展覧会の絵
賢者テラ
短編
行きつけのコーヒーショップはいつもと変わらない。
満席でもなく、かといって客が少ないわけでもない、平日の朝。
塚原由紀子は、出勤前に早めにこのコーヒーショップに寄って朝食をとり、一息つくのを習慣としていた。
彼女の座る席も決まっている。店内に入って右奥の端。
もしそこに誰か座っていた時のために、由紀子の頭の中では第二候補も決まっているのだが——
不思議なことに、彼女のその『特等席』がふさがっていることは、ほとんどと言っていいほどない。
まるで、そこが彼女の席であると皆が認めているかのように。
朝の6時40分。
カウンターで代金を払い、エスプレッソコーヒーとハムレタスサンドを受け取った由紀子は、トレーを持っていつもの席に陣取ると、朝食をとり始めた。
数口パンをかみしめているうちに、瞳に涙がジワッとにじんだ。
それは決して、寝不足であくびをしたからなどではない。
由紀子は、OL生活4年目の25歳。
短大を卒業してすぐ、今の会社に就職。
労働が過酷過ぎるわけでも、何かのっぴきならない目に見えた不幸が襲ってきているわけでもない。じゃあ、彼女の涙のわけは、一体何か。
それは、判でついたような変わらない日常にあった。
来る日も来る日も社に出勤しては夕方5時過ぎにアパートに帰り、テレビを見たり借りてきたDVDを見たり、音楽を聴いたり。
週末の休みには友達と遊ぶこともあるが、どちらかというとインドア派で、大勢と始終つるむよりも孤独を愛する由紀子は、一人でいることも多かった。
決して美人でないわけではないのだが、生来の孤高な雰囲気と人を余り寄せ付けないオーラのせいか、特定の男性との付き合いもなく、結婚の二文字は程遠い。
4年間突っ走ってきて、ふと今になって我に返った。
私、何やってるんだろ。
世の中は動いている。世界は恐ろしいスピードに何かに向かって走っている。
何も考えないであくせく日を過ごしているけど、考え方を変えれば私は一日一日死に近づいているわけだ。
大げさかもしれないけど、事実その通りだ。
今日という日は、二度と戻らない。人生は一度しかない。なのに私はこの四年間、一体自分のために何をしてきたのか?
生きるために働くこと、これは確かに大事だ。
しかし、仕事自体は別に望んでついた職ではないから、それによっては彼女は心から満たされる事はなかった。あくまでも、生活のためなのだ。
ただ単に生命を維持して、ボーッとしたまま世の恐ろしい濁流に流されるままになっていた自分を発見し、戦慄した。
このまま私は20代を、そして30代を過ごしていくんだろうか——
昨日の仕事上での失敗が思い出される。
イライラして、つまらないことで友人に辛く当たった。
由紀子は自分が悪いと心の底で分かっていたが、まだ彼女には謝罪していない。
自分の吐いた醜い言葉を思い出しては、自己嫌悪に打ちひしがれた。
人生、生きているとこういう時期は訪れるものである。
何をやっても、何を考えてもうまく行かない、気が晴れない。
そして、どこにそのやり場のない不安や怒りをぶつけていいのか分からなくて、巨大な迷路の中を一人さまよっているかのように、暗闇の中で手探りをするのだ。
由紀子の目から、涙がこぼれた。
外は、こんなにも天気が良いのに。
小鳥は歌い、太陽は一日の始まりを光を放って祝福しているのに!
人間は、何かに取り憑かれたように太陽の輝きに心震わせることも感謝することもなく無感動に出勤し、今日一日のノルマを頭に思い浮かべながら、互いに無関心な大群衆の波に呑まれながらそれぞれの職場に着く。
私は、また同じ日常を繰り返そうとしている。
このループから逃れる手は、ないだろうか。
それ以前に、どうやったら、私自身を変えることができるだろうか——。
店の壁には、数枚の絵が飾られていた。今までにも目に入りはしていたが、意図的によく見ようとして見つめたことはなかった。
ああ、何だかきれいな絵を飾っているいなぁ、くらいにしか意識していなかった。
改めて見ると、その絵は強烈な存在感をもって由紀子の目を射抜いた。
……花って、こんなに美しいものだったっけ!?
由紀子は、絵画というものにほぼ興味がなかった。
しかし、この時彼女はゴシゴシと目をこすってその絵を凝視した。
これは、ただの花ではない。
現実の花を見るのとは、違う。
もちろん、描かれてある絵のモデルとなった花を見ることによっても、「まぁ、キレイ!」 などと感動はできるだろう。
でも、今由紀子が感じているのは、それとはまったくかけ離れた、異質な感情だ。つまり、画家という一つの魂の目を通して見た、幻想の世界でもある——。
「おいで」
声がした。
……えっ?
彼女の目には、もはやコーヒーショップの店内は見えていなかった。
金髪の、青い瞳の少女が、絵の中から飛び出てきた。
誰かと問わなくても、由紀子には分かった。あれは、絵の中の花だ。
花の精が由紀子の頭上をめぐると、キラキラときらめく金色の粒子が彼女に降り注いだ。
一瞬、めまいに襲われたような錯覚を覚えた。
気がつくと、彼女はオンフルールというフランスの港町にいた。
目に迫るようにのしかかってくる、月の圧倒的な存在感。
瓜二つの双子を海面に迎える、やさしい街の灯りたち。
「会いたかった。あなたに」
町は、由紀子に語りかけた。
「やっと、私を見つけてくれたね」
両手を広げて、天を仰いだ由紀子の周りを、数人の柔らかな衣をまとった少女が一陣のつむじ風のように舞った。そして、竪琴の音色のような美しい声で語りかけてくる。風の精は、聖杯を彼女の頭上にかざす。
「あなたは、私たちを見出した。そして私たちはあなたを見出した」
月の精は、由紀子の肩に透き通った柔らかな布状のものをかけた。
「あなたこそ私たちの血の血。そして肉の肉。永遠の魂」
時間にして、恐らく5分もなかっただろう。
場所はフランスの港町からイタリアの農村、果てはオランダの花畑に変わり——
妖精とともに世界中をめぐりめぐって、やっとコーヒーショップに帰ってきた。
もちろん、由紀子はいつもの特等席から一歩も動いてはいない。
でも、確かに彼女は絵の中で地球一周をしたのだ。
由紀子は、ハラハラと涙を流していた。
鉄棒で頭をガツンと殴られたかのようなショック。
それとともに、今由紀子の中で何かが確実に変わった。何かが、胎動を始めた。
目つきの変わった由紀子は、大急ぎで食事を済ますと店長を捜した。
聞くと、店に飾られてある絵は『笹倉鉄平』という日本人画家の手による作品であることが分かった。
この絵気に入ったの? という店長の問いに、そうですと答えると……店長はいったん奥の事務所に引っ込んで、何か取って来て由紀子に渡した。
「これ、行ってきなよ」
見ると、それはその画家の絵を集めた展覧会の入場券だった。
次の日曜日。
彼女は都心まで出て、高層ビルの23階で行われていたその展覧会の会場に足を運んだ。
入場券を係員に渡し、会場内に一歩足を踏み入れただけで、彼女の全身は震えた。体もだったが、魂が震えたと言ったほうが正確だ。
恐る恐る、由紀子は一番手前の作品から目線を走らせた。
……こ、これは
彼女の心の器は、音を立てて粉々に砕けた。
頭の奥が、しびれるように痛い。
しかし、その痛さは苦痛ではなかった。
むしろ、自分の体の中が、音を立てて工事をされているような。
何だか、自分という人間がいちから新しく作り変えられているかのような、そういう感覚。
絵を半分まで見終えたところで、彼女は突然ペタリと通路の床に座り込み、声を上げて泣き出した。あわてた係員は、とりあえず由紀子を事務所の応接スペースにあるソファに座らせ、落ち着くのを待った。
ようやく人心地のついた由紀子に、係員の女性は一冊の分厚い本をプレゼントしてくれた。
「これ、差し上げます。何か、本当にここの絵がお好きなんですね。あなたのような方に見ていただけたら、本もきっと喜ぶと思います——」
それは、笹倉鉄平の画集だった。全ページが鮮やかなカラーで、本物には及ぶべくもないが、それでもファンにとってはうれしい一冊である。
気を取り直した由紀子は、最後の一枚まで全身全霊をかけて絵を眺めた。
彼女に胸の中には、真っ赤な灼熱の炎が燃え盛っていた。
「今度、イタリア旅行に行きます」
有給休暇届を提出してきた由紀子に、上司をはじめ皆が驚いた。
「……ど、どうしちゃったの?」
目に見えて、由紀子は以前とは変わっていた。
超然とした雰囲気は、今までと同じだ。でもそこに何かの芯が通ったような、ピリッとした空気が、彼女の周りには流れているような感じがするのだった。
何より、目が澄んで生き生きとしていた。
さながら、宝を探し当てた冒険家のように。
由紀子は海外旅行などしたことはない。高校時代、地方の公立校だった彼女の修学旅行先は国内だったから、私立校のように海外になど行くチャンスもなく、プライベートでも海外旅行など特に興味もなく今まで来てしまった。
しかしここへ来ていきなりイタリア行きを表明したのだから、皆びっくりした。
「何でまた……イタリアなわけ?」
同僚や友人たちは、みなそう聞いた。
答えは、簡単だった。
「好きな絵に描かれている風景を、どうしても見たいの」
この前辛く当たってしまった友人も誘い、そこへ由紀子に同調した数名のOL仲間も連れて、一ヵ月後にイタリア旅行が決行されることになった。
「私、何だかうれしい。これをきっかけに、退屈な自分の日常を変えられそうな気がするの——」
みな、そう言って由紀子に感謝した。
由紀子はそれまでの貯金を一部切り崩し、笹倉鉄平の絵を一枚買った。
150万近くしたが、惜しくはなかった。
絵が届いた日、彼女は一日中その絵をうっとりと眺め続けた。
いつまで見ていても、飽きなかった。
自分の魂の友を、家に招きいれたような感激があった。
彼女は、むさぼるように絵の勉強を始めた。
別に、画家になるための勉強ではない。
世界にはどんな素晴らしい画家がいて、どんな素晴らしい作品が世の中にあふれているのか——
それを知るために。
イタリア旅行に出る三日前。
由紀子は再び、同じ展覧会に足を運んだ。
開催期間がまだあったため、もう一度作品を目に焼き付けておこうと思ったのだ。彼女の一番のお目当ては、『オルタサンジュリオ』 という絵だった。
北イタリア湖水地方、 マッジョレー湖の西側にある小さな湖、 オルタ湖に浮ぶサン・ジュリオ島の風景を描いたもので、彼女はそこを見たいがために今回の旅行を計画したのだ。
絵の前で彼女が釘付けになっていると、ひとりの初老の男が近づいてきた。
白髪で、身なりの整った紳士風の男は、由紀子の目を見る。
「あなたは、先月末の日曜にも、ここにおらんかったかの?」
「えっ? ええ」
確かに。彼女が会場内で子供のように泣いてしまった時だ。
「私は、こういう者じゃが——」
渡された名刺には、『山根画廊』 とあった。
「要は、洋画や日本画のバイヤーをやったり国内で販売したりしとるんじゃが。どうかね、いきなりぶしつけなお願いで申し訳ないんじゃが、うちのスタッフとして働かんかね?」
由紀子は固まった。
「何をする……お仕事なんですか?」
「世界中を飛び回って、『いい絵』を発掘してまわるのさ。もちろん、評判の名画と言われるものだけじゃない。お前さんの心にビビッときたものを、世に広めてもらいたいんじゃ」
意志とは関係なく、心が躍った由紀子だったが——
「私には絵心もありませんし、絵の勉強をしたわけでもありません。絵が好き、というだけで私に勤まるでしょうか?」
初老の男は、引き込まれるような笑顔で言ってのけた。
「いやいや、絵が好きだからこそ勤まるんじゃよ。確かにこれから勉強してもらうことは山ほどあるが、私はあんたが絵を見る目に感動した。あの目で絵を見れる者はそうはおらん。
私は確信しているんじゃよ。もしこの世界に絵の神様というものがいるとしたら、あんたはまさに祝福された、選ばれた人間じゃと。もちろん、描くほうじゃなくて目利きのほうでな。
あんたさえ望めば、一生絵に囲まれた生活を保証してやるが、どうじゃな?」
この時、由紀子は今までの自分の人生をすべて肯定できた。
今までの時は、すべてこの一瞬を迎えるためにあった。
絵と出会い、私の本当の使命に出会うために。
……私は、今この時を感謝します。
「今勤めている仕事があるので、こちらの都合がつき次第、是非に」
「おお、そうかそうか。私は君みたいな人を待っていたんじゃ」
画廊の男と由紀子は、固い握手を交わした。
これからは、いつも一緒だね
あなたを通して、私たちの力が世を美と善に導けますように——
絵から、そう声が聞こえたような気がした。
由紀子の心は、すでにイタリアに——
いや。これから訪れるであろう、心震わせるような名画の待つ世界中に向けて翼を広げ、自由に飛び回っていた。
展覧会の絵 賢者テラ @eyeofgod
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