秋風のおとずれ②

 早く戻ろう。小用のために中座して一階のトイレまで来たのだ。

 富嶽は大股で廊下を歩く。人がいなくても走るのは厳禁だ。

 窓の外では、銀杏の並木が夕日を浴びて、黄金色に輝いているのが見えた。もうそんな季節なのだ。

 琵琶湖も紅葉に染まった山々を湖面に映しているだろう。

 富嶽も初めて見たときは上下の感覚を喪失し、自分の立つ場所に不安を覚えたほどの自然の神秘である。


 やはり年の瀬には帰郷したい。本家の方々に挨拶をして、実り多い学院生活を送らせてもらえていることに改めて礼を述べ、母の墓参りをして、父に剣の稽古をつけてもらって、彼と一緒に正月をむかえたい。


 彼とは無論、伊良忠太に他ならないが───廊下を曲がって、地階へ通じる階段付近に彼が立ってることに気づいた。

 詰襟の胸のあたりをさすり、呼吸の調整でもしているかのようである。

 どんな仕草も絵になる。美男子の良さを改めて実感してから声をかけた。


 「忠太くん」

 「あ……若先生」

 「二人だけで話したいことがあれば、今夜にでもあなたのお部屋までお伺いしますが……?」

 小用でなければ自分を待っていたと富嶽は判断した。

 「大したことではないのです」

 忠太は力なく笑った。空元気もまた愛おしい。


 「ただ、やはり私は若先生にふさわしくないと思っただけです」

 「大したことですよおおおおお」

 反射的に百五十センチほどの体を壁際へ追い込んでいた。

 「いい加減、心得てもらえませんか。あなたからそういう発言を聞くほど私の心臓に悪いものはないことを」

 「すみません……」

 大女おとめの焦り具合から、忠太は軽率な言い方を詫びた。


 「若先生の母上の眼鏡に叶う自信が持てなかったもので」

 「私の母様の?」

 「御父上ほど武芸の腕が立つならまだしも、私のような若先生に助けられてばかりの男子では到底娘には釣り合わぬと思われそうで……」

 なんたる杞憂──富嶽は少々ずっこけた。

 たった今うろたえ気味な反応を示したように富嶽は時にひどく小心な一面をのぞかせるが、普段は豪胆不適を絵に描いた女。すでに亡くなっている相手の評価などを思い煩ったところで仕方あるまいと考える。

 しかし、そこを取り越し苦労と断言してやることが自分の努めだ。


 「母様は常々こう言っていましたよ。おまえより強い男などいたら、それは乗り越えるべきライバルか倒すべき敵だと」

 大きな手が忠太の細い手首を取った。

 人間、野獣、魔性、幾多の強敵を打ち倒してきた手で。


 ふたりで地階へ続く階段を下りる。

 地下一階の広々としたロビーは、黄色とクリーム色を基調とした柔らかい雰囲気の空間だ。テーブルとソファが何組も据え付けてあり、学院の生徒たちは自由時間はいつでもそこで談話を楽しめる。


 今日もそこで後輩を含む友人たちが富嶽を待っている。

 「お待たせしました」

 「あ、やっぱり忠太、富嶽さんと一緒だった」

 たった数秒だが、五一が二人だけの密会を詰るような声を出す。

 「ははは、大したことじゃないんですよ」

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悪遮羅回顧抄 狛夕令 @many9tails

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