⑧
日を待たずに都からの使者が里を訪れた。里の長はどこかと尋ねられた羊飼いは腰を抜かした。〈潮境の港〉に遣わされた使者ほどではなかったが、これほど盛装した馬など生まれて初めて見たからだ。
里の主だった者が、素朴な神の顔が刻まれた石柱の並ぶ広場に集められた。その顔は里の祖霊だと伝えられているが、顔はあまり今の住人には似ていない。噂では、かつてはここで幼子をいけにえに捧げたというが、真相は定かでない。中心では聖なる泉が湧いている。今でも冬至や夏至の祭りに使われたり、争い事を収めたり、成人を迎えた子供たちが初めて大人の衣服を身につけたりする場だ。聖域でもあり、ここでは履物を脱ぐことになっている。
使者は両手で枝を捧げ持ち、武器の無いことを明らかにしつつ進んだ。枝には紫ではないが、〈朝霧の里〉では見ることのない染料で染められた飾り紐が結わえ付けられている。そして使者の衣装も同じように鮮やかだった。彼は皆が裸足であることを見て取ると如才なく靴を脱いだ。敬意を払うつもりなのか、石柱からは少し離れたところに立った。
彼は長い巻物を持っていた。その上には、墨で描かれた線が連なっている。まるで植物の蔓のようで、ところどころ花のような結び目や、小さな昆虫のように茎にとまっている点も見られた。この里ではほとんど用いられない文字というものだとハシバミにはわかった。
「〈紫衣の女王〉陛下より謹んでご挨拶申し上げる」
彼の言葉は〈朝霧の里〉のものとは少しばかり異なっていたが、何を言わんとしているかは理解できた。
「そなたの名は」
シナノキはとがめる。だが、使者は不可解な質問をされたように、儀礼的に立ち止まる。そして、ややあって応じた。
「陛下の名代で遣わされたものに、名前は必要ないのです」
シナノキが鼻を鳴らすと、彼は手短に要件を告げた。
「我々としては、あなた方の里を自由に往来する権利がほしいのです」
「ふむ」
「あなた方はそれほどお気づきになっていらっしゃらないかもしれませんが、ここは交通の要衝です。我々の安全な交通を保証してくださればありがたい」
嘘だった。〈朝霧の里〉は街道を外れたところにある。シナノキは厳しいまなざしを向ける。
「北への侵攻への足掛かりかね」
「何をおっしゃいますか」
「お前さん方の女王が〈潮境の港〉をはじめ、方々の街を支配下に置こうとしているのと、風の便りで耳にしたものでな」
「それは我々自身を守るためでした。私たちの安全を保証するために必要だったのです。周辺の諸国は我々に敵意を持っていましたからね。ですが、今や私たちは街道に塚を築き、見張りを立てています。侵略者も賊も、なすすべがないのですよ。私たちはかつてないほど栄えているのです。その証拠をお目に掛けましょう」
別の者が覆いをかけたものを持ってきた。見たこともないほどつやつやした布だ。表面には紫の衣と冠をかたどった紋が描かれている。
「これは」
「我々からの純粋な好意として受け取っていただきたいのです」
覆いが取り去られる。大人たちが息を飲んだ。それは竜が王宮を取り巻いて舞う姿を写し取った細工だった。ここでハシバミは生まれて初めて黄金を目にした。それは詩に歌われていたように、天の光を跳ね返している。光がハシバミのまじないのように広がっていく。この輝きは何かに汚されることがあるのだろうか。どこまでも微細な竜の意匠はいくら目を凝らしても飽きなかった。ナナカマドは難しい顔をしているが、不機嫌なのではなく感心している。ヒイラギも、今まで自分が見たこともないものを詩で歌ったことを恥じるように見入っていた。あるいは、現実を前にした言葉の無力さに打ちのめされているのか。輝きがどこか重苦しいのは、女王の限りない権勢を感じるからだろうか。まるで力強い腕でこの里が掴まれているようだ。
皆が感心していると、今まで黙っていたミズゴケは重い口を開いた。
「本音で話をしよう」
使者はきょとんとした顔を作った。
「と、おっしゃいますと」
「女王が求めているのは〈竜の谷〉だろう」
使者はその問いには直接答えない。ミズゴケは立ち上がり、隅にあった大きな木の箱を持ってきた。いつのまにそんなものを持ってきているとはハシバミは気づかなかった。言ってくれれば手伝ったのにと思う。だが、その存在に気づいていたとしてもただの空箱か、台に過ぎないと思っていただろう。それほど粗末な箱だった。ミズゴケは一抱えある石の塊を取り出した。
いや、石ではない。それは生き物の歯だった。表面に不可解な記号が数えきれないほど刻まれているが、その形は間違いなく生物の規範にのっとっていた。獲物を引き裂き、噛みしめ、飲み込むための器官だった。
「お前さん方がほしいのはこれだろう」
「竜の歯だ……」
使者の漏らした声が思いがけないほど大きく聞こえた。だが、ただの歯がこんなにも大きいのか。ガマズミがいつも取り出していた石ころほどの大きさのものは、本当に欠片だったのだ。一頭の竜はどれほど大きなものであるのか、ハシバミは想像してみようとする。だが、うまくいかなかった。頭はミズゴケの家よりも大きいだろう。尾までの長さは里の端から端までを覆うに違いない。そして、そんな生き物がほんの数百年前は天を舞っていた。
使者の手が震えていた。思わず手を伸ばしていた。触れてそれが本物かどうか確かめたがっていた。いや、偽物であるはずがなかった。脈動する力が放たれていた。まじないの力に乏しいものであっても、見間違えるはずがなかった。ミズゴケは、おそらくまじないで力に覆いをしていたのだろう。それが取り去られた今、あまりにもあからさまだった。まだ竜の生命というか本質がそこを去りかねていて、辺りをじっと睥睨しているようだ。表面の文様も、その力を封じ込めるために刻印されたものなのだろう。竜の歯にはまじないをより豊かにすると同時に、より危険なものにする力がこもっていた。
使者はどうにか動揺を抑えて続ける。
「そうですな。率直に申し上げて、我々はあそこを直轄地としたいのです。この世から竜が消え始めたとき、最後まで竜がとどまったのがあの谷だという伝承があるそうですね。そのせいでしょうか、この里では、十ものまじないを使いこなす方がいらっしゃるとか」
「五つだよ」
ミズゴケは静かに訂正する。使者は叩頭する。
「それで、お前さん方はもっと強いまじないがほしいのだね」
彼はその問いには答えない。
「あなた方には今まで通りの生活を保障します。税も必要ありませんし、貢物も結構です」
彼女は大きくて長いため息をついた。まるで使者の言葉を受け止めきれず、吐き出したみたいだった。
「お前さん方は知らないだろうが、この里には古い言葉があってだね。欲をかいて失敗することを、『歯に飽き足らず骨を求める』というのだ。もちろん『竜の』が省略されている」
「……」
「確かに、骨の中に眠る力は莫大なものだ。冬を種子や卵の形で乗り越える生き物のように、生命力が凝縮されている。だが、だからこそ並みの人間には使いこなせん」
「そうおっしゃるのは都の魔術師をご覧になったことがないからですよ」
彼はもとの口ぶりを取り戻している。
「それに、あなたは骨の中に眠る力を越冬に例えていらっしゃるが、それでは骨になった竜がいつの日か目覚めるというのですか。まさか、そんなことはないでしょう。だからこそあなたがたも、死んだ生き物の歯を遠慮なく使っていらっしゃるわけです。死んでしまった生き物にとって、肉体の欠片などなんの役にも立たないではありませんか。それなら、私たちがその力を使って、善きことをなすことのなにがいけないというのでしょう。私たちの国にも飢えている者はいます。私たちは力のために力を欲しているのではありません」
里の者の多くが説得されようとしていた。つまるところ、まじないの力が増えることの何がいけないのか。そして使者は暗に、ミズゴケたちが力を独占していると指摘し始めた。あからさまに非難こそしないものの、論点をそこに持っていこうとしているのは明らかだった。都で鍛えられた弁論に歯向かうことは、いくら知恵の深いミズゴケや口の回るシナノキにも難しかった。話し合う声があちこちでした。
だが、子どもたちには退屈な場だった。珍しい都からの文物が気になって、目をきょろきょろさせている。貴族たちの紋章の星を数え、見たことのない生き物の図柄に感嘆し、黄金で作られた宮殿はどれほど広大なのかと空想していた。ニレも、深く考えもせず、黄金に手を伸ばした。触れたいと思ったのかどうかはわからない。あるいは黄金に魅入られたのかもしれない。今にもはがれそうに見える、繊細な一点でつながった竜の鱗にニレの指が触れかけた。
「こらこら」
使者はそれに気づいて、笑いながら手を払おうとした。だが、ニレの手が近づいたとき、不可解なことが起きた。一陣の風とともに、黄金の竜が消えたのだ。消えたというよりは、その虚飾がはがれたとでもいうのだろうか。その繊細な織物のような金細工が、一瞬にして粗雑なものに変わってしまった。偽りが明らかにされた。もともと黄金で作られたものではなく、まじないで飾り立てられていただけだった。そのまじないが破れた。竜の飾りも、不器用に銅板を叩いて打ち出した蛇のようなものに変わってしまっている。ナナカマドならもっと上品に作れただろう。
「なんと不吉な」
使者は明らかに動揺していたが、里の者が飾りは偽物だったと気づく前に冷徹に言い放った。
「なるほど、あなたがたが悪しきまじないで、女王陛下のご好意を無にするというのなら、こちらにも考えがあります」
そう告げて、衣装を翻して広場を退出した。そして靴を履こうとしたが見当たらず、これもまた里の悪意だと看做したのだろう、軽蔑のまなざしを向けて馬車に乗った。石の柱はそれを無表情に見守っている。
「あなた方は報いを受けることでしょう」
そして規則的な音と共に去って行った。馬のいたところには糞がうずたかく積み上がっていた。
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