第5話 女は幾つになっても
色街は都の南西、出稼ぎ労働者が寝泊まりする宿群の隣にある。
ここいらの宿は、煉瓦や土壁を積んだ粗末な建物ばかりで重く暗い。しかもこの時期、この辺りは砂埃が多くて、退廃的な雰囲気を醸し出す。
その町並みを抜けると、堀に囲まれた一角だけ、白壁作りで
ここが都の色街、
きらびやかな大門を抜ければ、そこはこの世の桃源郷。外の殺伐とした町が嘘のように瑞々しい花々が咲き乱れ、池には金魚が放たれている。この美しい庭園を抜けると、右は妓女のいる娼館、左に男娼のが立ち並ぶ。
左にずらりと軒を連ねた娼館の中に、月映兄さんのいる妓楼、
ところが、歩けど歩けどなかなかたどり着かない。キョロキョロしながら進んで行くと、とうとう一番奥まで来てしまった。
そこはでかでかとそびえる大きい妓楼ばかり。
しまった。通りすぎたか?
と心配になってきたころにようやく、清琅閣を見つけることができた。ここも周りの妓楼と負けず劣らず、見上げんばかりの大きさである。
アトはさっそく、表で掃除をしている丁稚の一人を捕まえて、月映兄さんはいるか? と訊ねた。しかし、
「誰だお前! 兄さんは暇じゃない! とっと帰れ!」
とりつく島もなく、つっけんどんに返された。これにはアトもムッとなった。
「知ってるよそんなこと! 相談ついでに顔覗きに来ただけだ! そう時間はかからない。」
「駄目! 誰とも分からない馬の骨を会わすけにいかないね! 同郷だか何だか知らないけど帰れ!」
確かめもしないなんて! 頑迷な!!
「――――――っ! だったら書くものと筆を持ってきてくれ!」
「はぁ!?」
「渡してくれれば判る! お前もいつまでもこんなところで油売ってたら叱られるだろう? この方が早い!」
「……。ちっ! 待ってな! 直ぐ持ってくる!」
丁稚は楼閣に入ると、筆と庭から摘んできた桃の葉を持ってきた。
「これでいいだろ?」
アトはこれを受けとると、桃の葉に″
この婀兔の字は昔、月映兄さんから字を教わったときに当て字をしてもらったのだ。
丁稚はなおも疑いの眼差しを向けながら、桃の葉を月映兄さんに渡しに走った。
少しして、背後から伽羅の香りと共に耳に心地よく響く低い声で
「アト ? お前も大きくなって……少しは色事に目覚めたのかい? 桃の葉とは、なかなか洒落たことをしてくれるじゃないか?」
と、耳元で囁かれスルリと腰に手を回された。
ヒィッ―――――!!
アトは声をあげてビクッと跳び跳ね手を払いのけた。
「もうーっ! 兄さん!! 勘弁してくれ!! 殴るか蹴るか投げ飛ばしそうになるじゃないか!」
「あははははは! 元気そうだなアト。都に出てきてどうしたの? 郭の旦那様のお供かい?」
アトは改めて月映を見た。
別れたのは七年前、そのときは幼さがあり少女のようだったが――、
今、二十一の男盛りの月映は、艶のあるたっぷりの髪に、透き通るような肌を持ち、鼻筋のスッと通った端正な顔立ちに、目元口許がわずかに紅いのが艶かしい。
「色男になったなぁ……兄さん。前から綺麗だったけど。」
アトはポツリと呟いた。
「おや? 惚れたのかい?」
月映はいたずらっぽく笑った。それだけなのにアトは赤面した。
「兄さん!! もう! からかうのはやめてくれ!! そんなことより、ちょっと相談にのってもらいたくて……。」
「ほう。珍しい、良いよ。今日は早めに客も帰ったことだし。上がっておいで。」
アトは月映の部屋に招かれた。
さっきの丁稚が、
アト粥を啜りながら、居づらさを感じ月映に苦言を呈した。
「兄さん……。何でもかんでも落としちまうのはどうかと思うよ?」
「そんなことしてないよ。疲れるじゃないか。」
月映は卓に肘をついて返したが、もうそれだけでこの男は絵になってしまう。
あー、そうか。兄さんは何もしてないんだ。
そう月映の姿を見ただけで相手が勝手に落ちてしまうのだ。
美しすぎても難儀だなぁと、アトは月映を見ながらぼんやり思った。
「それより相談事って?」
「あぁ。それが色々あって、宮廷でちょっとだけ宮女をすることになったんだけど……。」
「きゅうじょ? ……きゅうじょって、あのお城の宮女?」
月映は豆鉄砲食らったはとのような顔になった。
「うん。そう。でね――」
「ちょっと待って! 何でそうなったの!?」
アトの目が泳いだ。まさか、皇子様の護衛をすることになったとは言えない。
「…………。ゴメン。ちょっと。言えない。」
月映は両手を顔の前で組んで頭を落とし暫くの沈黙の後、
「………………………………………………………………………解った。それで?」
と何か悟ったように醒めた表情で顔をあげた。
「えっと……。作法を覚えないといけないんだけど、教えてくれるはずのご婦人が癇癪持ちって言うか、ヘソ曲げちゃってて、教えてくれそうにないんだ。どうしたらご機嫌とれる?」
「ふーん。なるほどね。で? そのご婦人って誰なの?」
「う……うん。」
「アート。そのくらいは言ってくれなきゃ、私だって何も言ってあげられないよ?」
「その……。太師の奥様。」
「…………………………………………………。太師?」
「うん。」
「……。
「知ってるの!?」
「あー……私の口から言わせないでおくれよ。ね?」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!?」
アトは顎が外れるかと思うぐらい驚いた。
兄さんが、そういう言い方をすると言うことは……以前もしかしたら今現在、兄さんの客。
大師婦人が……。
「アト、仮にも宮廷に上がろうなんて娘が、大声は良くないね?」
「はっ! ゴメン! でも、でも! 駄目なんじゃないの?」
「うん。もしそうなら……いけないことだね?でも、貴族同士の結婚だからね、好き合ってできないことの方が多い。鬱憤や不満が溜まって、発散したくなったりするものさ。あるご婦人は、夫に使用人として幼馴染の女囲われて、妻であるはずの自分は蔑ろにされ、寡婦のような生活をしていたそうだよ。」
あるご婦人それはズバリ楊曹夫人のことであろう。
アトは、楊曹夫人が可哀相までは思わなかったものの、やたらきつく当たられる理由は理解した。
「……ふーん。なるほど。確かに、そこまでコケにされたら、いくら図太くても八つ当たりのひとつや二つはしたくなるかもな。」
貞深が″図太さがない″と言ってたのは、この事かとアトは思った。
「元は深窓の御令嬢だよ? 図太さの持ち合わせは無理難題だろうね。」
「ふーん。ってそんなことよりお作法だよ! どうやって教わろう?」
アトは頭を抱えた。
「ふむ。では私が一肌脱いであげよう。」
「え?」
「まぁ、任せなさいって! 可愛い妹分のためだ。」
そう言って月映はニコニコと笑った。
一体何をするのだろう?
アトはそのまま邸に帰らされ、その日のお昼下がり。
楊太師邸内は騒然となった。
侍女達が浮き足立ち、我先にその姿を見ようと邸中を走り回った。
月映がアトを訪ねて、今朝の丁稚とお伴を従え突然やって来たのだ。
アトは知らなかったのだが、月映は、この都では知らぬ者がおらぬほどの有名人で、神仙すら骨抜きにすると大層評判をとっていた。
そんなスーパースターがやって来たとあっては、侍女達があわてふためくのも無理はない。
侍女も大変だったが、もっと大変だったのは楊曹夫人だった。
楊曹夫人は月映が来た知らせを聞くや否や、サァーっと青ざめ、手に持っていた茶杯を落とすほどであった。やはり、妓楼に通っていたことは皆に内緒にしていた様である。
それから、アトの知り合いで彼女に会いに来ていると聞くと、余計にそわそわし始め、何か言いたげにチラチラとアトを見ていた。
アトはそれを″(実はもう知っているが)そんなに、私に遊里通いがばれるのが怖いのか?″と、思っていた。
しかし、それは女のくせに女心が今一つよく解ってないアトでは、想像すら出来ない理由であった。
そして、アトも必要以上に着飾らされ、大変だった。
薄紅の襦と白っぽい緑の裙に、深草色の帯を締め、髪は
何もここまでしなくても、と思って化粧は断ったのだが、楊曹夫人が
「旧知の仲といえど身なりを整えるのも客人への礼儀ですよ。」
と今日は妙ににこやかに言うので、アトは″気持ち悪い。何なんだぁ?″と夫人を不気味に思いながらも、居候の身である以上断ることはできなかった。
お陰で兄さんの前に出る頃には日が傾き始めていた。
客間に入ると、茜色の背子(※5)着たを兄さんと丁稚とお伴の青年そして、楊曹夫人がいた。
普通、こう言うときは、太師の妻である夫人がわざわざ相手をすることはないのだが、やはりアトと月映の会話が気になるらしく、アトが部屋に入ってきても当然のように居座った。
この行動を侍女達は不思議がったが、本人はそ知らぬ振りをした。
アトはとりあえず月映に挨拶をした。
「兄さん。お久しぶりです。(今朝あった
けど。)」
アトはなんだか変な感じがした。兄さんにこんな改まった挨拶をしたのは始めてだ。すると兄さんが優雅に微笑みながら言った。
「突然押しかけてすまない。だが、妹と思っていた娘がいつの間にか蘭になっていたとは…来た甲斐があると言うもの。」
「…………えっと。」
アトは言葉に詰まってしまった。
兄さんのこの顔、仕事の時の顔だ。
いつ見ても綺麗な兄さんだが、何かこうグッと引き寄せられるものがある。
緊張するような怖いような。アトは不安になってつい顔を曇らせてしまった。
月映はそれを見透したのか、突然吹き出し笑い始めた。
フッ!あははははは
「ゴメンよアト。そんな緊張しないでくれ。」
アトはホッとした。
「兄さん……。」
ところが、アトの隣にいた楊曹夫人はなんだか茫然自失となっている。
「仲が大変よろしいのね……。」
楊曹夫人はボソッと言った。すると兄さんが
「えぇ。大事な妹分です。身寄りのない
そう答えて茶を一口啜った。
夫人は
「まぁ……か買いかぶりだわ。」
と返していたがその顔はひきつっていた。
アトは何事かと驚いた。側にいた侍女も心配して、
「お奥様……? お具合でも……?」
と、声をかけたが。
「気にしなくて良いのよ。」
と能面のような顔で返事をしてスッと立ち上がった。
「水入らずのところを、お邪魔して申し訳なかったわ。積もる話もあるでしょうから、どうぞごゆっくりなさってね。」
としおしおと退席していった。
ぱたんっ…。
アトは目をぱちくりさせた。
一体何が起こったのだろう?
「に兄さん何かしたの??」
月映は澄ました顔で
「何も? いつものように少々お話をしただけだよ。」
と言った。するとお付きの青年がクスクス笑って
「確かに、いつもの接客と同じでしたねぇ。」
と言った。
「????????」
アトはますます分からなくなった。すると呆れた丁稚が
「お前バカだろ。ウスノロ。」
「なっ……! あたしが気に入らないからって! 今朝だってお前っ!」
「だってバカだもん。」
「こらこら
青年が丁稚を嗜めた。
「はーい。」
丁稚は膨れっ面で返事をした。それを見ていた月映はクスクス笑った。
「アトはもう十七なのに……本当にこう言うことは鈍いねぇ。」
「兄さんまで……。」
アトは膨れっ面をした。月映はクスクス笑うと言った。
「あのご婦人はね、アト。
「漁師……? 竜女じゃないの?」
「あぁ、そう……漁師だよ。漁師は、竜女と結婚して、気づかぬ内に長い歳月を過ごしてしまった。そうとも気付かずに、地上に戻ってしまった上に、竜女からもらった箱を開けて、お爺さんになってしまったね? 彼女もね、自分は嫁いできたときの若い女だと思っていたけれど、実はもうそうじゃなかった。」
「な……。そんなの当たり前じゃないの!?」
アトは信じられない思いだった。神仙でなければ誰だって年をとる。それがそんなに悲しいことなのだろうか?
「うーん。納得出来ないんだろうね。貴族は特に生活の実感がないから。」
「納得? 生活の実感って何?」
アトは困惑した。
月映は少し困った顔をして言った。
「うーん。説明するのが難しいなぁ……。そうだねぇ……庶民は必死で毎日を生きているだろ? だから、何か困ったことがあったら自力で何とかしようとする。でも貴族は日長一日寝てても生きていける。だから、困ったことがあっても、自力で何とかしようと思わない。況してや深窓の御令嬢ともなると、自分の状況を少しでも良くするのに、自分が努力するって言うのが、解らなかったりするんだよ。」
「解らない? 努力が? 楊曹夫人も?」
「そう。」
「そんなっ……! それじゃ赤子と一緒じゃないか!」
「残念ながらね。でも夫人だけが悪いんじゃない。何もするなと、教えられ育ってきたのだから……。風切羽を切られた鳥と一緒さ。だからこそ、周りを意のままに従わせないとやっていけない。そうなると、意に添わない状況や出来事は、全部他人のせいにする。だからこそ自らが貶められることは、非常に怖い。自分が年を取ったこと、分かっていないわけではないけれど、受け入れられない訳さ。」
月映が静かに語ったことは、アトにはやっぱり理解ができないことだったが、アトは改めて月映に感心した。
「はーっ! 私じゃそんなの全然分かんないや。やっぱり兄さんは凄いなぁ!」
すると、お付きの青年や丁稚は驚いた顔をした。それを見て月映はニコニコ笑ってる。
「なるほどね。これが兄さんの……。少し分かる気がしますよ。」
青年はニヤリと笑って言った。すると月映は青年をちらっと見て言った。
「言っておくけど……からかい半分で手出ししたら私が許さないからね?」
「それは怖い。くれぐれも心に刻んでおきましょう。」
青年は腕を組んで身震いするしぐさをした。
「けっ! 変な女!」
丁稚は相変わらずアトを目の敵にする。しかし、アトは丁稚を見ていると何だか憎めない気がしてきた。
「けっ! 可愛いげのない! そんなだとお前の
アトはからかって、丁稚の前に置かれた緑豆糕を取るふりをした。丁稚は本気にとって慌てて器ごと抱き抱え吠えた。
「駄目だい! これはオイラのだ! 食い意地の張った女だな? 子供から盗ろうなんざ大人気ない!」
あははははっ!
丁稚を除く一同は大笑いした。丁稚は一人顔を赤くして不貞腐れた。一笑いしてから月映は言った。
「まぁアト、明日からはきっと楊曹夫人は性根を入れて教えてくれるから安心しておいで。」
アトにはどうしてそうなるのか解らないが、兄さんがそう言うなら間違いない。
「うん。ありがとう。」
アトは礼を言うと、月映達を門の前まで見送った。帰り際、
「丁稚の坊主。これ持って帰れよ!」
アトは丁稚に自分の席に出されてた緑豆糕を差し出した。
「けっ! お前からの情けなんか受けるか!」
先程からかったのを根に持ってるらしく、プイッと顔を背けた。
「そう言うなよ。私、帯がきつくて腹に入りそうにないんだ。勿体無いだろ? お前が代わりに食べてよ。」
アトは丁稚が突き返した緑豆糕をそっと手に戻した。
「フンッ! そんなに言うなら受け取ってやる! それから、坊主じゃない!
アトは笑った。
香月の生意気は、故郷にいる弟たちを思い出させて、何だか懐かしい気持ちになる。
「香月な! 私はアトだ。よろしく。」
アトは手を出したが
「フンッ!」
丁稚は今度は耳を赤くしてそっぽを向いた。
「アト。また何かあったら文でも送っておくれ。大したことはできないかもしれないが……。」
月映は寂しそうに言った。
「なに言ってんの! 充分だ! 次会うまで達者でな!」
「あぁ! 必ず会おう!」
月映とアトは固く両手を握って別れた。
その後も、アトは門前で月映が乗ってきた馬車が見えなくなるまで見送った。
この約束が果たされるまで、数年もかかってしまうのだが、そんなにかかろうとはこの時、誰も思ってもみなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――
※1:月の女神。
※2:楊曹夫人の字。
※3:まとめ上げた
※4:で眉間にさまざまな紋様を描く化粧。
※5:
※6:緑豆を蒸して作るお菓子
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