第26話 噂の姫
惇太后は安寿から、論功行賞での騒ぎの経緯について報告を受けていた。報告を聞き終わると、太后はふぅむと唸り
「器用とは言えぬが、流石にこの程度で引っかかるような娘ではない。ということか……。」
と呟いた。すると安寿は
「えぇ……。
と深々と頭を下げた。
「良い。誰も想像つかぬことじゃ。しかし……それだけの力量がありながら、式部官と衛官をその場で弑してまえば、すんなりいったものを……。情に脆いと見る。」
「では!」
安寿はキッと顔を上げ命令を待った。
「お前に任せる。直接は動くな。如福を使え。……それから、
「滞りなく。如福は適当に使いまする。」
太后はその返事に満足し、安寿を下がらせた。
安寿が去ると、太后は文机に向かい筆を取った。美燕に文を出すために。
美燕は
元々皇后にしようと考えていた娘だった。故に亡き息子、慈英ともよく交流をさせていたのだが、それが……。我が子亡き後もそれを知らず、ずっと文を送り続けていた。
そして、戦が終わってからようやく、その事実を伝えることができた。
それから約一ヶ月ほど、音沙汰がなかったが、一昨日“墓前に花を手向けたい”とやっと書いたであろう揺れる文字の短い文が届き、一度だけならばと許しを出した。
そんな娘を、
しかし、やっとしがみついて守ったこの場を、犯されるわけにはゆかぬ。
嫁いでから幾年、“皇后・太后”として配慮はあったが、“妻”として幾度となく尊厳を傷つけられ、それでも我が子在ったればこそ耐え抜いた。それを…………。
最早、惹喜はいない……。復讐は終わった。憎らしい泱容を使ってでも消したのだ。
しかし、
まだ終わっていない。
沈黙を守り静観していただけの人物が、何を思うてか、惇家への当てつけのような皇子を擁立。傀儡ではなく執政できるように育てている!
悠長にしておれば、手出しできなくなるだろう……。
そうなる前に、後宮の勢力を牛耳り内政にも幅を効かせなければ!
やはり、そうなれば直ぐに采配を振るえる美燕しかおらぬ……。
「許せよ美燕。」
そっと呟き、太后は文をしたため始めた。
その頃、アトは楊太師邸にて謹慎中であった。
屋敷にいる期間を利用して、みっちり楊曹夫人にしごかれていた。
「座るときにどっかり腰を下ろさないっ!! 最後まで力を抜かず……前にかがまないっ!!」
「はい。」
アトはもうこれで五回も座り直させられ、机に並べられた、銀杏の粥にかぼちゃの煮物に、蒸し鴨はすっかり冷めきっている。六回目にしてやっと、食事にありつけると思ったら……。
「そこ! 脇を開けない!」
「はい……。」
今度は匙を口に運べない。
宮廷に入る前も散々、ネチネチ……イヤ細々と指摘されたが、今はこの比ではない。
文字通り空気一つ吸うのに気を使う。
目を回しそうな毎日に、更に追い打ちをかけたのが、先日の論功行賞での騒ぎが、都で噂に上っているということだ。
アトの噂は日を追うごとに尾ひれ背びれがつき、旅の芸人の演目にまで出るようになる始末。
演目は『
内容は、片手で米袋百斤は軽々持ち上げる力自慢の娘が、皇子様の命を助け、そのお礼にお嫁入りしたなどというものだ。
太師邸の侍女の
アトは聞いてて赤面した。
「私はそんなに怪力じゃない!!」
アトは恥じ入るあまりに、顔をあげられない。そんなアトの隣で、里杏はうっとりして言った。
「でも良いなぁ。
「良くない!!! 登城した途端に首落とされる危機にあったんだぞ!?」
アトはキッと里杏に噛みついた。
里杏はここ太師邸では珍しく、十五の若い娘で、アトとも気軽に喋ってくれる。
他の皆は雑魚寝した仲だったのに、今は目上として接するようになった。なので会話も敬語で、アトが普通の喋り方をすると、咎められるようになった。
仕方がないけども、寂しくて悲しかった。そんな中で里杏は、齢も近く、太師邸に奉公しに来たばかりだからか、態度も気安く貴重な友となった。
「まぁ、そうね。お城じゃ枕を高くして眠れなさそう。太后様に一生おべっか使ってなきゃ、殺されそうだしねぇ。そうそう聞いた?」
里杏が少し声を落としてアトに寄った。
「何が?」
「惇家から皇后を擁立するんですって。」
「そうなんだ……。」
アトは特に何の感慨も湧かず、遠い目で答えた。すると里杏はやきもきとして、アトに詰め寄ると、
「もうーっ! 気のない返事! 惇家の由緒正しいお姫様よ!! 難敵じゃない! 陛下のご寵愛を取られたらどうするの!?」
そう言って、人差し指をアトの顔に突き立てた。しかし、“ご寵愛”などついぞ覚えのないものを、取ったと取られた言われても……
「ご寵愛……。本当に嫁に行くのか? 私?」
「何言ってんの!? って……ハッ――――!誰か良い人いるの!?!?!?」
「いないよ!! そうじゃなくて……。私……。今まで、からかわれたり、遊ばれたりぐらいしかされたことないし……。それに、浅黒で美人じゃないだろう?」
流されるままに来てしまっているが、お嫁に行くって言うのはトンと、実感が湧かない。しかも相手が、
一年にも満たない付き合いだが、色々あったせいなのか、何年も付き合いのあるような感覚はあるので、どういう奴かはそれなりに解っている。
そして、奴の矜持は海千山千のように広く大きい。
そんな鼻持ちならない男なのに、何故に美人じゃない私を妃にしたがるのか、サッパリだ。
それに、好いてるなど言われたことなど一度もない。なのに、いきなり嫁入り。寵愛など麗しい理由じゃないのは確かだ。
「……うーん。確かに……可愛いとか、綺麗じゃなくて……精悍で凛々しい。男だったら将来色男だと……って! まさか! 陛下って本当に男色なの!?!?」
「男色…………。」
そう言えば、護衛に付いてた時、夜這いに来る者に男もいたことがチラチラあった。それも宦官だけでなく、衛官まで……。
誰も彼も……揃いも揃って、
あぁ!! 思い出すのは止めっ!!!
うっかりアトは当時を思い出し、顔をすっかり赤くしてしまった。
「えっ!? 嘘っ!! ヤダ本当に!?!?!?」
マズイ。皇帝陛下なのに! アトは慌てて否定材料を探した。
「えっ……と! そんなことは……ない……。ない……のかな???」
探した。が、思い当たる事が多い。
「なぁーんだ! じゃ、心配ないじゃない!! 男ができたら、どうなるか分からないけど。でもそうなると、新しい惇皇后様が可哀想ね。夜伽できない相手と結婚なんかさせられちゃって……御実家から、子供! 子供! お世継ぎ! お世継ぎ! って責め立てられるわよきっと。その点アンタは気楽で良いわよ。」
「うん……。気楽か解んないけど。(
アトは里杏を見た。里杏は目線を反らし
「あー……それはぁ、まっ、まぁとにかく……そんなに後ろ向きに考えること、ないんじゃない? 嫁入りって出たとこ勝負なんだし。」
と気休めを言って慰めた。何気ない言葉であったが、アトはハッと気付かされた。
「そうか……私、“後ろ向きに考えてた”な……。」
このところ、人の死に目にあったせいか、どうにもならないことばかり考えていた。
アトは久しぶりニコッと、元気に笑って言った。
「ありがとう里杏! ちょっと元気出た!」
里杏も少し肩をおろし
「なら良かった!」
とお互い笑いあった。
それからアトは、惇皇后様とはどんな人だろう? と思いを馳せた。
美しく黄色や紅に染まる森に囲まれる、皇室墓所内で、美燕はぼっーと故皇太子慈英の土饅頭の前で立ち尽くしていた。
半年間。
亡くなったことすら、無かったように扱われていた彼を思うと、遣る瀬無い気持ちで、新たに即位した今上帝も恨めしく感じる。
しかし、こんなこと口が避けたって言えやしない。
相手が皇帝で、自分はその人に嫁ぐことになったから―――。
せめて、喪に服す暇が欲しいと頼んだが、聞き入れてもらえるはずもなかった。
叔母である、
しかし、泱容は外つ国の母から生まれたため、皇族としては邪道である。だから、何としても惇家から嫁を出し、世継ぎにする子を設けなければならない。そして子ができれば、太后様はその“邪道”を、追い出しにかかるに違いない。やがて、血筋を惇家で独占し、玉座を塗り変えるつもりでいるのだろう。
美燕にはどうでもいいことだ。
惇家のことなんてどうでもいい。
ただ、互いに厳しい教育を、励まし合いながら乗り切ってきた殿下が……。
“そなたが居てくれて、どれほど励まされたか”と、温かく握ってくれたその手が、今は無いのだと思うと、どんなに心細く寂しいことか……。
風に便りで、今上帝には既に意中の相手がおり、貴妃として迎えると聞いている。
そのことについて、きっと太后様はお怒りであろう。
本来なら、血筋が違うにも拘わらず、味方した惇家から迎える皇后を、最初に迎え礼儀を尽くすべきで、それを差し置き、貴妃から迎え入れる。その上、その女に論功行賞での報奨授与まで授けている。これは明らかに太后に対する意趣返し。
楊太師の家から出される養女で、身分は元々低い女性だと言っていた。そんな女性が皇后になったら間違いなく、楊曹夫人の実家の曹家が台頭する。そうなれば、自分は追い落とされると考えているに違いない。
あの人は、太后様は、お可哀想な方であったと心底思う。
でも、
美燕はしゃがんで土饅頭に触れた。
「例え、貴方様の御母上であっても、貴方へのこの心を踏みにじられるのは、辛うございます。」
と声を殺してすすり泣いた。
そのまま、動くこともできず、夕日が差し辺りを橙色に染めた頃、ようやっと帰路へとついた。
途中何度も馬車から墓所を見やりながら。
そして、美燕は一週間も立たないうちに後宮へ輿入れした。
太后が、希勇君ことアトの起こした騒ぎを不服とし、“あのような乱暴者を迎え入れるとあらば、礼節の範となる者が居らねば、後宮内の風紀が乱れる”と主張。
アトより先に、自らの従姪を皇后として輿入れさせることを、泱容に認めさせたのだ。
この日、空は重く雲が垂れ込め、美燕の心持ちを写したかのようだった。
だがそれとは対象的に紅い花嫁衣装は、金糸銀糸をふんだんに使った、きらびやかな刺繍に彩られ、鳳凰の見事な刺繍が施された、紅い垂れ幕のかかった輿に乗り、嫁入り道具をいくつも担がせ、獅子舞が花弁を撒きながら行列の後ろを飾った。
道行く女達は、憧れの眼差しでうっとりと眺めてた。曇天でも、華々しく豪華な花嫁行列に都では美燕を、“
当の本人らは、やり合う気が全く無かったのだが、巷では、力量嬢と正宗娘々どちらが後宮で勝つか、賭けが行われるほど盛り上がりを見せている。
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