⑥
「お邪魔します」
そう軽やかにヒイラギは言ったが、中に入ると驚いた顔をした。ミズゴケはシナノキと何事か話し合っていたからだ。シナノキはミズゴケほどではないが高齢で、知恵もあるので次の里の長になるのではないかと言われている男だ。使えるまじないも四つあり、ミズゴケに一つ足りないだけだ。つまるところ里の名士が揃っていたわけで、さすがのヒイラギもそこに割り込んでいいのかためらっている。
「私は失礼したほうがいいでしょうか」
「いや、構わん。わしも港の様子を知りたい」
シナノキが答え、ミズゴケも小さくうなずく。そこでヒイラギは二人のそばに座り、〈紫衣の王国〉の様子を話す。〈潮境の港〉の自治が脅かされており、戦うにせよ降伏するにせよ、軍門に下るのも遠くないだろうと。
「私たちのところに攻めてくることはないでしょうが、戦いの前に逃れてくる人々がいるかもしれません」
「ふむ」
「私たちの里は広く、暮らしに困らない程に豊かだとはいえ、あまりにも多くの人々がやってきたら、彼らの暮らしを支え切れるかどうかはわかりません」
シナノキは片方の眉を持ち上げる。
「〈朝霧の里〉は内陸に通じる街道からはずれておる。〈葦原〉に向かう前にわずかな数が逗留するにすぎん」
「だといいのですが」
「他に行くところもあるまい。〈竜の谷〉の方に行っても、ろくに草木は生えておらぬでな」
ミズゴケはその言葉にじっと耳を傾けている。
「ところで、お二人が話し合いとは。何かあったのですか」
「お前さんの報告を待っとったというのもあるがね。ここ最近、まじないの効きが悪いという者が多い」
ハシバミはニレの肩をそっと抱く。
「わしは若い頃、里の外を旅してまわったことがある。旅先では雨乞いをしてくれだの、地下水の流れを読んでくれだの、何かと頼まれることもあった。そこのまじない師が臥せっていたり、里が小さすぎてその術を使える者がいなかったりでな。
だが、その土地によってうまく行くこともあれば、どうにも調子が狂うことがある。どうやら力というのは、わしら人間だけに備わったものではないらしい。旅先でまじないを掛けるとわかるが、その土地でしか働かない古い力というものが確かにある。人間が生まれる前、あるいは竜すらこの世におらなんだ頃から、大地に脈々と受け継がれてきた力だ。その力が、わしらの力を強めたり、まじないに抗ったりする」
「わかります。潮の流れや月の相によっても、取れる魚の種類も量も変わりますから」
「うむ。同じように、まじないは結局のところ、どう作用するかははっきりしない。職人の腕前と違って、例えば季節や気象で結果が変わってくる。どんなに雨乞いをしたところで、自然の諸力が晴天を望めば、それは叶わぬ願いとなるだろう」
ですが、それが何か。そう口にしかけたヒイラギを制する。
「……これはわしの考えに過ぎないのだが、同じように、さかしまのまじないというのがあるのかもしれない」
「どういうことですか」
「あるいはこう言い換えてもいい。まじないを失敗させるまじないだ」
ニレの震えが伝わってくる。
「それが原因だと」
「いかにも」
「ですが、私たちの里全体に対して、まじないの効きを悪くすることなんてできるんですか」
「わからん。ありえない話ではないという程度のものだ。というのも、わしらには呪詛に特有の悪意を感じられなかったからだ。もしもそこに悪意が含まれているのであれば、〈紫衣の王国〉の誰かが、この里を手中に収めんとしてわしらの術を壊しにかかっていると考えられるのだが。それよりもわしは、単にこの里の誰かが、そんな力に目覚めたのだと思っておる」
「まじないに逆らうような力ですか」
「ああ。悪意なく、まじないを打ち消す、地の底の固陋な力だ。だが、なぜそんな古い力が人間に宿ったのか、とんと見当がつかぬ。というのも、人間よりも古くからある力はわしらの手に余るからだ。そして、この末の世では、先例にないことも起きる。わしには、どうも世界の均衡が崩れているのではないかとも思われてならん」
「均衡が」
「率直に言わせてもらうが、気を悪くせんでもらいたい。だが、お前さんのような山里の人間が、海の魚をすなどるまじないを身につけるのは、何かの秩序が乱れている予兆だという気がしてならん」
「……」
「力というのは、ふさわしいものの手に宿るものだ。牛飼いが牛の繁殖についてのまじないを、農夫が種を目覚めさせるまじないを身につけるように。だが、それが乱れているとなると……、あるいは世界の諸力が、その形を大きく変える予兆なのかもしれぬ」
シナノキはそこまで言うと、考え込むように口を閉ざした。だが、ヒイラギはその沈黙をこじ開けた。
「で、私はどうすればいいのでしょうか」
彼女の口調は丁寧だ。だが、そこにさっきまでニレに向けていたようなあたたかさが欠けていた。シナノキもそれに気づいたのだろう。ふむと静かに応じる。
「確かに何かが起きようとしているのかもしれません。私の力も、今までの里の秩序を外れたものかもしれません。それでも、私が魚を捕まえると喜ぶ人がいます。まじないがうまくいった時の誇らしさは、秩序に従う人々と変わりはありません。親しい人のお腹を満たすことに、どこか歪んだところがあるでしょうか。これでも私のまじないは正しくないものでしょうか」
彼女は燃えるようにシナノキを見ていた。
「もしも世界が変化しようとしているのなら、なぜそれを受け入れないのですか。大地の奥深くに眠っている力を使えるようになることの何がいけないのですか。春に植物をはぐくむ力、満月の晩に潮を高く持ち上げる力、それらの力が果たして邪悪でしょうか。それらが人間に宿るなら宿らせておけばいい。遠い未来には、皆がたくさんのまじないを使う世界が来るのかもしれません。与えられた力を行使することの何がいけないのでしょう」
一息に言いきると沈黙が流れた。ハシバミはまた頭の後ろがかっとした。いつ、どちらかが声を荒らげるかわからなかったからだ。だが、シナノキは目をつぶったまま天井を見上げ、考えこむ。眉間の皺は深い。ミズゴケは彼の方を見て、小さくうなずいている。ややあって、目をうっすらと開けて彼女の方を向いた。
「……わしも言葉が過ぎたようだ。忘れてくれんか」
ヒイラギも緊張を解く。
「こちらこそ。頭に血がのぼって、なんというか、過ぎたことを」
「うむ。まあ、年寄りは何でも心配するもんでな。特に新しい物を見ると、つい難癖をつけたくなる。よくないわい。様子を見てから考えるのが良かろう。それでも遅くはあるまい。均衡が崩れるのも、まじないの力が強まる吉兆かもしれぬしな。で、お前さんはこれからどうする」
「内陸の里にも、港のことは知らせてやったほうがいいかと」
「それがよかろう」
ヒイラギは立ち上がり、一礼する。
「また来ます」
「ああ。だが、すぐに戻ってくるのだぞ」
彼女の後姿からは、不機嫌そうな様子はなかった。すっかり水に流してしまったのだろう。だが、ニレの腹が鳴ったことでハシバミは気づく。彼女は昼を食べそこなったことになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます