八 神の代替者

 あんなに美しかった朝焼けは、日が登るにつれて暗雲を抱き込み、昼前になると大粒の雨を降らせた。港にも殴るような雨が吹き荒れ、エイダンが乗るはずだった船も、当然のごとく欠航してしまった。

「ついていないなあ」

 エイダンは、ホテルの部屋をもう一晩借りることになった。部屋の窓から空を見上げると、分厚い雨雲が枕の中身のように詰まっている。これでは、夕方なのか夜なのかさえ、わからない。

 とりあえず、胃袋に何か落とそう。幸い、金はたんまりとある。エイダンは傘を手に、繁華街に足を向けた。ガラスと鉄骨で作られた荘厳なアーケードがある。雨が降っていても、晴れの日のように歩ける画期的な街だ。露天商がズラリと並び、市場さながらに賑わうここなら、手頃なバーもあるだろう。

 エイダンはボロの傘を閉じると、古い石畳に濡れた足跡をつけた。

 そのとき、真上から足元を揺さぶるような鐘の音が鳴り響いた。ステンドガラスの天井の向こうで、教会の鐘が揺れている。あれがアーケード内で反響して、凄まじい轟音を響かせているのだ。それを合図に、アーケードの商人たちが、店をしまい始めた。

「なんだ、まだこんな時間だったのか」

 エイダンは、手袋をつけた手で頭をかいた。時計でも持っていれば、こんな間抜けな目にはならなかったのに。仕方なく、エイダンは時間を潰すために教会の門をくぐった。


 こじんまりとした礼拝堂は薄暗く、埃のようなこうの匂いが立ち込めていた。祭壇の横には、立派なパイプオルガンがそびえていた。その足元に、初老の女性と背の高い司教が立っている。女性は司教に別れの挨拶をすると、エイダンにも会釈を向けて、足早に去っていった。

「初めて会う方ですね」

 エイダンに気づいた司教が、話しかけてきた。穏やかというより、弱々しくて精気のない声だ。エイダンは笑顔を繕うと、手を揉みながら足を進めた。

「よそ者がお邪魔して申し訳ない、わたしは旅の途中でして。少しの間、雨宿りをさせてもらおうかと」

 言い訳をするエイダンを、司教は快く迎え入れた。

「こんな天気ですから、他に人も来ないでしょう。もしよければ、温かいお茶をどうですか?」

「ぜひいただきます」

 司教と並んで礼拝席に座り、湯気の立つお茶を飲むなんて。エイダンは思わず忍び笑いを浮かべた。

「やはり、人に淹れていただいたお茶は美味しいですな」

「それは良かった。ずっとお一人で旅を?」

「いえ、最近まで若い小間使いがいたのですが、先日彼に暇を出しまして。久しぶりに一人になったのですよ」

「ああ、どうりで」

 司教の不思議な相槌に、エイダンは眉をひそめた。すると、司教は弱い咳をしてから、エイダンを労わるように告げた。

「教会に入ってきたあなたが、とても寂しそうに見えたのですよ。旅のお連れの方と、別れたばかりだからなのですね」

「そう、見えました?」

「ええ、迷い子のようでした」

 司教は穏やかに頷いて、カップに口をつけた。しかしエイダンは、黒手袋の中でカップを持て余すように揺らめかせた。その口には、微笑が浮かんでいる。

「迷い子とは、あんまりな言い方ですな。わたしはそんなに若くないですよ」

「心の迷いに、老いも若いもありません。特に、大事なものを失くしたばかりは、むしろ年寄りの方が痛ましい」

 司教にの言葉に、エイダンは目を丸くして、大笑いしてしまった。

「これは参った。年寄りと言い切られてしまうとは」

 ひとしきり笑ったエイダンは、コップの中に目線を落とした。

「あなたのおっしゃる通り、わたしは寂しくて仕方ありません。別れた連れは、わたしのような男にも、友情を示してくれた初めての男でした。時間が経つうちに、親子のような、親友のような、不思議な関係になりました」

 しかし、エイダンの側にいたために、あの子は地獄以外の世界を知らずに育ってしまった。自分の呪われた運命に、リックを巻き込むべきじゃなかった。

「本音を言えば、まだ別れたくなかった。けれど、それではあの子が不幸になるのです」

「だから、無理やり離れたと?」

 司教がエイダンの言葉の続きを語ると、エイダンは小さく笑った。

「司教様は、読心術が使えるのですか? なんでもお見通しですね」

「悩める人に寄り添うのが、神職であるわたしの役目ですから」

 司教は咳き込みながら笑うと、飲み干したカップを礼拝席の上に置いた。

 だが、エイダンはお茶を口に運びかけて、ピタリと止めた。司教の咳き込み方に、違和感を持ったのだ。探るように司教に目をやると、司教は穏やかに微笑んだ。

「何か?」

「……司教様、わたしの心にぽっかり空いた穴を、埋めるのにふさわしい何か良いものはないでしょうか」

 エイダンは、飲みかけのお茶を礼拝席に置きながら尋ねた。司教はまた咳をしながら、弱々しく微笑んだ。

「神への祈りだけでは救われませんか?」

「わたしも、今までの人生でいろいろありましてね。神が何もしないのは、とっくの昔に知っています。故郷を追われてから、悪事に手を染めたこともありますす。そうしなければ、生きてこられなかった」

 エイダンがそう告げると、司教は深いため息をついた。

「そうですか、それでは、わたしも何も言えません」

 司教は礼服の懐に手を入れると、小さな紙包みを取り出した。それは真新しい煙草だった。司教が封を切りながら尋ねた。

「あなたも、どこかでこれの噂を聞いたのですか?」

「ええ、警官のアルフレッドという男から聞きました」

「彼からですか、彼は陽気で人当たりが良いから、仕方ありませんね」

 司教は咳き込みながら笑い、煙草をエイダンの手袋をはめた手に、そっと握らせた。その瞬間、エイダンが司教の手首を握りしめた。

「驚きました。てっきり麻薬の元締めはマフィアだと思っていましたがね。まさか、教会の住職が、麻薬の売人を担っているとは、夢にも思いませんでしたよ」

 エイダンが司教に囁くと、司教は短く悲鳴をあげて身動いだ。それに合わせて、礼拝席のカップがずり落ちて、レンガの床で砕けた。エイダンは、司教の手から奪った煙草をこれ見よがしに突きつけた。

「司教様、この街の人間が麻薬に溺れているのは、あなたがばら撒いていたからなのですね?」

「そ、それがなんだと言うんですかっ?」

 司教が悲鳴をあげると、エイダンは握った腕を捻り上げて、司教を床に伏せさせた。

「あなたは神職なのでしょう? 人を不幸にさせる麻薬こんなものを売り捌いちゃダメですよ。それじゃまるで死神だ」

「不幸にさせるっ? 何をおっしゃるんですか、この街に、この世界に、他にどんな救済措置があるっていうんですかっ?」

 司教が声を荒げると、エイダンは眉をピクリと動かして手を離した。司教は捻られた腕をさすりながら起きあがり、赤くなった目をエイダンに向けた。

「あなたも言っていたでしょう、神は何もしてくれないと。その通りなのですよ。善良な市民が絶望のどん底に突き落とされても、神は、彼らを救いはしない!」

「だから麻薬に手を出させたと?」

「麻薬を吸えば、苦しみや悲しみが薄れるのです。必要としている人には、破格の値段で渡しています。いわばこれはボランティア、奉仕活動なのです!」

 司教は訴えた途端、激しく咳き込み出した。慌ててスカーフで抑えた口からは、真っ赤な鮮血が滲んでいた。エイダンは、眉をひそめて囁いた。

「命を代償にしても、神の代わりに麻薬が救済措置になると本気で思っているのですか?」

「あなたも試しに一服どうです? あなたの心の穴が、すっぽり埋まりますよ?」

 司教は口の端から血を垂らしながら、エイダンを見上げて微笑んだ。エイダンは、煙草の箱を摘んだ腕を高く掲げて、深いため息をついた。

「それはできませんね。麻薬には手を出すなと、育てた子どもに言ったばかりですので」

 その瞬間、エイダンの手の中で煙草の箱が燃え上がった。炎を操るエイダンを見た司教は、愕然として身体をを震わせだした。

「あなたは、悪魔なのですか?」

「いいえ、もっと悪いものですよ」

 エイダンは微笑むと、司教を引っ張り起こした。その拍子に、司教は深く咳き込んだ。司教の肺はもうボロボロだ。明日に血を吹いて死んでもおかしくないだろう。深刻な顔をするエイダンの前で、司教が笑い出した。

「あなたが羨ましい。薬に手を出さなくても、心から絶望を追い出せるんですね。一体、それはどんな魔法なんですか?」

 司教の穏やかな口調に背中を押され、エイダンは自分を嘲るように微笑した。

「簡単なことです。これは希望です」

 エイダンはそう答えると、内ポケットに忍ばせた、使い込まれた短剣にコートの上から手を当てた。

 これは、リックの持ち物だ。リックはとても強い男だった。ロッソ・ファミリーを壊滅させるなんて、大きな戦いを一人で挑んだのだから、今頃どこかに隠れて傷を癒しているのかもしれない。そして、わたしに対して毒づいていることだろう。

 エイダンはその様子を思い浮かべて、忍び笑いを漏らした。これから、彼を探し出して、一方的に別れたことを謝らなくてはいけない。そして、今度は別の方法で、彼の人生を見守ろう。

 すると、司教が可笑しそうに告げた。

「よっぽど愛しているんですね、その人を」

「愛している? 馬鹿言わないでください、そんな安い言葉じゃ足りませんよ」

 エイダンは笑って、割れたカップを踏まないように歩き出した。

「それでは、そろそろお暇しますよ。美味しいお茶をご馳走様でした」


 司教はエイダンの背中に会釈を返し、カップの破片を拾うために腰をかがめた。エイダンは出入り口の取っ手に手をかけ、ピクリと動きを止めた。

 外に、誰かがいる。

 エイダンは咄嗟に扉から飛び退いた。その直後、雨の音に混じって凄まじい破裂音が炸裂した。教会の古い扉が粉々に弾け飛び、粉塵を立てて狭い礼拝堂に降り注いだ。戦場さながらの騒音が響き渡り、渦中にいた司教の身体を銃弾が次々に打ち抜き、司教は悲鳴をあげる間も無く、再び礼拝席の間に消えた。

 機関銃の集中砲火だった。新大陸の戦争で使われ、人を虫のように殺すと風の噂で聞いたことがある。エイダンは壁面の聖人像の裏に身を潜め、最新兵器が鎮まるのを待った。すると、粉々に吹き飛んだ扉の残骸を踏みしめて、数人の男たちが現れた。

 格好からして、ロッソ・ファミリーの構成員のようだ。

 エイダンは像の裏から、困惑した顔を覗かせた。現れたマフィアたちは、明らかに自分を追っていた。だが、ロッソ・ファミリーは、リックが壊滅させたはずだし、カーリィ・ロッソは、エイダンと友好関係を築くと明言した。

 しかし、裏切りや復讐は、闇の社会では日常茶飯事だ。エイダンが固唾を呑んで目を光らせると、その視界の中に、見慣れた金髪の青年が現れた。

「……リック?」

 エイダンは惚けた顔をして、愛しい男の名前を呼んだ。

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