第4話 癇癪持ちの女主人

 アトはその日のうちに、猛騎の元を出て楊太師の邸へと向かった。

 アトはこれから、楊太師ようたいしの遠戚の養女″蘭玉″と名のり、行儀見習いで世話になった後に、太師の口利きで宮廷入りすることになった。

 太師と言えば、天子様に唯一物申せる程の権限を有する大官である。そんな人物がついているなら、アトを宮廷に送り出す必要など無さそうだが、太師と言えど手出しできぬこともあるのだそうだ。

 やがて馬車は、城のように大きい朱塗り柱の邸に到着した。


 まだ城には行かないはずだが……。


 アトはポカンと門を見上げていると、ぎぃと勝手口が開いて、上褶下裳じょうしゅうげも(※1)の老女が出てきた。

 

「蘭玉様にございましょうか?」


「……あっ。はい。」


「ようこそおいでなさいました。奥様がお待ちでございます。」


「……あの。ここって――。」


「はい。楊太師のお屋敷でございます。」


「えぇ!?」


 アトは思わず大きな声をあげた。


「お……大きなお屋敷で。」


 すると、老女はクスクスと笑って言った。


「そりゃ太師のお屋敷ですもの。いくら御本人が固辞なすっても、粗末な家には住めないものですよ。さぁさぁ。お上がりくださいな。」


「はぁ。」


 アトは老女の後について邸に上がった。

 門をくぐると、陰壁には雄大な山河が大理石に彫られており、前庭は色とりどりの芍薬や松に金柑等が植えられていた。猛騎の邸とえらい違いである。

 やがて老女は、池を擁した庭の東屋までアトを連れてきた。そこにはお茶と点心を嗜む上品なご高齢のご婦人が座っていた。

 彼女は楊太師の妻、楊麗嬌ヨウレイキョウこと楊曹夫人である。


「えと、アじゃなかった。蘭玉です。お招きありがとうございます。」


 アトは供手して挨拶した。するとご婦人はじっとアトを見つめ。はぁとため息を一つついた。そしてすくっと立ち上がると、パンパンと手を叩き侍女達を呼んだ。


「先ずはその身なりをどうにかしなければ。」


「え? ……ちょっ!」


 アトは侍女達にぐいぐいと背中を押されて、連れていかれてしまった。

 アトはまず井戸端で体の隅々まで洗われ、次は衣装部屋でアトの肌に合わせた臙脂えんじ襦裙ジュクン(※2)を着せられ、髻を圓髻エンケイ(※3)に結い上げられると、そのまま動かず喋らなければ、どこぞの御嬢様のように変身した。

 

 アトは大鏡の前で自らの変わりように驚き、鏡の前に近づこうと歩を進めた。が、


 ガンっ!


「痛っ―――――!!」


 裳を思いっきり踏んで額を強く打ちつけてしまった。

 それをちょうどやって来た楊曹夫人に見られ、アトは夫人にしたたか怒鳴られた。


「何処の世に大股で歩く女子おなごが居りましょうや! 何ですその歩き方は!? ここは田舎でもなければ山奥でもないのですよ!!」


「も申し訳ありません。」


 アトはしおしおと謝った。が、楊曹夫人の怒りは収まらない。夫人はキーキーと怒鳴り続ける。


「全く! いいですか! 貴方は太師のお口添えで入殿するのですよ!! もっとしっかりしていただかねば! 我が家の家名にも傷がつくと言うもの! それに宮殿は些細なことで揚げ足を取られ何を言われるか分かったものではない所なのです!! 太師の失脚に繋がれば……貴方! 責任とれないでしょう!? 本当に嫌だわ!!! それに……―――――。」


 夫人が収まる気配は感じられない。一段と声も高くなった気がする。だが猛騎の屋敷で干し桃を食べたきりのアトは、腹を随分空かせている。そのせいでそろそろ夫人の話も頭に入らなくなってきているアトは、不安を覚え始めた。


 歩き方が駄目だというのなら、教えてくれればいいのに説教ばかり……教える気は無いのか?


 しかし、出鼻で屈するわけにはいかない。何せ銀錠五つがかかっているのだ。

 アトは考えた。


 どうすればこの奥方の御機嫌を取れるだろうか?


 アトは奥方を眺めていると、ふと侍女達に目がいった。

 彼女等の目は女主人を尊敬しているというより、ある者は辟易としてある者は何か恐れている。

 それを見てアトは思った。


 この女主人……常から周りに当たり散らしているのか?


「聞いているのですか!!?」


 夫人はひときわ大きな声を張り上げた。

 アトはチラッと楊曹夫人の顔を見た。夫人は唇をワナワナ震わせ、親の敵でも見るような目で睨んでいる。


「申し訳ありません。」


 アトは頭を下げた。この手合いは、中途半端な逆らい方をすると逆上して意固地になる。(もう既に意固地になっているようなものだが。)


「フンッ! 全く! 殿も人が良すぎようて。こんな山猿押し付けられて、窮した挙げ句私に押し付けたのですわっ! 殿のお心に感謝するが良い!! でなければこんな……! 何てこと!!」


 夫人は涙声で叫んだ。さも自分は被害者だと言わんばかりである。アトはまだ何もしていないはずだが……。


「……。」


 アトは無言で頭を下げていたが、ここらで呆れ始めていた。

 どうやらこのご婦人、悪いことは全て周りのせいだと思っているようだ。


 年の割に子供っぽい。


 アトは従順を装ったつもりでいたが、呆れているのが顔に出たのだろう。楊曹夫人はさらに怒り、ついに


 ガシャンっ…!


 手近にあった花器をアトの前に投げつけてきた。乱心する楊曹夫人を侍女達は慌てて止めた。


「奥様! お静まりください! 旦那様のお言いつけもございますゆえどうか……。」


 その場で固まっていたアトは、侍女の一人に引っ張れ 


「さぁ! 貴方も下がって!」


 と、その場から退場させられた。やがて夫人の耳の届かないところのまで来ると


「災難だったわね? 大丈夫? 怪我してない?」


 そう言ってアトを労ってくれた。アトは少し安心して表情を緩めた。


「ありがとうございます。奥様は怖い方なんですね?」


 すると、侍女は少し困った顔をした。


「あー。若い女は嫌いなのよ。」


「どうしてですか?」


「うぅ……ーん。きっと旦那様が仕事の虫で、家にはほとんどお帰りにならないからね。」


「はぁ……。」


 アトは目をしばたかせ“つまらん八つ当たりではないか!”と呆れた。


「まぁ、お子も出来なかったようだし、それを気にして社交もご遠慮なさっておいでだしね。」


「あー。それは……お気の毒で。」


 それであんなに性格が捻くれ曲がったのか……。


 そう思うと、アトは更に不安を覚えた。このままでは、やっぱり何も教えてもらえないのでは?  と。


 しかし、不幸中の幸いなことに、侍女達は皆気のいい人達ばかりであった。アトは花器を投げつけられたことを随分労われ、その日の内に、彼女らに裳を引きずる儒裙での歩き方を教わった。

 擦るようにして、足を運び、決して足音をたててはならなず、手は前に組み合わせ背筋を立てる。慣れない歩き方でさっさと動けなくて焦れったいが、そう難しいこともない。

 ここの侍女長の貞深テイシン(アトを最初に出迎えた老女)が、取り分け丁寧に教えてくれたお陰で直ぐに覚えた。


「貞深様。なんと礼を言って良いやら……。」


 アトは深々と礼を述べた。


「良いのよ。仕事ですもの。それに昨日の調子が続いたら奥様がお倒れになってしまうわ。」


 貞深はにこにこ笑って言うと、アトはニヤリと笑って調子づいて言った。


「それならご安心を! 薬は少々覚えがあります。気付け薬くらいなら調合できますよ!」


「まぁ! 頼もしい! それじゃ胃薬でも今度お願いしようかしら。」


「任せてください。」


 貞深とアトは顔を見合せお互い笑った。しばらく笑ってふと貞深は、こんなことを言った。


「あぁ……。奥様はあんなだけど本当はお可哀想な方なのよ。奥様にも図太さがあれば良かったのだけど……。」


「図太さ……ですか?」


 アトは聞き返した。あの奥様はどう考えても……―――


 充分図太い……イヤ、態度がでかいか?



「えぇ。私らみたいなのは毎日必死にしがみついて生きてるようなものでしょう? でも奥様は生粋の御嬢様だったから、思ったことと違っていても、その場で切り換えてやっていくだけの図太さって言うのがないのよ。それで嘆いてばかりいらっしゃるのよねぇ。」


 貞深は少し困った顔をした。


「ではお慰めすれば……(態度が軟化する)?」


 アトが言ってみると貞深からダメ出しを食らった。


「でも、貴女のような若い女からの慰めは火に油よ。嫌味を言われる気分でしょうから。」


「えぇぇ……!? 若いかもしれないけど、美人でもないし、身分も天と地ほどちがいます。」


 アトはひどく驚いた。

 なにせアトの村も決して裕福ではない。そこらの農民と変わらぬ生活をしている。アトの方が、奥様を羨むんで然るべきであろう。いくらアトの方が若かったとしても。

 その様子を見て貞深はこう説いた。


「そもそも、御身分の高い方は下々から慰めを受けるのが、屈辱とお感じになるものよ。それに……未来がある将来があると言うことは、千金に換えられないものだしねぇ。」


「はぁ……。」


 アトはいよいよ頭を抱えた。とてもじゃないが理解が及ばない。

 アトのような賎民は皆、明日を生きるのに血眼だ。若くても老いていても飢えれば死ぬ。


 その心配がないだけでもどれ程か…! 

 なのに……――、


 高貴なお方は何と気難しい! この調子じゃぁ隣で息をするだけでも、気を使わなければなるまいか?


 そう考えるとアトはゾッとした。そんな見るからに気落ちした彼女を貞深は慰めた。


「私からも言っておくし、できる限りは教えるから安心して?」


「貞深様!何から何まで……!」


 仕事とは言え出来た人だなぁ。


 アトは心底貞深に感心した。

 その時、


 あっ―――――!


 アトは用事を一つ思い出した。

 と、同時に、こういう事において、何より頼りになる存在がいたことに気づいた。


「そうだ! 貞深様。男娼の娼館ってどこにあるんでしょう?」


 貞深はいきなり男娼と言われて吃驚した。


「え…………知り合いでもいるの?」


「はい! だいぶ会っていなくて、新年の挨拶くらいは文のやり取りをしているんですけど……会えるといいなぁ。」


 貞深は何とも言いにくそうな微妙な顔になった。


「…………えーと。その、想い人とか……じゃないわよねぇ?」


「いえ、近くの村の知り合いです。」


 アトがあまりにもあっけらかんと、答えるので貞深は更に遠慮がちに慎重に尋ねた。


「あの……そ、そう。そのぉ……訪ねていって大丈夫? そう言うのって何て言ったら良いのか……あの、表で堂々と言えるものではないでしょう? 旧知の間柄だからこそ、顔を合わせにくいと言うことはない?」


 ところがアトは無邪気に笑って答えた。


「合わせにくいものですか! すごく世話になったんです。」


 それを聞くと貞深は面食らった。


「――――――。貴女って、付き合いに分け隔てがないのねぇ。怖いもの知らずって言うのかしら……。」


 しかし、アトはキョトンとしている。


「? 別に兄さんは怖い人じゃないですよ?」


「…………………………貴女。宮廷に上がるのよね?」


「はい。」


 貞深はこのアトの屈託のない返事に大いに不安を煽られた。

 宮廷は只でさえ地位や身分が物を言う。だが、アトは相手の肩書きを気にしない。


 こんな純朴な子を宮廷にろうだなんて酷ではなかろうか?

 旦那様は一体何をお考えなのだろう?


 貞深は主人ながら怒りと共に呆れを感じ、


「私も頑張るわね蘭玉ちゃん……。」


 と、自分がしっかりしなければと固く決心したのだった。


「え!? (頑張るのは私なんじゃ?)」


 この貞深の深刻な様子にアトはどうしたんだろう? と何も知らず呑気に考えていた。

 だが彼女にも彼女なりに頼る宛がある。

 彼はアトの知る限りでは、作法と芸事と人タラシの技術に一番に精通しており、楊曹夫人を懐柔する知恵を貸してくれるかもしれないし、出来なくとも宮廷作法を教えてくれるかもしれない。


 元気にしているかなぁ。月映ゲツエイ兄さん。


 アトは夜空を眺めて月を探した。でも、この日の晩はあいにくの新月だった。

 翌日、アトは夜も明けきらぬ内に元着ていた自分の服を着て出掛けた。色街にいる兄さんを訪ねるためだ。

 やはり、貞深は躊躇うような素振りであったが、アトがどうしてもと言ったので、それ以上の反対はしなかった。



―――――――――――――――――――――――――――――――


 ※1:上褶は丈の短い上衣。裳は漢服でのスカート。


 ※2:下に衣を着て、丈の短いじゅと呼ばれる上衣を掛けた上からくんと呼ばれる裳を巻いて帯で締める服。


 ※3:登頂部で丸く結い上げた髪型。男性のように布は被せない。


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