第10話 皇子の孤独

 泱容に玄端を持っていく時、あれだけ騒がしかった侍女達が、ぱったり誰も来なくなって静まり返った。刑場に行く道中ですら遠巻きにするばかりである。

 アトが


「急に誰も来なくなっちゃった……。」


 と呟くと泱容は


「公の場では誰もわたしにつきたがらん。わたしの寵は欲しいが、命はかけられぬということであろう。フッ……。」


 と言って嗤った。


 今まで知らなかった。


 宮廷雲の上の世界が、こんなに寂しく空しい場所であったなど。


 それをこの男、ずっと耐えてきたのだ。


 通りで人ひとり信用できないはずだ。


 そう思うとやはり、この男を哀れに思う他無い。

 刑場について間もなく刑は施行された。

 捕らえられた罪人達は縄を解かれ代わりに、目隠しをされ断頭台に上がった。

 どどどどど……という太鼓が鳴り止むのを合図に、彼等は首を一斉に跳ねられ、頭はあっけなくボトボトと地に落ちた。

 その中には、やっと歩いたばかりであろう幼子の姿まであった。

 アトは歯痒かった。


 せめてあの幼子だけでも救ってやりたかった!


 アトは爪が食い込むほど、両手で拳をギュッと結んだ。

 そして高御座で玄端に身を包んだ泱容は、無表情にただ座って見ていた。その隣には同じく玄端に身を包んだ気弱そうな肉付きのいい男が、青ざめた顔ででっぷりと腰掛けていた。彼こそ第三皇子・全克ゼンカツである。そして、その少し後ろの御簾越しには盧貴妃がいる。

 アトはチラッと盧貴妃の御簾を見た。顔は全然わからないが、細かい刺繍の入った孔雀色の靴と群青色の絹の裾だけは透けて見えた。


 一体、どんなお顔をして刑の執行を見ておいでだったのだろうか?


 幼子まで死んで何も思うところはないのか?


 アトは御簾に背を向けたまま苦々しく思いを馳せた。


むごいことよな。」


 惹喜はポツリと呟いた。それと同時に自身がいかに恵まれているかも実感した。

 自分が″盧家の娘″で″第三皇子の母″で、あの強欲な父がいるからこそ、毒殺用に使った娘やその家族のように殺されずにおれるのだ。


「しかし、面倒じゃ。」


 惹喜は背もたれにもたれて言った。


「面倒とは、いかがしたことでございましょう?」


 惹喜に侍る紫蓮シレンが尋ねた。


「父上の強欲も大概にして欲しいものだ。」


「しかし……啄薙タクチ※1めは目障りでございましょう。貴妃様を苦しめたあの女に、益々似て……。そもそも、外つ国の母を持つ皇子など! 第三殿下こそ正当なお血筋! 継承者の内に数えられること事態、おかしゅうございます!」

 

 紫蓮は憤った。惹喜が輿入れしてからずっと仕えている彼女だ。その思いも一入ひとしおである。

 それを聞いて惹喜は


「そうだな。」


 と答えたものの。その実、泱容を憎いと思っているわけではない。それどころか、少々憐れに思うことがあるぐらいである。

 確かに、若い頃はいきなり現れた碧妃ヘキヒと、その子である泱容を激しく憎んだ。

 自分より年嵩としかさの女、宝石のような青い目で、日にあたれば金糸のように煌めいた髪その全てが、憎くて仕方なかった。

 かの女は宮廷での全てを奪っていった。ただそこにたたずんでいるだけで全てを……。

 彼女が現れ、全てが変わっていく中で、美容に磨きをかけ、詩歌を諳じ、文を送り、どれ程女に磨きをかけようと、再び陛下が振り向くことはなかった。

 いや、違ったか。最初からわらわに心などなかった。


 あの頃、わらわは美しい女であった。男達はこぞって文を寄越し、夜這に来る者をからかって遊んだものだ。

 だから、後宮への輿入れが決まった時も、陛下に請い請われてのもだとばかり思っていた。

 ところが、初夜にしてそれが違うものだとはっきり判った。

 名も呼ばれず、触れ合いもしない。ただなす事をなし、それっきり寝所に一人置かれて冷たいしとねに震えた。

 女として、あれほどの侮辱は初めてであった。


 だが、それでも……。どの后にも淡白であった陛下に、次第に執着も薄れ、気に留めなくなった。求められることの無い虚しさも、子育てに専念することで忘れ、時は穏やかに流れた。ところが、


 碧妃が現れた。


 これまでとは違い、陛下は法を曲げてまで彼女を輿入れさせ、毎晩のように通いつめた。泱容が誕生してからも、頻繁に通い溺愛した。

 この事がどれ程この胸をえぐったことか。

 だから、欲の塊である父に讒言ざんげんした。

 ″陛下は碧妃に骨抜きにされた。このままでは時期皇帝指名は泱容だ。″と

 それから三月後、碧妃は病床に臥せりまもなく隠れた。それから、陛下も弱られて半月後にはさっさと第一皇子を後継指名し、ご隠居あそばされた。


 碧妃の忘れ形見である泱容は、陛下の手元に置かれ、帝位争いの巻き沿いを食わぬようにと、他国への婿入りの準備までさせていた。


 そんなにあの女が愛しいのか。


 憎い、憎い、憎い、憎い、憎い、憎い。


 美しかったわらわの時間を奪っておいて……!


 のうのうと生かしておいてやるものか。


 殺してやる。

 苦しみもがき死ぬがいい!


 だが、


 陛下がお隠れになった途端、その気も失せた。


 わらわが真に怨んでいたのは、陛下だったのやもしれぬ。


 生まれてくる立ち位置が違っておれば……。


 だが、しようの無いことよな。


 惹喜は退座するとき泱容を見た。

 碧妃そっくりなその容貌。少しやつれたか?それに以前はもっと、感情の起伏が面に現れていたのに……


「表情が無くなったな。」


「は……?」


 紫蓮が惹喜の顔を覗き込んだ。惹喜はハっと我に帰り、目線を泱容から外した。


「疲れた。戻って茶でも飲もう。」


「かしこまりました。」


 惹喜は退座し、戻る前に全克の様子を伺いに行った。


「母上。」


 全克は惹喜を怯えがちに見た。


「殿下! その顔は何です! 斬首を見た程度で!情けない……!」


「し……しかし……。」


「黙りゃ!!」


 惹喜はため息をついた。

 解ってはいる。自分の息子が皇帝には向かないことを。

 しかし、

 あの強欲まみれた父がいる以上、玉座に座る以外に命の安全はない。それに父上あの男は、皇帝の外戚になれたとしても、それでは飽きたらず玉座の簒奪さんだつを企てていてもおかしくはないのだ。


 なんとしても万春の命は守らねば!


 そのためには妾が実権の全てを握る以外無い!!


 泱容……最早そなたを憎く思うことはない。しかし――、

 そなたを生かしていては万春が生きられぬ。


「いいですか。何があっても玉座につかねばなりません。御身の為なのですよ!?」


 惹喜は全克を睨んだ。


「はい。解っております………。」


 全克は目を伏せ力なく答えた。


 全克―――。


 生まれた時、盧貴妃が何者にも負けぬようにと願いを込めた名であった。

 いや、願いではない。これは命令だ。″泱容に……碧妃に負けることは絶対に許さない″という命令だ。


 ところが、全克は悲しい程に凡庸な男であった。剣を持っても、筆を持っても、平均以上にはできなかった。その度に惹喜は激怒し、講師を手打ちにした。そのため講師達は自分の命惜しさばかり先立ち、全克に簡単なことばかり教え、見た目には良くできているように見せた。

 気づけば、全克は何もできない男となりはてていた。


 さすがの惹喜も息子の不出来を嘆き、講師を手打ちにはしなかった。


「お前を生んだ意味などなかったのじゃ……。」


 惹喜はため息混じりに全克に言った。

 惹喜にして見れば、これまでさんざん注力してきたと言うのに、不出来とは親不孝であろうという恨み言であったが、全克はもっと深刻に受け止めた。


 見放されたのだ。


 私が啄薙にすら勝てなかったから。


 それから全克は母を恐れるようになった。

 皇族の血さえ流れていなければ、今日斬首された罪人共のように、いつどうなったとて不思議はないと、信じて疑うことがなかった。

 よもや、惹喜が全克を生かさんとするために必死で実権を求めていたことなど、想像だにしなかったのだ。

 惹喜が去った後、全克は気分を悪くしてうずくまった。


 ヴうぅ――……、ゲェェッ……。


 全克は嘔吐し立てなくなった。側にいた宦官が


「で殿下!! 殿下!! お気を確かに!」


 と抱き起こすと慌てて部屋まで連れていった。

 全克は揺れる意識の中こう思った。


 もう、嫌じゃ。


 玉座など啄薙が座れば良いのだ。


 私はもう自由になりたい……。


 転がされた寝台から、わずかに見える窓の空を全克は必死に見た。


 あぁ……私は鳥になりたい……。


 全克はそのまま目をつむった。


 刑の執行が終わり、アトも泱容について退座したのだが、その道中、偶然に惹喜と鉢合わせた。

 アトは泱容から惹喜のことを聞いていたから、何事か起こるのではと緊張した。ところが惹喜は優雅に微笑むと


「これは殿下、お久しゅうございます。此度の災難、さぞお心を痛めておいでではございましょうが、どうぞお気落としなく過ごされますよう。」


 と親しげに労りの言葉をかけ、揖して一歩下がり道を譲った。

 アトには、惹喜が拍子抜けするほど穏やかで優雅な女性に感じられ、泱容が言ってたこともただの勘違いでは? と思えるほどだった。


「お心感謝致します。盧貴妃様。」


 泱容も微笑みを湛え揖をして答た。

 この泱容の笑顔を見た時、アトは瞬時に泱容が緊張していることが判った。それが判ると、緩みかけた緊張が、再びアトの中でキリキリと張った。だが、もうこの場を離れる。アトは一刻も早くこの場を離れたい。泱容はもっとそう思っているだろう。

 ところが、泱容が進もうとしたその時、


「ところで、このところ公の場で御一人が多ございましたが、良い侍女が見つかったようで安堵いたしました。」


 と惹喜が言ってちらっとアトを見た。

 アトはビクッとして拝した。

 それを見て泱容はため息をつき、惹喜やその取り巻きはクスクス笑った。


 え?


 アトは何だろう?と不安に思っていると。

 惹喜が


「どうやら、まだ宮廷には馴染めていない様子。宮廷内では、皇帝以外に拝礼する必要は無いのですよ。」


 とにこやかに教えてくれた。

 アトは耳を真っ赤にして


「ご指導あ……ありがとうございます。申し訳ありませぬ。」


 と慌てて揖をした。

 すると惹喜が思いもかけないことを言い出した。


「よろしければ、妾の元で教えて差し上げるが?」


 !?……それは―――。


 毒殺未遂があったばかりで、泱容の側を離れるのは不味い。しかし、目上の申し出を断るのは致し難い。

 アトはなんと答えていいか窮し、黙っていると、泱容が口を開いた。


「盧貴妃様。どうぞこの者の不躾をお許しください。これでも居なければ困りますゆえ。わたしからしかと言い付けますので、どうぞご容赦を。」


「まぁ、要らぬお節介でしたわね。こちらこそ長く足を止めさせてしまい申し訳ありませぬ。」


「いいえ。お心遣い感謝致します。では……。」


 泱容は再び揖すると自分のみやに帰っていった。アトもそれに引っ付き、ようやっとあの場から逃れることができた。

 帰りの道中、アトはホッとした半分自らの至らなさに深く反省した。


 泱容の宮に着くと、先程とは打って変わってお取り巻きの侍女達がこぞって出迎えた。

 慰めの言葉を吐き、しなを作ったり、茶を持ち点心を準備したり、お召し替えの衣を持ってきたり、簪を見繕ったり、煩いほどだ。

 これにはさすがにアトも腹が立ってきて


「殿下はお休みになられるますので、ご遠慮を!!」


 と声を張り上げると、侍女達全員を押さえてピシャリと部屋の外に追い出した。


「……………――――。」


 泱容とアトの間に暫しの沈黙が流れた。アトは泱容に合わす顔がなくて、扉の前で取っ手を掴んだまま動けなくなっていた。

 ドサッと泱容が長椅子に座る音がして


「お前……いつまでそこにいる気だ?」


 とアトに尋ねた。アトは


「申し訳……ございませんでした。」


 としおしおと詫びた。


「何が?」


「……御身を庇うこと一つ出来ませなんだ。申し訳ござません……!」


 これを聞くと泱容は少々驚いた。

 あの惹喜相手に、男ですらない下賎の小娘が身を呈そうと考えていたのだ。


「阿呆よなぁ……。」


「なっ!」


 アトはカッとなって振り替えると、花のような香木のような、果実のような、不思議な香りにクラっとして、間近にある泱容の顔にたじろいだ。


「な……何でしょう?」


 アトの問に、泱容は答えずスルリと彼女のうなじからほうにかけて撫でた。

 アトはくすぐったいような、ゾクゾクっとしたものが爪先から頭のてっぺんを貫き、ひどく恥ずかしくなった。


「……――! ちょぉっ……!」


 堪らずアトが声をあげると、泱容はアトの鼻をつまんで


「す・け・べ。」


「なっ!!?」


「何を考えていたのぉ? 湯上がりの猿みたいなみっともない顔して……。その気になった? 悪いが……悪食ではないのでな。」


 そう言ってスタスタ寝台の方へ歩きそのまま布団に入った。


「しばし寝る。」


 こう言ったきり泱容はそのまま寝てしまった。

 アトは怒りで震えた。


 こンの性悪皇子!!! 人がどんな思いで謝ったと……――!!?


 アトは怒って自分の部屋にズカズカと戻った。

 その様子を泱容は薄目を開けて布団から垣間見た。

 妙な胸の高鳴りに、目は冴え冴えして疲れた筈なのに眠れなかった。



―――――――――――――――――――――――――――――――

※1:泱容の蔑称。



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