第29話 皇后謁見

 色々とあり、悩みを多く抱えながらも、アトは気力を振り絞り、惇皇后への謁見に臨んだ。


 謁見の練習の時、李華から惇皇后のことを少し聞いた。李華曰く……


『惇皇后尚娟美燕様。

 惇家のお姫様で、太后様の従姪であらせられます。

 以前は、故皇太子と婚約関係にあったそうで、仲睦まじかった聞きます。

 で・す・の・で! 

 故皇太子のことは禁句です!

 何があっても口に出されませんように!!』


 と、何度も忠告を受けたのだった。


 いくらなんでも、そのくらいの配慮はできるのに! とは思ったが、前回の大失敗があるので、言い返せなかった。


 そして、今、皇后宮へ向かっている。

 後宮はとても広くて、皇后宮まで行くのになんと馬車を使わねばならないのだ。

 しかし、この詔車しょうしゃという馬車は、天井(現代の傘のようなもの)が、棒一本で立ててあるだけのもので、四方吹き曝しである。


 現在、季節はもう冬に差し掛かっている。

 だから、寒い。


 見た目こそお洒落なのだが、ボロほろがかかった庶民の荷馬車の方が、残念なことに快適である。もっと言えば、歩くほうが体も温まってよっぽどマシ。


 しかし、しきたりとかで、貴妃は、皇后より良い乗り物には乗ってはならないらしい。

 アトはガタガタと震えながら、乗るしかない。

 外套がいとうを着込み、ひざ掛けをかけているが、それでも寒い。


 しかも、寒イボを立てるなとか、震えるなとか、綾月に無茶ばかり言われ、出来ないよそんなこと! と噛み付いたが、


『貴人は皆やっていることです。貴女も貴人。出来ないではなく、やるのです!』


 と、ピシャリと言われてしまった。

 気分はさながら修行僧である。


 そして、やっとの思いで皇后宮にたどり着いた。

 寒さのあまり、さっさと降りたい気持ちをグッと堪え、アトは、侍女や宦官達が出迎えるのを待ち、ゆっくりした動きで彼らの後ろに続いた。

 そして、広間に据えてある火鉢で暖を取り、やっとひと心地ついた。が、


「皇后様のご準備整われました。お入りになられて結構です。」


 と、侍女から声をかけられた。

 火鉢に手をかざして間もないのに……。

 それでも、アトは頑張って笑顔を作り作侑した。が、動きがぎこちない。

 それを、一緒についてきた李華は冷冷しながら見ていた。

 それを侍女は冷たい目で見ると、背を向けアトを謁見の間に案内した。

 アトは頭を下げ、しずしずと進み出て皇后様の前まで来た。


「希勇君、楊賢徳染墨が娘、蘭玉が、皇后様にご挨拶申し上げます。千歳千歳千歳。」


「面をあげよ。」


 アトはその場で直って、皇后尚娟美燕の顔を始めて見た。

 彼女は、小作りな顔で、白く美しい肌で、目は丸く、小さな口は小鳥のように愛らしい。

 おっとりとした印象のある美女である。


「陛下のお召のもと、よく参られた。共に陛下をお支え申し上げよう。」


「はい。お言葉、痛み入りまする。」


「時に、太后様に口応えをしたとか……。」


 やはり、皇后に言及された。

 すると李華は、後ろからアトに“くれぐれも練習通りに!”と、目で念じた。

 アトは、その視線を受けながら、“また朗らかに、ネチネチと故事でやられるのかなぁ。”と憂鬱になりながら素直に誤った。


「申し訳ございません。」


「不慣れなことであろうが、太后様も気に病んでおいでじゃ。この様なこと二度は無いように、これに控える翠蝶スイディエを寄越そう。良いな?」


「はっ。有り難く。」


「翠蝶。希勇君によく仕えるように。」


「仰せのとおりに。」


 翠蝶は皇后に侑すると、アトの前に進みで挨拶した。


「翠蝶でございます。どうぞ良しなに。」


「はい。えーと。許す?」


 このアトのぎこちない返事に、皇后と翠蝶以外はクスクスと嗤った。

 李華はその場で頭を抱えたくなった。

 皇后より、下賜された宮女である。そんな居丈高返事をしてはならないのだ。

 その場で注意するわけにもいかず、どうしたものかと思っていると。

 翠蝶がアトに侑して恭しく言った。


「希勇君の武勇聞き及んでおりまする。陛下に敬称まで頂いた女傑にお仕えできるは、またとと無い幸せにございまする。」


 そして今度は皇后の向いて


「皇后様。貴重なる機会頂き、感謝に耐えませぬ。」


 と、深々と侑した。


 新たな主人の顔を立て、辺りの嘲笑を収めたのだ。

 李華は、警戒した。


“このまま希勇君の懐に入り込もうとしているのでは!?”


 希勇君は非常に気安いお人柄、一旦懐に入れてしまえば疑うことをしないだろう。

 そうなれば! 皇后の手の上で弄ばれてしまう!


 李華はハラハラしながらアトを見ていたが、アトがそんなこと解っていようはずもない。

 アトは呑気に翠蝶を連れて宮に帰り、留守を頼んでいた綾月にも紹介した。

 当然、綾月は微妙な顔をして李華もずっと心配そうに表情を曇らせたままだ。


 そして、当然だが、アトは先程の謁見での“許す発言”について、李華からお叱りを受けた。


「希勇君! 時と場合をご理解いただけませんとっ!」


「ごごめんなさい。」


「それと……。」


 李華は翠蝶をチラッと見た。

 分かりやすく、皇后から送られてきた間諜であろう。

 かと言って、無碍に扱えず、希勇君では断るだけの技量はない。


「…………後ほど、またお話いたします。」


 と、李華は説教を一旦切り上げた。

 アトは後宮に来てから怒られてばかりだ。

 ついこの間まで、庶民だったのだから無理もないが。

 しかも、陛下は先に思いを通わせることなく、後宮に彼女を放り込んでしまった。

 混乱状態にもかかわらず、彼女は弱音も吐かずによく頑張っている。

 李華もその事解っているので、あまり強く言いたくないが、ここは後宮。


 術中策謀が、蜘蛛の巣のように張り巡らされた場所。


 それでもアトの側についたのは、顔も知らなかった兄からの願いあってのことだった。

 李華の母は元々宋家の出で、黄家の女主人だった。が、母は後継ぎを産めなかった。


 やっとの思いで身籠って産んだのは――。

 女児であった。


 父は激怒。


 家にいた数年は、肩身の狭い思いをしながら過ごし、それも嫁に行くまでと我慢していた。

 が、

 懇意にしていた妓女が、男児を産んだと知ると、さっさと私達を追い出した。

 嫁支度すら勿体ないというのだ。


 母と私は、宋家に戻るわけにもいかず、出家し、寺に身を寄せるしかなかった。


 そして、十余年。父は身罷みまかり、身を寄せていた寺院に、多額のお布施が贈られた。


 それは、兄からであった。


 父なんかより、血の繋がりも定かではない兄の方が、よっぽど情が深かったのである。


 涙のにじむ思いで、近況を綴り文で送った。

 すると、返事には


“申し訳ない。”


 とあった。


 父は謝罪の一つもなかったが……。

 兄からとはいえ、少しは溜飲が下った。


 母も、病に侵されはしたが、贈られたお布施のお陰で、穏やかに余生を送ることができたのだ。

 だから、兄、黄豪逸猛騎が直接会いに来て、話を持ってきた時、受けることにしたのだ。


 実際、アトと接してみると、おどおどしている印象もあったが、決して卑屈というわけでもなく、前向きにやっていこうとする姿勢は強さも感じる。その強さに陛下も惹かれたのだろう。


 でも、彼女は裏表がない。無さすぎてここでは無防備だ。


 翠蝶。


 彼女は、皇后や太后に情報を送るため、あるいは希勇君を孤立させた上、彼女自身に依存させようと画策してるかも知れない。


 どうしたものか―――――――。


 李華は頭を抱えた。


 一方翠蝶は、緊張していた。


 勿論、信用されないのは重々承知である。それでも、皇后様から命を受けている。


 昨夜、

 陛下は皇后様の元へ足を運びながら、同衾もせず、貴妃の元へと向かわれた。


 何たる侮辱かと最初、憤ったものの、皇后様は穏やかであられた。

 故皇太子様の玉環を胸に抱いて。


 そして、――――――。


『私は、陛下につこうと思う。』


『太后様を、裏切ると……?』


『陛下は私に……慈英様を忘れずとも良いと、仰せになられた。……あの人は、忘れ去られたように扱われて……、それを権力の、家ためだなどと……。私には慈英様の方がずっとずっと大事だった。

 幻滅したか? 

 私は完璧な淑女などではない。死んだ男にすがる、浅はかで惨めな女でしか無いのだ。』


『美燕様……。』


 幼い頃から仕えていた翠蝶はよく知っていた。

 皇后様は、美燕様は、故皇太子様を愛しておられた……。

 無理に嫁がされ、どれほど傷ついておられたことか……。

 せめて、私一人は、このお方のお心を守って差し上げねば! 


『皇后様! 私を……希勇君の元へお送りください。必ずや、太后様の思惑を挫いてみせます!』


『翠蝶……。すまぬ。頼りのない主人だな私はっ……。』


 皇后様は泣いておいでだった。


 ここで信用を得る必要はない。

 ここでは、一人で戦うこととなろう。

 今、美燕様が一人でいるように……。


 翠蝶の覚悟は、孤軍奮闘する戦場の兵士の心、そのものだった。











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