の差で、金髪の黒い影が降ってきた。彼の手には短剣が握られている。用心棒だったリックが、刃の矛先を自分に向けていた。
「リック、お前どういうつもりだ、そんなにわたしを恨んでいたのかっ?」
エイダンは祭壇の上に着地して、相棒の若者を怒鳴りつけた。
ところが、リックはエイダンの叱責に言葉を返すどころか、表情一つ変えぬまま襲いかかってきた。エイダンは口をギュッと結び、リックの短剣をかわしながら後ずさるしかない。だが、背中にはマフィアたちが祭壇に押し寄せていた。頭上からはリックの刃、足元にはマフィアの腕、何もかもが、エイダンの四肢を捥ごうとしてくる。その有様は、まるで罪人の魂を地獄に落とす悪魔のようではないか。
「“最後の審判”をここでやろうって言うつもりか? あいにく、わたしはまだ地獄に行くつもりはないぞ」
エイダンはリックに言い放つと、祭壇脇のパイプオルガンに飛び移り、パイプを抜き取り槍の用に投げ飛ばした。案の定、リックはすべてのパイプを避けきった。しかし、何人かのマフィアにはパイプが命中し、身体のど真ん中に突き刺さった。ところがマフィアたちは、パイプが突き刺さっているというのに、走る動きを止めもせずに、逃げるエイダンを追いかけた。
なんだ今の反応は。エイダンは驚きのあまり、教会の聖母像の上に飛び乗った。彼らを振り返ってみると、マフィアたちの動きはまるで固く、リックの動きまでもが、いつもに比べて緩慢としていた。
まさか、麻薬を吸わされて幻覚を見ているのだろうか。
エイダンがリックの身を案じたそのとき、聖母像を踏みつける足にマフィアの片腕が伸びてきた。ひときわ上背のあるマフィアの男が、エイダンの足をがっしりと掴んだのだ。エイダンは、頭の上にある窓枠に掴まると、足を振り上げてマフィアを蹴飛ばした。エイダンは反動を利用してグルンと身体を持ち上げ、窓枠に足をかけた。小さな日取り窓から外を覗くと、教会の扉を破棄した機関銃が見えた。
それを目にした途端、エイダンは目を剥いた。機関銃の側面には、この街の警官隊の紋章が彫られていたのだ。
この追っ手たちは警官隊の差し金か? それにしては、やり方がおかしすぎる。
床に着地したエイダンを、待ち構えていたマフィアたちが取り囲んだ。エイダンはリックの短剣で応戦したが、一人のマフィアがエイダンの左腕に掴みかかってきた。振りほどいた拍子に、服の袖がちぎれた。
「なんてことをっ」
エイダンは怒りを露わにして、袖をちぎったマフィアを、力一杯押し倒した。すると、マフィアは踏ん張ることなく、他のマフィアたちを巻き添えにしてドミノ倒しに倒れてしまった。まるで操り人形みたいだ。
そのとき、エイダンはハッとした。マフィアの服の襟首を引っ張ってみると、その下には真新しい縫い痕がハッキリと刻まれていた。このマフィアたちは、全員が首を切り落とされた後、何者かによって再び縫合されているのだ。
エイダンが固唾を飲んだその直後、背後から上背のあるマフィアに摑みかかられた。背骨が折れそうなほどの力で抱きしめられ、エイダンは思わず叫んでしまった。振り返ってみると、この男の首元にも縫合の痕がある。眼球も濁っていて腐敗が始まっているのだ。
「そうか、今わたしを追っているのは、普通の人間ではないのだな」
エイダンはコートの内ポケットからリックの短剣を抜き取ると、マフィアの首の縫い跡をプツンと切断した。すると、雑に縫われた糸がスルリとほどけ、マフィアの首が揺れだした。マフィアの男は姿勢を保てなくなり、エイダンはその隙をついてマフィアの男の腕を振りほどいた。
マフィアの男は後ろに倒れ、その拍子に首がゴロンと転がった。
「やはり、死体を動かしていたのか」
エイダンが沈黙したマフィアに安堵したのもつかの間、再びリックが短剣を振り上げて襲いかかってきたのだ。エイダンも短剣を構えて、リックの刃を受け止めた。ところが、リックのパンチを腹に食らってしまった。
「さすがだな、だけどこれはどうだっ」
エイダンは短剣を握った手をパッと開くと、今まで刃で押し合っていたリックの手首を瞬時に掴み返した。エイダンの短剣がカランと落ちたのと同時に、エイダンはリックも床に押し倒した。リックの金髪が乱れて、その綺麗な顔にかぶさると、エイダンは微笑みを漏らして指先で髪を撫でた。
「リック、お前の目はまだ綺麗だな」
リックの首にも、血の滲んだ縫い痕を見つけたのだ。
「……リックっ」
エイダンが呼びかけても、リックの表情はピクリとも動かない。青い瞳には、エイダンの青ざめた顔だけが、鏡のように映っている。その中に、リックの眼差しはなかった。
「リック、答えなさい、誰がお前にこんな痕をつけたんだ?」
エイダンが震える声で問いかけるが、リックの目は動かない。だが、枯れた花びらみたいになった唇が、少しだけ震えてガスを漏らした。
「た、すけ、え、い、だ……」
エイダンは息を飲んだ。
操られた死体は、死ぬ前に発した言葉を吐くことがある。意思とは関係ない。ただの筋肉の痙攣が、死の直前の動きを反復するのだ。それでも、エイダンはリックが死ぬ前に発した言葉を知ってしまった。
「ああ、リック、そんな……」
エイダンはリックの体から両手を離して、よろよろと仰け反った。
先ほどまで、お前のことを呑気に思い浮かべていた自分が呪わしい。その間、お前はどんな苦しみや痛みに苛まれていたのだろう。今や、それを知るすべは残されていない。
エイダンが悲嘆に暮れる間に、リックの体がむくりと起き上がった。無防備なエイダンに飛びかかると、手にした短剣で、エイダンの心臓をグサリと刺したのだ。
鉄の刃がエイダンの肉を裂き、氷のような冷たさが背骨に走る。
だが、エイダンは惚けた眼差しで、リックの陶器のように美しい顔を見つめていた。
「リック、お前は意味のないことはしない子だった。その短剣をどこに刺しても、わたしを殺せないのは知っているだろう」
エイダンは心臓を串刺しにされたまま、リックの体を抱きしめた。愛しい青年は、この短剣よりもずっと冷えていた。
「すまないね、ちょっとだけお前の背中を借りるよ」
エイダンはリックの耳元で囁くと、左手の黒い手袋をゆっくりと抜き取った。その下から、真っ赤な爪をした鷲のような指が現れた。すると、封印が解けたように、禍々しい体毛がエイダンの肩まで広っていく。
エイダンの耳が尖り、牙が生え、両側の眉間から、太くて長い角が姿を現した。上を見上げれば、教会の壁に描かれた天使と悪魔が、エイダンを見下ろしていた。今のエイダンは、この教会のどの偶像よりも邪悪で醜い存在だった。軋む骨の音を聴きながら、エイダンはリックの背中に爪を立てていた。
「リック、ありがとう」
エイダンはリックの刃をズルリと抜くと、リックを優しく手放した。その背後に、マフィアの死体たちが、エイダンにとどめを刺そうと一斉に襲いかかってくる。
エイダンは虫を払うように腕を上げた。その途端、狭い礼拝堂の中に火柱が上がり、マフィアたちの死肉を覆い尽くした。黒煙を上げて、マフィアたちの肉体が火に包まれた。
エイダンが、他に敵がいないかと目を配らると、再び背中に刃が突き刺さった。背後から的確に心臓を狙った一突きは、リックの手によるものだ。
エイダンは、思わず微笑をこぼしてしまった。
「仕方のない子だ。前に教えただろう、心臓を狙うには、こうやるんだ」
エイダンは刃を抜き取り振り返ると、禍々しい左腕の爪を剥き出して、リックの胸を貫いた。リックの体がぐにゃりと曲がり、エイダンの血濡れた腕がリックの背中を突き破った。
その手の中には、リックの冷え切った心臓が握られていた。
「ごめんよ」
エイダンは囁きながら、腕を引き抜いた。すると、力の抜けたリックの遺体が、ズルズルと崩れ落ちた。エイダンはリックの背中を支えると、そっと横たえてやった。
背後では立ち上った火柱が大きくなり、教会の天井まで焼き尽くそうとしている。
「リック」
エイダンは、囁きながらリックの心臓を抱きしめた。
ところが、エイダンはまたもや急いで飛び退いた。心臓を抜かれたはずのリックが、ふらふらと立ち上がっているではないか。エイダンは、リックの心臓を脱いだ黒手袋に滑り込ませ、コートの内ポケットにしまった。
「心臓を抜いても動くということは、ただの降霊術ではないな」
エイダンは牙を剥き出しにすると、指の関節を鳴らした。リックの背後で糸を引く、闇の魔術師への恨みがメラメラと燃え上がった。
そのとき、再びリックの口が動いた。
「た、すけて、エイダ、ン」
心臓を抜いたことで、筋肉が先ほどよりも強く痙攣したのだ。エイダンは、グッと奥歯を噛み締めた。
「今、助けてやるからな」
エイダンは真っ赤な爪を剥き出すと、リックの体を抱き込むように振り下ろした。
嫌な音が耳を突き、リックの首が宙に飛んだ。すると、血ではなく真っ白な煙が狼煙のように昇った。リックの首の切り口から、体内に入れられた霊魂が抜け出たのだ。
エイダンはリックの首を抱きとめると、見開かれたままの青い瞳を覗き込んだ。ガスが無くなり、筋肉の痙攣も失ったリックの唇は、完全に動きを止めていた。
「リック、一人にしてすまなかった。許してくれ……」
エイダンは、リックの軽くなったおでこに唇を落とした。すると、リックの頬に、ポタリと水滴が落ちた。流血のような水滴はとめどなく降り注ぎ、リックの乾ききった唇を濡らしていった。だが、この整った唇が潤うことなど、もうない。
エイダンはがっくりと膝をつき、リックの首を抱きしめた。
会を飲み込む炎が、さらに激しく燃え上がる。その頭上に、リックの体から抜け出た白い霊魂が、フワフワと漂い始めた。エイダンはリックの遺体を抱き上げると、ぎらりと目を光らせた。
「リックをこんな目に合わせた人間を、わたしは許さない」
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