ふたりの想い出 12-3 約束

 疲れた表情になって溜め息をつき、ヴァンドーナは言葉を続けた。


「この場所には長く、幻精界との接点があった。わしの知る時代、心に闇と虚無をもつ者が悪しき目的のために仕掛けていた装置があった。先ほどの幻獣は『闇の領域』の大地竜ワームじゃろう。次元の割れ目からこちらの濃い魔導の気配を察知し、じ開けたのだ。とにかく、ふたりが無事で良かった……」


 大魔導士は祖父の顔になり、大切な孫娘の頭を優しく撫でた。彼女の小さな手を握ったままだったテロンに視線を向け、かがみこむように視線の高さを合わせて口を開いた。


「テロン様、我が孫を護ってくれて、ありがとう。王子はまこと、勇敢な心をお持ちじゃ」


 間近に見た灰色と銀の瞳の奥には、深い叡智と深遠なる星の煌めきがあった。その深く静かな眼にじっと見つめられ褒められたことで、テロンは照れと嬉しさのあまり頬が熱くなるのを感じた。けれどすぐに、自分の攻撃が通用しなかったことを思い出して悔しくなり、うつむいてしまう。


「……い、いえ。おれ……ちゃんと戦えなかった。何もできなくて……助けてもらったんだ」


 大魔導士は小さな護り手のこころを正しく理解し、微笑んだ。大きな手を少年の肩にずしりと置いて言葉を続ける。


「それでも、王子は決してあきらめなかった。だからふたり揃って無事戻ってくることができたのじゃよ。例え絶望の中にあろうとも希望の灯を捜し求めて進む者にこそ、運命は道をひらいてくれる。できることとできぬこと。ひとは誰しも万能ではない。このわしでさえも、変えられぬ未来はある……」


 ヴァンドーナの言葉の最後は、まるで自分自身に向けた言葉のようであった。テロンは視線で大魔導士に問い掛けたが、ヴァンドーナはかがめていた背を起こし、姿勢を戻していた。


 手をきゅっと握られ、テロンが視線を向けると、ルシカが彼を見つめていた。頭上にかぶさっていた葉が揺れ、隙間から陽光が差し込み、オレンジ色の瞳が輝いて見える。


「ごめん、ルシカ。おれ、あのミミズに勝てなかった」


「ううん。テロン、負けなかったんだよ。とてもすてきだった」


 その言葉に、なぐさめるような響きは微塵もなかった。にっこりと笑うルシカを見て、テロンもようやくホッと息を吐いて笑顔になった。


「テロン様、ルシカ様、ご無事でなによりでした。とはいえ服は破れておいでですし、ふたりともずぶ濡れになっているではありませんか」


 バルバが声を掛けてきた。テロンの衣服に血が滲んでいることに気づき、慌てて傷を確かめようとするが、怪我ひとつ負っていないことを知って目を丸くする。問いただそうとするバルバより早く、テロンはさきほどのバルバの不思議で圧倒的な技を思い出しながら、熱心に頼んだ。


「ねぇ、バルバ。お願いがあるんだ。ミミズを倒したさっきの攻撃、どうやったの? おれに教えてくれないかな。武器がなくても戦えるよう、強く、強くなりたいんだ!」


「『聖光気せいこうき』のことですか? しかしあれは格闘の技であり、テロン様といえど、体得するまでに相当な年月がかかりますよ。わたしも二十年かかりましたから」


「努力するよ、いくらでも。おれは、大事な相手を護れるくらいになりたい!」


 一度決めたら半端なままで投げ出すことのないテロンの性分を知るバルバは、強い意志を宿した少年の熱意を、無下に断ることができなかった。誰かを護りたいという思いは、彼にも覚えがあったので。


「わかりました。稽古をつけて差し上げましょう。しかしながらテロン王子、私はもう高齢です。発現できるのはこぶしがやっと……。最後は王子自身の努力となりますよ」


「うん!」


 握ったこぶしに力を篭め、テロンは大きく頷いた。


 一行は王宮へ戻った。中庭から回廊へと続く柱のところで、書記官長ファルメスと妻フィーナが待っていた。中庭で遊んでいたはずの娘ルシカを迎えに来たのだろう。


「ママ、パパ!」


 両親は、土埃に汚れて水に濡れた娘が祖父ヴァンドーナに抱えられている様子に目を丸くした。だが、その楽しそうな笑顔を見てすぐにホッとした表情を浮かべる。


「何かあったのかと思って心配していたのですが」


 ファルメスは明るい色の瞳を微笑ませながら言葉を続けた。


「怪我はないみたいだね、ルシカ。そのくらいは見れば判るよ。テロン王子、一緒についていてくださって、ありがとうございます。王子も、お着替えになったほうがよろしいですよ」


「ルーファス殿がやってくる前に、じゃな」


 祖父ヴァンドーナはルシカを母親に託し、空いた手でテロンの肩をポンと叩いた。廊下の先を指し示されなくても判る。美しい光の差し込む静謐な回廊、その石畳を割り砕かんばかりに騒々しい足音が近づいてくるからだ。だが、やってきたルーファスの厳しい表情は、テロンに向けられたものではなかった。


「ファルメス殿! 陛下がお呼びです。至急とのことで……。ヴァンドーナ様にもご相談申し上げたいことがございます」


「報告が入ったのだね」


 妻に抱き上げられた娘の頭を撫でていたファルメスの口調は穏やかなままであったが、鋼のような強さをもつ眼差しに変わっていた。最近、隣国や海向こうの独立国との関係が油断のならないものになりつつあったことを、文官の誰かが話していたような気がする。何かあったのだろうか――テロンの胸に、ざわりと冷たく嫌な風が吹いたような感覚が生じた。


 テロンが口を開こうとしたとき、目の前に立っていたヴァンドーナのからだが、まるで電撃を受けたかのようにビクリと揺れた。


 驚いて大魔導士を見上げると、ヴァンドーナは両眼を手で覆うように瞑目して、内なる衝撃に堪えるように動きを止めていた。


「おじいちゃん」


「……お義父とうさま? お顔が真っ青になっているわ」


 ルシカとフィーナが気づき、ヴァンドーナに駆け寄る。ファルメスとルーファスもまた、常日頃からいわおのごとく揺るぎなかった大魔導士の尋常ではない様子に驚いている。


「何でもない」


 ヴァンドーナは背筋を伸ばし、何事もなかったかのようにいつもと替わらぬ口調に戻って言葉を続けた。だが、テロンは気づいた。大魔導士の指先がこらえようもなく震えていること、そしてその震えを抑えるために、今、強く握り締められたことに。


「そんなことより、此度の交渉にはわしが出よう。ファルメス、そしてフィーナ、お前たちは王宮へとどまってルシカの傍についておるのじゃ」


「いや、父さん。そういうわけにはいかないよ。――ヴァンドーナという人物がこれ以上、国家間の遣り取りに出ることは、わざわいといさかいの種になる。何処にも属さず、二度と歴史の表舞台に現れることがあってはならぬ。絶対に――そう言ったのは他でもない、父さん自身じゃないか」


 首を横に振りながらファルメスが言うと、隣でフィーナがにこりと笑った。


「大丈夫ですよ、お義父とうさま。もう少しの辛抱です。ラムダーク王国は敵ではありません。海向こうの良き隣人と話し合いに出掛けるだけですもの。すぐ戻ってきますわ。ね?」


 前大戦の英雄である老齢の父親を気遣いながら、ルシカの父と母は国王の執務室へ向かっていった。父に抱き上げられたルシカが大きな瞳でテロンを見つめながら、笑顔で手を振ってくれている。


「またね!」


 テロンも手を振り返しながら明るい声を張り上げた。今日は大変なことがあったけれど、あの子とさらに仲良くなれた気がする。彼は嬉しくなって、勢いよく歩き出そうとした。だが――。


「テロン殿下! その格好はいったい、何があったのですか?」


「る、ルーファス! いや別に、たいしたことないんだ。怪我だってないし……」


 お目付け役のルーファスがいたことを、すっかり忘れていたのだった。助けを求めて周囲に眼をやるが、バルバも自分の為すべき仕事に戻っている。


「おれ、着替えてくるね。……は、ハァックシュン!」


「そんなに濡れたままでは風邪を引いてしまいますよ。さあ、早く乾かして、あたたかくなさいませんと!」


 さすがのルーファスも、小言を後回しにしたらしい。自室に戻される最中、テロンは寒気と熱っぽさを感じながら、先ほどヴァンドーナの様子が変わってしまった際、彼が震えながらつぶやいていた言葉を思い出していた。


「……ルレア。約束どおり、息子は魔導に頼ることのない幸せを手に入れた。だが……運命はかくも残酷なものなのか……。済まぬ、ルレア……済まぬ。わしには……」


 まるで打ちひしがれ泣いているひとのようだった、とテロンは思った。


 その日、結局テロンは高熱を出し、自室のベッドの上で一週間を過ごすことになった。


 おとなたちの話がどう決まったのか、気にはなっていたが起き上がることもできず、暮れゆく陽の光に染まってゆく部屋の天井や壁を眺めていたとき、兄のクルーガーが部屋を訪ねてきた。


「よう、テロン!」


「兄ちゃん」


 風邪がうつるから部屋に入らぬよう言われているのか、クルーガーは、そっと開いた扉の隙間から顔だけを突き出している。テロンの傍に付き添っていた者が席を外したタイミングなのだろう。


 兄にファルメスやルシカ、そしてヴァンドーナ大魔導士の様子を聞かせてもらおう、とテロンは思った。だが、彼が言葉を発する前にクルーガーのほうが早く口を開いた。


「聞いたぜ、テロン。中庭の花壇でミミズに驚いて引っくり返ったって? しかも噴水だか落っこちて、ずぶ濡れになったんだって。それで、風邪引いちまったってなァ」


「へ? ち、違うよ!」


 兄の勘違いにびっくりして、テロンは素っ頓狂な声を出した。喉に無理をさせたことで咳き込んでしまい、事の次第を説明しようとしたが叶わなかった。


 クルーガーは「だいじょうぶだって。誰にも言わないからさ」と勝手に請け合い、幾分か意地の悪そうな笑みを浮かべ、片手をひらひらと振ってみせた。


「待ってよ! 兄ちゃん、兄ちゃんってば!」


 それでもテロンは必死でかすれた声を上げた。せっかくあの子――ルシカと仲良くなれたと思ったのに、変な話をでっち上げられたら格好悪いことになってしまう。けれど兄クルーガーの足音は遠ざかっていき、戻ってこなかった。


「ちくしょう! にい……兄貴のばっかやろう! ばかばかばか! ミミズなんて……、ミミズなんて大ッ嫌いだあぁ!」


 こうなったら、早く風邪を治して、あの子に自分で会いに行こう。そう心に決めたテロンは、枕に頭をのせ、おとなしく掛け布にくるまった。大きなオレンジ色の瞳、耳に心地よく響く声、笑顔で振ってくれた小さな手。それらを思い出しながら、テロンは回復するための眠りにつく。


 けれど。


 少年だったテロンは、国のために交渉役として船出したファルメスとフィーナ、そして残されたルシカと、彼女の保護役となったヴァンドーナに会うことなく、別れることになってしまったのである……。





 魔の海域に、一筋の光が差し込んだ。遥かな地平線から一日の始まりを告げる火箭ひやが放たれ、射抜かれた黎明の空がみるみるうちに明るくあたたかな色に染まってゆく。


「珍しいな……。魔の海域の東端とはいえ、朝日を見ることができるとは」


 テロンはつぶやくように言葉を発した。そのとき、ルシカが彼の腕のなかでかすかに身じろぎをした。覗き込むと、金に縁取られたまぶたがおずおずと開かれるところだった。世界を染め上げる太陽のようなオレンジ色の瞳が、彼の視線に気づいた。


「ルシカ」


「テロン……」


「心配しなくてもいい。ウルも無事だ。……全く。あの大きさの魔獣と心を繋げるなんて、『使魔』の魔導士にもできることじゃないぞ」


 ルシカに微笑みかけるテロンの青い瞳の奥には、痛みにも似た切なげな光が揺れている。その想いを正しく理解したルシカは、テロンの胸に寄り添った。弁明するように、囁くように、淡い言葉を連ねる。


「うん……ごめんね。無茶ばかりして……。でもあの子、大きさはとんでもなかったけれど、敵意があったわけではないし、魔獣とはいえ普段は私たちのような生き物を襲うことはないんだって。もっと大きな魔獣たちを餌にして、この魔の海域の生態系を守っているの。だから、心を繋げて分かってもらって、命の無益な奪い合いをして欲しくなくて……」


「ルシカ」


 今度のテロンからの呼び掛けには、あたたかい響きが含まれている。ルシカの言葉を微笑みながら受け止め、愛しい妻のやわらかな唇にそっと口づけた。彼女が落ちついたのを見て、言葉を続ける。


「でも何故、突然、ここまで来ようだなんて思ったんだい?」


「うん。昨夜の会議のあとで、部屋を出るときにクルーガーが話してくれたでしょう。……それでね、あの……『今日』だったって、聞いたから」


「そうか……」


 なるほど、ウルの速度ならば一夜の距離だ。庭師のバルバに分けてもらった、薔薇の花束を携えてきた意味。あの日までの幸せな想い出を伝える、美しい花たち。


 テロンは彼女を支え、静かに立ち上がった。ルシカが腕をいっぱいに伸ばし、そっと花束を海へと捧げる。ふたりを頭部に乗せてくれているウルもまた、神妙な面持ちで沈みゆく花束を静かに見守っている。


 何処までも深いあおのいろ、さざなみ立つ白い泡模様。渦を巻いていた魔の海も、朝のひとときのみ穏やかな海となったのだ。


 ルシカが、彼女の両親に向けた言葉をつぶやくのが聞こえた。やわらかな金の髪に隠され、眼下の海面を見つめる彼女の表情は見えない。けれど今なら理解できる。テロンは彼女の体をしっかりと支えながら、彼女が囁いたと同じ言葉を心の内で繰り返した。


 両親への感謝。祈り。そして、ソサリア王国の護り手としてふたりの意志を継いだ、約束の言葉を。


 テロンはそこに、自分自身の想いを加えた。ルシカとともにり続け、彼女を護りながら家族や友人たちとともにふたり幸せに生きることを。


 地平から太陽が昇り、寄り添って並び立つテロンとルシカを穏やかな光が包み込んだ。ルシカが顔を上げて、彼と眼を合わせて微笑む。


 新たな一日のはじまりを告げる光と同じ、ぬくもりに満ちたオレンジの色彩がきらめいた。





――ふたりの想い出 完――

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魔導と少女の王国物語 星乃紅茶 @umitsukikou

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