第27話 後宮入り

 銀杏の葉は、すっかり落ちきったが、地面には未だ落ちた葉が、金色の絨毯となって広がっている。

 街ゆく人々も、毛織物の外套を羽織って、吐息を白く手をさすって温めていた。


 そんな中、アトは信じられないほど手触りのいい赤紫の絹の襦裙を着て、名前に因んだ翡翠の蘭と、金の蝶の簪を挿し、嫁に行くこととなった。

 普通、嫁入りといったら、紅い襦裙を着るのだが、後宮で紅を許されるのが皇后のみであるため、その下の妃が入宮する際は一般的には粉色ピンク

 ところが、残念なことにアトの日焼けした肌では粉色が似合わない。楊曹夫人が困り果てているところに、泱容から絹の反物を下賜された。一緒に添えられた文には


“どうせ粉色が似合わんだろうからコレにしろ”


 と、余計な一言が添えられていて、アトはコレを見た瞬間イラッと、したものの。反物を見て驚いた。

 この、赤紫に金の小花をちらした模様は、以前着せ替え遊びに付き合った折に、“よく似合っている”と、言いながら奥へ引っ込めたものだ。

 もう、四ヶ月は前のことなのに、よく覚えていたもんだとこのことを夫人に話したら


「呆れたこと……。貴女、何も気づかないの?」


 と、それはそれは呆れられた。

 どうしてこんな呆れられるのか、納得いかないが、何はともあれ泱容のお陰で、似合わない襦裙を着なくてすんだ。


 礼をしないとなぁと考えはしたが、相手は皇帝。よく知ってる相手ではあるのに、気安くはない。

 そもそも、皇子様だった頃から気安い関係ではなかったが、口の利き方もろくすっぽうなアトではしょうがなかったのだ。

 普通なら無礼打ちにされるが、泱容自身が許していたのと、冷遇されていたために周りにうるさく咎められることがなかったために、見逃されていただけであった。

 今思うと、随分危ないことをしていたもんだとアトも思う。

 一応、礼については楊曹夫人に相談したものの。


「誠心誠意、しっかりとお仕えすればいいだけよ!」


 と、身も蓋もない事を言われ、思わずヒュッと息を詰めた。ついでに、閨事の指南書を二三冊ドサドサと渡され


「しっかり読んで覚えれば、殿下はお喜びになられるわよ。」


 と随分いい笑顔で言われた。

 嫌がらせなのだろうか? アトは本気でそう思わずにはおれなかった。

 恐る恐る、ピラっとページをめくると、夜のソレが図で描かれていて、アトは壁まで後退って柱で顔を隠した。


 あ……アレをやるの!? 本当に!?


 アトは、白目をむきそうだったが、決心もつかぬまま、とうとう嫁入りの日が来てしまった。


 衣装を着付けしてもらって、簪を挿して唇に紅を挿し、輿に揺られて、とうとう後宮門の内へと入った。その時、


 ぎぃぃ……。ガッ……シャンっ……。


 と、重い扉の閉める音がして、


 あぁ。ここからは簡単なことでは出られないんだ……。


 と解った。

 そう解った途端、なんだか怖い気がしたが、ギュッと拳を握り息を整えた。


 大丈夫。きっと食事は贅沢できるさ。


 と不安感を拭おうと、できるだけ良いことを考えるようにした。


 腹一杯食べれて、その上美味しいのであれば言うことなし! 

 美味しいご飯があれば、踏ん張りも効く!


 アトは気を持ち直して顔を上げた。

 アトを乗せた輿は、やがて宮殿内に入り、降ろされたらしき上下の揺れを感じてから、少しして、侍女からお降りいただいて結構ですと、声がかけられ垂れ幕が開けられた。

 アトは輿から降りると、侍女たちの挨拶を受け、太后の元へ向かった。

 太后の座する広間へと通されると、アトは拱手を掲げ、膝を折り頭を低くし、挨拶を述べた。


「希勇君、楊賢徳染墨ヨウケントクセンボクが娘、蘭玉が、太后様にご挨拶申し上げます。千歳千歳千歳せんざいせんざいせんざい。」


「面を上げよ。」


 アトは顔を上げ、太后を見上げた。

 相変わらず、年に見えない黒々とした御髪に、白くシワの少ない肌だ。若い頃はさぞや美人だったのだろう。


人是衣装馬是鞍也ひとこれいしょううまこれくらなりと言うが真であるな。」


 と太后に言われ、アトは意味が解らずキョトンとした。意味は、日本語で言うところの馬子まごにも衣装なのだが、付け焼き刃の教養しかないアトでは、解かろうはずもなかった。


 アトがぽっけとしていると、周りの宦官や侍女達がクスクスと笑うので、嫌味を言われたことは解った。まぁ、下民が貴妃になったとあらば面子を潰され許しがたいのだろう。

 しかし、アトは“黙ったままでは不味いか?”と、思って楊曹夫人の入れ知恵を、早速使ってみようと思い、


「怨みに報ゆるに徳を以てすと申します。」


 と言ってみた。

 この“怨みに報ゆるに徳を以てす”は、夫人が嫌味を言われたらこう返せと、アトに教えたものだ。

 意味は、

 ”人からひどい仕打ちをされた場合でも、仕返しなどしないで、恩恵で報いる。”

 だが、

 真意は“アンタみたいに、幼稚なことはしませんよ”である。


 楊曹夫人も太后相手に言うなど、考えていなかったことであろう。

 それを、今、アトが、言ったのである。

 辺りは凍りついた。

 アトは皆が静まり返るので、どうしたことかと不思議に思っていると、太后が口を開いた。


「これは安心した。教養で不自由をしておるのではないかと、心配していたが、楊曹夫人からの薫陶をしかと受け取っておるようだ。陛下へのお仕えも、十分に果たせるだろう。」


「ありがたきお言葉、痛み入りまする。」


 アトがそう言うと、太后はにこやかに微笑み言った。


「しかし……病从口入祸从口出所以说话一定要谨慎病は口から入り災いは口から出る故に喋る時は慎重にとも言う。また、女子おなごさえずるものではないとも言う。その辺りは、美燕メイエンを手本とするが良い。」


 アトは一礼し


「しかと心得ましてございます。」


 と返事をしたのだが、周りの者達の目が妙に冷ややかだ。

 それもそのはず、太后は“口さがない愚か者めが、女がぺちゃくちゃとはしたない。お前など美燕に遠く及ばぬ。”と言っていたも同然なのだ。


 しかし、意味を理解してないアトは、ただ解りましたと返事しただけだった。

 このやり取り、周囲には太后に口応えしたにもかかわらず、詫びも入れないとは無礼もいいところ。あまつさえ、開き直って“分かりました”と返事をするあたり、調子に乗っている愚か者に写ったのだ。アトが今まで通り下民でいたなら、直ぐに首をはねられているに違いない。

 そんなこと思い至らぬアトは、“なにか失敗したのかなぁ”と、呑気に考えていた。


 そして、皇后への挨拶は翌日に回され、これから生活する宮に案内された。すると、侍女と宦官が一人づつす前に進み出てきて、祝と挨拶の辞を述べた。その時、宦官の顔に見覚えがあることに気づいた。


「あ……。」


 アトは思わず声を上げた。

 綾月と名乗った宦官、月映と一緒に以前太師邸を訪ねてきていた、その青年だ。

 綾月の隣りにいた侍女、名を黄梅梅こうめいめい字を李華リファと名乗った彼女は、何事かと目を見開いた。

 綾月はにっこり笑って


「お久しゅうございます希勇君。」


 と挨拶した。アトは


「りょ綾月さ……あの。えっと。」


 色々話したい。でも、周りに人がいて、普通に話していいのかわからない。

 李華は気を効かせこう言った。


「希勇君。差し出がましいとは存じまするが、お人払いをされても良いのですよ?」


「あ……じゃぁ、そうしてほしいです……。」


 アトがモジモジと言うと、李華がスッと立ち上がり、あたりに向かって命じた。


「聞こえましたか? 貴妃様がお人払いをお命じになられました。用の一切は、私が引き受けますゆえお下がりを!」


 すると衣擦れの音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。李華は


「私は、外で控えておりますので御用の際は何なりと。」


 そう言って後退りに退席した。

 室内には綾月とアトの二人が取り残された。


「あ、あの、兄さんの?」


 アトは早速綾月に訊ねた。すると綾月はコクリと頷き言った。


「えぇ。兄さんのお願いとあらば、後宮でもどこでも参りますよ。」


「兄さんが? そうだ、兄さん。兄さんはどうしてますか?」


 この身分になってから、文一つ送れなくなった。兄さんならきっと大丈夫だとは思うが、


「兄さんなら元気ですよ。貴女のせいで科挙を受けることになりましたがね……。」


 そう言うと、綾月の顔からスッと笑顔が消え去った。


「え……?」


 科挙!? 私のせいで?

 アトは、身を乗り出して訊ねた。


「それは……どういう事ですか?」


 綾月は、何も知らないでいる彼女に酷く憤りを覚えた。


「どういう事? 随分のんきで、……」


 語気も荒く、貴妃相手に随分な悪態をついてしまった。ここは油断大敵の後宮なのに……。

 しかし、この察しの悪すぎる小娘が憎たらしい。欲しい人の想いを受けておきながら、なお憎たらしい。


「兄さんは……、」


 綾月は黙してしまった。

 こんな小娘に……兄さんの想いなど教えたくない気持ちと、少しは思い知らせてやりたい気持ちと、感情ばかり先走って、冷静さを取り戻したい気持ちが、せめぎ合って言葉に詰まってしまった。そして、―――。


「貴妃様に対して無礼でございました。申し訳ございません。誠心誠意お仕えいたしますので、ご容赦を。」


 と頭を下げた。

 アトは、頭を下げられ戸惑うばかりだったし、兄さんのことが心配でしょうがない。


「兄さんは、今、困ったことになっているのですか? 危ない事をしているの?」


 アトは、“私が……宮仕えする時、せめて一報しておけばっ!!”と、己の至らなさに悔やんでも悔やみきれなかった。

 きっと、あの時巻き込まれて、そのままなのだ。

 綾月は、アトを観察した。

 彼女は不安気に眉尻を下げ、わずかに肩を震えさている。嘘は無い……ように思われる。

 もし、兄さんを良いように利用しているような、邪な女だったら……例え、兄さんに嫌われようとも、失脚させるかどうにかしてやろうと思っていた。

 イヤ……きっとそうあって欲しいと願った。

 でも、―――――。


「大丈夫ですよ。危ない事なんて、太師に取り立てていただいたそうです。」


 綾月は不本意ながらも、アトを安心させるようにほほ笑み答えた。


「そうですか。良かった。」


 アトは安心して肩を下ろした。そして、


「あの……ごめんなさい。」


 と謝った。綾月はほほ笑んだまま聞き返した。


「何がでしょう?」


「私、こうなる前に、宮廷でお仕えすることがあって……その時、私、兄さんに側仕えになったと伝えていなくて、文を……。だから、兄さんを巻き込んでしまったのは、私だったんです。本当に、ごめんなさい。」


 綾月はこれを聞くと、複雑な胸中に苛まれた。

 アト、彼女は、別け隔てのない娘だとは思っていた。綾月のような閹人あんにん(※1)ですらこの態度である。


 本来、閹人あんにんは対等の扱いを受けることはない。犬畜生のように扱われるのが常なのに。

 まして今、彼女の立場は貴妃だ。

 なのに…………。


 勿論、下民だった彼女だから、立場を理解していないのもある。

 だが、人からかしずかれれば、普通は傲慢になるもの。だが、それを良しとしない高潔さというのか? それが、嫉妬と猜疑に挟まれる綾月には、鞭打たれるように痛い。しかし、

 

「何を言うのです。貴妃様のお陰で、お大尽様にお取り立て頂けるなどという、栄誉に与ったのです。貴妃様がお気落とすこと事は、一つもございません。」


 と、と答えた。

 それでも何か、心配そうな様子の彼女だったが、


「ありがとう。」


 と、礼を言って少し笑った。

 この笑顔を見て、綾月は心底願った。


 “どうか……皇帝陛下と彼女が、末永く結ばれますように。”と。


 月映への後ろめたさを感じながら。



 ―――――――――――――――――――――――――――――――


 ※1:去勢した男性。


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