⑦
シナノキも辞去すると、家はまた静かになった。かまどの火は弱く燃えている。ミズゴケは芋を焼いている。背を曲げると急に年を取ったように見える。その後ろ姿を見てニレがぽたぽたと涙を落とし始める。急に母が恋しくなったのか。彼女の臨終のときを思い出しているのか。
まただ、とハシバミは思う。僕の小さな弟の心はとてもやわだ。だから、僕が守ってやらないといけない。ガマズミに代わって世話をしてやらないと、彼はいつまでも同じところに立ち止まったまま前に進めないだろう。だからニレを抱きとめて、胸の中で泣かせてやる。何度もしてきたように、胸の上でしみが広がっていく。ミズゴケはニレの様子を見ると近づいてきた。
「ほれ、どうした」
「まじないがうまくいかないのって、僕のせいなのかな」
ニレは切れ切れに訴える。
「誰がそんなことを言った」
ミズゴケはニレの目の色から、何事かを読み取ろうとしているようにも見える。だが、ニレが泣いていて埒が明かないので、ハシバミがかいつまんで話す。まじないが〈朝霧の里〉一円でうまく働かないのと、ナナカマドのお前たちが来ると調子が狂うという言葉を結びつけたのだろうと。
「つまりニレは、自分がシナノキの言う悪いまじないに目覚めてしまったのではないかと心配しているんです」
ミズゴケはニレの顔をじっと見つめる。その中で眠っている力を見透かすみたいだった。
「よく考えてみろ。お前さんはまだ力に目覚めておらんのではなかったか。力のないものが、まじないを壊す道理があるものか。シナノキの言葉など気にすることはない。シナノキは知恵が回るが口が悪いのが欠点だ。ヒイラギも腹を立てておっただろう」
ニレはミズゴケの言葉に安堵する。だが、今度は自分に力がないことを意識させられる。
「僕、やっぱりまじないの力が目覚めるのが遅いのかな」
里の子どもらが、ニレのせいで成人になれない、順番がつかえているという言葉をぶつけていたのを思い出す。
「そんなことはないさ。私だって今のお前の兄さんくらいの歳になっても、まじないの使える兆しはまったくなかったのだよ。皆が心配するほどだった。それが今では五つも使えるようになった。気を長く持つがいい」
「でも、何か早く力に目覚める方法ってないの」
「はっきりしたことは言えん。だが、何か危難の際に、必要に迫られて目覚めることが多いと言われてはおる。お前さんの兄さんもそうだったろう。目の前のオオカミを追い払うために道を照らすことを知ったし、癒しの力もガマズミを助けたい一心だったのだろう」
目を輝かせたニレに、ミズゴケは厳しい一瞥を与える。
「だからと言って、無茶はいかん。本来まじないは、雪が解ける季節に固い新芽がほころび、芽吹くように、時期が訪れて自然に目覚めねばならんものだ。だから、くれぐれも危ないことをするではないぞ。高いところから飛び降りたりとか、水の中で息を長く止めたりするとか」
「……わかったよ」
その様子から、そうするつもりだったのだろうと察せられてハシバミはぞっとする。ますます目が離せない。
「それにまじないが使えさえすれば幸せになれると考えるのもよくないぞ。多くのまじないを使えたゆえに力に溺れ、不幸になった例などいくらでもある」
そう口にすると、ミズゴケは〈潮境の港〉の方角に目をやった。あるいは〈紫の都〉に思いをはせていたのかもしれない。だが、すぐに反対側に顔を向ける。
「少し休んだら山に入るかね。何日か行かないだけで草木がどれほど変わってしまうことか。〈老婆のいぼ〉の根の味と効能がどう変わるか、覚えているかね」
そんな風に、ミズゴケは二人がどれほど薬草の効能を覚えたかだしぬけに試す。この時期の根は流産を防ぎ、妊婦のつわりを穏やかにするが、これが何日か経つと避妊に用いられる。ニレはまだどうすれば子供ができるかをまだ知らず、ハシバミはミズゴケから簡単な事実だけを教えられている。とはいえそこに実感はなく、年上の子どもたちの忍び笑いの意味もまだわからない。気になる少女がいるわけでもなく、その気持ちとうまく結び付けることもできない。けれどもそんな疑問も次々に繰り出されるミズゴケの質疑に埋もれてしまい、先送りにされる。話すうちに深い山の中にいる。でも、ミズゴケは迷うことがない。そこで突然、ニレは、小さな声でミズゴケの服の裾をひく。
「どうした」
「この里にはこんなにもいろんな薬草が生えているんだね」
「そうさ」
「じゃあ、世界にはどれだけの薬になる草木があるんだろう」
ハシバミは弟の言葉に戸惑った。ニレは、いつも何かを心配していて、安全を確かめるみたいな質問ばかりしているのだけれど、今日のはそれと違う。ハシバミも、よく似た草の見分け方を訪ねることがあったし、ミズゴケが過去に訪れたという都のことなどを知りたがることもあった。でも、世界全体のことなんて考えたこともない。ミズゴケが深く考えるように目を閉じた。
「さてな」
「たとえば、〈潮境の港〉まで行く間に、どれくらいの薬草を見つけられるのかな。なんだか星みたいだ。僕は、薬草のことを知るのを好きだけれど、星の名前を覚えるも好きだ。でも、まだ名前のついていない星もあって、星の数には限りがないんだ。それみたいに、薬草の種類も果てがないんじゃないかな」
「……いろいろなことに関心を持つことは大切なことだ。だが、この世界は広すぎる。竜たちでさえ、そこまでの知恵を持っていたかどうか」
突き放すわけではないが、古い言葉に説明を添えるように彼女はたしなめる。
「まずは、自分の歩いていける範囲の中でできることから始めるのが肝腎だ。私たちはまず、この里での癒し手とならねばならない。その先を知る必要があるのはもっと先だ。そうすればお前さんに何が必要で、今は何ができるかを知ることができるだろう」
ニレは黙って下を向いた。ミズゴケは頬にそっと手をやる。
「何を落ち込んでおる。私は褒めたんだよ。広い世界を見ようとするのは勇気あることだ。だが、賢人になるには、足元を確かめながら一歩ずつ進むのが肝腎だ。そんなお前さんの毎日の進歩が、私には何よりの喜びだ」
でも、また自信なさそうな態度に戻ってしまった。その日もいつものように取れた薬草を干して終わった。
〈潮境の港〉が紫衣の王国のもとに下ったのは、その数日後のことだった。
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