ああ、不調

@suzukiyume

ああ、不調

Ⅰ ああ、不調

一 企て

 1 特別室係

 三条高光さんじょうたかひかりは分厚いのし袋を、上品な婦人の胸もとに軽く押し返して、穏やかに言った。

「いえ、こういうものは困ります」

 拒む気のない力の入りようを察した五ついつつい夫人は、三条の手を取ると、その手のひらにのし袋を載せて握らせ、更にそのふくよかな白い手で包んだ。

「そうおっしゃらずに、どうぞお受けとりくださいましな」

「い、いえ、困ります」とクチでは言いながら、すでにその手はがっしりとのし袋を握りしめていた。

 五十代半ばと思われる夫人は、レースのついた白絹のネグリジェにうつるほど赤面している。カネなどという下賎なものを直接手にしたことなどないのだろう。

 絹よりもきめの細かい肌だ。触るととろけそうな指先の柔らかさ。それに手のひらは温かい。

 三条は金持ちの手が好きだった。好きというより、大好きだった。

「こんなに元気になったのも、三条先生のおかげでございます。私からぜひ、直接お礼申し上げたかったのでございますよ」

 三条は特別室で受け取った、五つ井夫人の体と同じくらいに量感のあるのし袋を懐に、青年医師らしくさっそうと、所属医者のたまり場である心療内科医局に向かった。

 医局とは、手っ取り早く言えば、個室を与えられない下っ端医者の大部屋だ。タコ部屋ともいう。大きな四角い長テーブルの周りに貧弱な椅子が配されている。一番奥の特等席には、その時集まっている中で位の一番高い医者が座る革張りの椅子が置かれてあった。

 三条は懐に手を当てた。カイロのようなあたたかみが伝わってくる。五つ井夫人の柔らかい指の温かさそのものだ。

 思わず知らず、三条の口元がほころび、並びのよい歯をチラリとみせた。カネには弱い三条、それを手にすると、ついうっかり笑ってしまうのだった。

 三条は五つ井夫人が初めて受診した日のことを思い浮かべた。

 夫人が腹痛を訴えて緊急受診したのは、折しも、心療内科医、三条が当直の晩だった。三条が当直をするときは心療内科総出で泊りがけだ。総出と言っても四人の研修医と医局員が二名だったが。

 五十代の色白な貴婦人が腹に手を当てている。腹痛らしい。

「バイタルはどうだ。血圧は?脈は?」

 三条はくっついてきた研修医、黒小路竜麻呂くろこうじたつまろに矢継ぎ早に尋ねた。

 殺風景な急患室に、三条の声が妙に響いた。青いリノリウムの床の真ん中には、幅の狭いストレッチャーが置かれている。その上には、ふくよかな五つ井夫人がはみ出さんばかりに載せられていた。

 救急カートの引き出しにはいろいろなアンプルが仕舞い込まれている。そのどれを使うのかとばかりに、救急科のナースが前のめりに構えて、急患当番医の命令を待っていた。

 腹痛だ。鎮痙剤のブスコパンだろうか、よく効く痛み止めのペンタジンだろうか。何しろ、ここは急患室だ。百人一首の試合のごとく、ナースは身を乗り出して構えの姿勢をとっていた。「ブ」でブスコパン、「ぺ」でペンタジンを取り上げるのだ。

 竜麻呂はざっくりと答えた。

「血圧はやや高め、脈も多めですね」

 その大まかな答えを耳にすると、三条がちっと舌打ちをしながら竜麻呂をにらんだ。

 しかし、くるりと振り向き、五つ井夫人の顔を覗き込む三条の面差しは、うって変わった上品なものだった。

「大丈夫ですよ」と三条は黒小路に言うのとは大違いの、穏やかな口調で言った。

 もちろん舌打ちなどしやしない。

 手の甲でそっと、夫人の額に触れた。

「熱はありません」と竜麻呂が言うと、三条が再び舌打ちをした。

「熱を見たのではない、熱を。今日び、医者のくせに熱を額で測る奴がいるか。素人でもあるまいし。額に汗をかいているかどうかを確かめたのだ。痛みによる冷汗だ。バカ者が」

 夫人を挟んで向かいに立っていた後六条マリ《ごろくじょうまり》は三条の豹変ぶりに感心しながらも、キラキラと光る大きな目を見開き、口は閉じてやりとりを聞いていた。長いまつげが風を起こさんばかりに時々目を瞬かせた。

 三条はさらに穏やかな声音で夫人に尋ねた。

「お食事はとられましたか?」

「はい、てんぷらを少々。でも、少々でございますよ。それとも前菜のキャビアでございましょうか。モスクワ駐在員に送らせたものでございますから、傷んでいるような事は。それとも食後のアイスクリームのてんぷらかしら」 

 黒小路竜麻呂があぐらをかいた鼻をうごめかし、もっともらしくいった。

「ほう、アイスクリームのてんぷらね。外食なすったんですね」

「いえ、自宅でございますよ」

 黒小路が大きな目をさらに大きくむいて、頓狂な声を急患室に響かせた。

「アイスのてんぷらを御自宅で」

「はあ、おマサの得意料理でございます。使用人はおおございますが、これだけはばあやのおマサにさせます」

「ばあや様のおマサさん、結構ですねえ。ぜひ一度食べてみたい」

「どうぞ、宅にいらしてくださいまし。でもその前にこの痛みをどうにかしてくださいましな」

 黒小路が五つ井夫人との会話にのめり込んでいる背後で、前傾姿勢を維持して待っていたナースに三条が小声で言った。

「ブスコパン、一アン」

 ナースは三条が「ブ」まで言ったところで、素早く手を伸ばし、ブスコパンのアンプルをカートから取り上げた。

「ブスコパンを一アンプルですね」

 やっと出た命令に即座に反応したナースは、復唱し、取り上げたアンプルから少量の液体を注射器に吸い取り、空アンプルを付けて三条に手渡した。

 三条は受け取った小さな注射器を持って竜麻呂の後ろに立って呟いた。

「この注射、お前の頭に刺してやりたいわい」

 黒小路竜麻呂は振り返りざま、三条がさらにポツリと呟くのを耳にした。

「五つ井財閥か」

「五つ井財閥?」

「ま、いい。何の疾患か」

「ヒステリーですか?」

「どこがヒステリーなんだ」

「金持ちの中年女性」

「バ、バ、バカじゃないのか、お前。上腹部痛を来す疾患は?全部言うてみい」

 業界では、この程度のやり取りをハラスメントとは呼ばない。教育的指導だ。

「それが一つも思い出せません」

「なんだと、この輪をかけた大馬鹿者が。そのあたりにあるゾーモツを言うてみい」

 ここまでの罵声も、ハラスメントには入らない。現場教育の一環だ。

「ゾーモツ」と言って、黒小路竜麻呂が自分の腹を撫でながら、考えるふりをした。

 黒小路竜麻呂の答えを待つ間もなく三条がまくし立てた。

「それに、脂っこいものを食べたあとに起こる腹痛。いいか、脂汗をかくほどの痛みだぞ。どこがヒステリーだ。最後に考える疾患だわい。タのつく疾患だ、タのつく」

「タ、のつく病気、タのつく、タ、タ、タヌキネイリ」

 後六条マリが我慢しきれず、黒小路の頭を後ろからはたいた。これも業界では暴力とは呼ばれない。単なる教育的指導の実践だ。

 三条の食いしばった歯の間から、噛み殺した声が洩れた。

「この袋小路、本当はわかっているんだろう。後六条、代わって答えよ」

「はあ、胆石」

 三条が、皺一つないハイネックの白衣をシャキンと着こなすマリをさらに促した。

「そ、そう。そうだな、後六条。もう少し正確に言うと」

「痛みという症状があるから、胆石症。しかもまだ石は確認されていないから、胆石症疑いです」と答える後六条の目がキラリと光った。

「そう、そのとおりだ」と言って、三条が深いため息をついた。

 単なる深呼吸かも知れなかった。

 竜麻呂が途方に暮れた顔を三条に向けた。

「どうしましょう」

「まず鎮痙剤と鎮痛剤で痛みをとって、超音波だ。腹部エックス線写真も撮っておこう。石が大きければ、外科医を呼べ」

 三条がそういい終わるか終わらぬかのうちに、後六条が通る声で言った。

「はい、超音波室押さえました。および、単純エックス線写真撮影を放射線部にオーダー出してあります。技師ともども、ポータブル撮影機が間もなくやって来ると思います。外科の当直医も待機中です」

 マリの素早い手回しに感心はしたが、その機転に気の許せぬものを感じて、三条は後六条をちらりと見た。

 後六条マリはキラキラと光る大きな目で三条を見ている。三条は睨みつけられているように感じた。獲物を狙うネコ科の猛獣のようだ。三条はぶるっと身を震わせた。

 五つ井夫人は、三条の見立てどおり、大きな胆石があるため、消化器外科で内視鏡的胆嚢摘出術を受けることになった。内科でもよかったのだが、外科にしたのには特段の理由もなく、外科医に三条の仲良しがいたからにすぎない。

 なぜか三条は術前術後、暇を見てはまめまめしく往診を欠かさなかった。そのうえ術後は病棟医長の職権を濫用し、大事をとると称して心療内科の特別室を夫人のために空けたのだった。

 夫人のいる特別部屋はバラの花束で埋もれており、いつでも甘い香りがムーンとした。

 夫人の好物であるケーキやクッキーが山とつまれ、夫人に間食を禁じた三条がこまめに心療内科の医局に直送した。

 夫人は貴族の末裔ばかりを集めたその大学病院の、しかも学内でも選りすぐりのスタッフからなる心療内科がいたくお気に入りとなった。中でも三条の気品が御ひいきだった。

 午後の医局には、のほほんとした空気が満ち、研修医達が後六条マリを中心にして会議用の長机の脇にあるラウンドテーブルを囲んでいた。茶も湯気を立てている。広くはない医局に甘い香りが漂った。高級菓子の匂いだ。

 夫人からもらった大川軒のレーズンサンドを頬張りながら、黒小路竜麻呂が言った。

「五つ井夫人がいらしてから、僕たちの体重も増えましたねえ」

 研修医の紅一点、堀川のととの宮が大きな目をさらに大きくして言った。

「私は坂目家のあられをおいしくいただきましたわ」

 最若手医局員、東周寺力とうしゅうじちからが長い馬づらをさらに伸ばして、ゴックリと唾を飲み込み、いつもは重い口を開いた。医局員と研修医が違うところは、さしずめ、正社員と派遣のようなものだった。医局員はその医局に就職した社員で、幸か不幸か移動はなく、研修医はローテーションと称される短期雇用の連続だった。

「全く、ととの宮さんは辛党ですね。私はあの最澄屋の最中のパリッと香ばしい皮と、上品な甘さが。お煎茶とよくあい、ああ、ごっくり」

 東周寺の隣に控えていた研修医紀ノ貴之きのたかゆきのに視線が集まった。

「や、どれもおいしゅうございますがな、いま一つ東のものは口に合わず、これは失礼」

 東周寺が突然、間延びした馬づらをやや引き締めて、医局員らしく研修医の素性を正しにかかった。

「ところで、ととの宮さんは、どうしてそういうお名前なのですか。確か、正式には、堀川のおまなほりかわのおまな様かと存じておりますが」

 後六条マリが東周寺を上目遣いにじろりと見た。

 もっとも、人一倍のんびりしている東周寺自身にそういった知恵はないので、三条の差し金であることは明らかだった。

 そんなことには一向構わず、ととの宮が屈託なく答えた。

「堀川家では代々、おたーさまが出産前日の夜あがられたものにちなんだ名を女児につけるならわしが。で、私の時は、おまな、つまり、おととだったのでございます」

「ほーお」

「ほーお」

「ほーお」

 研修医達の吐息ともつかぬ相づちがこだました。

(おととね、魚か)

 マリは心の中で繰り返して溜め息をついた。

(魚ならば、かますのみやとかどうかな。いや、あんこうの宮なんかいいんじゃない?いやま、おっとりととの宮が一番か)

 冷めた目をしたマリはべつのあだ名を考える手間を省いた。

「それよりも、どうして、黒小路竜麻呂様は、袋小路などといわれるのでしょう」

 ととの宮がレーズンサンドを皿において、好奇心旺盛な丸い目をむいて身を乗り出した。

「袋小路フニャマロよ」とマリが、きっぱりといった。

「そう、そのフニャフニャ…」

 上品なととの宮は最後まで言えずに語尾を濁した。

「フニャマロではありません、フニャマロでは。ましてやフニャフニャだなんて嘆かわしい。タツマロ、タ・ツ・マ・ロ」

 竜麻呂が一文字ずつを区切って言ってから、息継ぎすべく、鼻の穴を上に向けた。

 その時だった。

「そうだなタツマロ君」と三条が呟いて、ニヤリとした。

 その途端、なぜかフニャマロは急におとなしくなった。

 三条がお構いなしに続けた。

「それにはな、ふかあーい訳があるんだが、こういったところで、しかも明るいうちから話す類の事ではないので」と言って、三条が再びフニャマロを見た。

 フニャマロが大きな口をへの字に閉じ、深くうなづいてから、話題を貴之に振った。

「それより紀ノ殿の名はタカユキ殿でしたな」

「そうそう。必ずツラユキと読まれるんです。タカユキだと訂正すると、紛らわしい奴だと怒られたりして。名前の責任まではとれませんよ、自分でつけたのではござりませぬからなぁ」

 きのたかゆきが細い目をして、とがった顎を上に向け、それから常備のセンスを広げて顔の下半分を隠した。

「まあ、そうだけど、めんどくさいから、これからはツラユキにしましょう、通称で」とマリが決めた。

「ところで薬師大心やくしだいしん先生は、お名前の通り、お薬にお詳しいんでしょう」と、ととの宮が相変わらずおっとり構えて尋ねた。

「はあ、まあ、セイリョクザイ方面を少々」と薬師がモソモソいった。

「セイリョクザイ?」と、ととの宮がつぶやくような小声で言った。

 口にはしてみたものの、ととの宮はそれがなんだかちっともわかっていないようだった。

 しかし、何かはばかられるような響きがあったのだろう、「セイリョクザイ」というその言葉。

「特には、アカマムシ関係」と薬師が付け加えると、マリが二人の会話に割って入った。

「若いくせに、情けない。精力剤だって。ねえ。それより、薬師先生のお友達って、ピアスしてるんですって?」

「まあ、ピアスですって、おしゃれ」と言いながら、ととの宮が手を叩いた。

「そうね、特に男の人の鼻ピアス、臍ピアスはねえ」とマリが解説すると、ととの宮は目を丸くしたまま、口をあけた。

「殿方の、しかもお鼻やお臍のピアスでございますかあ」

「いやあ、おしゃれったって、たった二人ですよ」と言いながら、薬師が悪びれた様子もなく、赤面してうつむいた。

「たった二人ね。何人のうちの」とマリが詰問口調で尋ねた。

「三人。だって、マブダチは少ないですから」と言って薬師がすすけた顔をほころばせた。

 薬師はマリの、尋問のような詰問が少しも苦にならないようだった。どこかで慣れているのだろうか。

 ととの宮が気を取りなおして口をはさんだ。

「マブダチって?」

「親友ってこと。その方面の言葉よ」とマリが説明した。

「その方面っていうと、隠語でございますか。まあ面白そう。他にどんな言葉があるのですか」と言いながら、ととの宮がまた小さな手を叩いた。貴族の手は小さいのだ。

「タメドシってよくいいますよね。それにシカトするとか、メンタンきるとか」と、フニャマロが博識を披露した。

「どういう意味ですか」と、ととの宮が初めて聞いた外国語の意味を問うようにたずねた。

「同い年、無視する、ガン付けするって意味ですよ。ガン付っていうのは無用に目を合わせる、用もないのにじろりと見る、オイこら、って口じゃなくて目で言うっていうような、まあ、お前気に入らないぞ、と目でもの言うってことですかね」とフニャマロが通訳、詳説した。

「他にはないのですか?」

 ととの宮が丸顔のなかに二つある真ん丸な目玉を落とさんばかりに大きく見開いて、さらに身を乗り出した。

 薬師が言った。

「そんなもんですね。それで用は足りてしまいますから」

 マリがまとめた。

「要するに、あんた達は、タメドシのマブダチとメンタン切ったり、シカトされたりして一日が終わるわけね」

「そんなもんです、ハイ。ごく小心者ですから」といいながら、大心が大きな身を縮めた。

 三条がポイントを押さえた。

「この中で停学を食らったのは、おまえぐらいか?小心者の大心君」

「テイガク!」と、ととの宮が叫んだ。

 以後、ととの宮は薬師と直接言葉をかわしていない。

 心療内科には様々な末裔がいた。もともと、血筋と金筋でいつの間にか新設された医科大学だ。体中を札束でまとい、さらに脳味噌の重量を補って十二分の金持ちと、やんごとなき家系出身の者ばかりを集めていた。「やんごとなき家系」の中でも、宮家にどのくらい近いか、つまり、皇位継承権はあるのか、ないのか、あるならば何位なのか、といったところで厳しく序列付けされていた。

 芹香院きんこういん教授率いる心療内科は、選りすぐりだった。全国の国公立大学から「お家柄」のよい医者がリストアップされ、白河しらかわ助教授の厳しいまなこをかいくぐった者だけがヘッドハントされて入局を許された。だから、本医科大出身の生え抜きといえば東周寺一人だった。もっともこの病院で「生え抜き」は必ずしも優秀であることを意味しない。

 三条医局長は某国立大から多額の金を積まれてヘッドハントされた。

 後六条マリは、某私立医大から、売られるようにして、本医科大学に連れてこられた。

 この件以降、後六条マリは二度と再びこの手の憂き目に合わないよう、金がらみのことがらには細心の注意を払うことにしていた。

 しかし、東周寺などは、ある科から幾ばくかの持参金まで積まれて心療内科に引きとられた身の上だった。

 心療内科は、金持ちのぼやき扱うべく設立された科であったから、特に入念につくられていたのだ。どんな金持ちをも黙らせる威力、それは金では買えない「やんごとないお家柄」というわけだ。しかも、とびきりでなければならない。さしあたり現在の医局員も研修医も、芹香院教授の福々しい御顔を曇らせることのない、ありがたい連中だった。

 かの五つ井財閥の五つ井夫人も、心療内科転科以来、いたくご機嫌麗しく、特に三条が回診する際の顔のほころびようは、また格別だった。いかに金持ちで育ちのよい夫人とても、三条のような青年貴族が仕えてくれることなど、滅多にないことだった。

 三条は五つ井夫人にこの上なく丁寧にかしずき、忠実にその「特命」を果たした。

 しかも、三条自身、特別室で品のよい五つ井夫人の相手をするのが決していやではなかった。どちらかといえば好きなのだ。金持ちが。

 大きく開いた窓から見える広い空、眼下の街並。完全にきいているエアコンディション。毛足の長い絨毯、五つ井夫人の白い肌には強すぎる太陽光を程よく遮る上等なレースのカーテン、夜には外気の冷たさを完全にシャットアウトできるぶ厚い二重カーテン。しかもそれらが、枕もとのボタン一つで開閉する。もちろん、ボタンは付き添いのお付きのものが押すのだが。

「ご体調は、いかがでございますか?」と、長い脚を組んで椅子に腰掛けた三条が口を開くと、五つ井夫人はにこやかに答えた。

「はい、だいぶよろしゅうございます」

 それから大した会話も弾まぬまま、三条はそこで時を過ごすのだった。

 窓から遠くを見やりながら三条が言った。

「ここにこうしていると、気が休まります」

「まあ、そんなことを」

 五つ井夫人は、ほほほほほ…と笑って顔を赤らめた。

 五つ井夫人はめでたくご退院と相成り、ばあやのおマサさんにぶ厚いのし袋をつくらせ、三条に手渡したのだった。


 2 心霊内科

「おや、卑弥呼様、ご機嫌麗しゅう」

 三条は医局のドアを開けるなり出くわした天敵マリに、恭しく頭を下げた。

 定例の医局会だ。狭い医局に全員が集まる週一回の医局会。長テーブルの周囲に多くはない医局員がたぶん、医局長たる自分の席を空けて待っているのだろう。時間ぴったりに、三条は医局に到着した。入り口でマリに出くわしても、いつものようにからかえばいいだけだ。

 しかし、お決まりの三条の悪態に怒る余裕もなく、マリは口元に指を当てた。

「シッ。芹香院教授がおでましよ」

「な、なんだって?芹香院教授が、こんなところに。しかも今日に限って」

「え?なにそれ?今日に限って?それってどうゆうこと?」と、マリが長身の三条を見上げていぶかしげにいった。

「いや、なんでもない、なんでも」

 さすがの三条も僅かに顔色を変えた。滅多に芹香院教授が医局のような下界に降臨したりしない。それよりなにより、問題は、教授お目見えとあらば、実務派助教授の白河も一緒にへばりくっついて来ているのだろう。白河は金の匂いに過敏だ。まずい。

 三条は手櫛で髪を整え、ネクタイを念入りに締め上げ、白衣を意味なく払った。この時の三条の唯一のしくじりは、せっかくの五つ井夫人からののし袋を、無造作に胸ポケットに入れたまま放置したことだった。

 三条はゆっくり奥へ進んだ。いつもは際限なくザワついている研修医どもが、神妙な顔をしてテーブルの周りで姿勢を正している。三条はまずそれらに目をやって、いつもと変わらぬ風に、余裕の黙礼を与えた。研修医は背中に物差しならぬ、鉄パイプでもいれているかのようにまっすぐに上体を倒した。

 三条は一番奥の特等席にゆっくりと目をやり、そこに鎮座まします芹香院教授に、いま気づきましたといわんばかりに驚いてみせた。

「こーれは、これは、芹香院教授。このようなむさくるしいところにおでましになられるとは。芹香院教授の医局ご来臨、恭悦至極にございます。教授におかれましてはご機嫌麗わしゅう、この三条タカヒカリ…」

 まどろっこしい三条の言葉を遮って、芹香院教授が頭のてっぺんから声をたてた。

「ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、マ、三条殿、堅苦しい挨拶は抜きにして。三条殿こそ、益々りりしき若貴族」

 福々しい顔と分厚い福耳に赤みがさしている。機嫌のいい印だ。医局では「耳赤徴候」と呼ばれていて、当該心療内科では非常に重要視されている所見の一つだった。

「本日は芹香院教授おんみずから、研修医がたの顔を御覧になられたく、お出ましあそばされた」と、白河が精いっぱいのもったいを付けていった。

 後六条マリは見ればわかると思ったが、口に出す雰囲気でないことは察していた。マリにも空気は読めた。

「ハ、有難きことでございます」と研修医殿がたが声を揃えて、白河助教授の方を向いて言った。

 そう、彼らはまだ芹香院教授と直に言葉をかわすことなど、許されてはいないのだ。

「研修の医師達も喜んでおります」と白河が伝えると、芹香院教授が初めて聞いたかのように、ウンウンとうなずいた。

「それでは、医局長である私、三条タカヒカリから紹介させていただきたく」と手っとり早く用件を済まそうと、三条が切り出した。

 芹香院教授は、まるでおたふくの面が剥がれなくなってしまったかのような、全く変化のないニコニコ顔のままうなずいた。そうはいっても、このうなずき一つが下るかどうか、実はこの医局では重大事だ。

「後六条マリ。天照大臣を守護としている家系であることは以前に申し上げました。もう一年本大学病院で働いてもらうことになりました」

 マリが色白の顔にひときわ目だつ大きな瞳で芹香院教授を見つめると、教授は今にもとろけそうな顔をした。

「おうおう、御苦労じゃのう」

 マリは気づかわしげに三条を見た。三条はただうなずいたのでマリは頭を下げた。

 と、そこで突然、白河が口をはさんだ。

「そうそう、なにやら卑弥呼の血筋も引いているとか、ヒャッヒャッヒャッ」

 マリは上目使いに白河をにらみつけた。

 白河はあらぬ方に目をやった。

 三条は気付かぬふりで話を進めた。 

「東周寺力は、先日ご紹介しました昨年度の貴重な新入医局員でございます、唯一の」

 東周寺は白河に促されて頭をさげるまで、ボウッと芹香院教授の顔を眺めていた。

「つぎに四名の研修医でございます。紀ノ貴之、京の出身」

 紀ノが高い鼻をより高くツンとすましてから、頭を下げた。さらっとした前髪が高い鼻にかかったが、貴之は慣れたようにそれを手の甲で払った。

「フクロコウジ、いやクロ小路、フニャ、いや、タツ麻呂。黒小路家の嫡男」

 三条は滅多に名前を間違えて呼んだりしない。ワザとだ。以来、竜麻呂はフニャマロが通称となった。フニャマロは口をへの字に曲げて、じろっと三条をにらんだが、三条は全く意に反さないかのように、次の話題に移った。

「薬師大心、名の通り先祖代々、薬を扱わせれば、右にでるものはございません。さらに、紅一点は堀川のおまな、以上四名にございます」

 三条の手っ取り早い、しかもそつのない運びにより、定例医局会は滞りなく終わり、芹香院教授は間もなく、白河助教授に手を引かれて医局を去った。

「おっと、っと、っと。そうそう、三条殿」

 何を思ってか、いそいそと引き返してきた白河の甲高い声が、緩んだ医局の空気を貫くように響いた。

「そう、そう、そう、そう。間もなく、五つ井夫人が御退院でござりましたな」

「はあ」

 三条の心臓がドキリと一回高鳴り、その拍動で左の胸ポケットのものがゴソッと音を立てて動いた気さえした。

「夫人のご機嫌はいかがでござりますかな」

「はあ、経過も芳しく、またお日柄もよろしく、明日にはご退院とあい成り …」

「そうか、そうか、それはよかった、よかった、お日柄もな。しかして、夫人のご機嫌は、ご機嫌はいかがかなっ?」

 三条は白川を上目づかいに見ながら迷った。

(どこまでねばろうか。もう少しいけるかもしれない。あののし袋の厚み、重みにはかえがたいものがある)

 三条はうつむき加減の顔のまま白川を見て考え続けた。

(しかし、白河もかなり食い下がってくる。こうなったら引きぎわが肝心だ。しかも白河が相手ときてはなー)

 三条は観念した。

「そう、そう、そう、この三条、うっかりしておりました。五つ井夫人からこのようなものを預かり、苦慮しておりました。御処遇をお決めいただければ幸いかと」と、一オクターブ上げた声でいいながら三条は胸ポケットを騒がせていたのし袋を取り出した。

「ホウホウ」

 白河の顔が突如としてほころんだ。

 三条が差しだしたのし袋が、白河の手から滑り、ドスンと音をたてて机の上に落ちた。

「これは失礼致しました」

 三条が慌てたようにのし袋を取り上げ、ついてもいないほこりを右手で払ってから白河に再び恭しく捧げた。

「いやいや、これは、これは」と言って、白川が受け取ったのし袋を両手でささげた。

「早速、芹香院教授にお伺いをたててみましょう」

(あの野郎、いつもああして重みを測りやがる。これがヒラッとでも落ちようものなら、触りもせずに「三条君、これは君のものだ。取っておきなさい」となる。ドサッなると、ましてやドスンともなれば、もう握って離すまい。

 いやいや、しかし惜しかった。あの握り心地、あの重み。たなごころにずしりとくる。それに落ちたときのあの響き。いくら特別室係を命じられていても、あの位の「ブツ」を受け取ることは、滅多にない。五つ井夫人を念入りに診ていたのは自分だというのに、なんということだ。情けない。トンビにアゲをさらわれるとはこのことだ)

 逃したのし袋はさらに厚く思えた。失った札束が三条の瞼の裏でひらひらとその枚数を増していった。

「三条先生、やられましたね」とフニャマロが口を開いた。

 一方のマリは、三条のつり損ねた札束とは全く別世界で歯ぎしりを噛んでいた。

「白河め。またあの卑弥呼の話を」

 三条は思わず笑った。札束の件も、一瞬忘れかけた。

「だいたい人の名前もろくに覚えないくせに、あの話だけは」

 マリの歯ぎしりが医局に響きわったった。

「そうですよね。後六条とも言えないくせに。いつも『ゴルフ場』ですものいね。ぼくのことなんか『袋小路』ですよ。もうろくしているんですよ」とフニャマロが憤って言った。

 三条が、今度は失った札束のことは、すっかり忘れたかのように高笑いした。

神霊内科しんれいないかではな。あやしげと言われて余りある」と三条が言うと、ととの宮が大きく目を見開いてうなずいた。

「何かいい儲け口はないすかねえ。不調でいけませんや」と薬師が口を開くと、今度もととの宮はうなずいた。


 去年のこと、マリが新入医局員として大学にやってきた年だった。『何か、いい儲け口』を探していた研修医が、マリを卑弥呼の子孫と称して奉り、神霊内科をでっち上げたのだった。マリの美貌も手伝って、人も金も実によく集まった。

 もともと「卑弥呼」はマリ自身が名乗ったことだった。やんごとなき家柄の研修医達が血筋自慢を始めた際の、陰の医局長としての殺し文句だった。落ちぶれ貴族の末裔であるマリには、自慢の種もこれといったものがなかった。その時に「卑弥呼」が最終兵器となった。

「私、実は、卑弥呼の直系なんだけど、その時代、あんたの祖先もいたんでしょうねえ。貢ぎ物なんかしてくれたりしてさ」

 その場にいた者の半分は鵜呑みにして有り難がったのだ。真っ赤なウソなのに。

 次の金儲け、半ば成功したのが、心療内科と同じ読みでも怪しさ倍増の心霊内科しんりょうないか事件だった。

 外来担当の三条が患者をピックアップし、研修医がそれとなく当りをつける。そらぞらしい飾り付けをした部屋で、もっともらしい格好をしたマリが、もったいぶった顔で座っていれば、それだけで金が集まった。確かに大方の「気の病」は、ありがたい心霊療法しんりょうりょうほう中に症状の軽快をみたのだった。

 しかしまもなく、何の拍子か、いずれの企ても白河助教授の知るところとなり、芹香院教授の耳には入れないことを条件に、儲けた金はすべて吸い上げられたのだった。以来、医局では白河を、上皇と呼ぶようになった。白川は超一流のカネの亡者でもあったのだ。

 白河は医局の責任者たる三条から目を離さなかった。三条を見ていれば、医局員の動きはあらかたわかる。金の匂いに敏感な白河は、カネを目の前にすると三条の口元がだらしなく下がることを知っていた。そして、三条の口元にだらしなく下がる「カネサイン」が出ると、目ざとい白川が見逃すことは決してなかった。しかも、鋭敏な嗅覚をもって、隅におけない医局員達がまだまだ次の企てをくわえてくることを嗅ぎ取り、心の底では楽しみにしていたのだった。


「何かいい儲け口はありませんかねえ。実に不調だ。薬師先生、お薬に詳しいなら、何かこうパッと売れそうな薬はないですかねえ」とフニャマロがくせ毛を指でクリクリと巻きながらぼやいた。

 医局では長机を囲んで、四人の研修医と二人の医局員が顔を突き合わせていた。

「パッと目の醒める薬、気持ちよくなる薬、きれいなものが見える薬…」

 薬師があやしげな声で呟くのをマリが遮った。

「もう少しまともなものはないの、一体全体」

 フニャマロが続けた。

「そうですよお、薬師殿。何かこう、もっと皆さんのお役に立つものはないのですか。全国津々浦々のご家庭で使われて、人々に喜ばれるような」

 フニャマロに促された大心が嬉しそうに笑いながら言った。何か思いついたのだろう。

「そうそう、それでは、ひいじいさまがあみだした『香取万香かとりまんこう』というのはどうです。よく効きますよ。蚊が落ちること間違いなし。向こう三軒両隣りの蚊を落とすって村中の評判だったと聞いています」

「カトリマンコウ?」と、ととの宮が口にしてから大きな目玉の上に乗っかっている両の眉をひそめた。

 皆の視線が一瞬ととの宮の丸顔に集まった。

「セン香の十倍効くマン香。但し、夜、暗い中でそれを焚くと、皆どうも、妙な気持ちになるらしいんですよ。おかげで村中、子沢山になっちゃって。ひいじい様の香取マン香のせいだってんで、石投げられたんですよ」

 思わず皆の口から漏れた。

「ばっからしい」

「もっとまともなことはござりませぬかな」と、ツラユキが口を開いた。

「ないことはないわ」とマリが研修医の顔を順に眺めながら言った。

 皆が声を揃えて言った。

「何ですかあ」


二 実行

 1 陰の医局会

「医局会を召集するからには、何か考えがあってのことなんだろうね」と、三条が口火を切ると皆が一斉にマリを見た。

 陰の医局会だというのに、全員が遅刻もせずに集合して、会議用の長テーブルを囲んでいる。熱意の表れだ。研修医たちの目が心なしかギラギラとしている。ととの宮の大きな目玉は飛び出しそうだ。フニャマロは、机の上に転がり落ちるととの宮の目玉を思って気を揉んだ。

 そんなことにはお構いなく、マリがフニャマロ、ツラユキ、ととの宮、薬師大心、四人の研修医の顔を順に見渡してきっぱりと言った。その隣の東周寺にマリの視線が注がることはなかった。

「あるわ」

「まあ、どんなことでございましょうか」と、ととの宮がさらに目を大きく見開いて言った。

「みんな端的に言って、お金がほしいのよね」

 研修医達は声には出さず、しかし深くうなづいた。

「お金が全てです」と、さらにフニャマロが言葉にして確認した。

 マリがダメを押した。

「お金のためなら、何でもできるわね」

「何でもできます」とフニャマロがダメを押し返した。

 三条が含み笑いをすると、フニャマロが思わず知らず、しょっぱい顔になった。

「また卑弥呼様ですかあ」と薬師がぼやいたが、これは成り行き上、シカトされた。 

「北条ナースに来てもらったのは、言うまでもなく…」とマリが言うと、同席していた外来ナースの北条がキラリと光る目をきっとむいて、会釈をした。女にしては太めの眉がさらに角度をあげた。

「というと、またもや外来がらみということですな」といって紀ノ貴之が常備の扇子でコンと机を叩いた。

「また卑弥呼様ですかあ」と薬師が再びぼやき、再びシカトされた。

「北条ナース、あの件を」

 マリに促された北条が、柔らかな遅れ毛をピンクのナースキャップにまとめ入れ、透き通るように白いうなじを見せてから、通る声で切り出した。   

「私、心療内科を専属で担当させていただいております外来ナース、北条でございます」

「ハイお馴染みの」とフニャマロが愛想よくあいの手をいれた。

「恐れ入ります」と言いながら、深く会釈した北条が続けた。

「私、外来看護及び、外来予約、入退院に関する諸手続き等の管理に携わっております」

「ご存じ、凛々しきナース、北条」

 今回のあいの手は、マリの大きな目でたしなめられた。フニャマロはおとなしく首をすくめた。

「先日、五つ井様がめでたくご退院あそばされました。退院後、初回の外来は、二週間以内の担当医の外来日における来院、受診が、当科の慣わし。これ、ご説明申し上げました。ほかの多くの方が滞りなく、退院後の外来受診を済ませられております。然るに」と、北条が突然話を切ってから、大きく息を吸い込んだ。

「し、然るに」とフニャマロが繰り返すと、研修医たちが長机の中ほどまでも、身を乗り出した。

 北条が鋭い目で研修医たちを一巡、見まわしてから続けた。

「然るに、このところ、五つ井夫人のように、初回、来院なされず、さらには、医師をご指名の上、往診のご依頼ある例をみております」

「ほーお」

 溜め息に近い声が洩れ、視線は一斉に三条の高い鼻に注がれた。三条は蝿を追い払うように手をはばたかせて、必死にそのねちっこい複数の視線を振り払おうとした。

「今回、三条先生の医局長判断で、往診を施行致しました」

「そこまで」

 マリの号令で、北条がピッタリと言葉を切った。

「ほーお。往診を」

「往診」

「往診」

 研修医達は口々にこの言葉を発し、味わうように噛みしめた。

「そこで当科でも、この往診を施行してみようと思う。もちろん、陰の往診を」と、マリが言うと、研修医達の声がこだまの様に響いた。

「陰の」

「陰の」

「陰の往診」とつぶやいてフニャマロは、夢みるようにこの言葉の余韻を噛みしめた。

「担当は袋小路フニャマロ君、紀ノツラユキ君、薬師小心君の研修医三名、及び東周寺君」

「え、ぼくもですかあ」と東周寺がぼわっとした声で言った。

「さらに、三条医局長。もちろんやってくださいますわね」と東周寺のボヤキは気にも止めず、マリが言った。

「しかたない」とあきらめ顔で言って、三条は覚悟を決めた。

 五つ井夫人の往診は自分でやりたかったのだ。きっととてもいいことがあるのだろう、五つ井夫人の往診。直感したマリがそれを許さなかった。

 マリが三条を横目で見ながら言った。

「それでは、次回、五つ井夫人を手始めにいたしましょう、どなたがおやりになりますか」

 その策謀に気づいた三条が既得権を守ろうと躍起になった。

「五つ井夫人だって?それは別建てだろう。医局会の取り決めに蘇及効果はないぞ。担当はもちろん、私だろう」

「それはそうなのですが」といってマリがジロリと三条を見た。

 三条は鼻白んだ。マリはアプローチの方向を変えた。

「よろしいでしょう、五つ井夫人、三条先生ということで。ところで指名往診は、交通費を別として、十万円が適当かと。前例から申しましても」

「十万円」

「十万円」

「ほーうっ」

「前例」

「前例」

「前例」

 どよめきがこだました。マリは一人、挑みかけるように三条を見つめながら、右口角をあげて笑っている。

「十万円、前例」とフニャマロがエコーを打ち止めした。

「そうですわね、前例おつくりあそばした三条先生」

 三条の聡明そうに広がる額が、じわっとにじむ汗でキラキラと光った。暑いのか、冷や汗なのかは定かではなかったが、いずれにしろいい気持でないことは確かだ。胸元できちっと絞められたネクタイを右手で引っ張って緩めた。

「十・万・円ですか、五つ井夫人の往診。三条先生」といいながらフニャマロが身を乗り出した。

 数秒の沈黙の後、三条のやや上向きに高い鼻がソッポを向いた。

 マリが再度矛先を転じるべく、口を開いた。

「十万のうち、本人三万、医局七万はどうでしょう」

「本人たった三万ですかあ。逆ですよ、逆、逆」とフニャマロは、今度は三条追求をすっかり忘れ、マリの方に体を向け直した。

 三条は内心ほっとし、やっと七三の悪条件に気が付いた。それに五つ井夫人についてまでそんな悪条件を適用されてはたまらない。ここはフニャマロにがんばらせるほかはあるまい。

「そうね、いいとこ六四だわ。だって私たちのマネジメントなしにあなた方は仕事にありつけないのだから。ととの宮と、北条と私の取り分は、それでも随分少ないと思うわ」

「だって、体を張って稼ぐのは僕たちなんですよ。どんな要求にも答えなきゃいけないんでしょ」と、フニャマロが上向いた鼻をさらに上向けて言った。

「そうよ。どんな要求にもね、確かに。でもその間、留守を守るのは私たちよ。半々でもいいわ、大幅に譲歩して」と言って、マリが負けずに鼻を上に向けた。

「少々お待ちあれ」とツラユキが常備の扇子で机をコンと上品に叩いて、待ったをいれた。

「結構なお話とは存じますがのお。我々は指名のあったときのみ、その幾ばくかを頂戴致すわけですな。一方、後六条先生をはじめとするマネジメント側は、我々の誰に指名があろうが、ほぼ常に収入は約されている。これは僅かに不公平、いかに」

「ごもっとも、ごもっとも」と労働側が口々に言った。

「ところで、北条殿、きわめて大事なお役目と存じますがのぉ、もうちとよい条件で、我らと契約、取り結びませぬか」と言って、ツラユキが閉じた手持ちの扇子の先を北条に向けた。

「そうですよ、そう。北条殿がわれらと組めば、向うところ敵なし」

 今度はフニャマロが加わって、マネジメント側の切り崩しにかかった。

 研修医たちは北条を取り込んでマリを孤立させようとしている。

 その大胆な企てに、東周寺さえもが唖然とし、開いた口がそのまま閉まらなかったのだが、特段面相はいつもと変わりなかった。

 しかし北条は、きっぱりといった。

「大変ありがたいお話ではございますが、お断り申し上げます」

 どよめきの中から、マリの高笑いが響いた。

「どう、半々ってところが、妥当じゃなくて」

 駆け引きは終わり、皆各々の業務に立ち戻った。

 外来への戻りがけ、北条がマリにこっそりと言った。

「マリ先生、さすがでございますわ。五分と五分にするあたり。当初の計画では、せいぜい四分、悪ければ三分と。ホッホッホッ」

「ふふふ。北条のおかげよ。あの汚い切り崩しで、かえって向こうの方が瓦解したんですからね。何事も強気でいかなくちゃ」


 図体の大きな東周寺が去ると、すっかりがらんとした医局には、マリと三条が残った。

 三条はそ知らぬ顔でパソコンのキーボードを打つマリに言った。 

「見たな」

「見てないわ」とマリはキーボードをたたきながら、そっけなく言った。

「見ないでなぜわかる。見たんだろう。だから、人の物を勝手に見るなと、いつも言っているだろう。ときどき、僕あての封書が開封されて届くが、あれも君だな」

「手紙を見るのは白河よ。上皇の趣味なんだから仕方ないわ。読んでは嬉しそうに笑っているわよ。いいじゃないの、手紙をこっそりのぞかせておけばご機嫌なんだから。私は封書の内容なんか開けなくったってわかるわ、差出人でね。そのくらいのことがわからなくて、ここで副医局員はやっていけないもの」

「さすが、陰の医局長だ。でも、中身を見ないでなぜのし袋の金額がわかるんだ。見たにきまっているだろう。そもそも、そののし袋が、だ、たとえ机の上で馬鹿のように口を開けていても、万一そこから金の方が数えてちょうだいといわんばかりにしゃしゃり出ていたとしてもだ。枚数を数えたりするもんじゃなかろう。女性の年と、人の金は数えないものだ」

「だから、数えたりしていないって」と、キーボートを叩く手を止めて、マリが三条を見上げた。

「じゃ、なぜ、五つ井夫人の往診料が十万とわかった…」と口にしてから、三条はしくじりに気づいた。

 一瞬、マリの目に勝利の光が稲妻のように走るのを、三条は目にした。

(しまった、まずい)

(この野郎、黙ってたんまり稼いでやがったか、やっぱり一回十万。私の勘は当たっていた)

「このあいだ、あなたが『往診』から慌てて帰ってきたとき、ぶつかったわね。そのとき、あなたに胸ポケットののし袋に触れてしまったの。袋の厚みで中の金額が正確にわかってしまうのが、後六条家の悲しい性なのよ」とマリは心なしか声を弱めて言った。

(やはり十万であったか。とすれば、三回であわせて三十万。よくもまあ、こっそり一人で稼いでいたものだ。この後六条、なめられたものよ。三条家はいつもそうだ。これからはなお一層、注意を払わなくばなるまい)

 マリは穏やかそうに装う顔とは裏腹な思いをキーボードにぶつけた。しかし、荒ぶるその気持ちすら、決して見て取られまいと決意していた。悟られてはならぬ、内心という内心。ポーカーフェイスに限る、この医局では。

「畜生、またやられた。かまかけられて。三条の血は正直でいかん。ひっかけに弱い。仕方ない。この場はひとまず、逃げるとするか」

 三条は独り言を言いながらそそくさとその場を去った。

 マリがだれもいなくなった医局で叫んだ。

「三条の大馬鹿野郎」

 三条家と後六条家との確執は、さかのぼること永々、千余年。そしてここで会ったが百年目、現在に至るのであった。


 2 陰の症例検討

「さて、それでは、クランケの紹介させていただきます。鴨の池家夫人トミ様、先日、精査目的にご入院。めでたくご退院ののち、往診御希望。小堤家、ハチ様、小堤家のご当主、小堤ゴン八郎様の御母堂。猫山家御令嬢タネ様。以上三名。皆様特に御指名はございません」と北条ナースが歯切れよく外来の状況を報告した。

「詳細につき症例検討させていただきます。それではととの宮先生から」

 ととの宮はマリに促されて口を開いた。

「はい。それでは。鴨之池家トミ夫人、四十八才。精査の結果、単純性肥満以外、特に異常はございません。腰痛の訴えあるもエックス線診断上異常をとらえられておらず、いわゆる腰痛症と存じます。ちなみに身長一メーター三十センチ、体重七十三キロと少々ウェイトオーバー気味」

 自身のふくよかな体型に注がれる視線に気づき、ととの宮は「コホン」と咳払いをしてそれらを一掃した。

「栄養指導、腰痛体操の指導がメイン・セラピーになるかと。二例目、小堤家ご当主、ゴン八郎様のご母堂、ハチ様、八十八才。当院にお通いになるのが難儀とのことで、往診御希望。しかし、身体的には、循環器、呼吸器、消化器とも六十才台のお若さ。スーパーノーマルでございますね。足腰もご達者で、なぜ当院通院のみ、難儀なのかは不明です。何しろ御達者な足でございますから、あちこちお出かけになられては彼方にてお帰りになれず、巡査さんのお世話になることもしばしばとのこと。おつむりの方が少々、ということでございますわね。御食事、あがられたことをすぐお忘れで。入院中も、この病院は食事がでないと院長室に再三再四、苦情を仰せにいでられ」

「マ、頭に聴診器でもあてていればいいわけね」と三条が言った。

「御意。月一、二回の問診、聴打診、及び御自宅でのおヌクとおジャジャの検査を御希望。ご存じでしょうが、おヌクは体温、おジャジャはお尿のことでございますよ。ですから体温計および採尿カップなどのお道具を御忘れなく。三例目、猫山家タネ様。三十才の御令嬢。こちらは実年齢よりもお心が少々お若くあそばします。しかしながら、身体の方はいたってお丈夫、検査にてもこちらもスーパーノーマルでございます。ご家族からの情報では毎日ご退屈なさっていることのみ、問題とのことでございます。以上ご静聴ありがとうございます」

 プレゼンテーションが無事に終えたととの宮が深々と頭を下げた。

 三人の研修医がにらみ合った。同じ取り分ならば、できるだけ楽な方がよい。さしあたり、肥満夫人の美容体操か、老婦人の話相手。難物は少々若すぎる御令嬢か。しかし決定は彼らの思惑と全く別のところで、しかも強引にくだされるのが常だった。マリが口を開いた。

「トミ夫人、ツラユキ殿。ハチ様、東周寺君。タネ嬢、フニャマロ君、以上。それから、もう一症例、検討を要す問題が。四十才、独身男性の患者が、特に女性医師の往診の希望とのことですが。女性医師はマネジメントで多忙につき、小心君にお願いします」

「女性医師がご希望なら、ご希望に添った方がいいんじゃないですか」とタネ嬢を押し付けられたフニャマロが応酬した。

「マ、そうも考えましたが、薬師君もいることだし、得意の精力剤でも調合してやってくださいな。どうです」

 薬師は、背に腹をかえられなかった。研修医は四人、患者は今のところ三人。一人、仕事にあぶれるわけにもいかず、四人目の担当を諾とした。

 フニャマロはといえば、目的不明の男相手よりは、無邪気なタネ嬢の方がマシだと考えるに至った。

「三条先生は五つ井夫人ということで」

 やきもきしていた三条がそれを聞いて安堵した。

 症例検討会は、常にごくあっさりと終わった。

 皆、特に己の利益が冒されない限り、無用の争いを避ける知恵をもっていた。時に鴨之池トミ夫人の下敷となって唇を紫にしても、また時に小堤家ご当主のご母堂、ハチ様の繰り言を何度となく聞かされても、さらに若い猫山家御令嬢、タネ様に付きまとわれ、トイレにまでくっついてこられても、彼らは目をつぶった。

 ツラユキはかなり我慢強かった。これを機に、マッスルを鍛えることの決めた細身のツラユキは、トミ夫人をお姫様抱っこして、さらにスクワットをするという技を身に着け、夫人に喜ばれたのだ。夫人の体重はちっとも減らなかった。

 事情があって、祖父母に育てられた東周寺は、年寄りが好きだった。それに、どんなに熱心に同じ繰り言を耳元で念じられても、その半分も東周寺の大脳皮質には至らない。特定の選択性はなかったが、話の間引きが東周寺の特技であったのが幸いした。

 フニャマロはタネ嬢を愛らしいカエルの人形でつって街をつれ歩き、気に入られては家族に喜ばれた。フニャマロは子供の相手が得意だった。

 四十男と薬師は、薬の調合の甲斐あってか、妙に気が合った。しかし、薬師は常に背後に気を配ることを忘れなかった。

 ツラユキの腕力と懐のあたたかみが増した。

 フニャマロの身なりが不相応に良くなり、薬師は国産車から、憧れの外車に乗り換えた。

 東周寺に特に変わった様子はなく、要するに一人相変わらずだった。

 大方のところで皆機嫌良く暮らしていた。

 そんなある日のことだった。

 落ち着いてくれば欲がでる。どうしても五分以上の実入りが欲しくなるのが人の常だ。特に利に聡い彼らのこと。利益を巡る勢力争いには、先祖代々慣れている。

 歴史をひもとき、幾久しく続く家系図を見れば、妙なところで途切れては、強引につながる。その行間には「金の切れ目が縁の切れ目」と明瞭に書かれていた。皆、口には出さずとも本能的にそれを読み取っていた。

 彼らにとって、心の安寧など安定した生活の上で花咲く二次産物だ。文化でさえ、根元にこってりと肥沃な土地があればこそ育つもの。見事な花を咲かせるには、金という肥しをせっせとやらねばならない。貧弱な木であってさえ、接き木をし、元の木とは似ても似つかぬ実をならせてしまう。そういう芸当をこなすもの、それが金だ。

 才能などなくとも、それをもった者を連れてくればよい。来るのをしぶれば金で雇えば良いのだ。雇われるのを嫌がれば、金で雇った者に連れてこさせればよい。

 教養など肥やしの量を計る計量スプーンに過ぎなかった。

「何かこう、もう一つ不調でござるな」

「不調でござる、不調で、フニャマロ殿」

「のう、ツラユキ殿、どうしてこう我らはいつも浮かばれぬ様な気がするのであろうか」

「ふむ。我々の懐も、やや満ち足りてきた。これは欲がでてきたのではあるまいか」

「欲」

「欲」

「欲」

 研修医が口々に呟いた。彼らの押え難い向上心の変化型、「欲」は確固として彼らの頭の中心部に棲み着いていた。欲で研ぎすまされた彼らの五感が、奥の部屋でワープロを叩くマリのため息を聞き逃さなかった。

「そうそう、三条先生お見合いなさったとか」とフニャマロが思い出したように話を変えた。ツラユキは、

「おう、そうそう、えらいべっぴんさんだとか」といって例の扇子でコンと机を叩いた。

「いや、まあ、その話は、また」と三条はムニャムニャ言って皆を煙に巻きながら、おもむろに席を立って医局を去った。

 その間、僅か一分足らず、マリのタイピングが途絶えた事実も彼らの大きな耳がキャッチし分析していた。

「マリ先生は」

 フニャマロがいうと残りの者が続いた。

「マリ先生は」

 しかし、その先を彼らは口にしなかった。物事、全てを言葉に出すのは品がない。せいぜい八分どおり。後の二分をどう解釈しようと勝手だ。

 マリがいる奥の間に入り込んだフニャマロが、得意の如才なさできりだした。

「マリ先生。医局旅行を催しましょうよ」

「医局旅行ね」とマリが明らかに気のない返事をした。

「もちろん陰の医局旅行を」とフニャマロが上目使いにマリを見て続けた。

「陰の」とつぶやいて、マリがパソコンのディスプレーから目をあげた。

「ここは一つ、どーんと海外にでも繰り出して」

 続いて入ってきたツラユキがそう言って、珍しく扇子を広げて扇いだ。

 それを合図に他の者もなだれ込み、マリを取り囲んだ。ととの宮が落ちるほどに大きく目を見開いて言った。

「まあ、海外」

「いいですねえ、海外」と東周寺までもが夢みるように空を仰いで言った。

「海外には、いろいろ手に入らないお薬もあることだし」

 小心も夢みるように呟いたが、これは皆の音がするほどの注目を一斉に浴び、かき消された。

 フニャマロが準備万端といった風に、あぐらをかいた鼻をうごめかした。

「短期の海外と言えば、ハワイなどいかがですか」

 研修医たちのどよめきがこだました。

「ハワイ」

「ハワイ」

「ハワイ」

 フニャマロが続けた。

「不調であった我々も、逆境にめげずにやってきたことだし、ここでひとつハワイはワイキキにでも繰り出して、青白き甲良をこんがりとキツネ色に焼き、見目麗しきギャルをハント。女性陣は高級品の買い出しなどしてはいかがかな。ヤシの葉蔭で飲む本場トロピカルドリンクもまた格別。太平洋ド真中、カラリカラカラ照るお日様、広々果てなく広がる海。それらを目の当たりにすることが可能かもしれぬこととあいなったのも、一重にマリ先生のご決断力、実行力、我らを思う、つおーいお気持ち、それらのたま物。我ら常に感謝の念にたえません。今回、医局旅行を施行致せば、マリ先生のお名もまた一段と」

 際限のないフニャマロの言葉に、皆呆然とした。はじめに我に返ったツラユキが再び扇子を閉じ、机をコンとやった。

「いやあ、フニャマロ殿。しゃべり込んでらっしゃいますなあ、そのお口」

 フニャマロが深くうなづいた。

 普段ならば皮肉のひとつも発するマリが、妙におとなしいのが拍子抜けだった。

「そうねえ、ハワイ旅行か」

 マリはまるで東周寺の霊が乗り移ったかのようにぼうっとしたままそう呟いて、医局を去った。

 その後、残された研修医による、陰の陰の医局会が催されたことなど、マリは知る由もなかった。 

「マリ先生、乗り気」とフニャマロが言うと、

「マリ先生、大乗り気」といって、ツラユキがダメを押した。

「ハワイの浜辺で…」とフニャマロが謎めいた言い方をすると、研修医が声を揃えた。

「ハワイの浜辺で?」

「いやいや、とにかく、我らマリ先生にご恩返し致さねばなりませぬ」とフニャマロがまじめな顔を取り繕って言うと、ツラユキはニンマリとして、暑いわけでもないのに扇子を広げ、せわしなげに扇いだ。

「御恩返しをのう」



三 予兆

 1 あめのうずみのみこと舞

 二人は青白いワイキキの月明りにお互いの姿を照らして見ていた。

 まさに満月。夜空と海に惜しげなくその静かな光を注いでいた。夜半とは思えぬ明るさの中で、まばらな人影が、夏の夜のひとときを満喫している。ホテルのプライベートビーチでひとり砂を蹴りながら歩いていたマリは、月明りに横顔を浮き立たせて立たずむ三条を見つけた。

 ゆっくりと歩いて近寄ると、悔しいが少々いい男だった。

 しかも近々見合い話があるという噂だ。

 マリが声をかけた。

「三条先生」

「おや、後六条先生、こんなところに」

 マリが上目遣いに三条を見て言った。いつになくしおらしい話し方だ。

「お見合いなさるとか。きれいな方なんでしょうね」

「そうね」と三条は遠くを見たまま言った。

「何を考えてらっしゃるの」と、

「何も」と、三条がマリを振り向かずに言った。

 マリは三条の横顔に向かって言った。

「彼女のことかしら」

 三条がマリの方を振り向いて答えた。

「そんなこと、考えはしないよ」

「横顔の向こう側には、そう書いてあってよ」と言いながら、顔の向こう側を見るべく、マリが三条の正面に歩み出た。

 三条にはなぜか、いつになくマリが可愛らしく思えた。男のように整った眉や、人を射って離さない瞳、気位の高さを示す鼻。意志の塊が尖らせているかのような顎さえもが、心許なげに見えるのは…

「うーん。異国の月明りのなせる技か。参った」

「はあ?」

「いいや。何でも」

「きれいな方なんでしょ」

「そうねえ」

 三条は左手に広がる夜景を指さした。ダイヤモンドヘッドの麓は、街路灯でオレンジ色に縁どられ、まるで豪奢なトパーズのネックレスを巻き付けたようだ。チラチラ動く小さな光は、夜半、いずこへか走り去る車のヘッドライトだ。どこへ行くのだろう。

「あのきらきら光る夜景を全部、赤いマニキュアに映し出してしまうような女さ」と、夜景を眺めながら三条が言った。

「まあ」

 マリは力なく視線を海に落とした。マリのショートヘアの髪一本一本が月明りにくっきりと見えた。潮風に柔らかくなびいている。自分が知っているどの女より頼りなげに見えたのは、やはりマリの中にいつもは隠れている可愛らしさのせいだろう、と三条は勝手に思った。

(本当は、マリはかわいいのかもしれない。きっとかわいいのだ。かわいいことにしておこう)

「君のように、その黒い瞳に映し出すことはできないんだよ。顔をあげてごらん。君の瞳に映る夜景は、そこに見える本物の夜景よりずっときれいだ」

 そう言って三条はマリの尖った顎に指を掛け、マリの瞳に映る夜景をのぞき込んだ。

 マリの決して日焼けしない白い顔が浜辺の夜を背景に浮き立った。マリの瞳が、今度は夜景でなく、まっすぐに月の光を反射して、三条に満月を見せた。

 二人は終夜燃えている浜辺のたいまつにその蔭を揺らしながら、しばし砂浜にたたずんでいた。

「まあ、三条先生ったら…。どうしましょう」

 マリは、三条の指をふりほどくと、両手で赤くなった顔を押さえ、砂浜を走り去った。

(あ、あー、行っちゃうの?)と三条は思ったが、口に出すのはやめておいた。言葉にするとなんか、情けなかった。

 一部始終を最上階のベランダから見ていた研修医達は、黙ってニンマリした。

「あ、行っちゃった。さあてな。後六条マリ、これで少しはおとなしくなるかな」とフニャマロが言うと、ツラユキが続いた。

「これで、医局での私どもに対する当りも、少しは柔らかくなりますかな」

「いやいや、そうは」と根拠なくいって東周寺は、医局員としての威厳を見せた。

「そうですねえ。単純そうでいて複雑ですからな、男女の仲というものは。」とつぶやいてフニャマロが腕組みをした。

 ととの宮は、黙ってどちらにも相づちを打っていた。

 間もなくホテルに戻った三条に、フニャマロが言った。

「して、首尾はいかに」

 尋ねるフニャマロに三条が答えた。

「そんな簡単にはいかないのよ」

「だって、先生、いつもは、あっという間に女性の二人や三人。それに、せっかく教えて差し上げたのに、後六条先生、浜辺でお散歩と。先回りできるよう、プライベートビーチへの抜け道までも教えて差し上げたというのに。もーっ」

 三条の言葉通り、そして研修医達の期待とは裏腹に、後六条マリは彼らの掘った落し穴に、そう簡単に落ちはしなかった。

 何のことはない、三条に口説かせ、じゃじゃ馬をおとなしくしてもらおうという、貧困な発想から生じた企てだった。世の中、たいていのことが思惑通りにいかないことを考えれば、効、奏するにはあまりに稚拙な思い付きであることは、常識中の常識クラスのことだった。

 ただ、この肝心なもの、「常識」の欠落が、彼らの短所でもありが、またある時はとてつもない強みにもなるのだったのだが。


「さてと、甲羅干しにも飽きたし、あのカヌーに乗りませんか。たった五ドル」

 翌朝、フニャマロは好奇心旺盛に、もう浜辺でカヌー選びを始めていた。並んでいるカヌーには色とりどりの模様が書いてあったが、一体何なのかは不明だった。どれを選んでも、乗り心地に特段の変わりはないようだった。大きさも、形も、値段も同じだし。

「マリ先生、乗りましょうよ」とフニャマロが浜辺におりてきたマリを如才なく誘った。

「いやよ」と、マリがそっけなく言った。

「お冷たい。乗りましょうよってば」と言って、砂浜に座ったマリの顔を覗き込んだ。

「いやだ」とマリがかたくなに拒んだ。

「マリ先生に弱いものが二つ、水と…」と東周寺が静かに言った。

「水と男ですかな」といってフニャマロが身を乗り出した。

「フニャマロに弱いものが二つ。金と頭ね」といいながらマリが立ち上がった。

 赤い水着がマリの色白な顔と、白く伸びる脚線を引き立たせた。

「マリ先生、その水着のお色、素敵ですわ」と、ととの宮が話題を変えた。

「そうそう、そうでございますな。そのお色。ルージュとネイルエナメル、それにペデキュアともピッタシあって。さしずめ、ニューヨークシャネルは二十二番でございますかな」とツラユキが手放さぬ扇子を振りながら、豊かなファッションセンスを披露して言った。

「まあ、わかる?紀ノ先生こそ、その扇子、しっかりヤシの葉模様じゃないの。いい趣味ね。ガチ、トロピカルだわ」と、気をよくしたマリがツラユキの扇子を指差して言った。

「はあっ、マリ先生のお目に止まるとは、光栄至極。みやげ物屋で昨日ようやくと見つけた甲斐があるというものです」

 マリはいつになく機嫌よく、研修医たちの誘いに答えて、カヌーの一つに乗り込んだ。

 カヌーは、沖に漕ぎ出されては波に乗り、岸近くにすべり帰ってくる。そのたびに皆、歓声をあげていた。

 ととの宮はカヌーの先頭に乗り込み、水しぶきを浴びて喜んでいる。マリは、波から身を守るように人影の後ろで小さくなっていた。

 もう一曹のカヌーでは、フニャマロ達が、波に押されて海面を滑るスピードを楽しんでいた。ツラユキも水しぶきから守りながらも、ヤシの葉模様の扇子を頭上でひらめかせた。東周寺も嬉しそうに笑っている。笑っても大して表情は変わらないのだが。

 大体、「都合」などというものは、悪いためにあるのだ。しかも災難は多くの場合、忘れた頃振って湧くことに相場が決まっている。生憎と、特にそれを恐れて暮らす善良な人々のところに降り掛かる。

 マリの乗っていたカヌーは、じりじりと波に追いつかれた。その波のひとつが、カヌーの尻をペロリと嘗めた。マリはその嫌らしい波頭を、振り返ってじっと見入った。次の波も、そしてその次も、おかまいなしに、マリの乗っているカヌーにすり寄り、寄り付き、今度は小舟の尻を嘗めるだけでなく、撫で、叩き、とうとう全体を覆うに至った。

 マリの顔は青ざめ、ぼそっとつぶやいた。

「泳げないっつってんだろうがぁ」

 聞こえなかったのか、聞いていなかったのか、聞こうとしていなかったのか定かではないが、ととの宮はわれ関せずといった風に、

「まあ、これは転覆でございますわ。スリル満点、まさか沈んじゃうなんて、ひょっとして、これもサービスの一環でございましょうか。わっはっはっは」などと言いながら、大口を開けて笑っている。

「サービスのわけなかろうがぁ」と言うマリの顔が蒼白を通り越して、紫色になった。チアノーゼというやつだ。

 腰まで水に浸かって、ととの宮は歓声をあげている。しかしよく見れば、ととの宮は海の中に突っ立っているではないか。

 すっかり浸水したカヌーは、何のことはない、せいぜいが腰のあたりまでの浅瀬に打ち上げられたのだ。カヌーから放り出されたととの宮は、すっくと立って言った。

「マリ先生、大丈夫そうでございますよ。これ以上は沈まないようですわ」

 マリは絶叫した。

「三条、三条、サンジョウタカヒカリーッ」

 カヌーに乗り際、三条は何かことあらば、真っ先にマリのもとに駆けつけると言っていた。その「こと」がまさに起こっているというのに、三条は遠い岸辺で、こともあろうに、ブロンドの美女を口説いているではないか。

 やっとの思いで砂浜にたどり着くと、マリはまっすぐにホテルに突進した。追う研修医を振り切って部屋に入るやいなや、音を立ててドアを閉めた。

「天照大臣、お隠れ」といいながら、追ってきたツラユキが首をすくめた。

「アイヤーッ、天の岩戸にお隠れ」といってフニャマロは口をへの字に曲げた。

「困りましたねえ」と薬師が他人事のごとく言った。

 ととの宮がひどく困った顔をして皆を見回すと、東周寺は一人、慣れっ子といった風に、あるいは単にボウッとしているだけかもしれないが、まっすぐに立っていた。

「いかがいたそうか」と思案顔のツラユキに、フニャマロが半ば本気で答えた。

「薬師殿にでも、燻り出していただかねばなるまいか。何かよう効く燻り薬でもお有りかな」

 ツラユキがヤシの葉模様の扇子を鼻に当てて言った。

「燻り出す薬などと、狸でもあるまいに。いやいや、これはやはりあれしかあるまい」

「あれというと」とフニャマロが怪訝そうに問うた。

「あれでございますね」と、ととの宮が合点して目を見開いた。

「あめのうずめのみこと舞」

「あめのうずめのみこと舞?」と三人が声を揃えた。

「天照大神が天岩戸にお隠れ遊ばされたときに、あめのうずみのみことが舞を舞って、おびき出したのじゃ。して、そのあめのうずめのみこと舞とは、一体、具体的にはどんな舞なのかのう」とツラユキが乗り出した。

 三人が一斉ににじり寄ると、ととの宮は首をすくめた。

「存じませぬ。なにぶんにも、少々いにしえのお話でございます。いかにせん、わが家にも、既に伝わらなくなって、久しうございますよ」

「とはいえ、何かこう、思いだしはしませぬか、ととの宮さん」とフニャマロがないものねだりをすると、ととの宮は困って考え込んだ。

「そう、何か思いだしていただかねば。なにせ、非常事態でございますからな。しかも舞でございますからのう。大体、皆同じ様なものではござらんか。それに、伺い知るところによるとなにやら薄着で踊る卑猥な舞であったとか…」

 ツラユキがさらにととの宮に詰めよった。ととの宮は当てがわれた無理難題とまともに取り組んで、頭を抱えた。

「うーん。うーん」

 ととの宮はうなりながら、両腕を高くあげたり下げたりし、併せて足踏みをした。

 フニャマロがじっと見つめていった。

「それでございますか」

 ツラユキも畳み掛けた。

「思い出されたか、ととの宮殿」

「思い出すも出さないも、知らないのでございますよ」

 そう言いながら、ととの宮はその舞ともなんともつかぬ妙な動きを続けた。

 一方のマリは部屋でひとり考えた。

 どうしてととの宮は何事にもあのようにおおように構えていられるのだろう。マリは怒り終わると、情けなくなった。これがいまだ栄える堀川家と、もはや名ばかりとなった後六条家との違いなのだろうか。つまらぬことにうろたえる自分が、後六条家の命運を象徴しているように思えた。

 大体、足のつくほどの浅い海で、カヌーが波をかぶったくらい、何、取り乱すことあろうか。

 マリは気配を感じてドアに近寄り、ドアの覗き穴から研修医達を見た。何やらもめていたと思うと、ととの宮が雨乞いでもするように動き回っている。どうせ皆に小突かれて、止むに止まれず、その変な格好を続けているのだろう。急に素直なととの宮が気の毒に思えて、マリはドアを開けた。

 ととの宮が顔をあげて叫んだ。

「マリ先生」

「いったい何しているの。ハワイまで来て、雨乞いの踊り?」

 研修医たちは顔を見合わせた。

「お出ましになられた」

「さすが、あめのうずめのみこと舞でございますなあ」


 2 発覚

「マリ先生、大変でございますよ」

 北条ナースが血相を変えて病院の廊下を走った。

 マリは背後にその声を聞くと、気を落ち着けるべく、二、三歩進んでから歩みを止めた。

 慌てる乞食は貰いが少ない。マリは心の中でそう三回念じた。

 心療内科に来てからというもの、擦れてきたものだわい、とマリはしみじみ思った。

 マリがかつていた大学病院の医局は、白河からまとまった金を受け取って、マリを手放した。厄介ばらいをした上に、医局経済を潤すという予期せぬ二重のめでたさに、医局では、皆しばし笑いがとまらなかったという。一方の三条は金を自らの手でつかんだ。これはやはり、血筋だろう。マリは根に持っていた。千余年の両家の争いからも、マリは三条に気を許してはならないと、肝に命じていた。北条ナースの慌てぶり。どうせ、またしても三条がらみなのであろう。まずは落ち着いてと。

 ゆっくり振り向いてマリが返事をした。

「どうしたの」

「変なのでございますよ」

 北条ナースはかなり慌てていた。

「変て、何が」

 マリの言葉に促され、北条ナースは、武家の娘としての誇りを思い起こし、うろたえたことに赤面した。そして乱れる遅れ毛を束ねてナースキャップに仕舞い込むと、気を取り直して続けた。

「数日前のことでございます。名を名乗らぬ者より、往診についての問い合わせがございました。申し合わせ通り、おところ、お名前を頂戴致さねば、お答えできかねる旨、お伝えいたしました。かかわりあるか否か、定かではございませんが、本日初診の…」

 北条が話をしている途中、ととの宮がゆっくりと歩いてやってきた。

「まあ、北条さんのおみ足の早いこと。息が切れました」

 ととの宮は、息を弾ませているが、外来からは十メートルと離れてはいない。

「ととの宮先生に診ていただいていたのですが…」

「何を?」とマリが尋ねた。

「はい、ですから、本日の初診」とそこまで北条ナースが言うと、ととの宮が合点したとばかりに続けた。

「はいはい、あの初診の方のことでございますね。黒いめがねをかけ、美しい白装束にていらした患者さん」

「黒めがねに白装束?変な恰好。いったい何者?」

 マリは訳がわからず立ち往生しながら尋ねた。

 北条ナースは慌てて、方向性を失ったその話の筋立てを立て直すべく、ゴックリと唾を飲んでから口を開いた。もう遅れ毛を気にしてはいられなかった。

「まず、黒いめがねとは、縁の黒い眼鏡のことではなく、黒いのはレンズの方、つまりは、色のこーい」という方状の言葉を引き受けてマリが言った。

「サングラス、しかも、色の濃い」

「さ、さ、左様でございます。サングラスのことでございます。服装はと申しますと、ま、確かに白い服ではございますが、白装束にはあらず。白いスーツの上下に、白いエナメルの靴を召された方で」

「サングラスにエナメル靴って。要するに」とマリが唇をなめながら言った。

「そ、そうでございますよ、そう。その方面のお方のようで。お顔には、縫い目も荒い傷跡なども、これ見よがしに生々しく」という北条ナースを遮って、ととの宮が言った。

「そうそう。あの様なひどい傷、どこの病院で加療があったのでございましょうか。当院の形成外科をご紹介して差し上げました」

 ととの宮は、いまだ二人の会話に事実上加わっていなかった。

「で、何と言って」

 マリはととの宮を放置して、北条ナースと話をする事に決めた。

「往診のことをくどくどとお尋ねで。妙な予感がいたしまして、確かに往診のご依頼、稀にお受けすることもありますが、事情のおありの方ばかりだと申しました」

「それで」

「そのように申し上げましたところ、事情とは、どういう事情だとか、カネはいくらだとか、カネは誰に払うのかとか、それはもう、くどく、しつっこくカネのことばかりをお訊ねで。で、とうとう、もっとえらい医者を出せと、おすごみあそばされて」

「おすごみあそばされたか」

「いかがいたしましょう。折しも三条先生は、五つ井夫人の御往診に出かけられました。お引きとめ申しあげたのですが、どうしてもと。もうどうしてよいやら」

 北条ナースは再び気弱になる自分に気づいて、我を取り戻そうと姿勢を正して気を引き締めるべく、

(ブケ、ブケ、ブケ)と三度呟いた。

 ブケとは武家のことだった。このおまじないは、気を落ち着けるのだ。

 マリがかまわず言った。

「ふん、三条め。頼りにならぬ奴。肝心なときはいつもこれだ。卑怯者め」

「は、何か」と、北条ナースはマリが毒づいて呟く言葉に、耳を疑って聞き直した。

「いや、たいしたことではない、こっちのこと」

「はあ」

「さて、それでは、お客人を電気生理検査室に、お連れ申し上げよ」

「はっ」

 電気整理検査室にご案内されたお客人は、真っ白なスーツを着込み、左頬の傷跡が、相手に最もよく見えるような向きに小首をかしげている。それは癖を超え、頚椎の変形をきたしてさえいるようだ。二十度の右ローテーションと十五度の右屈曲位だ。

 しかし、幾つもツマミがあり、ランプの点滅する機械の脇に座らされたお客人は、いつもと勝手が違い、顔の傷が十分な威力を発揮していないような、妙な気配を感じた。

 身をちぢこませなければ納まらぬ丸い貧弱な椅子、手首には、ちょうど苦手のお縄頂戴のような格好で、アースがくるりと巻き付けられている。

 目の前では、青二才の女医が、肘かけ付きの立派な方の椅子にふんぞりかえって座り、カルテと自分を交互にジロジロと見ている。いつかこんな風景があったっけ。調書とられているとき、そうそう、警察の小部屋で。

「ストレスがあるんだって?」と鼻の穴を真正面に向けたマリがやっと口を開いた。

「そうでえ」

「ほう。じゃまず、神経の巡りの良さを検査するとするか」と言いながら、マリがストレス計測とは全く関係のない神経の巡りの良さを検査する装置を引き寄せた。足に車のついた計測器が、スーッとマリのそばまで滑り寄ってきた。従順な番犬の風情だ。

 その計測器のメインスイッチを手慣れた様子でぽちっと入れ、マリは得意の電気刺激検査に取り掛かった。この検査でマリは「鬼」と呼ばれていた。美しいデータを得るまで、何度でも電気刺激を繰り返すのだった。

「さてと、神経を電気で刺激してみます」

「で、電気って、そいつあ危なくねえのかい。心臓がとまっちまったり」

 お客人は、図体に似合わず、簡単におびえた様子を見せた。まだ検査が始まってもいないのに、額に汗をにじませている。

「たいていは大丈夫です」と、検査の準備をしながらマリがあっさり言った。

「た、た、たいてい?」と裏返った声でいいながらお客人は、さらに激しく額に汗をかき始めた。

「そうですね。この世界、絶対ということはありえませんからね。間違いってこともあるし。もっとも、止りかけた心臓をビンと刺激する電気ショックとか、もっぱら治す方に使ってはいますがね、電気って奴は。たぶん大丈夫だと思いますよ。さあ、そのお眼鏡を取ってくださいね。ほら、ローデンするといけませんからねえ」

「ろ、ろ、ローデン?」と言いながら、お客人がそそくさとサングラスを外した。

 漏電が嫌なのだろう。

 サングラスの下から現れた迫力のない小さな目を見たマリは、プッと吹き出した。

「な、な、なんでえ。人の顔見て笑うとは」

「や、こりゃ失礼」マリはそういって、刺激電極をお客人の手首に当ててから機械のツマミをひねり、ボルテージをいっぱいにあげた。

 お客人は、不意の電気襲来に悲鳴をあげた。

「いでっ」

「おや、大丈夫だ。案外丈夫ですねえ。この分だと連続刺激にも耐えられそうだ」

 マリはブツブツ言いながら、刺激の回数を上げていった。

「で、往診希望とか」と、つまみをひねりながらマリが尋ねた。

「いでででで…。往診より何より、いででで、このいでえのをとにかくやめてくれって」

「検査ですからあ。検査をせねば、診断できず。診断なければ治療なし。従って、往診もなし。いやですかあ、この検査」

「やっ、やっ、やめてくれっ」

 お客人が怒鳴ったので、マリはスイッチを切った。

「ひでえ検査だ。一体どんな病院だ。だいたい往診に名を借りて、裏でぼろい儲けをしているって話じゃねえかい」とお客人はつい、単刀直入に切り出してしまった。

「ほう。誰がそんなことを」

「ここの、ここの…」そこまで言って、お客人は我に返った。

「一体ここの誰が?」

 マリの合図で、研修医達がなだれ込んで来た。お客人を三人の研修医が取り押さえた。

「さあて。一体誰が、そんな下品なことを。病人の弱みに付け込んで、大金を巻き上げてるって?」

 マリは、再び機械のスイッチをゆっくり押し、火花を散らして、通電を確めた。おもむろに、お客人の鼻先を二、三往復させてから、電極を今度は研修医達に押さえ込まれて身動きできないお客人の首ねっこにおしつけた。お客人が、声とも息ともつかぬ悲鳴をあげた。

「ひえっ」

「この部屋は、すっかりシールドされていて、声も音も外には洩れないようになっているの。それに病院だから、死体のひとつやふたつあっても不思議じゃないしねえ。それに、一つぐらい増えてもみんな気にしないのよ。よくあるのよね」

「よくあるだってぇ?」とお客人が涙目でマリをみながら言った。

「そう、実はよくあるのよ、この病院。ここだけの話だけどね。どう数えても一つ多いってこと。事務の人も面倒くさいからそういうことには目をつぶるようにしてるらしいけど。そうそう、スタッフぐらいは紹介してあげましょうね。この世の名残りに」

「こ、こ、この世の名残りだってえ?」

「あなたを押さえつけているのは、黒小路、紀ノ、薬師の三人よ。恨むなら、この三人を恨んでね。間違えないように。私じゃあないからね、私じゃあ。そこでボウッとつっ立っているのが東周寺。堀川医師とベテランナースの北条はもう知っているわね。皆、先祖代々、千年もの昔から、血生臭いことには慣れているのよ。夜討ち、朝駆け、騙し打ち。毒を盛ったり、盛られたり。焼き殺したり、刺し殺したり。突き落したり、蹴落としたり。小競り合いなど日常茶飯事。一族郎党大波乱だ。闇討ちなんぞは朝飯前というわけよ。さあ、どうする」

 マリが息を継ごうと言葉を切ると、ととの宮が合間を埋めた。

「まあ、面白い。本日はいかが料理致しましょうか」

 マリは背筋がゾッとするのを感じた。とっとっ、ととの宮は本気だ。

 思わず知らず、電極を持つ手が緩んだ。これが堀川家の冷たい血なのだろう。後六条家が徹することならず、つい緩めるその手を、情け容赦なくおろす冷酷さ。

 ふっと考え込んだマリをととの宮が怪訝そうに促した。

「マリ先生、どうなさったのでございますか。やっつけてしまいましょうよ、人の来ぬうちに」

「そうですよ。今のうちです。マリ先生、ボルテージを目一杯あげましょうよ」と、フニャマロが付け足した。

「そ、そうね。目一杯ね、目一杯。」

 そういってからマリは、お客人の耳元にささやいた。

「ちょっと、この連中は、本気よ。実は私、惨いことは嫌いなのよ。いい?貴族は、情け知らずよ。言ってしまいなさい。一体誰があんたをここによこしたの?」

「マリ先生ってば。えーい、じれったい。やっちまいましょう、ね、東周寺先生」

 フニャマロがお客人の耳元でがなった。ツラユキも深くうなづいた。東周寺がのっそりと近付いて、マリから刺激電極を取り上げた。

 とその時、お客人が金切り声で叫んだ。

「た、た、た、助けてくれえっ。言う、言う、言うったら。言うから、お助けを」



四 顛末

 1 思い

「またやられた」と、ぼやきながら、マリは医局員に与えられている共同の長机の前に座った。

 いつになく力失せ、黒髪の艶も唇の彩りも、ややあせて見えた。肌は蒼ざめ、視線は宙に浮かんでいる。

「あの野郎」

 マリがさらに口汚くののしろうとしたその時、ドアの開く音が静寂を破った。こんな夜に一体全体どこのどいつだろうと、半ば腹立たたし気に振り向いたマリの目に、この世で最も用のない三条の姿が映った。

「まあ、要らぬ時に限って現れる」とぼやきながらマリは力なく再び長机に向かった。

「お元気?」と三条はいつもの調子だ。

「お元気なわけがないでしょう、お元気なわけが。お陰様でね。特に今日は不調のどん底、チョー不調なんだから」

「わかった、わかった」

 三条はおとなしく引き下がり、自分の机の上の、なぜか既に開封された郵便物に目を通し始めた。まもなくマリが何かと悪口雑言を浴びせてくるはずだ。しかし今日に限って、待てどくらせど、虫の声一つ聞こえてきはしない。もの足りぬ医局の夜だった。

 三条は研修医達の企てに乗り、マリに甘言を発したことを思い出した。マリの心底恥じらって走り去る後ろ姿が、瞼に残っていた。マリはいつでも、何に対しても、真正面から取り組んでいる。そうして怒ったり、笑ったりするのだ。

 三条は、コーヒーを入れてマリに差し出した。目の前に出されるまで、マリは気づかずにいた。

「あら、まだいたの」とマリは気のない返事をして、コーヒーカップを受け取った。

「そっけないねえ。どうしたの。言ってご覧」と三条が言った。

「また嗅ぎつけられたのよ、白河上皇に」

「ああ、往診の件ね」

「よくそうしていられるわねえ。だって、またもやよ。それに今度ばかりは、お金、全部ハワイで使っちゃたし。情けない」

「まあ、いいじゃないか。コーヒーでも飲んで」

 三条は、何気なくマリの肩を抱くと、ソファに座らせた。マリはいつの間にかソファで、三条のとなりに座っている自分に気づいた。三条の得意技だった。

「ま、なんとかなるさ。白河は俺達を手放しはしない。『神霊内科事件』の時だってそうだったろう。儲け話には聡いんだよ、あいつは。また金をくわえてきたぐらいにしか思っちゃいないさ。何と言ってきた?」

「まだ何も。でも手先がきたわ。まさか、あの手の知り合いが上皇にいるなんて、思いもしなくって。濃い色のサングラスに白いスーツとエナメル靴。お顔には大きな傷あと。で、みんなでちょっとかわいがっちゃったのよね」

「かわいがるって、どう?」

「電気刺激をチョビッと、ビリッて」

「それだけ?」

「それと、ちょっと脅かしただけ」

「ほう、ちょっとね」と納得した三条が、自分で入れたコーヒーを一口すすって言った。

「あら、私じゃないわよ。あの時、つくづく思った。私って、心やさしい」とマリが言うと、

「君の心がやさしいって?研修医達に聞かせたいもんだ」と言ってから、三条が高らかに笑った。

「わっはっはっは。君のどこのどのあたりが、どのくらいやさしいんだい」

「いやねえ。でも、脅かしてても、つい妙にかわいそうになっちゃうのよ。黒小路や、紀ノや、東周寺、それにととの宮は違うらしいの。本日はどういたしましょう、煮て食いましょうか、焼いて食いましょうかって、大喜びして言うのよ。あれは本気だわ。冗談でございますよなんて後で言ってたけど。大体、いまだに栄える貴族なんて、ろくなもんじゃない」

「大げさだなあ。大したこたあないさ、みんな」

「そうね。少しオーバーかも知れないけど、でも、そのくらい冷酷じゃないと、この世の中、特にこの医局を渡っては行けないわ。ここで白河と張り合うにはね」

 マリは、ホッとため息をついて、コーヒーを口に含んだ。

「ま、おいしいこと」

「そう?」

 三条はじっとマリを見つめた。マリは視線に気づき、慌てたように、眼差しをコーヒーカップに落とし、矢継ぎ早にコーヒーをすすって、飲み干した。

「おいしかったわ」

「それはよかった」

 マリはすっかり大人しくなっていた。時おり獣のようにむき出す牙を、跡形なく隠している。

 三条は微笑みながら、マリを見つめ続けていた。

「三条先生、そんなにご覧にならないでください。私、恥ずかしいわ」

 マリは赤面してうつむいた。

(何と初々しいんだろう)と三条は思って言った。

「いや、君を見ているとね、本当に何というか、新鮮だ。ここの者にはない何かを持っているよ」

「そうかしら」

 マリはうなじまで赤くしてうつむいた。

「君は本当に、生き生きしている」

 三条は、またマリの尖った顎に指を引っかけて、うつむくマリの顔をあげさせた。

「おやめくださいまし。そんなお世辞を」

「お世辞なんかじゃないよ」

「まあ、三条先生ったら」

「ここの連中は、死んでいるようなものさ。俺を含めてな。がんじがらめに縛られて虫の息さ。家や、名に縛られていながら、みんなそいつだけを頼りに生きている。何代前まで遡れるかとか、家に儀式がどれだけ多いかとか。君が卑弥呼の子孫だといったって、奴らの半分は本当に信じているぜ」

「まさか」

「本当さ。ここは特殊な世界だ。存在しない物を共同幻想して、それを頼りに生きている。状況は、ある一つの要因によって、少々変わったがな」

「一つの要因って?」

「金さ。金の有りかが完全に実業家の手に渡ちまったのさ。奴らとうまくやって行ける者もいたがな」

「そうね」

 マリはやや現実に引き戻された。

 名ばかりの御六条家。財産らしい物は何一つなく、嫁入り道具とて、多くを期待できはしない。

「君は彼らとは違う。自由気ままに振る舞える人だ」

「そうかしら」

 何もないからこそマリはうるさいことを言われずに、つまり、ろくなしつけも受けずに育った。祖母に習うはずだった作法などすっぽかしを決め込んで、今に至っている。

「それに、きれいだ」

「三条先生、またそんなこと言って」

 マリは三条を見上げた。嫌みなく高い鼻、笑みを絶やさぬ目、上品さがこぼれる歯並びの良い口元。 

 マリの視線が下がった。厚い胸、太い腕、マリを五人ぐらいは抱き上げられそうだし、常に五人ぐらいは抱きかかえているのかも知れない。そんなことにはさしあたり目をつぶることにしよう。

「先生、私」

「うん?」と三条がやさしく言ってマリを引き寄せた。

「君はきれいだ。こんな妹がいたら、どんなにいいだろう」

 マリは三条の腕の中で夢み心地だった。たくましい若貴族に抱かれる自分。白いウェディングドレスに身を包み、華やかな祝福を受けるマリ。マリはうっとりとした。三条は、自分のことをなんと呼ぶだろう。「マリさん」だろうか、いや「マリ」。

 しかし今、「妹」と聞こえたが空耳だろうか。いや、確かに聞こえた。マリはパッカリと目を見開いた。

「いもうと?」

「そう、あいにく僕は男兄弟ばかりでな。むくつけき弟が三人」

「でも、妹?私が?なんでまた。」

「そう、僕ももう三十を過ぎた。結婚も決まったし」

「けっ、けっ、結婚?決まったぁ?聞いてないし」

 ウェディングドレスが、祝福が、頭上で粉々に打ち砕かれるのを、マリは目の当たりにした。

「ああ」そう言って三条は、マリを見おろした。笑みがその目から消えていた。

「君には一番に知っていて欲しかった。俺の家は大きいんだ」

「そ、そりゃそうでしょう。三条家のお屋敷といえば、お城のようだって」

「そう、そのお城がくせものなのよ。もう、固定資産税でがんじがらめ。借金で首が回らず、抵当にはいっちまっているのよ」

「て、ていとう?」

 いくら後六条家が物持ちよくとも、抵当に入った家は持ち合わせがない。

「いったいいくらで?」

「二十億」

「二十億ですって?」マリは三条の胸から頭をムックリ持ち上げて、絶叫した。

「そう、二十億円」

「そうなの」

 マリが逆立ちをしようとも、後六条家がなけなしの財産を全部叩き売ろうとも、そんな金は出てこない。三条の婚約者は、その二十億を持参金にしょってくるのだろう。

「背に腹はかえられないでしょ。このままじゃ住む家がなくなっちまうんだから」

「そう。でも、その二十億、何に使ったのよ」

「んまあ、いろいろと」

 マリの中で、いつもの怒りがふつふつと頭をもたげ始めた。

「どうせ、ろくなことではあるまい、えっ、三条」

 マリがそろそろ、隠していた牙を見せ始めた。ころあいを見計らって退散するのが三条の常套手段だった。

「どうせ、どうせ、極悪非道なことに使ったのであろうが、ええっ、三条、白状せんかい。この卑怯者、逃げるか。禄でなし。腐ってもこの後六条、おのれ三条などに。ええい。逃げるか、この。どこぞで、野たれ死んでしまえ。うしろから踏みつけにしてくれるわい。三条、サンジョウタカヒカリーッ。覚えておけ」

 遠ざかる三条の後ろ姿にマリは罵声を浴びせた。

 背にマリの声を受けて、三条の口元がピクリと動いた。

「人の気持ちの解らぬお人。それにもまして、いつもながら、お元気、お元気。結構、結構。そうでなくちゃ」


 2 出発

「や、皆さん、それぞれに御活躍、芹香院教授もいたくお喜び。ヒャッヒャッヒャッ」

 白河の高笑いが響いて、研修医の頭上でこだました。当の芹香院教授は、ウンウンと福々しい満月様顔貌をほころばせている。福耳がまた一段と厚くなったようだ。赤味も少し増したのではなかろうか。耳赤徴候陽性。マリはボンヤリとそんなことを考えて、教授の福耳に見入っていた。芹香院教授はマリの視線をどう勘違いしたのか、思わず、ウヒョヒョという品のない笑い声を発してしまった。

 いつもの通り、芹香院教授が白河に導かれて医局を去ると、張り詰めた空気が一旦緊張を失った。

 しかしすぐにまた白河が戻ってくることは容易に予測できたので、皆、気を抜かなかった。

 案の定、上皇はソソクサと戻ってきた。

「いや、皆さん、どうぞお楽に。さてと。三条医局長、何かお話があるのではないかと思い」

「は。当科、外来、病棟とも、諸々の面におきまして、軌道に乗って参りましたこと、芹教授並びに白河ジョウコ、じゃなかった、助教授の御導きのおかげ…」

「ヒャッヒャッヒャッヒャッ。んま、そんなところですかね。ヒャッヒャッヒャッ」

 図々しい、とマリは思った。

「さて、私、医局長として、とある案を常々考えておりました」

「とある案とは?」

 マリはすっかりしらばっくれて聞き返す白河にあきれ、この野郎、知っているくせに、と思いつつも、そこはぐっと堪えた。我慢強くもなったものだ。マリはわれながら感心した。

「は。当科では、お年を召された患者さんも多く。他科では、在宅医療なるものもあるようですが、当科にては、まだその企てなく。そこで、我ら、まずは手始めに、時をつくりて往診などしてはと」

「ほうほう、それは名案、名案」

 白河は話が本筋の「金」に近付いてきたことを感じ取り、身を乗り出した。白河の目が、二十四金のごとくに、ギラギラと黄色く光っている。マリは白河の口元を見た。歯が全部内向きだ。しかも金歯で補強してある。食いついたら、放しそうもない上に、一度口に入った物は、頭をはたいても、決して吐き出したりはしないのだろう。

「そこで、我ら、この三ヶ月、試験期間として、医局長判断にて往診を施行致してみました。白河助教授には、お断りもせず、まことに…」

「なに、構わぬ、構わぬ、お断りなぞ。試験期間とな、試験期間。全く構わぬ。おう、おう。で、その成果は?」

「上々にございます。現在往診患者は、延べ十数名に一定しております。また、アンケートをとりましたところ、なかなか好評」といって、三条はアンケートと称す紙の束をバサッと机に広げた。

 白河は単なる紙の束には、ひとかけらの興味も示さなかった。やはり札束でなければ。

「それはいいことじゃ。で、で?」と言って白河は、じれた。

 白河が身をよじらせるように三条を覗き込んで続けた。

「で、それでどうなのじゃ」

「そこで、これを医局として公式行事にしてはと」と三条が勿体を付けて言った。

「ほう、それはよい。それで、それでっ?」

「それだけでございます」

 拍子抜けしたように、白河が肩を落とした。

「それだけ?本当にそれだけか?なんか、ほかにもあるのではないか、話すことが」

「は?あ、そうそう、往診の報酬につきましては、委細、後に御報告申し上げます。試験期間中は、何分にも僅かな報酬しか得ておりませんが、大々的に医局として取り組めば、収益もあがるものと見込まれます。もちろん、今までに得たるもの、微々たるものではございますが、まとめて、白川助教授のもとに、この三条がお持ち致します」

「そ、そうですか。結構、結構、大変結構」

 白河は鼻白んだ。

 どーせ、たいそうお儲けになってたんでしょっ、と喉元まで出かかっている。しかし逆に問いつめられれば、あの白装束の友人のことを話さねばなるまい。三条の条件を飲めば、今後の儲けは医局に入り、ピンハネもできるだろうし、しかも、僅かであれ、三ヶ月分の金も搾り取れるらしい。

「結構。あ、ところで三条先生、御結婚おめでとう。お祝い申し上げますよ。花の丸家のお嬢さんとか。さぞ、持参金もいっぱ…いやいや、失礼。それでは、御機嫌よう」

 白河は、むりくり飲まされた条件にやや敗北感を味わったようだった。後ろ姿がいつになく小さ目だった。

 フニャマロが緊張からすっかり解放されて、体をフニャッとさせながらいった。

「さすが、三条医局長。その駆け引きと渡り合い。あの白河上皇を相手に、上々でございますな」

「んまね。後は二重帳簿にでもして金をひねり出せ。すぐに追いついて、また小遣いぐらいは稼げるさ」と三条は静かに言った。

「本当に。でも先生、ご婚約って本当ですの?」と、ととの宮が遠慮がちに、しかし要点を捉えて聞いた。

 研修医は思わず知らず、押し黙って三条を上目使いにみた。

「ん、まあね。結婚式は地味にしますから、皆さん平服できてね。じゃ、ちょっと往診」

 三条は席を立つと、逃げ足も素早く、医局を去った。

「マリ先生」フニャマロが声をかけた。

「ふうん?」とマリが気の抜けた声で返事をした。

「いいのですか?」

「いいって、何が?ああ、往診のこと。よかったわね。巻き上げられる金も最小限、さすが金には聡い三条医局長。白河上皇相手に首尾は上々、ってところじゃないかしら」

 マリはどこからか空気の抜けた話し方をした。

「そうじゃなくて」とフニャマロがおもはゆそうにいった。

「ん?」

 マリが相変わらず気の抜けた返事をした。ととの宮が、フニャマロを大きな目でたしなめた。

「それよりもマリ先生。三条先生にはおめでとう存じますわねえ」

 人をたしなめる割に大胆な切り込み方をするととの宮に、皆ヒヤリとした。

「そうねえ、よかったわ。そうだ、披露宴の受付係を頼まれてしまって」

「受付を」と研修医が声を揃えた。


 そしてその日もやってきた。それは盛大な披露宴であった。

 フニャマロは、たらふく食べて満足していた。

「いや、いい結婚式でしたねえ」

 ツラユキが上気した頬をよそ行きの扇子で扇ぎながら、心療内科仲間のテーブルで談笑した。

「さよう。地味といいつつ、金おかけになりましたなあ」とフニャマロが答えた。

「お次は東周寺先生ですね」と薬師が言うと、東周寺はボウッとしたまま返事をしなかった。

 シカトしたわけではなく、聞こえていないのだ。

 ととの宮が、舌嘗めずりをしながら、料理を誉めたたえた。

「前菜のフォアグラが、本当になめらかで。それとキャビアの大粒だったこと。薄紫にピッカリと光り、いつになく大盛り。残念だったのは、トリュフの薄切りがどこにあるのか知れず、トリュフ入りのパイというのをとうとう一口でやっつけてしまったことですわ。シャンパンもドン・ペリニョンはロゼ。ワインが個性的でございましたわ。白ワインは辛口のシャブリの上物、あれはシャブリ・グランクリュレクロ。赤は三条先生お好みのジュブレ・シャンベルタン。どちらもブルゴーニュでおまとめ。お口直しのシャーベットがまたシャンパンでできていて、しかもベイクドアラスカの親戚、焼きアイスクリームならぬ焼きシャーベットにしてございました。難しうございましょうねえ。シャーベットは溶け易うございますからね。シャンパンの焼シャーベットはさすがに初めてでございました。舌の上でプチプチとはじけて面白うございましたわ。メインディッシュのローストビーフというのもこれまた、ステーキを食べ飽きた御老体方には、また結構。若者にはセカンドサービスもあり…」と、ととの宮が目をトロンとさせた。

「最初から二枚くれればいいのに」とフニャマロが不満をもらした。

「ビーフのてんこもりという訳ですな」といってツラユキがよそ行きの扇子を閉じると、テーブルを例のごとくにコンとやった。

「そうでございますわね。また、デザートのパリブレストが、皮はパリッとし、中のクリームが甘すぎることもなく、しごくあっさりと。しかも、コックリと口の中で溶け。ああ、こたえられませんわ。太ってしまいました」そう言って、ととの宮は自分のわき腹を摘んでみせた。

「すばらしいご披露宴でございましたわね。さすがは財閥のお嬢様」

 北条ナースは、いつしか来る自分の姿を重ね合わせ、夢みる眼差しで言った。そうしてから、ふっとその視線の先に引っかかってくる、マリの浮かぬ顔に気づいて、声に抑揚をつけて言った。

「でも、やはり、お姫様といえばマリ先生ですわ。早くマリ先生の花嫁姿を見とうございます。さぞや、まぶしいほどにおきれいでございましょうねえ」

 ととの宮もやっと食い気から解放されていった。

「そうでございますよ。楽しみでございます。後六条家のお姫様ですからねぇ、マリ先生は」

 金持ちの財閥の娘といえどもお姫様とは呼ばれないのだ、彼らからは。

 フニャマロが心配げに付け加えた。

「そうそう、マリ先生も御六条家のお一人姫君。いろいろ難しいこともおありかと」

「いいえ。私、決めているの」

「えっ、決めている?」

 研修医達はびっくりしたときによくするように、声を合わせた。その上皆、椅子から十センチは跳び上がったようだった。

「いえ。相手はいないけれど」

「そうでしょうなあ」

 研修医達はつい気を抜いて安堵の声を合わせてから後悔した。

「なんだって」とマリが睨みをきかせて言った。

「いえ。なんでも」

「ま、今日のところはめでたさに免じて許してやろう」

「ははーっ。」

 研修医達がひれ伏した。

「決めているのはね、御六条なんて名は継がないってこと。鈴木とか、佐藤とかって、ごくありふれた名前の人と、ごくありふれた結婚をするの。一番好きな人とね」

「ほおーっ」

 決意は決意として、御六条という名をなくしたなら、マリは瞬時に大学病院から放り出されることだろう。鈴木や佐藤のマリでは有り難みに欠けるのだ。

 しかし、幸いといおうか、あいにくといおうか、マリと結婚したいという、篤志家の鈴木君も、殊勝な佐藤君も、まだ現れていないし、また当分のところは現れそうにない。つまり、マリはしばらくまだ、御六条マリのまま、大学病院で幅をきかせるのだ。

 そして研修医達は、マリのもとで口癖のようにぼやくのだ。

「ああ、不調!」



Ⅱ ああ、まだ不調

一 祝入局

  1 いもづる

 ピッカリとみがきあげられた窓の向こうには、街のネオンや車のライトをはるか下界にうつす夜景が広がっていた。あたり随一の景色と値段を誇るそのホテルレストランに、フニャマロはおびき出されていた。そしてみごとにえさに喰らいついてしまったのだ。美人受付け嬢の綾小路、気の利くセクレタリ末広。北条のいるのが玉にきずだったが、才色兼備を誇る二人がいれば帳消しだ。しかも、有名なホテルレストラン。マリが一緒なことはリスクではあったが、

 勇んで出かけ、つりあげられて、そこに見たのは、後六条マリの悪魔のような笑い顔だった。

 フニャマロの目に、豪勢な夜景がにじんだ。

「フニャマロ、妙利だろうが」とマリが言うとフニャマロは、歯を向き出して、何度もうなずいた。

「ハイハイ」

「それで」と言いながら、マリが恐ろしげなまなこでフニャマロをにらみ続けた。

 フニャマロはマリににらまれたカエルとなった。

 レストランの椅子に座ったきり、逃げようにも、逃げられない、体がいうことをきかないとは、このことだった。マリの目から悪い光線でも出ているのだろうか。身体をぴくりとも動かせないのだ。

「それで、と申しますと」と、やっとのことで発するフニャマロの声がふるえていた。

「何?シラを切る気か、わからぬと」とマリが手綱を緩めずに言った。

「いいえ、その、もちろん、わかりますとも、わかります。にゅ、入局のお話」と言いながら、フニャマロは肩までふるえている。よほど怖いのだろう。

 研修医たちは研修期間を終了すると、本科に入局する。研修の後、就職を決めるようなものだ、入局とは。

「そう。入局」

「ケ、ケ、結構なお話とは存じますが…」とフニャマロがうわずった声を出した。

「が?が、何だと申す」とマリが低い声を響かせた。

「や、結構なお話で」と言うフニャマロの体は、全体がぶるぶるとふるえ始めた。

「そう、その通り、けっこうな話だ。それでは、よいな」

「よい、と申しますと」

「えーい。まどろっこしい。おのれ、フニャマロ、再びこの後六条を、愚郎する気か」 

 マリが声を荒立てると、フニャマロが縮み上がった。

「い、いえ、いえ、そんなつもりはございません。ですが、私はまだ研修の身、入局のお話は、十二月になったら、お答えをいたすと」と言って、フニャマロは必死の形相になった。

「おお、そうか、そうか。それでは、白河上皇に、フニャマロが十二月になったら、よい答えを持ってやってくると伝えておこう」

「シ、シ、白河上皇、それだけはお許しを」

「それでは、今決めろ。自分で決めた方が楽だぞ。さもなくば、この後六条が決めてつかわすぞ」

「は、はあーっ」

 マリが声高らかに言い放った。

「のう、北条、聞いたか。フニャマロ、心療内科入局と」

 北条ナースは、ほっほと上品な高笑いをして言った。

「はい、確かに。うけたまわりました。受付け嬢の、綾小路様、セクレタリ、末広様をお連れ申した甲斐がございましたわ。ホ、ホ、ホ」

 フニャマロの弱々しい視線の先で、綾小路嬢と末広嬢がにっこりと微笑んだ。

 翌朝になっても、フニャマロの落ちた肩は容易に持ち上がらなかった。あの時、その笑顔見たさに出かけてこなければ、こんなことには。フニャマロは悔いても悔いきれなかった。

 心療内科自体に不満があるわけではない。芹香院教授など幸いまだ口をきく栄誉にもあずかっていない。金のしゃちほこのごとく、鎮座ましましていただいておけばよい、要するに飾り物だ。白河上皇とて、そっとしておけばとりあえず害はない。

 それよりも、あの後六条マリに一生、首根っ子をおさえられてすごさねばならぬと思うと、フニャマロの気は際限なく滅入った。

 医局で飲むモーニングコーヒーの味も苦かった。

 猫舌のフニャマロはコーヒーをふうふう吹きながら、慎重に口をつけた。

「フニャマロ殿っ」

 突然の大声に、フニャマロは熱いコーヒーの多めの一口を、がっぱと口にふくんでしまった。一旦口に入れた物は、再び外に出してはならぬ。厳しいテーブルマナーをしつけられたフニャマロは、目を白黒させた。 

「いかがいたした、フニャマロ殿」

 医局に走りこんできたツラユキが、手持ちの扇子でフニャマロをあおいだ。

「い、いや、何でも」と、やっとのことで熱いコーヒーを飲み下したフニャマロが答えた。

 フニャマロはツラユキをうらめし気に見上げたが、理由につき、深くは説明しなかった。

 ツラユキが、

「いや、失礼、フニャマロ殿。あっついコーヒーお飲みなすったな。我ら貴族はそろって、猫舌。お毒味重ねた残り物の冷や飯しか口にできなかった悲しい獲得形質ですわな。獲得形質も遺伝するんですわな、今日この頃は。ワッハ、ハ、ハ、ハ。フニャマロ殿んところでは、この平穏な世になってもまだ、ばあや様がお毒味なさっているとか伺いましたぞ。いや、ご嫡男は、お辛い」と機嫌よく言って、常備の日の丸扇子でフニャマロを扇いだ。

「それより、なにより、フニャマロ殿、フニャマロ殿。少々伺いたい。まさかとは思うがな、心療内科御入局とのお噂が流れております。よくない評判はたてられぬ方がよいですぞ、フニャマロ殿ともあろうお方が、こともあろうに心療内科入局などと。将来に差し障りもうしますぞ。よもや、ホンマではあるまいがな」

「いかにも、ホンマ。その通り」

 フニャマロはマリとのやり取りを思い出して、再びしょっぱい顔になった。 

「な、な、なぁんと。なんと、なんと」と言ってからツラユキは言葉を失った。

 フニャマロの方がツラユキの過ぎるほどに唖然とした顔に驚かされた。

「一体全体、いかがされたか、ツラユキ殿」

「フニャマロ殿、な、な、な、なんというはやまったことを」

 そこでツラユキが絶句した。

「どうしたのでおじゃるか、ツラユキ殿。この黒小路の身をそれ程までに案じてくださるとはこれ恭悦至極。黒小路竜麻呂、この与えられた逆境、いかがいたすものかと、出枯しのコーヒーすすりながら、思案に暮れていたところでござるよ。ツラユキ殿にそれ程、ご心配いただけるとは、ほんまにかたじけない」

 男の友情に目頭を熱くし、キラと光るまなざしで、フニャマロがツラユキを見上げた。

 おかまいなしにツラユキは続けた。

「そうではない、そうではないのじゃ、フニャマロ殿。これはたいへんなことでござるよ。我ら、も少し、打ち合せが必要であった。しまり申した」

「どうしたのでござるか。その、しまり申したわけを、お聞かせ願いたい」

「つまり、次には、魔の手が、このツラユキにのびてくるのです」

「魔の手が、ツラユキ殿に?そんなぁ。心療内科が狙うは、この黒小路一人。優秀な…いやいや。とにかく、本年も入局者は東周寺殿お一人であった。来年とて、一名の入局があれば恩の字とみた。この黒小路一人、確実に入局を約せば、あとの方々は、雑魚同然、いやいや、無罪放免。私一人が人みごくとなれば、収まりもつくというもの」

「フニャマロ殿、そうはいかぬのじゃ。フニャマロ殿の、その犠牲的精神は見上げたものじゃ。しかし、しかしでござるよ。後六条マリをあなどってはならぬ。あの噂をご存知ないか。来年度、心療内科は一挙飛躍を目指し、医局員倍増計画を揚げたと。そして研修医捕獲作戦展開が、あのいまいましい、後六条牛耳る医局会で決定されたと。しかもこの零細医局でいけ図々しくも四人の定員増を大学側に申しいでておる。しかもでござる、手の者からの密書によりますとな、なんともはや、それが大学当局に承認されてしまったのじゃ。大学理事会を通っているので予算もつく。つまりは心療内科としても、引くに引けない状況じゃ。考えてもみよ、目標四人とはつまり、ちょうどチョッキリ我々研修医四人全部ということじゃ」

「よ、四人?ということはあと三人も」

「そうじゃ。その上、その上でござるよ。フニャマロ殿、このツラユキ、不覚にも、後六条マリに詰め寄られ、苦し紛れに、申してしまった」

「何と」

「フニャマロ殿、ご入局あらば、我もと」

「ナ、ナ、ナ…」

「ナント、ナント、申してしまったのじゃ。万が一にも、フニャマロ殿が、この地獄のような医局をお選びなさるとは、思いもよらなかったのじゃ」

 フニャマロは、この上、あの高級レストランと、美人受付嬢や気の利く秘書につれられて、さらに、マリに脅された挙句に、大切な入局を決めてしまったとは言い出せなかった。

「選んだのではない。選んだのでは。誰が好き好んで」と言うフニャマロの大きな目に涙が浮かんだ。

「では、なぜ」ツラユキも半泣きだった。

「しかし、ツラユキ殿、ツラユキ殿のは、単なる口約束、黒小路が入ればという仮定の上に成り立つ、あやふやなもの」

「そんな言い訳の通用する後六条だとでもお思いか」

「というと」

「しっかり書かされた」

「何を」

「念書じゃ、念書」

「念書とな」

 フニャマロの顔が一瞬にして明るくなった。

(一人ではない、この苦しみ、一人ではなかった。やれやれ、二人いれば、なんとかなるやもしれぬ、や、めでたい、めでたい)

 しかし、さすればツラユキも、何等かのオイシそうなエサに食いついたのに違いない。

 とその時ハアハア息を切らして、ととの宮がスローモーションのようなスピードで医局に駆け込んだ。

「フニャマロ殿、ツラユキ殿、一大事でござります」 と言ったところで息が切れ、フーフー言いながら呼吸を整えてから、ととの宮がやっとの思いで続けた。 

「フニャマロ殿と、ツラユキ殿が、心療内科、ご入局との、いい加減極まるデマゴーグが、巷に流れておりまする」

 ととの宮は切れる息の合間にそれだけ言うと、椅子にどさりと座り込んだ。

「デマではござりませぬ」とツラユキがきっぱりと言った。

「はぁ?」と、鼻から息を抜いたととの宮が、目を大きくした。

「ホントのことでござる」とフニャマロが言うと、ツラユキも観念して言った。

「さよう」

「そ、そ、それは、ど、どーして。どーしてでございます」と言うととの宮の目玉が落っこちそうなまでに見開かれ、フニャマロの肝を冷やした。

「ととの宮殿、大丈夫でござるか、お目が落っこちますぞ。しかし、この件、どーしても、こーしても、男子、一旦決めたことでござる。ひるがえすわけには参りませぬ。のぉ、ツラユキ殿」

「さ、さよう、なにはともあれ」といいながら、涙目を隠さんと、ツラユキがそっぽを向いた上に常備の日の丸扇子で顔を隠した。

「なんとゆう…」

 ととの宮が大きな目から、大粒の涙を流した。

「どうなさったのでござるか。ととの宮殿」と二人が声を合わせた。

「だって、だって、そんなことはないと思って、フニャマロ殿と、ツラユキ殿が入ったら、入局すると、申してしまったのでございますよ。フニャマロ殿の入局は万に一つ。ツラユキ殿の入局、然り。さすれば、お二人同時に入局する確率は、一万かける一万で一億分の一。一億でございまするぞ。一億。もはや、天文学的数字といっても過言ではございません。まさか、まさか。年末ジャンボ宝くじ級と考え、つい、その一億に賭けてしまったのでございますよ。宝くじには当たらぬのに、こんなことばかり当たってしまう。なんということであろうか。代々、賭事を不得手といたす堀川家、言い伝えを守ればよかった。しかし、とすれば…」

「とすれば?」

「フニャマロ殿、ツラユキ殿、そしてこの堀川が入るとすれば、薬師殿も…」

「おお、薬師殿も念書、とられたか」

 その時、うわさの薬師が、大事も知らず、ごきげんよく医局に入ってきた。

「ごきげんよろしいようで、皆様」

「ごきげんよう、薬師殿」

「皆様いかがいたしたのかの。浮かぬお顔で」

「イカがタコがも何もない」

 こうして哀れなる研修医四人は、あえなく一網打尽となった。

 

 2 手のうち

 芹香院教授の赤ら顔がほころんだ。ホッホと笑うとホットケーキ程も厚みのある福耳が、たふたふと音をたてんばかりに揺れた。本日の耳たぶの赤味もまた一層鮮やかだ。耳赤徴候強陽性。

「これも、皆さんのご尽力のお陰、ありがとう」

 いつになく京なまりのイントネーションが強かった。

「いやいや、芹香院教授のお人柄ゆえでございます。のお、後六条」と言って、マリを振り向きながら白河がヒヤッヒヤッヒヤッと笑った。

 マリはすげなく言った。

「はあ」

 エサでひきよせた四人の研修医を文字通りの袋小路に追込み、全員の身柄を拘束するのに、一体どれだけの手間と暇と金のかかったことか。マリはざっと計算した。

 フニャマロには、ミシュランの星より、やや濃厚な刺激が必要だ。妖しい夜景と、美女。これに限る。味は二の次、いや三の次にしよう。とすれば高層ビル街のホテル、てっぺんのレストラン。美人の誉れ高い受付嬢の綾小路と、若くて気の利く末広秘書、二人がそろえば、文句はあるまい。そして、北条ナースとくれば、あとは、おどしとすかしが決め手となろう。

 京育ちのツラユキは、うす味好み。目で食わさねばならぬ。やはり、洗練されたフランス料理。といえば、あの鴨専門料理店だろうか。あっさりしつつ野性味を兼ね備えたカモ料理など、細マッチョのツラユキ好みであることは確かだ。それに、こんな機会でもなければ、行けぬかもしれぬ、あんな高級な鴨料理店。下心も手伝って、マリは値の張る鴨専門料理店でのフルコース注文をいとわなかった。

 東京の上流階級育ちのととの宮は、カモだろうが、ネギだろうが、食い飽きていることだろう。ととの宮のやわらかくて質の良い皮下脂肪がそれを物語っている。一ひねりせねばならぬ。そうだ、東京育ちの貴族は文化の香りに弱い。そして古い都には目がない。かといって、京都まで連れ出す金もない。そんな散財、白河が許すまい。そう、手近な古都といえば、鎌倉だ。

 マリは、芹香院教授の前にいることも忘れ、「ととの宮釣り」を思い起した。武骨な鎌倉で京料理もないものだ。フランス料理とて、そのちょびちょびした量でととの宮を満腹させるのは難儀だ。ととの宮の好物はというと、ビーフ。ならば目先を変えて山中にある、あのペラペラな牛肉に汁と馬ワサビをかけて出す店にしよう。後六条マリの母の郷は、鎌倉にあって、泊るに不自由もない。

 古くなってみしみしと音を立てる建て付けに、ととの宮は目を見張った。

「まあ、まあ、マリ先生のお宅は、全面、うぐいす張りですのねぇ。安全に気をお使いになって。よいことですわ」

「うぐいす張り?なんのこっちゃ、そりゃ。あ、この床板のきしみのことか。うちじゃ、カラス張りといってうるさがってる。泥棒だって、目利きでなくてもこんなボロ家を選んだりはしないわい」

 どこまで世間知らずなのだろう、ととの宮は。マリは溜息をついた。これがボロ家というものだ。山の中の木造一軒家。ただ広いだけで、火がつけば紙のようにペラッと一燃えで片が付く。東京都心の一等地、しかも閑静な高級住宅街に「堀川のやかた」と呼ばれるにふさわしい屋敷をかまえる堀川家とは、比べようもない。

 何はともあれ、饗応せねばならない。こき使うのは入局が決定し、がっちり身柄を確保してからでよい。

 そうそう、メニューにも載っていない、一番いいコースにしよう。しかも、ととの宮はおかわりをするだろう。

「何でもいいから、一等いいやつ、おたくのレストランで」

 そう頼んでから無粋に気づいたマリは、一応、コースの中味を確認するふりをしてごまかした。しかもこっそり、ビーフの薄切りは厚めに、しかも枚数を増やすようにと、係員にオーダーした。

 そして難問はワイン選び。マリの好きな、甘口の白ワインなど、とてもコースにあわないと。

「それはちょっと、あわせかねますですよ、お客様」

「ア、そう。おまかせします」

 マリはあっさり降参した。

 金ウン万円のディナーを実質二人分、ペロリとたいらげ、ボルドーの上物に上気したととの宮は、ごきげんだった。ボロ屋にふき込むすきま風も感じないようだった。薄っ暗い電球でさえ、「趣」と考えているらしい。

「マリ先生の御実家が、こんな素敵なところだったなんて。明日は、古都のお寺めぐりをいたしましょうよ。本当に幸せですわ。また、この素敵なお屋敷にご招待下さいましね」

「もちろんですとも。ととの宮さんのお好きな時にいらしていただいていいのよ。祖母もさみしくしていることだし。ととの宮さんなら家族同然。これからもいっしょに心療内科で働く身だし」

「シ、シンリョウ、ナイカでございますか。いっしょに?」

「ええ、心療内科。いっしょ」

 ボルドーを一人で二本あけたととの宮にもよく聞えるように、マリははっきりした口調で言った。ととの宮、酒は強い。覚えていないとは言わせぬし。

「は、はあ、心療内科。マリ先生、少々お待ちあれ。いささか、尚早、まだ決めかね…」

 間髪を入れずにマリは切り込んだ。

「いや、さっき申したではないか、心療内科入局と」

「そ、そうでございましたかのう。私はただ、フニャマロ殿、ツラユキ殿が入局なされば、どんなに楽しい科になるかと…申したまで…」

 ととの宮がうろたえた。マリは少々手綱をゆるめた。

「そうそう、それよ、それ。そうしたら、ととの宮さんも、入ってみたいものだと」

 青ざめたととの宮の頬に再び赤みがさした。

「な、なあんだ、そのことでございましたか。はいはい、申しました」

「二人の入局あらば、ととの宮さんも」

「はいはい、もちろん」と、ととの宮は安堵した勢いで、キッパリと二つ返事をした。

「そうか、そうか」

 もちろん、ととの宮はフニャマロ、ツラユキの二人が入局することなどありえないと確信しているのだ。

(よくもまあ、ぬけぬけと)

 この時すでに、マリは切りくいずしの端緒を握むべくひそかに、策を弄していたのだ。まず狙うは、色香とおどしに弱いフニャマロ。そして、すでにフニャマロを計画通り、すでに陥落させていた。次のツラユキ確保も間もなくだ。

(知らぬはととの宮ばかりなり。ふふふ)

 我に返ったマリは、二週間の苦労を思って、研修医の顔をながめ渡した。皆そろって、しょっぱい顔を芹香院教授の前に並べている。

(恨んでいるだろうか。かまわぬ)

 マリは思った。

(それにここまで来て、つまり、芹香院教授の前に引ったてられて、この上の翻意は考えられぬしな)

 ツラユキのたかをくくった高笑いをマリは再び思い起した。あれは、一流ホテルのメインダイニングだった。ミシュランの星がピッカリと輝く、レストラン。マリも幾分かは、楽しんだ。

 正装したツラユキは、小柄とはいえ、京言葉と、先祖伝来の知性が板についた貴族の子弟だ。

 ツラユキとディナーとなれば、社交界のスズメ達もおおさわぎだろう。残念ながら、マリは「社交界」なるものに顔を出してはいなかった。先立つ物に欠けている後六条家が、社交界と縁を切って久しい。莫大な金がかかるらしい。とっかえ、ひっかえのドレスにまばゆいばかりの金銀財宝。イミテーションをめざとく見抜く眼力と、どんなゴッテリした装飾品も一瞥でそのデザインを脳裏に刻み込む記憶力、この二つを兼ね備え、しかもおしゃべりするスズメ達にあっては、家族揃って通年一丁羅の後六条家などひとたまりもない。マリがたいまいはたいて購入したドレスでさえ、彼らにとっては、ほんのよそ行きの普段着だ。マリの胸元に光るプチダイヤなど、細かすぎて、彼らの目にはとまるまい。目に入る前に鼻息で吹き飛ぶのだろう。

 しかし、ツラユキのエスコートさえあれば、恐れるものはなかった。難を言えば、洋装にはそぐわぬ、日の丸扇子をこの後に及んでまだ手離さぬことだった。

「これがないと、なんにゃら、落ちつきませんでのぉ」

 ツラユキがその落ちつく扇子で口元を隠して笑った。

 マ、いいか。マリは許した。

「ツラユキ殿」

「ハア」

「今日は、本当に、良い夜ですわね」

「ハ、御意」

「そう、堅苦しくせずとも。苦しゅうないぞ」

「ハ、ハ」

 ツラユキはネクタイをちょっとだけゆるめた、なんだか、息苦しかったのだ。空気でもうすいのだろうか。そう思って、ツラユキは酸素を供給すべく口元を扇子で扇いだ。

 前菜の後、スープがうやうやしく運ばれ、テーブルの定位置におかれた。

(なあんだ。南京のツユか)と、マリはカボチャの冷製スープをすすりながら思った。

(バア様のカボチャの煮付けの方が、どんなにかカボチャらしく、分相応な味わいのあることか。しかも冷たいし。スープは熱くもなく、冷たくもなく、塩梅よい温度で飲みたいものだ) 

 猫舌のくせに冷静スープに難癖をつけてから、目の前に運ばれた鯛の薄切りを見た。酢に漬いている。おろしたワサビで食べる鯛の刺身を思った。

(石鯛のマリネ?鯛も酢付けにされてはかなわぬのぉ。鯖並みじゃ、気の毒に。ワサビはないのか、ワサビは)

 次にサーブされたサーモンのテリーヌを目の前にして、マリは思った。万が一にも料理の足りないことを心配していちいちメニューとつきあわせるマリがやっと納得したのだ。

(この、鮭のハンペンのもったいぶったこと。へんなタレがかかっているわい。なんだ、料理が一つ足りないと思えば、かかっているこのタレの名前か。もったいつけで。まぎらわしいぞ、ケチな奴)

 鮎のムニエルには、マリの目がらんらんと輝いた。

(おお、魚じゃ、魚じゃ、好物のお頭付きではないか)

 マリは、魚に熱中する余り、一言も発しなかった。ナイフとフオークで、魚を隅々まで食べるのは、テーブルマナーを越え、趣味の領域、というよりは、執念に近いものがあった。悲しげな目のついた頭に続く背骨は、途切れることなく終末に三角の尻尾をつけてなければならない。決して背骨の一節たりとも絶ち切れていたりしてはならないのだ。しかも身のこっぱさえ、骨の間にこびりついていることは、許されない。

「本日の出来映えも、結構であった」

「ハ?」

 皿に見入るマリにつられ、まるはだかになった魚の骨標本に目を落したツラユキは、いささか驚き、背筋に冷たいものを感じた。

(我ら研修医も、気をつけねば。うかうかしていると、この魚のごとくにスケルトンじゃ。それにしても、見事だ。そのナイフさばき。魚はこれで済むからよいようなものの。我らの場合、骨までしゃぶられるというものだ。げに、恐ろしや、後六条マリ)

 ツラユキの目に恐れを見取ったマリは、己れの不覚に気づいた。確かに、その魚に研修医一人一人の顔を重ね合せていたことも否めない。しかし、悟られては元も子もないではないか。

 マリはにっこりと愛想笑いをした。

「のう、ツラユキ殿」

「ハ」

「またこうして、ツラユキ殿のようなジェントルマンにエスコートされて食事をしたいものだ」

「もちろん、いつでも」

「そうか。しかし、もうすぐ、ツラユキ殿は研修ローテーションで別の科に行かれてしまうではないか」

 マリは先ほど自分に食われた魚ぐらいに切ない目をして、ツラユキを見上げた。

「ハ、ハァ」

 ツラユキの額にジットリと汗が滲んだ。

「しかし、フニャ、いや、タツマロ殿もおるではないですか」とツラユキは苦し紛れにフニャマロを持ち出した。

「タツマロは、入局せぬ」

「そ、そうですかぁ」

「ああ、入局せぬ」

 マリは、先ほどの魚よりもさらに悲しげに宙を見た。その種の目に、ツラユキは弱い。つい気休めさえ、いや、あからさまな嘘さえも口をついてでてしまう。

 そこがねらい目だ。そう確信したマリが思った、泣き落としだ。

「のう、ツラユキ殿。私一人あの白河のもとに置かれたまま、皆が去ってしまうことを考えると、辛いのじゃ。もしも、もしも、じゃ、タツマロが入局すれば、ツラユキ殿も入ってくれるか。そうなれば、またどんなに楽しい日々がおくれるであろうのぉ。本日、一日限りでも良い。夢を見させてくれぬか」

 そういいながら、マリは大きな瞳を潤ませた。ツラユキがそれを見て答えた、ついうっかり。

「ハ」

「それでは、タツマロ入局すれば、ツラユキ殿も」

「ハっ」

「そうか、そうか。楽しみじゃ。楽しみじゃ。さてさて、それではメインの鴨でも食うか」

 無邪気を装って喜ぶマリのチラと上げたまなざしが、鋭く光るのに、ツラユキは気づかなかった。いみじくも、ツラユキはちょうどテーブルに運ばれた「鴨」のうまそうな匂いに気を取られていたのだ。

(カモはお前の方じゃ、ツラユキめ)


 マリは、ふと自分に見入る芹香院教授のまなざしに気付き、たじろいだ。

 さらに白河の声に後頭部をしたたかなぐられたようなショックを感じて、現実世界に引き戻された。

「のう、後六条、後六条ってば」

 白河の甲高い声には、あの世に行った者さえも、呼び返されるであろう。

「はぁ」

「芹香院教授も、いたくお喜びじゃ。何をボッとしておる」

「はぁ」

 芹香院教授が、マリの顔をのぞき込むように首をかしげて、言葉をかけた。

「よいよい。まことに、ご苦労であったのぉー」

 芹香院教授に直に声を掛けられたマリは、われに返って答えた。

「は、はぁ」

 マリはうやうやしく顔を垂れた。垂れた頭でマリは思った。

 本当にご苦労なこっちゃ。それも、これも、あれもどれも、あのいまいましい研修医どもの浅知恵のお陰だ。



二 サロン・ド・ノーブル

 1 サロン・ド・ノーブル

(えーい、腹立たしい。いまいましい。おのれ、そもそもが、あのこざかしい研修医達の不始末のおかげで、ふきかけられた無理難題なのだ、あの四人の研修医の全員入局という無理難題。しかも、そのいまいましい研修医達に頭をさげて、入局を頼めと。できぬ、できぬ、できぬ)とマリは、医局の長テーブルを指で弾きながら思ったが、考え直した。

(しかし、やらねばならぬ。ならぬのだ。どいつもこいつも、思えば思うほど、腹が立つ、我慢がならぬ)

 マリは歯ぎしりをした。お陰で、犬歯の先が欠けた。

 白河のにくたらしい顔が思い浮んだ。

「この件には目をつぶろう」

「目を」

「さよう。そのかわり」

「そのかわり」

「心療内科もな、どうも、医局員に恵まれぬ。居るか居ぬかわからぬ三条と東周寺。三条は居なくてもわからぬ。東周寺は居てもわからぬ。居ればうるさい後六ジョ…。いやいや」

「うるさくて、申し訳ありませんねぇ」

「ヤ、ヤ、ヤ。ほんの冗談」

「で、このうるさい後六条に何をしろと」

「そうそう、来年度こそは医局員倍増計画を実行に移し、ぜひとも零細医局の汚名を返上したいのじゃ。教授がたの会合でも、芹香院教授の御肩身が狭いことのなきよう、来年はなんとしてもまともな新入局員をたくさん迎えようではないか。そこで、今いる研修医を」

「まともな新入医局員?今いる研修医の、誰が、誰のどこのどの部分がまともなんです。百歩譲って、今後彼らが人格を全面改装したとして、一体まともになった誰が新入局員になるとお思いか、この心療内科に」

「全部じゃ」

「ぜ、全部?全部ですって?あのフニャフニャフニャマロに、日の丸扇子なしには何もできぬツラユキ。世間知らずのととの宮。ヤクチュウの薬師を」

 マリは絶句した。

 何が、まともな新入医局員だ。一体、やつらのどこのどのへんがまともなのだ。まとものかけらさえ、彼らは持ち合せていないではないか。しかも、四人束で入局と。

「そう、その四名。家柄もまことに結構」

「家柄も。というと他に何か結構なことが?」

「ン?他に?結構なものか?ない。ないぞ。しかしのぉ、天は二物を与えずじゃ。家柄あれば、いいではないか。そういう、後六条とて、金があるわけでなし…」

「お悪うございましたな。落ちぶれ貴族で。あたら、祖先が正直であったために、はめられてしまったのでございますよ。三条のような抜け目のない者どもに。あー、正直者は、バカを見る」と言いながら、マリはジローッと白河を見た。

 白河は鼻白んだが、すぐに体勢を立て直し、妙に小さな声でマリの耳元にささやいた。

「わかった、わかった。のぉ、後六条、しかしあの話、芹香院教授の知るところとなると、いささか、まずいのではないか」

 と、突然、白河はひそめていた声のボリュームを上げて反撃に入った。

「あの下卑た企てが、品格重んじる教授の御顔、曇らせることは必定」

 マリは観念して言った。

「わ、わかりました。わかりましたよ。でも、どうやって。あの者達は、ここから逃げることばかりを考えております。それもこれも、三条、東周寺及びこの後六条の情けない姿を見せつけられているからでございますよ。今少し、まともな待遇を」

「ン?待遇?まとも?うん、いやいや、話をすり替えてはならぬ、後六条。これは、例の件に目をつぶるひきかえじゃ。うまくごまかされる所であった。マ、勧誘にあたっては、わずかながらの援助もいたそう」

「で、やはり四人」

「そう。四人。一網打尽に」

「イチモー、ダジン?」

「そうじゃ、イチモー、ダジンじゃ」

 うらむべくは、例の件。

 例の件とは…。


 秋深まりし頃、財布の薄さの身にしむ夕暮。四人は帰途についていた。

 枯葉舞う道々、フニャマロは溜息をついた。

「この涼風は、ゾクッと来ますな。骨まで冷え性になる」

「ごもっとも。懐にもこたえますなあ」と言って扇ぐツラユキの扇子が涼風に追い打ちをかけた。

「おお、冷える」といって、ととの宮が短い頚を縮めて、高級ブルーフォクスのフサフサした襟巻にほとんど目までうずまった。

「寒さは身にこたえますや。ここで体の暖かくなる薬でも、グーッと一杯」

 その日は、薬師の禄でもない誘いにさえ、逆らう気力のある者はいなかった。

「そうですなぁ、ぱぁっと、街へと繰り出しますか」

「いたそう、いたそう、そういたそう」とツラユキも日の丸扇子を振り回すように扇いで言った。

 その日、既に一軒目から高級ショーパブに足を踏み入れた四人は、次にととの宮をホストのいる高級クラブに招待した。なじみのクラブで突如、客のくせにホストになりかわった三人に、ととの宮は大喜びした。

 慣れぬタバコを手にすると、三つのライターが差し出された。水割りは間断なくつがれ、三人は歌えと言われれば歌い、踊れと言われれば踊った。

「いかがでござるか、我らの歌に踊りは」と言って、フニャマロは、自身、店のスポットライトを浴びた心地よさに、額にキラと光る汗を服の袖で拭いながら、満面に笑みを浮べた。

 薬師はととの宮の足下に膝をつき、水割り調合に余念がなかった。元来火も好きだったので、ととの宮が丸い目をしてくわえたタバコの先には、ライターの火を強めに吹きかけていた。

「もう、大満足でございますよ。世の中にこんな楽しいところもあるのでございますね。こんなところを、おたぁー様が知ったら」

「おたぁー様が知ったら」と、三人、声を合わせ、わずかに身を引いた。

 ととの宮のおたぁー様、一人娘がこんなところでバカ騒ぎをしているところを見たなら、たぶん卒倒することであろう。

 三人の思いにかかわらず、ととの宮がご機嫌よく答えた。

「大喜びでございますわ」

「大喜び?」

 意外な答えにさすがの三人もたじろいだ。

 ややしてから、フニャマロが考え深げに眉根を寄せて言った。

「おたぁー様には、おっしゃらぬ方が良いと存知まするぞ」

「そう、やめた方がよい。なんと言っても病みつきになりますぞ」とツラユキがととの宮を扇子で扇ぎながら言った。

「そーでございますね。でも、一人で知っているにはもったいない所でございます」

「ととの宮さんの上品なお知合いには、このような所に興味をお示しになる方もおられるのですか」と、フニャマロが寄せていた眉根を開放して尋ねた。

「はい。それはもぉー。楽しいこと大好きのおば様方が一杯おられます」

「楽しいこと」フニャマロが計画の口火を切った。

「大好き」ツラユキが続け、

「一杯おられる」薬師が締めた。

 ちょうどそこで三人の頭の中で、同一のひらめきが起ったのだ。

 帰り道、寒風にも気づかず、三人は歩いた。

「我ら、歌も踊もいける」

 フニャマロが、ジェントルマンらしく姿勢を正して言った。

「アルコールにも目がない」と言って薬師は鼻をうごめかした。

 三人が声を合わせた。

「そう。我らに一番向いているサイドワーク」

 話が決れば早い。欲と二人連れとなった彼らの行動力は群を抜いていた。

 ととの宮が提供したマンションの一室は、瞬く間にあやしげな雰囲気の「クラブ」に替えられていった。各自が父親のサイドボードからくすねてきた高級酒を並べた。

「この上、シャンパンなど一日数本あればいいかの」

「ふむ。勿論、ドン・ペリニョンといたそう」

「ふむふむ。ロゼーがよろしかろう」

「ブランデーはコニャックに限ろうではないか」

「ふむふむ」

「家の冷蔵庫においしい物がございました」

「おいしい物」

「はい、キャビア一キロにイクラが少々」

「キャビア一キロ」

 途方もない会話が何気なくかわされ、準備は着々と進んだ。

「店の名前はさしずめ、我らの気品にふさわしく」

「ふさわしく」

「サロン・ド・ノーブルとでもいたそうではないか」


 ムンとする暖かい空気が、外界とその小さな空間とをかっきりと仕切っていた。薄暗い照明とけだるいバックグラウンドミュージックは、その部屋が特殊な場所であることを念入りに示していた。

 薬師が実家の「事務所」から背負ってきたワインレッドの革張りのソファには、上品な中年女性三人が三本目のドンペリニョンに、頬を赤く染めている。柔らかい革張りのソファはすわり心地よいらしく、奥様方は満足げだ。

 夕刻から仕込んであったカナッペの上には、キャビアが惜しげもなくてんこ盛りにのっていた。昨夜から五時間は煮込んだビーフシチューも、小鉢に品良く供された。その間、ととの宮は、台所で一人奮闘している。

(麻布のおばさまの好物はっと。松坂牛の上等な所のたたき。広尾のおば様は、そうそう。フォアグラには目がないし。苦労して手に入れたトリュフだけど、調理の仕方がわかんないから、そう、捨てちまいましょっと。黒くて、気味が悪いし。それに、どのおば様の好物でもないし。おいしい物を先に出し、アルコールで鈍った舌には、味付けを、やや濃くし、材料は二の次にっと)

「ととの宮さぁん」

「はい、はい。ただ今。ただ今参りますですよ」

(それにしても忙しい。もう一人、いやもう二人は裏方が欲しいものよのぉ。お客が増えたら、私一人では切り盛りしかねるわ)

「ととの宮さぁん。水、お水を。南アルプスの天然水がご所望じゃ」

「はいはい、お水ですね、しかも南アルプスと。今日は北アルプスしかないとお伝えくださいまし。明後日にはご用意申し上げますから」

「ととの宮さぁん、今度は氷、氷じゃ。南極の氷がご所望じゃ」

「はぁーい。氷、氷ですね。ん?氷は氷でも、な、南極の氷?そんなもの、ないわ。ない物ねだりをするは、さては、松濤のおば様じゃな」

「ととの宮さぁーん」

「はい、はい、はい。ただ今」

 ととの宮はアイスピックでかいた氷をアイスペールにつっこむと、ニッコリ顔を作って現れた。

「まぁ、まぁ、松濤のおば様らしい、通な、ご注文。もちろんご用意は申上げておりましたが、あいにく、ぜぇんぶ、融けてしましました。次においでの節には、必ずご用意させていただきます。どうぞ、次回もご予約を。お待ち申し上げております。本日の氷は、モンブラン山頂の万年氷。南極とまではまいりませんが、また格別な、和栗のようなお味とか、えっ、なんで栗?そうだっけな。ま、いっか。どーでもいいから、まずはどうぞ召し上がれ」

 その夜、三人のおば様方は、ざっとドンペリ六本、ナポレオンを一本と半。キャビア半キロ、松坂牛に到っては三キロ弱をたいらげ、ひきかえに札束を置いて帰った。もちろん松濤のおば様は、次回の予約をし、南極の氷を念入りに注文して去った。

 四人は、目がくらんだ。

「一夜にして、このお金。材料費差引いても…」フニャマロが呆然として言った。

「あの程度のサービスで、この札束」と、札束を目の前にして、ツラユキは常備の扇子で扇ぐことさえ忘れてつぶやいた。

「それに材料費ったってねぇ。みんな家から、ギッてきたものばかりでやすからねぇ」と、薬師が核心を突いた。

「ふむ」

 材料はただなのだ。

「しかし、南極の氷とは難題じゃ。どうしたものかのぉ」と一人、ととの宮が頭を抱えた。


 2 出足は快調

 客の引いた部屋では反省会が行われていた。

 皿にはポテトチップがざっくりと盛られていた。うまいものはぺろりと皿さえも平らげ尽くすお客たちだ。要するに残り物とて乾き物以外、何にもないのだ。

「それにしても、裏方が手薄でございますよ。お客は三人で手一杯。これ以上増えますると、それぞれのお好みにも合わせていられませぬ。しまいには、レトルト食品だしますぞ」と、ポテトチップをバリバリいわせながら、ととの宮が愚痴った。

「さりとて、レトルトはご勘弁願いたい」とフニャマロが言った。

「カップラーメンよりはよいかもしれぬ」といってツラユキが笑った。

「いや、意外に受けるかもしれませんぜ。上流階級の皆様には」と薬師が言った。

 切羽詰まっているのだろう。口の周りにポテトチップの塩をくっつけたまま、構わずととの宮が言った。

「とにかく、私一人では無理でございます。おば様方、舌だけでなく、耳も良いのです。キッチンの電子レンジのチリンという音など、数百メートル先からでも聞き分けます。それに敏感肌。冷凍庫を開けたわずかな冷気にも反応して、鳥肌をお立てなさいます。つまり、冷凍食品は使えぬ。電子レンジもダメ。そうなると、作り置きをチンと言うわけにもいかないのですよ。加熱も鍋で、じっくりやらねばなりませぬ。それに今度いらっしゃる、永田町のおば様はピーナツアレルギー。ピーナツと耳にしただけで、全身に蕁麻疹」

「ゼ、ゼンシンに蕁麻疹」と大きな声で言って、ツラユキが目を見開いた。

「それは困る。重度のアレルギー、アナフィラキシー寸前ではないか。医者を呼ばねば」と叫んだフニャマロが一斉に白い視線を浴びた。

「とにかく」と、ととの宮がざわつきを大きな声で制して続けた。

「ミックスナッツから、ピーナツを取り除かねばなりません。しんどいこと。その永田町のおば様のお友達で、台北のおば様は、赤い色が大の苦手。せっかく配色を考えても、赤ピーマンも、トマトもだめ、おリンゴも皮をむかねば使えませぬ」

「ごもっとも、ごもっとも」とツラユキがなだめるように言って、ととの宮を扇子であおいだ。

 フニャマロが鼻の孔を大きくして言った。

「して、お手伝いに心当りは?」と、フニャマロがのんきに言うと、ととの宮がめずらしくヒステリーをおこした。

「そのくらい、みなさんでお考えくださいましよっ」 

「ふうむ。難儀な事じゃ」と、今度は自分の方をせわしなく扇ぎながらツラユキがつぶやいた。

「ナース北条はどうじゃ。よく気の付く、働き者じゃ。いわゆる、目から鼻に抜けるタイプじゃ」とフニャマロが言った。

「フニャマロ殿。お忘れあそばされたか。北条は堅い。この企て、話せばツツヌケじゃ」とツラユキが考え深げにそう言った。

「ツツヌケ」とフニャマロが、鼻の孔をさらに広げて繰り返した。

「そう、ツツヌケ」

「というと」

「もちろん、後六条マリに、です」と言って、ツラユキが扇の往復運動のスピードを上げた。

「そ、それはまずいっすよ」と薬師が会話に参加した。よほどマリが苦手なのだろう。

「では、外来受付けの綾小路嬢は?」とフニャマロはお気に入りの綾小路の名を二番目に出して鼻をうごめかした。

「フニャマロ殿、お忘れか。外来の三枚岩を。綾小路、北条、そして…」と言って、ツラユキが空いている方の手で指折りした。

「そして、最後は後六条」と薬師が最後につけ加えた。

「そう。外来は、綾小路、北条の二人が取り仕切っているではございませんか。完璧なまでの守りですよ。綾小路は北条と二人で一人。お陰で我ら、外来ではうっかりしたことを口に出来ません。ツーツーというやつですよ。綾小路に耳あり、北条に目あり。さらに北条には達者な脚もあります。医局のマリ先生のところまでまっしぐらに走っていくのです。二人は、マリ先生も含めて自らを外来の三枚岩と呼んでいます」とツラユキが解説すると薬師が注釈を加えた。

「三枚肉とも、カゲじゃ呼んでますがね」

「とすれば、あとは、秘書の末広嬢」とフニャマロがもう一人のお気に入りを口にした。

「末広嬢は、五人兄弟の末っ子。それはそれは箱入りで、ようじよりも重い物を持ったことがないと、もっぱらの評判です」とツラユキは、医局通らしく言った。

「そうそう、そういえばこの間、割箸三ぜん持って、よろめいて歩いていたなぁ。万年筆にインクが入っていると重たくて肩が凝るとこぼしていたし。ペーパーウエイトが持ち上がらなくて、下にある書類が取れないところを、助けてあげたこともあったっけ」

 一斉に溜息がもれた。

 ととの宮の気が落ちついたあたりで、ツラユキはそっと水を向けてみた。

「いませぬなぁ。しかし、まず、実際一緒に働くのがととの宮さん。となれば、やはり、ととの宮さんのご意見聞くが筋かと」

「そーでございますねぇ。私といたしましては、ここは、意外かもしれませぬが…」

「意外?」

「意外」

「意外」

 フニャマロたちが次々に口にした。

「はぁ、奇想天外級に」

「き、き、奇想天外級」とツラユキが言いながら、思い当たる節があってそのあとは黙った。

 口に出すのも恐ろしかったのだ。

 フニャマロが恐れも知らず、尋ねた。

「だれ」

「申し上げにくうはございますが」と、ととの宮が勿体を付けた。

「まさか」と、ピーンと来たツラユキが小さな目をむいて言った。

「そのまさかでございますよ、そのまさか」

「まさか、後六条マリ」三人が声をあわせた。

「はい」

「おたわむれ」

 三人はソファからずり落ちて、その場の床にへなへなと座り込んだ。

「と申しますのも。後六条先生、ああみえまして、その実、医局には、一つの恨みを持っておいでなのです」

「恨み」と三人が声を合わせた。

「そう。入局時、三条先生は多額の金をつまれ、その金につられてやってきました。なにせ、カネには弱い三条先生です。ところが、後六条先生は、医局同士の話し合いで、当院に来させられたのでございますよ」

 聡いツラユキがつけ加えた。

「つまり、金の動きはマリ先生を素通りして医局間のみ、マリ先生はびた一文お金を掴めず、ということですな」

「はい。後六条先生、後からそれをお知りになって、お怒り。しかし、後のまつりでございます。この医局には、いつしか一泡吹かせたいとの思い、必ずあるとみました。しかも、あの白河上皇の横暴ぶり。三条先生など、このところ、ちょっとも寄りつかぬではございませぬか」

「いや、三条先生は、単に奥様に骨を抜かれたのみ。大きなおしりの下から這い出てこられないのでございますよ」とツラユキが解説した。

「そうでございますか。しかし、それにしても、後六条先生の医局でのお立場、お気の毒かと」気の毒と言いつつ、わずかにうれしそうにととの宮が言った。

「しかも、積年、白河上皇と、三条家に対する恨みあり」と、家系図にも強いツラユキが言ってから、やはり口元に笑みを浮かべた。

「そう、残ってんのは、変な苗字とオンボロ家」と薬師は大口を開けて笑いながら言った。

「しかし、よりによって、後六条マリ」と怖がりのフニャマロが言った。

「なあに、大丈夫。私がなんとかいたします」と言って、ととの宮が胸を張った。

 翌早朝、かつて来たこともない時間にととの宮は登院した。医局の長机のど真ん中に陣取るととの宮に、医局員への意地で毎朝の一番乗りを決めているマリが驚いて言った。

「ど、どうしたのだ、こんなに早く。ととの宮さん」

「い、いえ、その、マリ先生に、ちょっとご相談が」

「相談?ふうん。なにやらキナくさいのお」

 このところ、妙によそよそしくおとなしい研修医に、何かしら感じるところのあったマリは、いよいよしっぽをつかまえるべく気構えを新たにした。

「実はー」

 マリは、いよいよと覚悟し、思わず知らずファイティングポーズをとった。

「実はなんだ?」

「実は、ぜひ、マリ先生にお力を賜りたく」

「力を貸せと?どうせまたよからぬことでも考えているのであろう。浅知恵を働かせて、何かたくらんでいるところだろうとは思っていたが、さて、どうしようかの」と言いながら、マリは気をもたせるべく大げさに頭を振って、そっぽを向いてみせた。

「お金。お金の儲ることでございますよ」と、ただ一言、ととの宮が囁いた。

 勝負あった。マリの目が一瞬にして金色に輝くのを、ととの宮は見てとった。

「カ、カネ?」

「はい、しかもいっぱい」

「しかもいっぱい?」

「はあい、もう大変なもので。儲って、儲って」

「そんなに儲る話か」そう言ってマリはゴックリと音をたてて唾を飲みこんだ。

「はい、はい。ただ」

「ただ、ただ何じゃ、申してみよ。話によってはこの後六条、力、貸さぬこともないぞ。言うてみよ」

「はい。今でも十分の儲けはございますが、お客様も増え、少し、裏方が手薄に」

「ほう。で、何をする裏方だ?」

「そこはマリ先生を見込んでのお話なのでござますよ」

 とその時、と、フニャマロも薬師を従えて医局に入ってきた。続いてツラユキが現れて話に加わった。

「そうなのです」

「なあんだ、皆わいて出たか。とすると、また研修医こぞっての悪いいたずらか」

「いえそんな。楽しいこと好きのおば様方に、少し楽しみを分けてさしあげるだけでございますよ」とツラユキが言うと、フニャマロが大きくうなづいてから続けた。

「我らが歌って踊って接待いたし、ととの宮さんがおいしい物を作って出すという二段がまえ。これが、お金持ちのおば様方におおうけで」

「お金持ち。おおうけ」とマリが呟いた。

「はい。で、我ら経営の拡張をもくろみましたが、人手の不足に阻まれました。人員の充実が先決。そこで我ら研修医の味方を捜さねばならなくなりました。研修医にお味方くださる医局員となれば、マリ先生ただお一人。しかもマリ先生、これが気丈なキャリアウーマンでありながら、この業界の女性には珍しくお料理、お掃除、お洗濯大好きと伺っております。いうならば、全てを兼ね備えた満点女性。マリ先生の手料理であれば、どの奥様方のお口にも合うこと間違いなしかと存知ますです、ハイ」と、ツラユキがまくしたてた。

「満点かぁ?ふふふふふ。そうかぁ?それほどでもないぞ」と言うマリの口元がいつになくだらしなく中途半端に開いたままになった。


「これで裏方も役者はそろいました。マリ先生攻略済みとあらば、北条、綾小路、末広嬢ともにいもづる。末広嬢には受付けをしてもらいましょう。伝票一枚ぐらいなら持てるでしょう。うん、ぴったり。北条ナースにはマリ先生ともども、料理の作成、及び、皿洗い。たくましい綾小路嬢は、サービス係といたしましょうぞ」

 そう言いながら、ととの宮の大きな目が欲に満たされてキラッと光った。

 名実ともに、サロン・ド・ノーブル、出足は快調であった。



三 とんだお客

 1 満員御礼

 マリがサロンに加わった初日だった。開店直前のサロン。柔らかい革張りのソファに座ったマリは思った。

(いいすわり心地だ。しかもワインレッドのこの色合い。さすがノーブルたちのサロンだ)

 しかし、ととの宮は難題を抱えてマリの前で思案顔をしていた。

「浮かぬ顔をして、一体どうしたのだ、ととの宮」

「はい。難しい。お題が」

「一体なんだ、難しいお代とは」

「松濤のおば様のリクエスト、南極の氷でございます」

「南極の氷?」と、ととの宮の隣で、ソファに座ったままマリが言った。

 ととの宮が途方に暮れた顔で、すがるようにマリを見上げている。

「はい。南極の氷をご所望で」

「ふうん」

「いかがいたしましょう」

「イカがったって、タコがったって、そんなものあるの?」

「いいえ」

「ないのでは、しょうがないじゃないの」

「そうではございますが、申してしまったのでございますよ」

「なんと」

「ご予約うけたまわり、次回はご用意いたすと」

「で、見通しは?見通しはあるのか。南極観測隊に、知り合いでもおるのか」

「見通しなどありませぬ、知り合いなどおりませぬ、そんなもの」

「み、見通しもないのに受けたのか」

「はあ」と、鼻から息を抜きながら、ととの宮はすでにマリを見上げる力もなく、視線を宙に漂わせた。

「ばっかか」

 マリはしょぼくれるととの宮を見おろした。ととの宮の向こうでフニャマロも、一緒に小さくなっている。向かいのソファに座って、マリと目のあったツラユキは、お愛想に、常備の扇をたたんで、頭をコンとたたいた。怒られ慣れている薬師はいつもそうするように、ふてくされて床にしゃがみ込み、斜め下からマリを見上げていた。

 東周寺力は、ただ一人、我関せずとばかりに、小さな袋から、菓子を摘み出しては、パチパチいう音をたてて食べていた。

「東周寺、トーシュージッ」

 マリはいきなり怒鳴った。四人はびっくりして、目を見開いたまま動かなくなった。

 東周寺は、一時、菓子を口に運ぶのを止め、間延びした返事をした。

「はーい」

「東周寺。こちらへ来い」とマリが目を向いたまま言った。

「東周寺先生ったら、こんな深刻な時に、お子たちのお菓子なんかお召し上がりだから、マリ先生がお怒りに。さぁ、お菓子を置いて、マリ先生のおそばに」と、ととの宮がとりなした。

 東周寺は、ととの宮に促されて、名残り惜しそうに菓子の袋を手放すと、のっそりとマリの方に歩み寄った。

「や、東周寺、おまえではない、用があるのは。私が欲しいのはその変なものじゃ」

「変なもの?」と四人が声をそろえた。

「そのパチパチいう、変な物」

「あーあ、これでございますか。口の中に入れると、はじけるキャンディーでございますよ。今、お子たちの間で評判の」と物知りツラユキが解説した。

「ふうん」

「そんなことよりマリ先生、いかがいたしましょうぞ。いよいよ、今夜でございますよ、今夜。南極の氷でございます。いかがいたそう。困った、困った」と言いながらフニャマロが右往左往した。

「それよ、それ」と、マリが言った。

「それえーっ?」と四人は再び声を合わせた。

「南極の氷の特徴はなんだ?」とマリが四人を順に見回しながら言った。

「特徴?さぁー。南極のかおりでも致すのでしょうか」と言って、フニャマロが大きな鼻の穴をひくひくさせた。

「違う。音がするのじゃ」と、ツラユキがマリの本意に気づいて答えた。

「音?」と三人の研修医が声を合わせた。

 ツラユキが説明した。

「そう、そう。何千年もの昔の大気を含む氷が溶けるとき、パチパチと、それは趣のある音をたてるとか。耳をすまして、太古の響きを聞きながら飲む酒がまた格別らしゅうございますぞ」

「その通り。コップに水を持て」

 即座に、コップに氷水が用意された。マリは東周寺から菓子の袋を取り上げると、惜しげもなく粒状の菓子をざらりとコップにぶちこんだ。菓子を取りあげられた東周寺は、口をあんぐりと開けたまま、その行く末を案じて、思わず知らず、鼻から抜ける声をたてた。

 東周寺の心配をよそに、菓子はみるみるコップの水面に吸収されて消えた。

「聞いてみよ」

「おー」どよめきが起きた。

 それはみごとにパチパチと音を立てる、南極の氷そのものだった。

「少々、大げさな音かの」とそれでもマリは満足げに言った。

 コップの回りに耳という耳を寄せ集めて音を聞入っていた五人は、返事をするのも忘れた。

「さすがはマリ先生。私が選んだ人材だ」

 ととの宮はほっとして、へなへなとソファにへたりこんだ。

 案の定、奥様方はマリ特製の南極の氷の水割に耳をすまし、ご満悦だった。この際、味、香りなどどうでもよかった。キャンディーのオレンジ味をごまかすためにマリが選んだ安手のバーボンが、奥様方の舌には新鮮だった。

「どーせ、本物の南極の氷の音なんか聞いたことないんだから大丈夫。バックグラウンドミュージックを少々騒がしいのにしてっと」

 マリはすっかりたかをくくった。

「綾小路さん。綾小路さん。フォアグラを。フォアグラのお代りを」

「はい、ただ今」

「それから、キャビアを山盛りのせたカナッペも大皿でひとつ。いや二皿」

「はいはい。先ほどお持ちいたしましたが」

「いや、追加、追加」

「はい」

「綾小路さん。この生ウニのパイ包み、お気に召されたと。お代り。それから、今度は、ほれ、北海道のいくら、いくらをてんこもりにした鮭の親子ドンブリを。え?はい、二人前でございますね。ハイ、ハイ。綾小路さん。二人前」

「はーい」

「ちょっと待て」

 物蔭から店の中を見まわしていたマリは、お代りをしまくる太った奥方の後ろ姿を見とがめて言った。

「あそこで、どっかり座り込んでテーブル中の物という物を食い荒している新顔は、どこのどいつだ」

「はい。あれは、麻布のおばさまのお友達の田園調布のおばさまからご紹介のあった、えっと、えっと。おや、いつからあのようにお太りあそばされたのであろう。このあいだお見かけしたのは別人か。末広さん、末広さあん」

 ととの宮は、迫力の後ろ姿を思い出せず、入店時に客をチェックしている末広嬢を呼んだ。

「はい、ととの宮様。何でございましょう」と言いながら末広嬢が、帳簿を重そうに持って走ってきた。

「それが、私としたことが情けない。お客様は全て把握しているつもりだったのですが。どうしても、あの大きな後ろ姿の方を思い出せないのですよ。どなたであったかの、いつ入店されたのであろう」

「あの方でございますか?はいはい、少々お待ちあれ」といいながら末広嬢は難儀そうに帳簿をめくった。

「あの方は、えっと。おやっ。リストにございません。ひいふうみっと。だって、いまいらしている方が、三グループ、十四人。リストで本日チェックしたのが、十三人でございます。お一人多めでございますよ。どのように入店したのでしょうか」

「多め?」

 ととの宮の大きな目が落ちそうになった。

「何回数えても変わりませぬ」

 そこまで聞いていたマリが呟いた。

「まるで座敷わらしのような。しかしどっから、わいたのであろうかのう」

「わいた?」

「そう」

「なんか、ゴキブリのようでございますなあ」と、ととの宮が言った。

「マ、よいわ。しかしよく食うのぉ。しかも金目のものばかり。入るのは自由じゃ。しかし、決して逃してはならぬぞ。ただでは帰さぬ。綾小路嬢、しっかり目をつけておれよ。フニャマロにぴったり付かせろ」

 綾小路嬢に耳打ちされたフニャマロが、

「はい、かしこまりました。おまかせください」とキッパリと言って、ポキポキと指をならした。

 しかしこの時、マリの胸を一抹の不安がよぎったことは確かだった。何度フニャマロの「おまかせ」に泣かされたことか。とはいえ、その場は、フニャマロに「おまかせ」するほか、手がない。何しろ、ぎりぎりの自転車操業だ、料理も人手も。

「えーい、いた仕方ないか」とマリは呟いた。

「は?」

「や、何でもない。何でもない」

 マリの予感は的中した。よくない予感に限って当たるのだ。

「な、なに、取り逃したと」

 ととの宮がモジモジと下を向いた。

「は、はい」

 フニャマロがその隣で小さくなっている。

「申し訳ありませぬ」

「なんということ。だからよく見張れと」

「見張っておったのですが」

「まかせろと言ったではないか」

「申し訳…」と言って、フニャマロがうつむいた

「おまえは一度として私の言うことを聞いたためしがない。普通は右の耳から聞いたら、せめて左の耳から抜くものだ」

「というと…?」

「一度はノーミソを通過する。お前も、ちょっとはノーミソをを通さんかい、ノーミソを」

「なあるほど、ノーミソ」と言って、フニャマロが合点した。

「おまえは、私の言うことが右の耳から入れて左の鼻から抜くのだ。目に見えるようだ」

「や、こりゃうまいこと申しなさる」と言って、ツラユキが常備の扇子でポンとおでこを叩いた。

「でも、一度入れるだけいいじゃないですか。わずかにミソをかすっているかもしれないし…」と薬師がフニャマロのかたをもって言った。

「かすっているならかすっているらしくしろて」

「ははーっ」

「えい、いっそ、おまえのスカスカなノーミソなど、かすらぬ方がましかもしれぬ」

「これまた、おきつい」

 四人は頭を床に擦り付けた。


 2 お客の正体

「ナニ、また逃したと」

「は、はい。申訳ござりませぬ」

 あまりの恐ろしさに深々と頭を垂れたまま顔を上げることの出来ないフニャマロ達は、予期せぬマリの沈黙に、総毛を立たせた。毛足の長い絨毯に顔をうずめ、窒息せんばかりとなりながら、この上、頭上に降ってくるかもしれない底知れぬなにかにおののいていた。

「ふうーん」

 マリの気の抜けた返事に、皆は飲み込めぬものを感じながらも、一応、念のためひれふしたままでいた。

「これで三度だ」

「は、はーっ。まことに申し訳ございませぬ」

「敵もさるものじゃ」

「は、はい。そのとおりで」

「となると、かなりの手練れということになる」と言いながら、マリは顎に手を添え、考えた。

 ととの宮が真っ先に現金な笑みを浮べて面をあげた。

「そう、そうなのでございますよ」

「一度は、煙のように消えた」とマリが言うと、ツラユキが顔をあげて答えた。

「はい。まっこと、煙のように跡形なく」

「もう一度は、トイレへ行ったまま、二度と帰らぬ者となった」

「オシッコ遭難と呼んでおります」と言ってフニャマロが次に顔を上げた。

「ばっかか」とマリが言った。

「おひかえあそばせよ、フニャマロ殿」と、ととの宮がたしなめた。

「三度目は電話をかけに。なまじ電話の前にアンチークのついたてなど置いたのが誤りであった」

「はい、その通り。以来行方知れず。電波と共に去りぬでござりますよ」

 フニャマロが己れの運んできたついたてのことをすっかり忘れて調子よく合いの手を入れると、ツラユキが顔を上げた拍子に常備の扇子でフニャマロの頭をたたいた。

「しかし、我らも気をつけてはいたのだ。それでもなお、二度、三度と裏をかくように逃げられた。しかも、しこたま食い荒してからだ」とマリが言った。

「はい。一日にシャンパンを、それはもう瓶ごと丸飲みするような勢いで空けられ、オードブルから、メインまで、これは皿を舐めつくすようにみっちり食べられた上、上物のブランディーをこれまた、シャワーのように浴びられて、三日にして、いやもう計算するのも、身震いしまする。他の皆様からいかにあくどく儲けようとも、間尺に合わず。あの方に来られては、赤字決算は必定、経営破たんも目の前です」

 ととの宮が帳簿を片手に解説すると、マリが何かを思い出そうとするかのように言った。

「いかにも。しかし、ただ者ではない。あの食い意地といい、節操のなさといい、要領のよさに逃げ足の早さ。通ずるものを感じるわい」

「通ずる?」

「におってくるわい、おまえ達と同じ香りが」

「私共と」と言って、ととの宮が怪訝そうな顔をした。

「そう、貴族の匂いじゃ」

「それなら、芳香と言っていただきましょう」とフニャマロが図々しく言った。

「きな臭い」と、マリはフニャマロに構わずつぶやいた。

「な、な、なんと、きな臭いと。で、それはどんな香りでござるか。」と言って、ツラユキが扇で匂いを集めてクンクンと鼻を鳴らした。

「それに、どこかで見たことがあるのじゃ」とマリは思い出そうとして、首をかしげた。

「どこかで」とフニャマロたちが声を合わせた。

「そう。どこかで、一度ならず」

「一度ならずも?」

「はい、はい。私もどこかで見た覚えが。どっかこう華やかな所で」と言って、ととの宮が頭を抱えて続けた。

「そう明るい所。我らがサロンのような薄暗い所ではなく…」とマリが言った。

「そう、そう。そういえば、明るく何やら華やいだ」と、やはり思い出しかけたフニャマロが続けた。

「うむ。華やいだ。男女ともに正装してと」とツラユキも加わった。

「殿方も奥方も、きれいに着飾り。ご馳走などもふんだんに食べ」とととの宮が言ったときだった。

「私がフルコースディナーを食べられる数少ない機会。あっ。ああーっ」と言ってマリの顔が青ざめた。

「どういたしました、マリ先生。お顔の色がよろしくありなせぬぞ。なにか思いだされましたか。にっくきあのブヨブヨ顔」とフニャマロがマリの顔を覗き込んで言った。

「な、なんということだ。思い出さねばよかった」とマリが叫ぶと、ととの宮が容赦なく言った。

「しかし、思い出さねば、話が先に進みませぬ。是非とも思い出していただかねば」

「しまった。まこと、何ということなのだ」と言いながらマリが頭を抱えた。

「で、誰なのです。マリ先生、もったいぶらずにお教えくだされ」といいながらツラユキが扇子でマリの顔を仰いだ。

「教えるも教えないも、皆、あの顔を思い出さぬのか。ほれ、三条のあのドハデな結婚披露の宴。その上座でやはり、食いまくっていたではないか」

「さすがはマリ先生。よう観察されておりますなぁ。上席ではしたなく食い散らかすとは、そうそう、思い出してきましたぞ」とツラユキが言った。

「そうそう」とすかすか脳みそのフニャマロすらが半分思い出して賛同した。

「で、どなたでしたっけかの、思い出せそうで、出てきませぬ」と言って、のんきなととの宮は間の抜けた顔でマリを見上げている。

「ま、まだわからぬのか」と言うなり、マリがテーブルを叩いた。

「はぁい」と、ととの宮がさらに間延びした返事をすると、マリがごうを煮やした。

「えーい。聞いて驚くな」

「はあ」

「白河の奥方じゃ」

「上皇の。な、なあんと、なんと」と言って、四人が四人とも腰を抜かして座り込んだ。

「なんと、なんと」

「なんと…」

「なんといたしましょう、いかがいたしたらよいのでしょう」

「イカがもタコがもエビがも何もない。致仕方ない」

「仕方ないと申しますと」

「おしまいじゃあ、トホホホホ、店じまいじゃ。しかしどのようにしまうのじゃ」とマリが観念した。



四 研修医、観念する

 1 かけひき

「返せ」

「いえ、返しませぬ」

「やや、返せ」

 白川の個室ではマリと白河のせめぎあいが、かれこれ一時間も続いていた。

「いいえ、返しませぬ。返すどころか、お支払い願いたい」

「シ、支払う?えーい、払わぬ」

「ぜひともお支払いただきたい。奥方がお支払いになったのは、わずかな会員登録料のみ。肝心の、そのあとの飲み食い料、お支払いください。一体いくら召し上がられたと思っておられる」

「いや、払わぬ」

「払え」

「払わぬ」

「金、払え」

「払わぬ」

 延々続く意地汚い押し問答に、研修医達は半ば恐れをなし、半ばあきれて、立ち聞きもそこそこに、白川助教授室の前からそそくさと逃げ出した。

 こっそりと遠ざかる研修医達の足音を、壁の向こうでも聞き逃さないのは、白河の習性だった。古来より盗み聞き、するもされるも、慣れっこなのだ。

「帰りおったわい」と白河がいった。

「帰りましたか」とマリが言った。

 研修医に聞こえよがしに言い争っていた白河と後六条は、声のトーンを落して、助教授室の客用ソファに腰を下ろした。

「研修医ども、後六条の剣幕におそれをなして帰ったわい」と言って、白河が肩を揺らして笑った。

「白河上皇の剣幕の間違いでしょう」とマリが言い返すと、白河が後半の言葉をさらに低い小声でささやいた。

「しかしこれでそちらの弱みを掴んだということだ」

「何ですって、その弱みとか何とか」と、しらばっくれたマリが聞きとがめたが、白川は素知らぬ顔で話を変えた。

「いやいや、なにも。ところで、半分に負けてくれぬか、のう、後六条」

 白河が今度は本音の話にうつった。

「お断りですよ」と言って、マリが高い鼻を横に向けた。

「しかし、あれはいかにも暴利。たった一晩でウン十万とはな」

「いいえ、その価値は十分あったはずです。一体全体、奥様のあがられたものをご存じですか」

「ウ、ウン」と言って鼻白む白河に、マリは容赦なく追打ちをかけた。

「北海産のキャビアをどんぶり鉢に一杯。北海道より空輸のいくらさえ、国産品とはいえこれも、てんこ盛りの山盛り一杯。フォアグラも、ありったけをソティーにして供しました。飲み物とて、用意した高級品は全て飲み尽くされたのでございます。イナゴの大群に襲われたあとの畑のようでございましたよ、我らのサロン。もう何一つ残らない。ぺんぺん草も生えないとはこのことです。ええ?白河助教授は、一体おうちで、奥様に何を食べさせておいでなのでございますか」

「それよ、それ。生来の美食家に輪をかけた肥満体質。食うの食わないのって、だから宅では質より量になるのも否めまい。だから、外で美味しい物を見せるともう、見境いなく…。私とて…、この安月給で、一杯一杯じゃ。ヨヨヨ。いや、泣き言をこぼしている場合でない。わかった。マ、金については、これで落着としよう」

「ら、落着と。何を言っているんです。勝手に。未払い分はどうなります。我ら、大赤字を抱えましたぞっ」

 マリはふっかけた。焦げ付きを埋めても、いくばかの金は残った。しかし、悟られれば全てを白河に吸い取られるのであろう。

「わ、わかった。わかった。しかしのぉ、後六条。そち達のしていたことは、明るみには出せぬ事」

 白河は反撃に転じようとしている。波に乗せてはまずい。

「これは白河助教授のもとで起きたこと。何、不都合のありましょうか。しかも奥方様のご参加くださっているし。これは半ば後任ということではありませぬか、心療内科医局として」

「ナ、ナニ。私の責任と。私は知らぬ。私の許可もなく、全く関知せぬ所で、公認と?しかもあのようなげせんな事を」

「ゲ、ゲ、げせんと。よろしかろう。その、げせんな所に、上皇の奥方が出入りをなすっていたのですぞ、しかも頻々と、ぱくぱくと」

「う、うーん」白河はうなったまま、動かなくなった。

 医局へ戻る廊下を歩きながら、マリはひとしきり切り抜けた、と思った。

 しかし、このまま事がすまぬ事も、長年の医局暮しでマリはわかっていた。白河、次の手は、どう打ってくるのだろうか。

 クモの子を散らすように逃げた研修医の姿はその後、見ていない。

 一人医局に戻ったマリは、舌戦に上気した頬を外気で冷すべく、窓辺に寄った。眼下に広がる街の灯は白くチラチラと輝いている。小さく見える信号が、宝石のような彩りを添えている。

「ルビーに、エメラルド、トパーズ。台には小さなダイヤを散りばめてと…」

 マリはいつになく疲れて溜め息をついた。こんな美しいネックレスがマリの胸元を飾ることなどないのだろう。

「やっぱり、お金よねぇー」

 おもむろに無粋な言葉が口をついて出たことに気づいたマリは、自ら訂正を余儀なくされた。

「ってことはないか」

 白河との戦いには、今までは必ず三条が味方であった。いつも、何かしらの形で解決してくれていた。今や三条は骨抜きとなってしまっている。小骨どころか背骨まで抜かれ、クラゲのように小金を求めてはアチコチを浮遊しているという噂だ。すっかり奥方の臀部の下敷きとなり、アクセクと金を運んでいるのだろう。いつしか、医局のもめ事は全てマリが片づけなければならなくなっていた。

「荷が重いのぉ」

 マリが二つめの溜め息を吐き終らぬ内に、モヤッとした声が医局の隅から湧いた。

「マリ先生、お疲れのようですねぇ」

「ヒエッ、東周寺。いたのか。脅かすでない。全く。いてもわからぬヤツよ」そう言いつつ、マリは何かホッとするものを感じた。やはり同じ苦労を分け合う、医局員だ。

「で、いかがなりました」

「うん。マ、互角といったところかの。しかし、巻き返しが、必ずやある。白河のことじゃ。どんな手を打ち出してくるか」

「そーですねぇ。どんな手でしょう」

 東周寺のぼうっとしたうまづらを見ると、マリは妙に安らいだ。見慣れたのだろう、その長い顔。

「うん、アレではないかと」

「うーん、やはりアレか」

 アレというだけで分り合うほど、既に二人は医局通になっていた。

「うん。どこの科でも入局者が多く、うれしい悲鳴をあげているというのに、この心療内科に限って、閑古鳥が鳴いておる」

「そうですねぇ。閑古鳥ってどうなくのですかねぇ、ところで」

「ン?カ、カンコドリの鳴き方?そんなことはどうでもよいのだ、今や」

 そう言いつつ、マリは、シーンとした医局で耳をすませば閑古鳥の鳴き声さえ、聞こえて来るような気がしているのに気付いた。その声をふり払おうと身震いした。

「全く、ゾッとするわい。入局者をどこぞから集めてこいというのだろう」

「そうですねぇ、でも、どこから」

「それよ。研修に来ない者は入局せぬ」

「はい」

「研修に来た者は、ましてや入局せぬ」

「そうですね」

「この惨状を目のあたりにしてはのう。我ら医局員のうらぶれた生活。どこの物好きとて、入局など、考えるわけがない」

「どう、血迷っても、無理でしょう」

「その通り。どこぞのアホウでも拾ってこようか」

「どんなアホでも無理でしょう」

 二人は顔を見合わせると情けなくなり、ソファに崩れこんだ。


 間もなく第二ラウンドが開始された。

「ゴロクジョー、ゴロクジョーッ」

 白河の甲高い声が廊下の端から端まで響いた。知らぬ顔を決め込んで、背中で受け流そうとしたマリは、通りがかりの周囲の目がそれを許さぬことに気付いた。はた迷惑な甲高い声は、マリが振り向くまで病院中を追いかけてくるのだろう。全館呼び出しよりたちが悪い。

 マリは観念した。

「何でございましょう。白河助教授。そんなに声をはりあげずとも、後六条、耳はくっついておりますよっ、ほら、ここに薄っぺらいのが二つ」

「そうか、そうか。しかし、時によりその耳がなくなって見えることがあるのでな。念のために。話があるのじゃ、話が」

「ハ、ハナシ。えっと、あ、そうだ、今、これから外来なので、そのあと」

「やや、すぐ済む。あとではダメダメ、今じゃ、イマ」

 マリは強引に助教授室に連れ込まれた。

「で、何をしろと」と、マリがふてくされて言った。

「ヒヤッ、ヒヤッ、ヒヤッ。実は後六条を見込んで、頼みがあるのじゃ」

 マリは、背筋に冷たい物を感じた。

「見込まないでください、私なんぞ」

「まあいいではないか、見込ませてくれ。で、折り入って頼みが」

「た・の・み?しかも折り入ってと」と繰り返しながら、マリは背中の毛がぞわっと立つのを感じた。どうせ、ろくなことではあるまい。

「や、ま、頼みといってもな、医局員としては、しごく当然のことなのじゃがな」

 きた、きた、きた。マリは、腹を決めた。医局員として当然のこと。このセリフは、断れないようにする前置きだ。これでマリの前方は塞がれた。ほぼ完全に。マリが医局員であり続けるためには、断れないということだ。。

(来たぞ、巻き返し。とすれば、アレ、か)

 おおよその見当はつけていたが、マリは知らぬ顔で聞き返した。

「して、何でございましょうか」

「入局じゃ、入局。まずは入局の勧誘じゃ。入局の。今年こそは、新入局者を迎えたいのじゃ。医局ができて三年。三条、後六条を買ってき…いやいや、二人の立派な医局員を迎え、おまけに東周寺がついて来て、いやいや、もらい受け、芹香院教授も、ご満悦にて開局した。しかし、その後はとんと、入局希望者がない。こう、若くて、ピチピチした医者がいないと、医局に沈滞ムードが蔓延してしまっていかん。このところ、芹香院教授も、そのことをお考えあそばされるとオツムがお痛みあそばされ」

「ハァ、オツムが…お痛みあそばすと」

「そうじゃ。御顔曇らせることもしばしばじゃ。そこで、のう、後六条…」


 白河上皇の話も終わり、マリは後ろ手に、助教授室のドアをしめて、呆然と外来診察室まで歩いたが、その間の記憶を失った。

「こ、こ、こともあろうに、あの研修医どもを。いかに困窮しようとも、あの、人騒がせな研修医たちを入局させるなどあってはならぬことだ。しかも、この後六条が、手をつき、頭をさげて、頼めと。えーい、そのようなことはできぬ。血も涙も情も持ち合せのない彼奴等、たとえ土下座して頼んだ所で、あっさりと首を横に振るのだろう。こうなればだまし討ちしかない。一匹ずつ、ゆっくりだが確実につぶしていこう」

「大丈夫、私、北条が、お手伝い致します。ご安心あれ」

 ナース北条が、おくれ毛をナースキャップにまとめながら、外来の机の前でぼやいているマリの耳元でささやいた。

「マリ先生のおためとあらば、受付けの綾小路嬢、秘書の末広嬢、ともに喜んで、お手伝いいたしますとも」

「うん」

 後六条は決意したのだった。

 こうして、フニャマロ、ツラユキ、ととの宮、薬師四名の一網打尽、捕獲作戦は開始された。

 そして、マリの思惑通り、彼等は一匹ずつ虫かごに捕捉されたのだった。


 2 ああ、まだ不調

「やぁ、皆さん、ご入局おめでとうさん」

 マリは努めて明るく、四つの顔に声をかけた。

「ありがとう存じます」

 四つの顔はそれぞれに、苦痛に満ちたふうをしている。

「こうしてまた皆さんと一緒に仕事が出来るかと思うと、頭がイタッ、いややや、心も軽いというものです。ねぇ、東周寺先生」と明るい作り声でマリが言った。

「まったく」

 東周寺はマリの捕えた獲物に目を見張った。

「皆さん、どうしたのかな。元気がない。皆で頑張って、良い医局にいたしましょう」と言いながらマリが去ると、医局は泣き言の嵐となった。

「フニャマロ殿。なぜ、入局などと血迷ったことを。こともあろうに、心療内科、女傑のマリ先生のもとなどに」

 ツラユキは常備の扇子を開く力もなく、小声でフニャマロを責めた。フニャマロは返す言葉もなく、ショッパイ顔をした。

「我ながら、なぜ入局などと申してしまったか、まことに面目ない」

「そうでございますよ。フニャマロ殿さえ、入局などとおっしゃらなければ、我ら、おいものように、ズルズルとつながって入局させられることもなかったのでございますよ」と、ととの宮も声を殺して、しかし、しっかりと、ことの発端者であるフニャマロを責めた。

「や、まっことに。申し訳ない。つい色仕掛けに乗せられ」

「な、な、なんと、色仕掛け。フニャマロ殿はそんなにいい思いをなすったか」

 ツラユキはつい声に力を入れてしまったことにハッとして、遅ればせながら、口元を扇子で隠した。

「う、うん。そういう、ツラユキ殿とて、あの目の飛び出る程高いカモ料理で名だたるレストランでお食事なすったとか」

 フニャマロが苦し紛れに、暴露した。食いしん坊のととの宮が目をむいた。

「なんと、なんと、あの高級レストランで、カモをお召しあそばされたか。あそこのカモはカモのくせに一羽ずつにナンバーがついているほどありがたいカモだそうではありませぬか。なぁんと、なんと、私も食べたかった、カモ。こうなったなら、何でも食べておけばよかった。毒食わば皿までじゃ」

「カモ食って、カモになってりゃ、世話ありませんや」と、薬師がつけ加えた。

「確かに、カモ食いました。しかし、あの後六条先生とですよ。、味も何もあったもんじゃありませんよ。食べた気もしない」

 ツラユキは、マリの食いつくした魚のあわれな姿を思い起した。しかし今や、魚のあわれまでを思う余裕はなかった。

「ツラユキ殿までが、入局するとおっしゃって」

「だから、フニャマロ殿は決して入局せぬと確信していたのでございますよ。安易でござりました。フニャマロ殿があのように簡単に転ぶとは」

「だいたいが皆さん、マリ先生をあなどるからこんな事に。落ちぶれても、貴族は貴族。策にたけているのでございますよ。我ら一生の不覚でございましたな」と言って、ととの宮が大きな溜息をついた。

 フニャマロがヌーッと立っている東周寺をつかまえた。

「東周寺先生、聞けば、この企て、すべてご存じだったとか。なにゆえ、なにゆえ、我らにお教えくださらなんだか」

「何?ご存じであったと」とツラユキも東周寺に詰め寄った。

「うん」と、東周寺が手短かに答えた。

「ではなぜ、なぜ、お知らせ下さらなかったか。我ら苦楽を共にした仲間ではございませんでしたか」と言って、ととの宮が半泣きになった。

 一年ですっかり医局員として成長した東周寺が一言言った。

「私も、いち医局員でございますからな。それに。まずは皆さん、そこにお座り下さい」

 皆を落ちつけるべく、東周寺は医局の長机を囲んで座った四人に、静かに話し始めた。

「もちろん、皆さんの入局は、医局にとって必須。しかし、皆さんにとっても当科入局は必定だったのです」

「ナ、ナ、ナンですって」と四人が声をそろえた。

「お覚えありましょう。あのサロン・ド・ノーブル事件。あのようなことが、何のとがめも受けずに済むことなどありましょうか。しかも、相手は白河上皇。災いは忘れた頃にやってくる、です」

「では、その戒めに、我らが入局させられたと。たったあれだけのことに、我らの一生をもって償えと」とツラユキが半泣きで扇子を振り回した。

「大げさな。落ちついて下さい。芹香院教授、白河助教授とも、皆さんの入局を切に望まれたのです」

「何故」

「家柄が良いからです」

「なまじ家柄が良いばかりに」

「そうです。そこで白河助教授があの事件をネタに、マリ先生を脅かされたのです」

「なんと」

「芹香院教授のお耳に入れると」

「ゲ、ゲッ」

「そう。まじめだけがとりえの芹香院教授です。そんな不祥事が耳に入れば、皆さんの研修認定、おりるはずもありません。この件、広まれば、みなさんの学内での評判を落とすのみならず、研修認定が下りずば、みなさんはどうせ、どの医局にも入れないのです。今、研修認定はマストでございますからな。皆さんが入局すれば、この件、内分にすると。どちらに転んでもみなさんは、我が心療内科に入局せざるを得ないというわけです」

 四人は、口を開けたままでいた。

「何故、マリ先生は、それをおっしゃらないのです。そのお話伺えば、我らももの考えぬ事もなかったのに」とフニャマロがしおらしく言った。

「しかし、そうなれば皆さんも、あの手この手、あのスジ、このコネ、と奔走されることでしょう。そうなれば、事は大事に。まして、脅されて入局となれば、みなさんのご評判にも差し障ります。一生の職場としても、居心地悪し。そこで、皆さんの口から入局という言葉を言って頂くことにしたのです」

「うーん」

「皆さんも、本日から医局員。新しい研修の医師たちを迎えれば、医局員の気持も、次第に分ってくるかと思います。皆さんがにくくて我ら医局員がつとまりましょうか。一年もすれば、皆さんも、もっと悪どい手口で、新入局者をカモにしていることでしょう。目に浮ぶようです」

「ごもっとも」と四人は観念して口をそろえた。

「そうであったか。わかり申したが、どうして、マリ先生は先ほどの医局会に及んでも、われ和柄にそうおっしゃてはくださらなかったのであろう」

「意地でございますよ、意地」と、東周寺が答えた。

「意地?」

「そう、医局を取りまとめるものとしての意地。白河上皇に命令されてみなさんをだますように入局させたなど、お口にしたくはなかったのでしょう。マリ先生、決意しておられます」

「決意?」

「そう、一年後、みなさんが、この医局に入局してよかったと心から思えるようなところにしようと決心されています。私も頑張ります」

 納得した四人はさっそく医局員を気取って白衣をなびかせながら、病院を闊歩した。

「さぁて、医局員として頑張るか。しかしなぁ」

 四人の不調はまだ続く。

「ああ、まだ不調」



Ⅲ 不調は続く   

一 医局長の座

 1 医局長の椅子

 後六条マリは、ボタン全開の白衣をバサバサいわせながら、いつもどおり忌々しげに医局に入室した。

「誰が、誰が。ええい。誰が、あのような場で、あのようなことを」

 いかにいつものこととはいいながら、その勢いに常ならんものを感じた医局員達は縮こまりながら、上目遣いにマリを見上げた。医局員らの視線に気付く余裕もなく、マリはまっすぐ奥の間の医局長室を目指し、乱暴にドアを開けて、一目散に医局長の椅子を目指した。

 勢いに任されたドアはエネルギーをしこたま蓄え、恐ろしげな音をたてて閉まった。音に合わせるようにしてマリは、その尻にはやや大きめの椅子に座った。座るというよりは、大ビンの底に沈殿するアクのように椅子に沈んだ。

 マリはさらに忌々しげに椅子に当たり散らした。

「ええい、何だ、このバカでかい椅子は。私のこの柳腰にはちょっとも合わぬではないか。先代の医局長の尻はいったいどんなだったというのだ。おお、そうそう、三条の尻ときたら、やたらに幅をとっていたのう。尻ばかりの話ではない。三条がいた頃の医局の空気の薄かったことときたら。医局のあらかたの空気を吸い込んでいたに違いない。それにあの大きな顔。この心療内科医局の空間の半分は占めていたろうよ。医局の水もがぶがぶ飲みおって、やつがいるころはばかに水道代が高くついていたわい。強欲な奴め。空気といい水といい、場所といい、タダとなれば人一倍取りおる。ましてこと金ともなればもう、その意地汚いことといったら、今思うだけで忌々しいわい。いなくなってすっきりじゃ。おっと、未だにあの者のことを考えると腹立たしく、つい時間をくってしまう。もったいない、もったいない。この後六条の大事な大事な限られた時間を、あんな奴のために削くなど、言語道断じゃわい。ああ、損した、損した。いまだ、三条の亡霊に祟られているとしか思えん。くわばら、くわばら。暑気払い、や、違った、厄払いにでも行くか。いや、ただのお払いでは御利益が薄い。大厄払い、いやいっそ、悪魔払いの方が効くかもしれぬ。おお、おぞましい。悪魔のような奴じゃ。おっと、悪魔の方がいくばくか可愛らしいわい」

 マリが長い独り言をひとしきり終えたときだった。フニャマロの小さな声がした。

「お茶ですよ」

「ん?」

「お茶でござります」

「ちゃ?」

 ドアの向こうで唐突に聞こえたフニャマロの声に不意を突かれマリは、思わず、マリらしからぬ間抜けた声を出して後悔した。

「おいしいお茶を入れましてござりますよ。京の実家でマリ先生のおためにわざわざ取り寄せた特製の玉露でござりますよ」とツラユキが頭のてっぺんから京貴族らしい甲高い声を出した。

「特製?玉露?京か」

 マリがそそられて呟いくとフニャマロが畳み掛けるようにささやいた。

「それにお菓子も」

「それもマリ先生のおため、京の老舗の特注品のカイモチイを取り寄せましてござりまする。予約販売ゆえ、手に入りにくうござりますよ、このカイカイは」と、ツラユキが得意の老舗特注予約攻撃をかけてマリを釣ろうとした。

「カイモチイ?ぼた餅のことか。しかし、特注品?」

 案の定、マリはいとも簡単に釣られた。ツラユキとフニャマロが声を合わせた。

「さよう、特注品、特注品」

 マリが特注品の玉露とぼた餅に引き寄せられて席を立とうとしたとき、かの医局長の座にたたられた。大きめのその椅子がマリの腰を捉えて離さず、立ち上がり際、幾度となく両足をばたつかさざるを得なかった。

「ええい、しつっこい椅子じゃ。まるで前医局長、三条のようじゃ。忌々しい」

 マリは立ち上がりざま、玉座に蹴りを入れた。うまく入った技に満足したマリは、それがつい昨日、見てはならぬところで見てしまった由緒正しい療心館の型見せのおかげであることに思い及ばなかった。

 マリが医局長室のドアを開け放つと、医局員たちが相変わらずのもったいぶった顔でテーブルを囲み、その真ん中では特製の玉露が適温の湯気をたなびかせていた。脇にはツラユキが苦労して手に入れたというぼた餅がどっかりと皿に盛られている。こしあんがてらっと光って、見る者の口の中を甘ったるくした。

「おみ足はご無事でございますか」

 フニャマロが如才なくマリの足をおもんばかると、ツラユキがマリの足を冷却しようと常備の扇子でテーブルの下を扇いだ。薬師大心がすすけた声で、やはりマリの足に思いを寄せたかのように言った。

「うちみにいい薬ありますよ」

「よけいなお世話じゃ」とマリが向こうずねをさすりながら言った。

「いい椅子ですからね、傷はすぐに塗り直しとかないと」

 うっとりと椅子を眺める薬師の言葉に、その他大勢は固唾をのんだ。

「椅子の傷ね、椅子の」

 大勢の期待に反して、マリは薬師を睨んだだけですませた。

 贅沢なととの宮は、丸い顔よりさらに丸い目でマリを見ていった。

「お買い換えなされませよ」

「買い換え?」

 思いもよらない発想に、マリは不意を突かれて独り言のように言った。

「さよう、さよう、お買い換えなさりませ。あのおぞましいお椅子」と言ってツラユキが常備の扇子でさらにせわしなく扇いだ。

「そうそう、買い換え、買い換え。お買い換えあそばされませ」とフニャマロが軽い調子で言った。

「そもそも、あの医局長の机と椅子は…」

 故事来歴の好きなツラユキは、常備の扇子を閉じると机をこんと叩いて、講釈の始まりを宣言した。

「そもそも、あの椅子と机はでござりますなあ、前医局長の三条先生の大きなお尻と大きなお顔に合わせた代物であって、華奢で上品なマリ先生、ひいては我々の繊細な趣味には合わせかねまするでございまするよ」とツラユキは続けた。

「三条先生、医局長とは名ばかり。ご開業あそばされたのちも当医局に居座り、二またをかけて当医局の名を無断、無料で使われ、にもかかわらず白河上皇を向こうに回すという医局長のつらーいお仕事はすっかり全部、マリ先生お一人がなさり。ああ、なげかわしや、なげかわしや。この春、はれて名実ともに後六条マリ先生を医局長としてお迎えするに当たり、我らの喜びいかばかりか。しかもだいたいでございますなあ、あのような古めかしい物は、モダンな心療内科には合わず、博物館入りが相当でござりましょう」 

「そうでございますねえ、あのバロック調はちょっと。確かに博物館もよろしゅうございますわね。わたくしが上野の知り合いに掛け合って参りましょう」と、ととの宮が、博識と人脈の広さを披露した。

「それでは新しきもの、京の老舗に特注いたしましょうか」とツラユキも得意の老舗功勢で売り込んだ。 

「おまけに桐のタンスでも付けさせて」というフニャマロのよけいな一言に皆一瞬たじろいだが、いつもはタブーである婚礼関連の言葉も、今のマリの耳には届いていなかった。

「金が」

 情けないことながら、貧乏性のマリの口からいつもの強気には似合わせない蚊の鳴くような声で、「金」の一文字がついてでた。

「なに、金と。ご心配なさりますな。そのような物、我らが何とか致します。ドーンとお任せあれ、ドーンと」といってツラユキが扇子を左手に持ち変えて、ゆっくり扇いだ。

「そうそう、我らが何とか致しまする、いつものように」

 フニャマロのこの決めの言葉をマリは聞き逃さなかった。

「ほう、いつものように。ドーンとな」

 マリの心は決まった。椅子は買わない。桐のたんすも。

 マリが考え出した往診制度による金儲けも、会員制のサロン・ド・ノーブルによるぼろ儲けも、水の泡と化した苦い思い出がマリの頭の中を駆けめぐった。さかのぼってはマリが卑弥呼の子孫と呼ばれるようになった、神霊内科事件。

 全ての企ては払った労力を上回る莫大な借金を残すことになったのだった。

 しかも相手が悪い。悪徳高利貸しも真っ青になって逃げ惑う、地獄の取り立て屋、白河上皇だ。その借金の年季奉公代わりに、マリはこのトチ狂った心療内科の医局長を務める羽目に陥ったのだ。しかも無期限という噂もある。医局員達はコソコソと、それを終身刑と呼んでいる。恩赦もなし、特赦もなし、情状酌量もっとなし。それを思うとマリは鳥肌が立った。まとめようにもちっともまとまりのつかないこの連中を、一生束ねて行かねばならぬのだろうか。

 マリはフニャマロから順に新入医局員の顔を眺め回した。体だけは丈夫なはずのマリは、柄にもなく、めまいを感じてこめかみを押さえた。

(トホホだ)

 たしかに金は欲しい。カネと聞くと、うっかり千手観音を飲み込んでしまったときのように、喉から何本もの手が出てきそうだ。貧乏をかえりみない贅沢ものの集団、心療内科医局を率いる医局長としては莫大な医局運営費をどこからひねり出すかが、大問題なのだ。金は使うものと心得ている連中。稼ぐもの、まして貯めるものという貧乏くさい発想など、金輪際ない極楽とんぼ達だ。一人一人の顔を眺め回しているうちに、金、金、金と、マリの頭の中で金が音を立てて回り始めた。

 そう、そして更に情けないことには、マリにとって「金」は音を立てる、せいぜいが五百円玉なのだ。

 しかし、いかに窮しようとも、決してこの連中の口車には乗ってはならない。これがこの一年間四人の新入医局員を抱えて右往左往したマリの結論だった。鉄の掟、鋼のルールともいえる。


 2 療心館四段、混同館三段

 茶を入れるために医局長室から出た研修医たちは、長テーブルを囲んで座った。もちろん、マリを上座の王様椅子に座らせた。

「まあ、茶でも一服」

 マリの心を知ってか知らずか、ツラユキが心得えのある手つきでマリに入れたての玉露を勧めた。

「うん」

 マリが茶を口に含んで飲み込む瞬間、あげた視線の先に引っかかったものに、息を飲んだ。

「うーっ」

 茶がまだ飲み下されぬうちからマリの口から漏れるうなり声に、一同が息を飲んだ。

 やっとの思いでととの宮が口を開いた。 

「ツラユキ殿、一服は一服でも、一服お盛りあそばされたか」

「まさか、そんなあ。マリ先生に一服盛るなど、とんでもない。おそれ多くて、おそろしゅうて」と、ツラユキはうろたえるあまり、命の次に大切な扇子をとり落としながら言った。

「さよですよ。それに第一、マリ先生に効く毒なんて滅多にありゃしませんて。何たって、マリ先生、毒気が強すぎて」と薬師がひそひそ言った。

「あの者、あの、あの」と、マリが目を白黒させながらうめくように言った。

 茶が少々熱かったことも確かだった。しかし、玉露にはツラユキが湯呑に入れてよく冷ました湯を使ったので、熱いというほどでもないのだ。マリが唯一貴族らしいところ、「猫舌」は、相変わらずマリを悩ませていた。

 ぼうっとしていた東周寺がやっと、自分に集まる皆の視線から、副医局長たる自分が事態を収拾せざるを得ないと思うに至って口を開いた。

「あの者がどうかいたしましたか」

「そうそう、あの者とは?」とツラユキも知らん顔を決め込んで言い、冷静を取り戻すべく、拾い上げた扇子の塵を手の甲で払ってから、一息置いてマリの顔を扇いだ。

「そこの、ドアのところに突っ立ている二人の者どものことじゃ。見えぬのか、いーや、見えぬとは言わせぬぞ、そこだ、そこ。」 

 マリがテーブルを乱暴に叩いていったが、片手に持つ湯飲みを決して離そうとしない。よっぽどうまい玉露なのだろう。

 マリの視線の先にはガタイのいい二人の若者が腕組みをして突っ立っていた。

「今期の研修医でござりますよ」とフニャマロが気を取り直していった。

「研修医は判っておる、研修医は」とマリがフニャマロを睨んでいった。

「ですから、氏素性についても、先日の研修医紹介で、申し上げたではありませんか。芹香院教授ご列席の折り、あの白河助教授までいたくお慶びのお家柄でござりましたでしょうが」とフニャマロが面倒くさそうに言った。

 始めれば一時間はかかる紹介を今後に及んでする気になれなかったのだ。

「誰が家柄について言えと」とマリが湯飲みを握りしめて言った。

「とおっしゃいますと」

 ツラユキが思い当たる節あって、しかしそれでもしらを切ろうとして、愛想笑いをしながら言った。特製の玉露も特注のぼた餅も、そのために急遽、京の老舗から取り寄せたものだったことをはたと思い出したのだ。

「総会のことじゃ、総会。心療内科学会学術総会」と、マリが苦々しげに言うと、一同は一斉に小さくなった。

「ですから、あれはほんの彼らの趣味でして、趣味」と、フニャマロが行きがかり上、仕方なく続けた。

「趣味か。時ところをかまわぬ趣味があるものか」とマリが言うと、ツラユキが遮るように言った。

「まあ、まあ、落ち着きあそばされて。せっかくのちゃあが冷めてしまいます。ほれ、一気にお飲みなされませ、きぃが落ちつくというものでございます。ほれ、甘いカイモチイ、ほれ、カイカイでも召されませよ。」と、ツラユキが京なまりを丸だしにして言った。

「言われんでも飲むわい、食うわい。なにがカイモチイのカイカイじゃ、ぼた餅といえ、ぼた餅と」

 マリが残りの茶を飲む間、次の瞬間にマリが「あのこと」をすっかり忘れ去っていはしないか、できればきれいさっぱりと忘却してくれていることを、医局員は切望した。しかし、いかに老舗特注の玉露茶やぼた餅とはいえ、そんな都合のよい効能は持ち合わせていなかった。

 茶碗を降ろすとマリは大きい目をいっそう大きく見開いて、フニャマロから順に新入局員を睨み回した。

「だって、だって、両名は、ほんの趣味とはいえ、最も由緒正しい空手道、療心館の四段、及び柔道は混同館仕込みの三段でございますよ」とフニャマロが苦し紛れに言った。

「由緒正しいと?素性怪しい、の間違いではないか。療心館に、混同館と?」

 マリは運慶、快慶の仁王像のごとく、ドアの両脇に立ちはだかる二名の若者を代わるがわる疑わしそうに眺めた。

 マリの姿を見ながら、フニャマロが人を煙に巻く時によくするように身ぶり手振りを付けて大げさに言った。

「なーんと、なんと、マリせんせ。療心館、混同館をお知りあそばされませぬのか。マリ先生ともあろうお方が。嘆かわしい」

 そういうときには、おまけにツラユキの強い京なまりが乗り移るのだった。しかし、当医局で長きにわたっていろいろなものに鍛えられてきたマリは、もうありがたい京なまりにも恐れを持たなかった。

「ふん。知らぬものは知らぬ。それがどうした。え?」

「これは、これは。ツラユキ殿、おそれ多くもかしこくも、マリ先生に、両館の歴史をご説明申し上げてはどうかのお」

 突如として話を振られたツラユキは、どっきりしたが、心の動揺を読みとられまいと扇でほそみの顔の下半分を隠しながら、陰にこもった声で話し始めた。

「そもそも、空手道とは、古く中国は唐の時代に考案された武術であって、もとは唐の手、唐手と申しました。遣唐使の唐でございますよ、遣唐使の。そうでございましたな」

 ツラユキがリレーのように、話のバトンを当の研修医に渡すと、向かって左に立つ、丈も幅も大きめの研修医、阿津燗が姿勢を崩さぬまま、身体に見あった太い声で蕩々と述べ始めた。

「はい。唐手道はその後、柔らかい空手道の北派と堅い空手道の南派に分かれ、後者、南派の流れを正当にくむのが、我らの療心館であります」

「なんぱ?」とフニャマロがこだわった。

「南の派じゃ、南の派。馬鹿者。邪念の多い奴」とマリが言うと、療心館師範代、阿津燗が妙に人なつこい笑顔を見せた。

「や、マリ先生、お詳しい」とフニャマロも感心していった。

「詳しいものか、腹立たしい。しかも心を癒すとはな、たいそうな。おかげでこっちの心はちょっとも癒やされぬ。だいたい、療心館だと?やまいだれのつく集団など、ろくなものではないわい」とマリはブツブツ言った。

「一方、混同館とは、正当派柔術の歴史を背負った、これまた由緒正しい武術の総元締めでごさいますよ」と、マリにはかまわずにツラユキが手短かに言った。

「総元締めとはなんじゃ、総元締めとは。なおさら怪しい。それに、由緒正しいのに、なぜ混同館などという紛らわしい名前なのじゃ。その上、なんじゃそりゃ、腰に絡まるその変な色のひも」と、マリが矢継ぎ早に質問を浴びせながら遠慮びしゃくなくじろじろ眺めると、混同館は四段、桃帯の面堂九斎が続けた。

「柔よく剛を制すと申します。これが柔術の基本。しかしながら近年、体重を増やしてのしかかる、臭い息を吹きかけて相手を牽制するなどの禁じ手までを使って勝利しようとする者も現れ、嘆かわしいばかり。そこで、我ら、柔術の基本に忠実に立ち返り、混同せぬよう心がけるべく、敢えて混同館と名付け、日夜修行に励んでいる次第であります」

 ツラユキが思わせぶりに扇で口元を隠し、声をひそめていった。

「両名とも瓦なら軽く五十枚は割りまするぞ」

「両手、両足を使えば、五十と五十と五十と、更に五十。なんと二百枚。二人合わせると四百枚」といいながら、フニャマロが両手を使って計算しながらまなこを寄せた。

「ばけものか」とマリは大きく目を見開いていった。

「え?あげもの?」とフニャマロが聞き違いをした。

「ばかもの、なんと食い意地の張ったことか。煩悩にさいなまれておるのう、相変わらず」とマリがあきれ顔で言った。

「ツケモノイシとおっしゃったのですぞ、マリ先生は。ねえマリ先生」とツラユキがマリの弱みを知ってか知らずか、豊富な自分の頭の毛を扇で扇ぎながらいった。

「ツケモノイシと?」とマリが突然色を失っていった。

 医局員は白河法皇のツケモノ石のような立派な頭を思い浮かべた。白河のイメージを頭から追い払うべく、マリは研修医に目をやった。二人の研修医達は姿勢をただし、微動だもせずに医局の入り口に立っている。

「瓦を日に二百枚と二百枚、合計四百枚も割られて、その金はどうするのじゃ」

 気を取り直したマリが懸案の「金」に思いを寄せた。壊した瓦は医局費でまかなうのだろうか。一体この貧乏医局で日に瓦を二百枚割る化け物のような研修医を二人も養っていくことが出来るのだろうか。

「一枚千円として、二百枚だと二十万、四百枚だと四十…。割るものがないときはどうするのだろう。代用品を与えるのかのう。それにそれだけの瓦を毎日割るとなると、食べ物のほうもきっと大量にいるのであろう。一体どのくらい」

 医局長として医局運営に思いをはせていたマリは、肉厚の阿津燗と、骨太の面堂九斎にちらりと目をやった。

 威風堂々と立ちはだかる二人を見たマリが我に帰った。

 計算していたマリの手からペンがポトリと落ちた。

「ええい、ばからしい、なぜ私があのものたちの割る瓦の枚数や食の心配をいたさねばならぬのだ」

 マリを見おろす二人の研修医、阿津燗と面堂九斎が大きな図体でにっこりとほほえんだ。


二 心療内科学会総会

 1 ポスター前集合

 マリは心療内科学会総会での出来事を思いおこしていた。マリは悔いても悔いきれなかった。それでもなお、玉露入りの茶碗はしっかりと持ったまま思った。

(そもそもの間違いは、あの回覧だ。あのときになぜ予感しなかったのか)

 年に一度の全国心療内科学会学術総会。その年の総会は風光明媚な温泉場で開催された。総会には津々浦々の病院から心療内科医という心療内科医が、研究発表を見物にやってくる。大学病院にいるからには、マリとて形だけでも発表せざるを得ない。面倒な研修医や世話の焼ける新入医局員を取りまとめながらも、学術活動が要求されるのだ。

 ポスター発表なら自分の作ったポスターを朝一で張り逃げし、発表時間にぎりぎりに会場に滑り込めばいい。ポスターの脇に立って、座長という司会者とぽつぽつ来る見物人が去るまで数分間我慢すればすむ。にっこり笑って二、三の質問に答えれば、時間は過ぎていくというものだ。

「十一時、マリ医局長のポスター前集合?」

 マリはワープロで打ったビラをいぶかしげに読み上げた。朝一番に学会会場に乗り込んで、予定通り、お粗末なポスターをモズのはやにえのごとくにに貼り逃げし、物見遊山にふけったあげく、発表ぎりぎりの時間に再び会場に飛び込んだマリは、会場に入るなり、床に散乱するビラを拾ったのだった。

「またなんでよりによって私のポスター前に集まろうというのだろう。しかも、だれが集合するのだ。医局員なぞ皆、予行演習会にさえ集まらなかったくせに。私の学会発表になんか、今更あいつらが、興味を持つとは思えん。なんかおかしい」

 更に歩みを進めたマリは、朝自分で貼り付けたポスター前の人だかりを見るやいなや、殺気を感じて鳥肌をたてた。悪寒がしてマリの体がぶるっと震えた。

「どうしたというのだ。自分でいうのも何だが、私のショボイ研究発表がそんなに人々の興味をそそるとも思えん。いったい何が。いやな予感」

 いやな予感に限って的中するものだ。

「さあさあ、さがって下さいましよ、さがって、さがって。あぶのうございまするぞ。そこのメガネのお方、飛び散った瓦が当たっても知りませぬぞ。先日は、この十一枚目の瓦が飛散し、当たった方がおりまして、重軽傷者三名をだしてござりまする。ご注意は申し上げましたからな、責任は果たしてござります。それは、それは、あぶのうございますがな。但し、実はこの者、空手は正当派の療心館師範代、阿津燗と申し、常には瓦などいちどきに五十枚は軽く割る者にございます。あ、そうそう、本日は予算の都合もありまして、瓦はお高うございましてな、そのかわりといっては何でござりますが、あつーい板をたてつづけに五枚割ってお見せいたします」

 フニャマロがいつもの調子で口上を言い終わると、厚手の板を重ねて持つ和服のととの宮を従えて薬師が現れた。薬師はくたびれた柔道着をだらしなく着こなしていた。阿津燗の威風堂々たる姿の隣では貧相なツラユキがその体格をあらわにして引き立て役をかって出ている。

 鉢巻きにたすき掛けをして控えるととの宮が手渡す厚ぼったい板を、薬師が一枚持って阿津燗の前で構えた。その時、人の輪が二カ所で割れた。総毛を立てたマリと、呆然と立ちつくすマリのセッションの司会を受け持つ座長、東和医科大の教授のまわりであった。

「これはお座長殿。ようこそお出まし下された。ちょうどようございました。グッドタイミングでござる。そおれっ、ご覧あれっ」

 そうフニャマロがいった瞬間、薬師が支える板に阿津燗の足が入った。心療内科学会学術総会会場にはちっともふさわしくないばりっという乾いた音を響かせながら、板が割れた。

 マリと座長以外のオーディアンスが溜め息混じりに声を立てた。

「おう」

 間髪を入れずにフニャマロが、再びかけ声のごとくの口上を入れた。

「さあて、お立ち会い。見ものはこれからでござるよ、これから。五連発とござい」

 フニャマロがそう言った瞬間から、ととの宮が次々に板を薬師に渡した。薬師支える板に阿津燗が一撃ずつををくわえていき、あっという間に五枚の板がマリのポスター周辺に飛散した。

「さあて、いかがかな。マリ先生のこのアリガターイご発表にご意見ご質問のあるお方は?ましてご異論、ご異議のあるお方はおいでかな」そう言ってフニャマロがジローリと辺りを見回すと、人の輪が広がって、ポスターから遠のいた。

「さてそれでは時間切れということで。お座長殿。そう言うわけでマリ先生のご発表、満場一致ということで」

 司会の座長は何もいえず、ロボットのようなぎこちない歩き方で次のポスターへと去っていった。

 ととの宮が準備よろしくほうきを取り出して渡すと、薬師とツラユキがあたりを掃除始めた。

「な、なんということを。私の発表が」

 マリは自分のポスターの前にへなへなと座り込んだ。


 2 総会屋

 ポスター前に座り込んでいたマリがやっとの思いで立ち上がり、呆然と歩いているところにフニャマロが寄ってきて、悪びれた風もなくいった。

「どうでございましたか。これでうまく質問や糾弾を切り抜けてございますよ」

「糾弾?切り抜ける?これは学会発表だぞ。そう言ったレベルの話ではなかろう」

「まあ、いいではござりませぬか。我ら、これを商売といたそうと思うのでござりますが、いかがでござりますかな」と、一緒にやってきたツラユキが扇子を振り回しながら言った。

「商売?」

「そう、商売。学術大会における学会発表に不安のある方々のお役に立って、特には学会総会を万事うまく進行させる」とフニャマロが話を継いだ。

「実際、どうでござったか。うまくいきましたでしょうが。何の言いがかりもつけられず。穏便に済みましてございます」とツラユキが扇で扇ぎながら言った。

「穏便と?この騒ぎのどこが穏便じゃ。それに加えて言いがかりとは何じゃ、言いがかりとは。ディスカッションと言え、ディスカッションと」

「どっちでも似たようなものではございませんか。どうせ、ディスカッションとは、発表にああでもないこうでもないと言いがかりをつけるのでしょうが。ともかく、まずはマリ先生のご発表で小手調べ」とツラユキが懲りずに言った。

「こ、小手調べ?小手調べとはなんじゃい、失礼な。しかも、まだあるのか、これからも」といってマリが目を丸くして言うと、ととの宮が答えた。

「はい、ですので練習させていただきました」

 マリがやっと正気を取り戻して文句を言った。

「人の発表で練習するな」

 ツラユキが改まった調子で言った。

「何事も予行演習が大切でございますよ、予行演習が。予演でございますね、略して言えば。しかし、練習にしては厳しいお題でござった。どんな質問がとんでくるかと冷や冷や。なんと言ってもマリ先生の貧弱なご発表。人々の気をそらすのに苦労いたしました。しかしマリ先生のご発表で成功とあらば、もう何も怖いものはござりませぬ。我ら、この商売、名付けて学会総会進行補助屋といたすことにいたしました。略して総会屋」

「総会屋!?」

「そう、総会屋。皆様のお役に立つこと間違いなし。のう、ととの宮どの」

「はい」と、掃除から解放されたととの宮が着物の袖で汗を拭き拭き答えた。

「総会屋と?なんと、怪しげな」

 マリは頭を抱え込んでつぶやき、学会会場の隅で再び座り込んだ。

「我ら、商売といたすからにはここで大きく儲けようと思いましてな」と、マリの気も知らずくっついてきたフニャマロが鼻をうごめかしながら言った。

「大きく?儲ける?」と、マリが気を取り直して顔をあげた。

「そう、大きく」と、マリの様子を見たツラユキが繰り返して続けた。

「つまり今までのように口コミに頼るのではなく、どばあっと」

「どばあっと?」

「そうそう、どばあっ」と、いつの間にか参加していた薬師も言った。

「で、どばあっとなにを、どのように、どうするというのだ」

 矢継ぎ早なマリの質問に、ツラユキが薬師に交代して答えた。

「今や情報社会」

「情報社会?で?」

「宣伝でございますよ」

「宣伝?だから具体的に」

「インターネットでございますよ」

「インターネット?」

「そう、インターネット。エス、エヌ、エス、ソーシャルネットワーキングサービスを使うのでござります。我ら手分けしてこの総会屋のお仕事、様々なソーシャルネットワーキングサービスを利用して宣伝いたしております。その上、直接、全国の大学病院、総合病院の各科、各医局にメイルもいたしましてございます、この学会総会進行補助屋につきまして」

「メイルした?しかも全国に」

「そう、メイルを全国津々浦々に。お返事もぼつぼつ」

「レスポンスがあるのか」

「さようでございます。更には、ホームページを設けましてございます」

「ホームページ?」

「そう、ホームページ。どなたもが入れる我々のお部屋でございます。マリ先生のお写真なども貼りましてな。そちらのほうも、訪れる方がもう既に百と二人と記録されております」

「なんと、勝手に私の写真を」

「はい、ご安心あれ、一番映りの良いものを選んでございますよ。ま、数年前のお写真でございますがな、詐欺にはなるまい」

「詐欺でもなんでもよいが、しかし、もうレスポンスがあるのか。しかも百二人も?」

 マリは目を見張った。

「そう百二人」とフニャマロがきっぱりと言って胸を張った。

「二人とは半端じゃな。誰だ」と、マリは疑うことを忘れなかった。

「まあ、お気になされますな、お気に。半端な奴でござりましょう」と、触れられたくない話題に触れられたかのようにツラユキが言った。

「誰だというに」と、マリの直感が容易に話題をかえることを許さなかった。

「ま、いいですから次の話題にいきましょう。金のことでも、カネのこと」とツラユキが「金」の一言をことさらに強調して陽動作戦に出た。

「か、カネ?」

 マリはあっさりと作戦にはまった。陽動にはまるのはいつものことだった。

「そう、そう、カネ、カネ」と、フニャマロがマリを逃がすまいと踏ん張った。

「こんなばかげた企画に乗るなど、どうせ頭の中身も貧相な者しかおらぬであろう。懐もしかりだ。金など儲かるものか」

「そんなことはありませぬよ。金は前払い。前のように食い逃げは許しません、決して。しかも、ランクももうけましてな。そういう意味でもハードルが低くなっております。皆さまの懐具合によって、選べるようになっておるのでございます。松竹梅と」とフニャマロが説明を続けた。

「松竹梅?」

「そう、松竹梅。梅はそう、並といったところで、サクラとも申します。我ら人数を動員し、見物人を装う。にぎわしくすることにより、演題の人気の高いところをアピールする。ついでに事前に打ち合わせた質問など二、三試みますかの。サクラですからのお。竹はガタイのいい研修医、阿津燗と面堂九斎を最前列に配し、人垣といたし、よく見えなくする、更にサービスとして、ま、にらみなども利かせましてな」

「打ち合わせた質問?にらみ?」

「そう、そして松となると、少々お派手でございますよ。大サービスともいえる我々のパーフォーマンスが付くわけです。こちらのほうは、顧客のご発表とは無関係に進ませていただくことにはなりますが、研究の成果が上がらなかったお方、実験に失敗したお方、発表の内容に深くは触れられたくないお方にぴったりのコースかと」

「それが私のポスター発表の前でのあの騒ぎか?」

「ま、そんなところで」とツラユキが答えると、フニャマロが自慢げに続けた。

「我ら一丸となって盾となり、体を張って質問、異論、議論に反論、果ては糾弾をはねのけるのでございますよ」

「質問をはねのけてどうする。はねのけては議論にならぬではないか」と言うと、マリが力をなくして背を丸めた。

 それを見たフニャマロがいつになく高飛車にいった。

「それではマリ先生、ご自分の発表に自信でもおありですかな。議論はお好きですかな。研究、勉強は二の次、三の次と見ましたぞ。しかも、喧嘩となればタダの口げんかすら、いつもいつも、白河上皇に言いくるめられ。策謀ともなれば三条先生にやられっぱなしだったじゃあありませんかっ」

「な、なんと失礼な。二の次、三の次とは。一点五の次くらいじゃ。余計なお世話。それもこれも、おまえ達が私に世話をかけるから、研究すなどる暇がないのだ」とそこまで言って、マリは力なく続けた。

「しかし、たしかに白河の根気、三条のずるがしこさにはかなわぬ」

「ですから、マリ先生。いつものご恩返しにと、先ほどの我々の特別コースをサービスいたしたのではありませぬか。並の料金でよろしうございますよ」といいながらツラユキが件の扇でマリを扇いだ。

「この上私から金までむしり取ろうというのか」

「いえ、冗談、冗談。本日はサービスでございますよ」とツラユキが言って、笑いながら扇でマリを扇いだ。

「でもいかがでございますか。我々の新商売の総会屋」と、ととの宮が言うと、ツラユキらが声を合わせた。

「滑り出しは順調、順調」

  


三 真昼の結婚

 1 突然の見合い

「み、み、見合い?」

「見合いと」

「見合い」

「見合い」

 新入医局員達は次々に伝言ゲームのように言葉を発した。医局の長机の真ん中で、取り囲まれたととの宮は一人顔を赤らめてうつむいていた。奥の間のワープロのタッピングも途絶えて久しく、しばしの間、静寂が保たれた。 

 後六条マリの驚愕度に正比例する持続時間だ。

 ツラユキがいつもそうであるように真っ先に我に返って言った。

「いやあ、おめでとう存じまする」

「いや、おめでとうぞんじます」と、フニャマロが続くと、後の者も堰を切ったように続いて言った。

「おめでとうぞんじまする」と薬師が言うと、

「おめでとうさん」とツラユキが京ナマリで再び言った。

「い、いえ、ただお見合をするというだけで、まだ、なあんにも」

「なあんにもというと」ツラユキが掘り下げた。

「なあんにも知らないのでございますか?」とフニャマロが察していうと、ととの宮が丸い顔をよけいに丸くして頷いた。

「お相手がどのような方だとか」とツラユキが言った。

「はい」

「おいくつぐらいとか」

「はい、もちろん」

「ご不安ではございませんか」とフニャマロが大げさに濃い眉を八の字にして心配気に言った。

「はぁ、少々。しかしながら、おたぁさまがお決めくだされたことでございますから。間違いは」

「ない」と素早くツラユキがあいの手を入れた。

「はい、ございません」

(ケッ、どこのどいつだかも知らぬ相手とよくも見合いなんぞするものだ。間抜けたやつ。ととの宮のことだ、さしづめ、相手などよく見ずに、決めてしまうのであろう。おお、いやだ、いやだ)

 マリは、奥の間でワープロとにらめっこしたまま、ととの宮の相手を想像した。

(きっと、ひょろっちょいスルメのような奴か、やせて、ちょろけてペッタンコのノシイカのようなやつか、さもなくば、栄養のまわったコブタのような奴かもしれぬ。さらに金歯かなんかがギラッとしたりしたら…)

 マリは身震いした。

(冗談じゃない)

「しかし、よくもまぁ、ととの宮さんにお似合いの方が見つかりましたなぁ」

 しみじみと言うツラユキに、皆がドッキリして額に精神性発汗した。

「はぁ?」ととの宮がけげんそうにツラユキを見た。

「い、いや、よく、ととの宮さんのお家柄、堀川家と見合うような、しかも、ととの宮さんのおたあさんのお気に召すような」と言ってからツラユキは、コホンと一つ咳をした。促されて、フニャマロがフォローアップした。

「そうでございますよのぉ。何と言っても、ととの宮さんは、皇位継承の順番、世が世であらば片手に入るお身の上」

「片手というわけではございませんよ。それに今は女では継げぬのですから」

「ン?まぁ、まぁ、議論のあるところで。とにかく、事あらば、ととの宮さんが、女みかどにおなりあそばすかもしれぬのだ」

「おーお。おんなみかど」

「おーお、みかど、みかど、みかど」

 医局中が「みかど」をこだました。

「それならば、ととの宮さんと結婚あそばされるお方は、おんなみかどのご亭主」

「髪結いの亭主より、一段上かの、ホ、ホ、ホ」といってツラユキが手持の日の丸扇子を口元にあてて京笑いをした。

「おー、そのとおり」

「そのとおり」

「そのとおり」

(なあにが、おんなみかどじゃ。なにが皇位継承権。どうせうちにはそんなものないわい。後六条などという名前、どこをどう探そうと、もうとっくの昔に歴史書から抹殺されている。皇位につく前、してやられて、遠くに逃げ去ったのだ。命あっての物種じゃ。天照大神の親戚、かどうかは定かではないが、桓武の末裔であることは確かだというのに、しかし、肝心の家系図もない。どこぞでなくしたのだろうか。ふん。な、なさけないが仕方もない。三条、白河、堀川と、どいつもこいつも立派に歴史の教科書に載っているではないか。ゴ、ゴ、後六条だけ、なぜ、なぜ…。く、く、く)

 マリは奥の間で一人、悔し涙をのんだ。

「ところで、お見合はいつ」とフニャマロが興味津々に尋ねた。

「明日」

「明日とはまた急な。どこで」と、フニャマロが根掘り葉掘りほじくり出し始めた。

「ホテルで。ほんの軽い形で。お茶室で顔会わせして、軽いお夕食でもと」

「ほーぉ。ホテルのお茶室借り切って、軽い形とは、さすがは、堀川のおひいさんじゃ。ホテルはかの超高級ホテル、夕食はさしずめ、フランス料理」と、ツラユキが思いを巡らせて言った。

「そうなりましょうかのぉー」ととの宮が、まのびした返事をした。

「ふうむ。我らが大切なととの宮さんじゃ。我らの目でも確かめたいものよのぉ」とフニャマロがふみこんだ。

「おーお、そうじゃ。我らも、介添えせむ」とツラユキがいうと、フニャマロも賛同した。

「そうじゃ、そうじゃ、介添えせむ、介添えせむ」

「カ、カイゾエ、いえ、それはけっこう」と言う、ととの宮の顔が青ざめた。

「いいや。ととの宮さん。ととの宮さんと我らの仲ではないか。兄と妹のようなもの。妹の大事。我ら見守らずにはおくまい」と、ツラユキがキッパリ言いきった。

「ハ、ハア。そうやもしれませぬがぁ、しかし」と、あくまでととの宮が反駁した。ととの宮とて、いくらおうようでもいやな予感というものは持つのだろう、フニャマロ、ツラユキ、薬師では。

「そう、そうなのだ」とフニャマロはフニャマロで、きっぱり言い放った。

「しかしあまり大げさには」と、ととの宮がうろたえた。

「なに大げさなことがあろうか。遠くから静かにお見守りするだけじゃ」とフニャマロが構わず言った。

「本当でございますね。遠くからでございますよ。遠くから、しかも静かにでござりますよ」

「もちろん。のぉ、マリ先生」とツラユキが奥の間で盗み聞きしているであろうマリにもよく聞こえるように、のけぞりながら言った。

「マ、マリ先生ですって」

 ととの宮の大きな目から火花が飛んだ。

「勿論。マリ先生とて、医局員の、しかもととの宮様のことでございますよ、御心配幾ばくか、はかりしれのうございます。何はなくとも駆け付けてくださいますて。何と言っても今は、名実ともに医局長」

(ケッ、誰が好き好んでととの宮の見合い相手など見にいくものか、物好きな。台所のスルメイカでも拝んでいた方が幾ばくかましだ)

「い、いえ、マリ先生まで駆け付けてなぞ、下さらなくても。そんなご迷惑はかけられませぬ」と、ととの宮が青ざめたまま言った。

「マリ先生ってば。ととの宮さんのお相手、見物に、いえ、拝顔奉りにうかがいましょうってば」とフニャマロが、ことわりもなく奥の間に踏み込んだ。

「見物か」とマリはつぶやいた。

「そうそう。私がごちそうしますからって」とツラユキも言った。

「何、ごちそう。ふむ考えぬこともない」

 ととの宮以外の声がそろった。

「よし決まった」

 当日、ととの宮本人より二時間も早めにホテルに到着した一行は、暇を持て余し、三杯目のコーヒーをチビリチビリとやっていた。

「それにしても遅いなぁ」といいながらフニャマロが眉をひそめた。

「いや、フニャマロ殿、まだお約束の十五分も前でございますよ」とツラユキが冷静に言った。

「そうでござるか。しかしその、こういう時は、心もはやり、約束の時間の三十分は前に来るものではありませんか、ふつー」

「そうですなぁ、ふつー」

「ばっかねぇ。余裕で遅れて、あら、失礼ってぐらいじゃないと。そんなに早く着いたら、足元を見られるじゃないのよっ。勢い込んで来たと思われてはね」とマリが知った風に言った。

「そうでございますよねっ」といってフニャマロが、気を取り直した。

 薬味好きの薬師は、タバスコをたっぷりふりかけたトマトジュースに舌づつみをうっていた。

「いやぁー。体にいいんだ、これが。しかし、効きますな。ホテルのタバスコは、さすがにイキがいい、ブッシュ」

 くしゃみをかけられたマリが、いやな顔をした。

(それにしても遅い)

 マリも落ちつかなくなってきた。

「どんな方でしょうなぁ」と、ツラユキが場を和らげようと、口を開いた。

 フニャマロがすぐに話に乗った。

「そうですなぁ。こうなにか、ととの宮さんにぴったりのふくよかな方ではないですかのう。おっとり、のぉんびりした」

「のろまということか」と言って、マリがジロリとフニャマロを見た。

「いえ、決してそんな。あくまでもふくよかでのんびりと」

「のっぺらペラペラのイカのような奴かもしれぬ。ワッハ、ハ、ハ」

 マリは、あたり一帯に響く大声で笑って憶測を続けた。

「私は思うに、スルメイカのような奴じゃ」

「ほう、スルメイカと?」とフニャマロとツラユキが声を合わせた。

「うん。ノシイカのような奴とも」

「おう、ノシイカと」

 再び二人が声を合わせたときだった。

「ああーっ」とツラユキが、口を開けたまま声を出した。

 同じ方に視線を向けたフニャマロも、目を見張った。

「あ、ああーっ」

 皆の視線をマリがたどると、そこにはやっと現れたととの宮が、頬を赤らめて立っていた。

「あっ」

 マリは息を呑んだ。

 ととの宮の脇に立っていたのは、ひょろひょろのスルメイカでも、ペッタンコのノシイカでも、イカでもタコでも、ましてエビでもなかった。

「あ、あーっ。男。し、しかも、いい男ではないか」

 マリは座っているのを幸いに、腰から力を全て抜いた。

(あ、あんなイケメンが、残っていたのか。一体どこに。それが、何故私の所に来ないで、ととの宮の所などへ行ってしまうのだ。ク、クヤしいが、三条よりも数段いい男だ。情けないが、認めざるを得ない)

 面長の顔に太い眉、高い鼻、脚長長身の貴公子は、まるで女性誌の中で見かけるモデルのようだった。足どり軽やかに近づいてきた貴公子は、物腰し柔らかに言った。

「本日は、皆様においでいただきありがとうございます。せっかくの機会ですから、お食事などご一緒くださりませんか」

「はい、ありがと」と、ぼうっとして答えるフニャマロをツラユキが制した。

「いえ、お二人にとって大切な日。おじゃまいたしては」

「そんなご心配はご無用でございますよ。皆さんのいらしてくださった方が、ととの宮さんの気持もほぐれます。それに、ととの宮さんのお友達なら、私のお友達、どうぞ末永く、おつきあいを」

「へ、へーっ」

 もちろん貴公子の払いで、おいしいフランス料理のランチをたらふく食べた「皆さん」は、貴公子の「ぼくのショーファーに送らせましょう」の一言でそれは立派な黒塗りのリムジンに乗り込んでいた。そして、赤いポルシェで消えた二人の後ろ姿を、しっかり目に焼きつけたのだった。


 2 気はまた変わる

 だらんとした昼下がりの医局の空気が、マリの声に一瞬にして張りつめた。

「ケ、ケッ、結婚?」

「はい」

「だ、だって、だって」と言ったまま、マリは言葉を失った。

「はい、少々、早すぎるかとも思うのではござりますが」と言って、ととの宮が上目遣いにマリを見あげた。

「早すぎるったって、なんたって。昨日でしょうが、お見合いは」

「はい。でもこういうことは、決まるとなると早いもの」

「はやる気持ち、わからぬでもないが、少々、いや、いま一度、考えた方がよいのでは」

「はい、二度三度、よく考えました」

「に、二、三度と?たったの二、三度か。それに昨日の今日、というのでは、あまりにも、待ってましたといわんばかりではないか」

「はい、そこで、決めたことは、マリ先生だけに申し上げ、後の方々には後ほどということで」

「ま、それでもよいが。で相手はどんななのだ」

「マリ先生ったら。昨日ご覧あそばされたではございませんか」

「そりゃ見たが。見ただけではわからないではないか。人柄とか。金とか。カネとか…、カネとか…」

 マリはそれ以上の発想がわかない自分にいら立った。

「はい、まぁ、お家柄も申し分なく。財産もほどほど」と、ととの宮は、マリの好奇心の的を的確にとらえて端的に答えた。

「ほどほど」

「はぁ」

「というと」

「はい、まぁ、二人が一生食べるに困らぬといった程のものでございますよ」

「食うに困らぬといっても、それ、ととの宮の食うといったら、並大抵ではすまぬではないか。月曜はフランス料理、火曜はややあっさりと鴨とすると、水曜は血のしたたるような分厚い和牛ステーキが食いたくなる。木曜は、家でおとなしくしていたとしても、カスピ物のキャビアを取り寄せるのであろうが。金曜は、正装してホテルの食事」

「ホッ、ホッ、ホッ。マリ先生も、なかなかお通におなりあそばしたではございませぬか」

「ケッ、余計なお世話じゃ。で、週末はどうするのじゃ」

「そうでございますねぇ。週末はやはり、ややのぉんびりと、そうそう、マリ先生のおばあさまの御別荘へでもお招き頂き、ローストビーフと、おいしーワインでも頂きましょうか」

「ゲッ。週末ごとに来られてはかなわぬわ。ばあさまの寿命が縮むわい」

「ホッ、ホッ、ホッ、ま、冗談でございますよっ。マリ先生ったら。でも、一度は、夫婦してご両親にもおばあ様にもご挨拶を」

「ケ、結構じゃ。遠慮しておこう。我家のような、むさ苦しい家など、ととの宮夫婦がくるところではない。ところで、今夫婦と言ったか」

「はい、申しました」

「本当に決めたのか」

「はい、本当に。もう、結納や式の日取りも。式場も決めてまいりました」

「な、なんと気の早い。子供まで、もうどこぞに作ってあるのではあるまいなっ」

「マ、マッサカ。マリ先生ったら、いやですわ。オッホッホッホ」

 ととの宮は、赤面しつつも、もううつむいたりはしなかった。これが、いい男をつかんだ女の強みというものだろうか。

 マリはつくづくと、己の身の悲哀を感じた。これが運というものなのだろうか。自分は医局のため、医局員のためとアクセク働き、どれほど滅私奉公してきたことか。なのに、何故かいつも報われない。マリの苦労の上でのうのうと寝そべって遊んでいるととの宮達は、いつでも楽しい思いをしているではないか。美味しいところだけとって行くとはととの宮のことだ。

 そして危ない目に遭ったときの彼等の足の速いこと。目にも止らぬ早さで逃げていき、いつもマリが取り残されて後始末。危ない橋を先頭でわたるのも自分、白河上皇に追われながらのしんがりもまた自分。というのに、かいた汗や、流した涙に見合う物を手にしたことはなかった。

 男にしても同じ。ととの宮など、どこぞの水族館のトドのようにゴロリと寝そべっていても、あんなにいい男が目の前に転がって来るではないか。それに引き替えマリの前に現れるといったら、芹香院のじいさまか、がめついオヤジの白河上皇、若くてもせいぜいがうまづらの東周寺だ。

 そうだ、運ではない。金だ。ととの宮とて、金がなければ、あのような、イケメンに巡りあうことはなかったろう。

「そうだっ」

 マリは決心した。金の亡者になるのだ。以前にもまして、金、金、金だ。

 そんなことをツラツラと考えていると、マリの目つきは、自然、普段に増してぎらぎらと異様な光を帯びてきた。ととの宮ののんびりした声など耳に入っていなかった。

「マリ先生、マリ先生ったら」

「ワッ、なんだ。そんな大きな声を出して。そう叫ばずとも、こんなに近くにいるのだから、聞えるて」

「だって、マリ先生ったら、返事もなさらず、目をギロギロと光らせて、カネ、カネ、カネと」

「そうか、そうであったか。い、いや、カネと書いてあったか、私の目に。そんなことはあるまい。嫌なことを言う。で、なんだ」

「それででございますね。私も結婚が決りまして、マ、人生一段落といった所。全ての楽しいことからも、また危ないことからも、手をひかねばならぬ、足を洗わねばならぬと、改心いたしたわけでございます」

「ふうん」

 マリは、まだはっきりと、ととの宮の言っていることを把握していなかった。考え事の続きに没頭しようと、頭の中で一心に「カネ」をイメージしていたのだ。

「イメージトレーニングじゃ」

「は?マリ先生ったら。聞いてくださいましよっ、おカネのことばかりお考えにならず」

「わ、わかった、聞く、聞く。つまらんことに勘のいい奴」

「で、でございますなぁ。これから言うことは少々大切でございますよっ。カネのことなど考えず、よく聞いてくださいまし」

 心中を見透かされたマリは赤面した。

「わかったて」

「で、例のお仕事、総会屋でございますよ。あれから手を引きたいのですよ」

「総会屋から、ホウ、手を引く、ね。な、なに、ソ、ソウカイヤから、手、手を引く、足を洗うと。何と、何と。この後に及んで、引く手があるか、洗う足があるものか。あとのことはどうするのだ。例の、あの問題は。あの問題ある限り、我ら、総会屋をやめられないのだぞ。ええ?わかっておろうが。おまえいなきあと、どのように人手不足と、財源不足を補うというのだ、しかもあの問題」

「ですから、大切なお話だ、と」

 ととの宮が、やや申し訳なさそうにマリを見上げたが、決して譲ろうという気はなさそうだった。

「おのれっ。またもや後始末は、私にさせようという気かっ」

「後始末などと。ですから、陰ながら私も応援いたしますて」

「陰?応援?で、その陰というのは具体的に、どこのことじゃ。何の陰じゃ、いうてみい。応援とは、どういう援助じゃ。まさか家で、お祈りでもしていてくれるというのではあるまいのお」

「はい、もうもちろん。朝な夕なに、お祈りは欠かせませぬ。マリ先生のお宅方面には、足を向けては眠れませぬ」

「ケッ。私の家は、おまえの家の真南。私の家に足を向けて寝れば、これすなわち、おまえは北枕じゃ。私に足を向けて寝るなど、もとよりせぬことはわかっておる。いっそ私に足を向け、北枕で寝るがよい。えーい。呪ってやる。毎夜、毎夜、夢枕に立ってやる」

「まぁ、それは嬉しい。お仕事を辞めても、毎日マリ先生にお会いできるのですね。しかも夜な夜なと。それでは、夜毎のドンチャン騒ぎといきましょう。もちろん、ワイン程度の手土産はさげてこられるのでしょうな、夢枕に立たれる時も。ただではお返ししませぬぞ」

「えーい、いまいましい。おまえを祟ろうという者からも、なにがしかを取り上げようとは。血も涙もないとはおまえのことじゃ。情けなくて、涙も出ぬわい」

「ならば、血も涙もないのはマリ先生ではございませぬか。出ぬのでしょう、血も涙も」

「このたわけ者が。おまえ達のために、涙など、とうに枯れ果ててしまったのだ。わずかに残った滋養薄いこの血さえも、おまえ達は吸い取ろうというのか。この吸血鬼がっ」

「そうおっしゃいますな。どうせ吸うなら、もちっと、うまそうな血を吸いまするよ。マリ先生の血では毒気が強すぎてあたります。一昼夜、灰汁にでもつけてアク抜きせぬと」

「えーい、やっかましい。で、どうせよと」

「ですから、そっと、総会屋は夜逃げといたしましょうよ。人の気など変わるものでございますよ。やると言ってもやらなかったり、やらないと言っていながらやってしまったり。それが人の世でござります。総会屋などという商売、なかったことにいたしましょう」

「無責任なことを。なんと言ってやめるのだ」

「気が変わったと」

「気が変わる?わかったようなことを。今後に及んで夜逃げなど、もうできる規模ではない。それに、例の件は、どうするのじゃ。私にどうしろと…」

 泣く子も黙るマリさえもが恐れる例の件とは。


四 不調は続く

 1 金とともに去りぬ

「いやあ、イタメシはどうもいけませんなあ、我ら猫舌族には。熱うて、熱うて、口の中が火の海じゃ」

 愛用の日の丸扇子で大口の中を扇ぐツラユキに調子を合わせてフニャマロがお寒い懐に手を当てた。

「どっこい懐、火の車」

「そーでございますか」

 ニッと笑ったととの宮の歯が、イカスミで真っ黒だった。しかも食後のティラミスにしこたままぶっていたココアパウダーが口の端を覆っていた。フニャマロが高笑いをした。

「ととの宮さん、お歯黒じゃ」

 大柄な東周寺の笑い声もおっとりとあたりに響いた。

「我ら、代々毒味を重ねて冷え切った食べ物しか口に出来ず、すっかり猫舌になり申したのう」ツラユキが扇子をせわしく振り続けた。

 マリは何も言わなかった。貴族の端くれからも脱落して既に久しい後六条家だったが、あいにくの猫舌だけはその名残として代々受け継いでしまっていた。

「忌々しい。やかたも金も、名誉も地位も既に無くして久しいというのに、どうしてへの突っ張りにもならないこの猫舌だけが、我が家では優性遺伝してしまったのだろう。熱いものは熱い内に、冷たい物は冷たいまま食すのが一番。それぐらい、よく知っている。みそ汁も茶碗蒸しも、ましてやグラタンなど、もってのほか。ああ、うらめしい」

 マリはぼやきながらととの宮をちらりと見た。マリは知っている。ととの宮もまた、何を隠そう、猫舌であることを。ただし、ととの宮はしたたかだ。どんなに食卓を囲む会話に夢中になっている風に見えても、運ばれてきたものの立てる湯気から決して目を離すことはない。虎視眈々と食べ頃になるのを待っている。決してその瞬間を逃したりはしない。時が来たなら、ととの宮はどんなに話に興が乗っていても中断し、卓にめり込むほどに顔を埋めて、一気にいくのだ。

 マリの心を知ってか知らずか、フニャマロもツラユキも黙ってマリについて歩いた。

 マリは医局長室で一枚の紙切れを眺めながら溜息をついた。白河助教授宛の領収書のコピーになっている。発行元は総会屋。今やマリが率いざるを得なくなった全国一怪しい集団、学会総会進行補助屋、略して総会屋だ。しかも、ととの宮は気が変わって、今にも手を引こうといっている。

 いかようにしても、白河上皇の領収書を無かったことにしなければならなかったのだ。

 領収書を初めてみたときのことをぼんやりと思い返した。

「そんな申し込みなどあるわけない。あんな恥ずかしい思いを誰が好きこのんでしようというのだ。」と呟いたマリだったのだが。

 その年の地味目の医局旅行で、旅館へ引っ込んだマリ達は、部屋で夜の酒盛りを始めていた。温泉はマリの怒りを鎮める効能を備えていたらしい。

 つい先月の心療内科学会学術総会のことなど忘れたかのように、マリは浴衣の胸元を合わせなおしてから杯を口に運んだ。

「ですから、来年の三番目のご発表者からネットでご依頼が」とツラユキが少々言いづらそうにうつむいた。

「ら、来年の予約まで取ったのか。で、誰なのだ、依頼主は」

 急にあたりがしんとした。温泉で温まった身体の芯が冷え冷えするのをマリは感じた。

(なんだというのだ、この静けさ。また何か不吉なことの予兆か)

 ツラユキが畳の目を数えるように視線を落としたまま言った。

「それが申し上げにくうございますが」

 マリが苛立って歯がみした。

「だから早う言ってみいて」

 それでもなおツラユキが煮え切らないでいた。

「そ、それがあー…」

 マリは最後通牒を出した。

「は・や・く」

「ジョーコー」と小さい声でいいながらツラユキはフニャマロに助けを求めて視線を送った。

「な、なにぃ」

 マリの顔がみるみる青ざめた。

「上皇」とさらに小さな声でフニャマロが答えた。

「なんだってえー」

 マリが座ったまま腰を抜かしたように、厚手の座布団に身を沈めた。

「だから白河上皇でございます」と半ばふてくされたようにフニャマロが言った。

「だから言ったのじゃ。こんな商売、まともな神経の持ち主は依頼せぬと。しかも来年とは気の長い。それまで我ら、どんな心持ちで過ごせばよいと言うのだ」

「ごもっとも。われわれといたしましても、もちっとましなご依頼元もあるかと思っていましたところ、ふたを開けてみるとこんな具合で。いかんとも」

「断れ」

「そ、それがもう前金のお振り込みまで」と会計係のフニャマロが言った。

「何、前金?上皇にしては気前のよい。よっぽど困っていると見える」

「そう、そう。来年の学術総会は芹香院教授の特別の後押しで、シンポジストなるものにおなりあそばして、いたくお困りのご様子」とツラユキが解説した。

「シンポジストとは大仰なお役を仰せつかったものだ」

「そう、そう。白河上皇、嬉しいような、悲しいようなと言ったところでございましょうな」とフニャマロが顎に手を当てて感慨深げに言った。

 ツラユキが集めた情報を披露した。

「しかも来年の総会は国際学会も兼ねて行われるとのうわさ。シンポジストとして壇上に上がったうえ、発表は英語、ディスカッションも英語、質問も英語。上皇、お金集めはお上手なれど、学問といったところではこれさっぱりでございますからな。学術論文の一つも出しておらず。英語はこれまたぜんぜんだめ。来年の学術総会には諸外国からも大家をお呼びいたすとか。おツムの痛いことでございましょう」

「で、上皇は我らと知ってはいないのだな」

「ええ、もちろんですとも。そこはお任せくださいませ。総会屋といたしておるので、イーメイルアドレスもエス・オー・ケー・エー・アイ、アットマーク、ソウカイ、ドットコムということで、我らとわかるようなヒントは残しておりませぬ」と言ってフニャマロが自信ありげにうなずいた。

「本当だな」

「本当です」

「ほれ、領収書の写しにございます。総会屋とだけ書いておきましてございます」

「うーん」

 マリは白河宛の領収書のコピーを見て唸った。ととの宮が夜逃げを決め込んでいる今、もはやその領収書はマリにとって悪夢でしかなかった。総会屋を解散するには、白河上皇からの金を返すしかないが、どこからどうやって返すのだ、総会屋がマリたちだとわからぬように。しかも、請け負ってしまった仕事はどうするのだ。

 マリは医局員を召集し、意思統一を図った。

「仕方あるまい。この件、私に任せて貰おう」

「はい」


 呼吸を整えてからマリは白河上皇の部屋を急襲した。

「白河助教授っ」

「なんだっ、後六条、騒々しい」

 白河助教授が、隠れてこそこそと勘定していた医局の裏金をあわてて机の中に隠した。

 上目遣いに見る白河の金歯がぎらっと光ったのを見て取ったマリが言った。

「金勘定でもなさっていたのですか?」

「な、何を言うのだ、後六条」

「ほうら、金歯の輝きが増していますよ」

「また、変な冗談を。ひ、ひ、ひ」

「私に隠し立てしても無駄ですよ。その机の中身は何ですかな」

「何でもない、何でもないて」

「何でもないわけがございません。白河助教授、おもしろいものを手に入れました。一体これは何です」

 マリは領収書の写しをひらひらと白河の鼻先に突きつけた。

「なんだ、これは」

「怪しい書類ですよ。怪しい。巷ではこれを怪文書、と称し、恐れています。なんだかんだと火種になります。それにしても何ですか、この総会屋などという下品なサイン。どこの阿呆がこのようなことに乗るのでしょうね。ねえ、白河助教授」

「な、なんだ。これは。うっ」

 総会屋の領収書をマリの手の中に見た白河が言葉に詰まった。

「助教授、一体どういうことなのか私にお話し願いましょうか」

「い、いや、あの、その」

「さて、何かお困りのことがあるなら、まずは私たちにご相談くださいな。総会屋などという怪しい集団に頼むなどとは水くさい。一体どういうことなのですか」

 マリは精一杯優しい顔を作って言った。

「じつはなあ」

「みなまでおっしゃいますな。実は総会屋なるもの、仕事を返上してきたのでございますよ。金も返すゆえにと。助教授、なんぞ無理難題をふっかけたのでございますね。ほうら、お金」

 マリはツラユキ達から預かった大枚を白河の前に置いた。

「おお、お金」

「さよでございます、お金」

 こうして総会屋の儲け口は金とともに去ったのだった。


 2 不調は続く、どこまでも

「それにしても、事なきを得てよかった」

 マリは数日前の白河との渡り合いを思い出して溜息をついた。

 その時だった。医局のドアが勢いよく開いた。

「ごっきげんよろしゅう、皆々さま」

 そこに見慣れぬ顔が現れた。

「大倉の欣為、キンタメでござります」

 やまあらしのように立った髪の毛を手でなでつけながら、細い目を更に細めて欣為が医局に躍り込んだ。手にはギターを抱えている。

「キンタメ?」

「はいはい、欣為でございます。さあさあ、そちらの皆さんも、どちらの皆さんも、踊って踊って、はいはいはいっと」

 医局長室からあわてて走り出てきたマリが言った。

「何じゃ、ありゃ」

「次期研修医の大倉の欣為にございます」とツラユキが扇で口元を隠しながら答えた。

「キンタ…」

「マ?」

 言いよどんだととの宮のあとをフニャマロが完結させた。それを聞き逃さなかった大倉のキンタメが更に目を細め、にんまり笑って言った。

「メ、メでございますよ、メっ。キンタメ。皆さん、お間違いなく。間違うとたーいへんなことになりまするからなあ、特に淑女の皆様にはお気をつけあれ。わ、は、は、は。」

「たーいへんって、己れの名前だろうが、己れの。間違えられて気を悪くもせぬのか」

 出鼻をくじかれたマリが呆然と立ちつくしたまま言った。

「はあい。もう慣れっこにてござります。生まれたときからこの名前。大倉家に代々伝わる欣の一文字、受け継がぬ訳には参りませぬ。そしてひいじいさまにあやかった為の一文字」

「ふうん。代々の一文字に、ひいおじい様の一文字?それじゃあ、代々の一文字をお持ちのひいおじい様もキンタメ殿と同じお名前」とフニャマロが目を寄せて考えながら言った。

「そういうことになりますなあ」といいながらツラユキもつられてまなこを寄せた。

 キンタメがにっこり笑いながらもきっぱりと言った。

「いいや。欣の一文字と、為の一文字、順番はいといませぬゆえ」

 フニャマロがツラユキと声を合わせていった。

「それでは、タメキン?」

「そう、その通り、タメキン」

 キンタメが人差し指をフニャマロの前で振った。

「タメキン?」

「そうです。タメキンのほうがよかったでございますかねえ。私といたしましては、この名前、キンタメがとってもお気に入り。オンがようございましょうが、オンが。キンタメ、キンタメ、キンタメ」とキンタメがエコーをかけるように自分の名前を言い続けた。

「キンタメ、キンタメ、キンタ…」つられて医局にいた者が口ずさんだ。

「あ、間違えたのはどなたでござりますかな。今、マとおっしゃられた方がございましたな。ミュージシャンの私、お耳がよく、まして特にこのオンにはいささいか鋭敏でございますからね。ごまかせませんよ」と言ってキンタメが再びにんまりと笑いながら辺りを見回した。

 マリがあきれて言った。

「ええい。いっそキンタマとでも改名したらどうだ、まどろっこしい」

「んまあー、極端なご意見、ありがとうございまする。実は私も常々そうは思っていたものの、親からもらったこの名前、そこまでは思い切れず、今に及んでいるのでございますよ。ところでそういうご率直なご意見、はばからずお口に出される淑女は、医局長の後六条マリ先生と見た」

「悪いか?」と言って、マリが口をとがらせた。

「いーえ。ちっとも。私もこれを機に改名の件も含めて父に相談しようかと」

 マリが横目でキンタメを見ながら言った。

「も、含めてとは、どういうことじゃ、も、とは。他に何を相談するのじゃ、改名の件に加えて。人んちの家族会議にいささかの興味を持つものではないが、ちと気になってな。まさかとは思うが、われらに関することではあるまいな。都合悪ければ答えずともよいが」

「いーえ。ちっとも。そう、勘のおよろしいマリ先生の予感通り、この医局に少々関係あることですゆえ、特にマリ医局長様には聞いていただかないと」といいながらキンタメが両手をすりあわせた。

「この医局?少々?関係?」

 マリははからずも第六感が働いて、背筋がぞっとするのを感じた。

「はあい。この医局にね。実は、父は有名なお脳の外科医、大倉の欣頓、キントンでございますな」

「キントン?」

「あのキントン雲のキントンでございますか」

「いや、これも代々の一字、欣、及びひいひいじい様の一文字、頓を頂き、欣頓」

「キントンか」マリが半ば口を開けたまま呟いた。

「は、欣頓」

「甘そうなお名前ですなあ。なんかこう、口の中が甘ーいよだれで満たされそうな」

 ツラユキが扇で口元を拭くまねをすると東周寺がやっと口を開いた。

「そうそう、お正月のクリキントンの様な」

 東周寺は嬉しそうに言ってキンタメを親しげに見た。

「そうなんでございますよう。実はひいひいじい様、養子でして、旧姓を栗栖と申します。まさにこれ栗栖キントン、クリキントン。わ、は、は、は」

 キンタメが山嵐のような髪を振りながら大口を開けて笑うと、東周寺も更に嬉しそうに口をあけて笑った。

 マリがいらだちを隠さずに言った。

「で、で?まどろっこしい名の件はもうよいから、そのもう一つの方の話を早く進めい」

「おう、おう、そうでございましたな。名前の話にこだわっている場合ではない。大切な、大切なお話」

 キンタメがマリの方に一歩乗り出した。

「大切な?」

 マリは殺気を感じたように身を引いた。二の腕の毛がぞわぞわと騒いだ。

「そう、大切な」

 キンタメは眉をひそめ、声も潜めて、マリの方にもう一歩にじり寄った。

「なんだ」

「なんだかんだと聞かれたら」

「聞かれたら?」とフニャマロが合いの手を入れた。

「答えてあげるが世の情け」

「答えてくれんでもいい」と嫌な予感に駆られてマリが身を引いた。

「いやそう言うわけには。ム、フフフフフ」

 キンタメは上目遣いにマリを見た。マリの背筋を何かがいっせいにぞおーっと這った。

「私の父は有名な…」

「お脳の外科医、までは聞きましたぞ」とフニャマロも先を急いた。

「そうそう。その父が私に言うことには、入局を控え、心療内科だけは避けるようにと」

「な、なんと、避けるようにと?」と言って、フニャマロが大きなまなこをむいた。

「そう、避けるように」とキンタメが意味ありげに大きく頷きながら言った。

「して、またなぜ?」ツラユキが畳みかけた。

「さあ」

 キンタメは思わせぶりにフニャマロから順に医局員を見回した。

「マリ先生率いる我ら医局の何がお気に召さぬと」とツラユキが扇で扇ぎながら言った。

「そりゃ、マリ先生、少々お気は強くあそばしますが」

 ツラユキが続けるとフニャマロが合いの手を入れた。

「そうそう」

「そうそう、少々」と、薬師も深く頷きながらフォローしようとぽつりと言った。

「ま、わずかに。薬としてはごく少量といったとこですか」

「ごく少量、というと、偽りありかと」と、ととの宮が恐る恐る言った。

「ま、かあるく」とフニャマロが付け足した。

「ちょっと」とツラユキも小さな声で言った。

「ちゅうくらい」といって東周寺がとうとう副医局長として仲裁に入った。

「御椅子などお蹴りあそばすことはありますが、それもかるうく、かるくでございます。それに我らに実害が及ぶことはまれで、恐れるに値しませぬ」と、ととの宮が医局員らしく、研修医の入局を促すべく言うと、正直なフニャマロがまた付け加えた。

「少ししか。そう、そう、我らマリ先生のご機嫌をうかがいながら暮らしておるなど、全くございませぬ、うわさを信じてはなりませぬ」といってフニャマロが大げさに手を横に振った。

「もちろん。そんなことはございません。万が一にもそのようなうわさが学内にあるとしても、信じてはなりませぬぞ。我ら新入医局員が騙されるようにして入局を約させられ、一網打尽になったなど。そして、以来、マリ先生には頭が上がらず、いつも顔色をうかがいながら小さくなっているなど、決してございませんからな」とツラユキが目に涙をためてそこまで言うと、フニャマロもなぜかしんみりした。

「なんと、私がいつおまえ達を騙したと。おまえ達がいつ私の機嫌をうかがってくれるのかのう、聞きたいものだ。私の方こそ日々おまえ達の尻拭いに明け暮れておるというのに」

「マリ先生ったら」

 ととの宮が新入医局員になるかもしれないカモを前にして、内情を暴露しかけたマリをたしなめた。

 新入医局員のととの宮ごときにたしなめられたことに気を悪くしたマリが、チッと舌打ちをしてからぞんざいに言った。

「それでえっ。なぜ本医局には入らぬようにと。この私のせいとでも」

「いえ、めっそうもない。マリ先生、まれにみる美人医局長として院内でも評判でございますよっ」と、目を細め、もみ手をしながらキンタメが言うと、うそ、お世辞とわかっていても、マリは気をよくして語気をゆるめ、ニマッと笑った。

「そ、そうかあ?それほどでも。それではなぜこの医局には入局せぬようにとお父上様がおっしゃるのだ?有り体に申してみい、この正直者が」

「はい、それでございますが、どうも、芹香院教授と父との仲が」

「悪い」と医局中がこえをあわせた。

「ま、そりゃそうかもしれぬ」とマリが納得すると医局員は深くも考えず頷いた。

「うーん」

「お脳の器質病変に重きを置く脳外科と、我ら脳の機能という得体のしれないものをチョー重視する心療内科とでは、ものの考えというか、価値観、生き方そのものにも共通点を見いだせぬのかもしれない」とツラユキがせわしなく扇で仰ぎながら言った。

「そう、その通り、そうなのでございますよ。人生哲学でございますかな」とキンタメがツラユキを指差して、機嫌よく答えた。

「で、それなのになぜあえて当医局に入局を」とフニャマロが前代未聞の物好きを見るように大きな目を見開きながら、キンタメを見て言った。

「んまあ、人生、この辺でちょっとお父上様に逆らってみようかなあ、なんて」

 軽く言うキンタメにマリはあきれた。

「逆らうだけのために当科に入局を」

「はあい」といってキンタメがニッと笑った。

「冗談じゃない。親子喧嘩の具にされてはたまらぬ」

「さよですなあ。遅い反抗期でございますかな。しかし、なにはともあれ、大倉のキンタメ様と言えば我らの医局の誰よりも宮家に近く、御嫡男ゆえ、お父上のご期待もバズーカ砲並であろうことよ」と東周寺が何気なく言った。

「バ、バズーカ砲」と言い、フニャマロがおったまげた拍子に、勢いよく後ろに跳びはねた。

「そう、もしキンタメ様、我が心療内科ご入局とあれば、脳外科との確執は決定的なものとなり、当科芹香院教授とお脳の外科大倉教授との長年のにらみ合いは実戦に発展するやもしれぬ。大倉家ともなれば核ミサイルの一発や二発はお持ち合わせかやも」とツラユキは言って、指折りしながら状況分析した。

「ま、まさか。うちでそんな物見たことありませんて、ミサイルなんて」

 キンタメが持参のギターを置きながら笑った。

 フニャマロが定位置に戻って気を取り直した。

「それでは、バズーカ砲などは?」

「いんや、ありませぬ。でも、猟銃はありましたな、十丁ほど。父のコレクションで」

「りょ、猟銃というと、散弾銃ですな」

 ツラユキは木っ端みじんに散る散弾銃の弾丸が体の中に突き刺さるところを想像して身を縮めた。

「これはたまりません」と身を引いて言うフニャマロの勢いに、キンタメの方が驚いて言った。

「まっさか、大丈夫でございますよ。飛び道具など、だしはしませんて」

 フニャマロがキンタメの顔を覗き込んだ。

「なぜそのように断言を」

「父、集めるのは好きですが、扱いはちと。玉ものは特に苦手で。あたった試しがございません」

「十丁の散弾銃、しかもノーコントロール。どこに当たるかわからぬと言う奴か」といってフニャマロが思案するように腕を組んだ。

「ま、そんなとこですかね。大丈夫ですって。今年はいい入局者もあって、機嫌いいですから」

「ふうん。いい入局者ね」

「ええ、私と一緒に当科を回る…」とキンタメが言ったとき、再び医局のドアが勢いよく開いた。

「おお、鈴木殿、今、鈴木殿の噂をしていたところでござるよ。脳外科入局予定の鈴木殿、その前に心療内科を私と一緒に研修されまする」

「おう、キンタマ殿」と鈴木殿が開けたドアの勢いと同じくらい無遠慮に言った。

「ほっ、ほっ、ほっ。鈴木殿ときたら。ブーですぞ、ブー。放送禁止用語」といいながらキンタメがうれしそうに笑った。

「鈴木です。よろしく」

 鈴木殿がきりりと四十五度にあがった眼差しをマリに向けた。

「鈴木?」

「はあ、鈴木です」

「なんと平凡な。で名は」

「太郎」

「これまたなんと平凡な。日本中に五万といそうな名だ」

「はい。その通り。正確にはわかりかねますが、今度国勢調査の折りにでも調べてご報告いたしましょう。」と鈴木太郎がいった。

「そこまでせぬとも結構じゃ。で、出身は?まさか出雲ではあるまいな。神主の出のアリガターイ鈴木では?」

「いえ、出身は横浜。平凡なサラリーマンの子弟です」

「おう、なんと」

「おう、平凡」

「へいぼん」

「へいぼん」

「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ボン、ボン、ボン…」

「平凡な鈴木」

 マリの目がぴかりと光った。

「この者の入局を」

 マリはフニャマロとツラユキを見て囁いた。

「な、な、なーんと、なんと、なんと、この平凡な鈴木を入局させよと」

 ツラユキが驚きを隠せず、扇を取り落とした。

 フニャマロが声を殺して、しかし一生懸命抗議した。

「しかも平凡なばかりか、固く脳外科学教室に入局を決めているとゆうのに」

「まして、鈴木殿の脳外科入局あればこそ、大倉の欣頓教授殿もご機嫌うるわしく、キンタメ殿の当科入局を許されるかもと言っていたではありませぬか。それをトンビがアゲさらうように鈴木殿を当科でかっさらって、入局となった日には」

「構わぬ。相手が脳外科でも、農芸科学でもよい。散弾銃がなんだ。一挙両得といこう」とマリが言うと、フニャマロとツラユキが泣きそうになりながらぼやいた。

「何というむごいご命令。無理筋でございます。いかにマリ先生のご命令とても」

「とても?」と繰り返してから、マリが二人をジローリと見た。

「はい、もちろん仰せの通りにいたします」

 二人は薬師とととの宮に伝言ゲームのようにことの次第を伝えた。東周寺のみ、伝言を聞かずとも、内容を把握してつぶやいた。

「脳外科学教室との全面戦争じゃ、こりゃ」と、状況を察した東周寺がぼそっと言った。

 ノーコントロールの最新鋭散弾銃を片手に、大倉脳外科学教室教授が心療内科の小さな医局に乗り込んでくる姿をフニャマロが想像してぼやいた。

「ご無理ご無体」

 芹香院教授室は奥の間だ。そこに行きつく前に必ず医局を通ることになるのだ、ノーコントロールの大倉キントン脳外科学教室教授。であれば、腹いせに、いや、行きがけの駄賃に、あるいは本人の意思にかかわりなく、二発や三発は医局でぶっ放すかもしれぬ。となれば流れ弾の一つや二つ、いや、一つ二つではすまぬ、無数に飛んでくるかもしれぬではないか。危ない。ましてノーコントロールだ。どれ一つとして芹香院教授のもとにたどり着いたりしない。命中するどころか、医局ごと吹っ飛ぶかもしれぬ。なんといっても、コレクションの散弾銃、強力なうえに、手入れは欠かしていないらしい。万に一つも暴発したら大変だからだ。

「もうこりゃ、だめじゃ、もはやこれまで」

「大丈夫だ。なんとかなる」とマリが軽く言った。

「何を根拠に、大丈夫だと」と、ツラユキが涙目で言った。

「今までも大丈夫であったではないか」

「なんという薄弱な根拠、これを根拠薄弱と呼ばずして何をそう呼ぶことであろうか」

「まあ、いいではないか。とにかく、昨年は入局者が四人もあったこの医局。今年はその半分のたった二名でいいのだぞ、半分だ。私がどれだけの苦労をしたか、思い起こせば果てしもないこと。よいか、今年はお前たちの番じゃ。私の半分の苦労でもいいから、してみるがよい。ととの宮が家に引っ込んだとして、残り三名もいるではないか。三名で収穫は私の半分で良いのだからな。計算すると、っと、なんと、実質六分の一じゃ。なんと、易いことか。わかったか」

「わかり申してござりまする」

「よいか、だましてもすかしても構わぬ。手を厭うな。大倉のキンタメ、鈴木の太郎、この二名を引っ立てい。入局じゃ、入局」

「は、は、はー」

 医局員達はぼやいた。

「不調は続く、この先も。ずっと、ずっと、どこまでも」


            完

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ああ、不調 @suzukiyume

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