⑤
ミズゴケのところまでとぼとぼと歩いていく。それほど長い道のりではないが、ニレの元気がないのでそれに合わせてやらねばならず、思いのほか時間がかかった。ハシバミはため息をつく。確かにナナカマドは恐ろしい。ハシバミだって話しかけるには勇気がいる。妻を亡くしてから輪を欠けて不愛想になったと皆も言う。その点ではハシバミもナナカマドに同情しないわけでもない。
だが、それはともかくニレのことだ。自分がニレと同じ年ごろには、ここまで泣き虫だっただろうか。母を亡くしたことからまだ立ち直っていないのだろうか。けれども、ニレがそろそろハシバミがまじないに目覚めた年齢になるのも気になる。ミズゴケに言わせればハシバミが早熟なのだそうだが。守ってやりなさいという母の言葉もあり、自分の弟は大丈夫なのかとどうしても考えてしまう。
川沿いの道を戻っていく。途中でヤギ飼いたちにすれ違う。彼らはヤギをなだめるまじないの言葉を呟きながら山を上り下りしている。その声は首の鈴と響きあいながら、終わらない輪唱を奏でている。心を和ませる音だ。道を譲ってやり、数えきれないヤギの後ろ姿を見送ってから川辺に出る。楽し気な光景にニレも機嫌を直している。川辺の植物を指さす。ミズゴケに教わった名が次々と頭をよぎる。〈羊飼いの鈴〉〈老婆のいぼ〉〈犬の肝臓〉と二人で名を唱えながら進んでいく。あまりにも楽しくて、きっと何年たっても、このことを思い出すだろうと感じた。この思い出はどんなに年をとっても永遠に残るだろうと。そこで前を歩いているのが知った人だと気づき、兄弟は思わず駆け寄る。ヒイラギだった。
「ひさしぶりだね」
彼女の晴れやかな顔を見てニレはうれしそうだ。彼の頭をヒイラギはなでる。その手つきは優しいけれど、いつの間にか両手で髪の毛をくしゃくしゃにしてしまう。
ヒイラギと呼ばれる女は、もともとは川魚を取って暮らしていた。幼いころに川に落ちて以来、水の生き物の心を読むことを学んだのだと人々は噂していた。彼女はまじないで〈朝霧の里〉を流れる川の流れに命じて、数えきれないほどの魚を手に入れることができた。ヒイラギ一人で、里の冬のたくわえを十分に賄うことができるほどだった。
ところが、彼女が〈潮境の港〉に住む親戚を訪ねたとき、たまたま海の魚にそのまじないをかけたところ、川魚よりもずっと効き目があることがわかった。以来、ヒイラギは〈朝霧の里〉と〈潮境の港〉を往復して暮らしている。忙しくなったようでいて実はそれほどでもなく、彼女は暇がつぶれるからと喜んでいる。そもそも新しいものが好きなので、港から仕入れてきたものをミズゴケと交換したり、噂話を伝えたりしている。あとは歌も好きなので、儀式のときには里が切り開かれて以来伝わる歌を吟ずることも多い。母の葬式でも声を聞いた。とても優しくて細やかな歌で、ハシバミにとっては、母の死を直視して立ち直るきっかけになった。
ハシバミもニレも、彼女が来ると話をするのが好きだった。まだニレの髪の毛を触っているヒイラギにハシバミは話しかける。
「僕もいつか、海を見に行きたいな」
「ものすごく大きくてしょっぱいだけの水たまりだよ」
ヒイラギはそんな夢のないことを言う。
「確かに天気によって色が全然違うし、船がたくさん出入りするのは、見てて飽きないけれど」
「ヒイラギは、これからどこに」
「ミズゴケのところまで」
「じゃあ一緒だ。また何か珍しいものは手に入ったの」
「いや、竜の歯でいつもの材料を仕入れたくらいさ。それよりもちょっと不穏な話を聞いたから、ミズゴケにも伝えておいたほうがいいと思って」
「それって」
不安げなニレに構わずに尋ねる。
「物が最近なくなるとかそういう」
「いいや、違うよ。確かに私はだらしがないから、どこに何をやったかすぐにわからなくなるけれど。そうじゃなくて、港では噂しているんだ。隣国が攻めてくるんじゃないかって」
港を挟んだ海の向こう、〈紫衣の王国〉の栄華は何代にもわたって称えられている。そして今王国を治める女王は英明だが、同時に今の領土に飽き足らない貪欲な君主だという噂だった。
「今までは儀礼的に頭を下げて税を納めて、それで事が済んでたんだけれどね。どうもそれじゃ満足できなくなったらしい。私が通ったときは、ちょうど使者が帰るところだったよ。臣下たちの家紋をつけた豪勢な飾りつけをした馬が街道沿いに並んでた。あれだけの贅沢ができるのに、まだ欲しいんだね」
ハシバミは、〈紫の都〉の様子を想像してみた。一番つまらない日用品でさえ細部が飾り付けられ、飽きずに眺めていられるような生活。里にはそんな宝物などない。ヒイラギの詩の中に、少女の美しさをたたえるたとえとして出てくるだけだ。金銀は鉄よりもずっしりと重く、粘るような色気のある光をしていると言われてもぴんと来ない。ヒイラギもそれをうけあう。
「この里にはあまり縁のある話じゃないだろうけどね。金や銀にかけるまじないなんて、この里では必要ないだろうし」
「……でも、宝物にかかっているのってどんなまじないなんだろう」
「さてね。永遠に朽ちることなく持ち主の偉業をたたえたり、本来の持ち主以外が持つと呪ったりするんだろうか。それとも、勝手に増えて使いつくせない黄金とか。〈潮境の港〉の詩人たちの歌には、そんなものが出てくるけれど。……ところで、小腹が減らないかい」
「うん」
ニレもうなずく。
「ここらで昼にしよう。私が魚を釣る」
そう言ってヒイラギは、荷物から釣りの道具を取り出す。そして穏やかな川辺に腰かけて釣り糸を垂らす。
ヒイラギは鼻歌を歌っている。違う。何やら呟いている。だが、どうしても聞き取れない。音節はあたたかな空気の中に紛れてしまう。それは人間の言葉で綴られていない詩のようだった。ヒイラギの中から生み出される新しい言葉。魚の言葉なのだろうか。だが、魚に言葉があるとしたら、それは水の中でしか聞こえないはずで、陸の上にいるヒイラギが話せる道理がない。それでも魚はこちらに近づいてきて、何か首をかしげるような動作をし、すいすいと泳ぎ去る。口に合わないのか、釣り針の先の餌には目もくれない。それか、ヒイラギの意図などお見通しだと笑っているようにも見える。ヒイラギは首をひねる。
「おかしいね。いつもならもう何匹か引っかかる頃なんだが」
ニレが今にも泣きだしそうな顔に戻ってしまう。お腹が減っているのもあるのだろうが、ナナカマドの言葉も気になっているのだろう。お前がいるとまじないの調子が狂う。悪運がついている。それが実証されているみたいだった。ヒイラギは道具を片付けながら振り向く。
「悪いね。そういう日もある」
「まじないがうまくいかないのは、どういうときなの」
先回りしてハシバミは尋ねる。ヒイラギは笑う。
「そういうことはミズゴケのおばあさんのほうが詳しいと思うよ」
そして彼女は、お腹のあたりをさすってみせる。
「まいったな。お昼が調達できなくてぺこぺこだ。ミズゴケのおばあさんに厄介になろうかな。港の様子も早く聞かせたいし。ほら、お腹が空いたくらいでそんな悲しそうな顔をしないで」
ヒイラギは、ニレが悲しそうな顔をしている理由を知らない。それでもヒイラギは不機嫌になることもなく、ニレの手を取って一緒に歩いてやる。街道の先にはミズゴケの家、その先には〈葦原〉と呼ばれる土地があり、〈斑牛の主〉をはじめとした〈山の下の諸侯〉のところまで続いている。
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